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50.プロイセの夜(2)

《エーリヒ・グリューネヴァルト》




 面倒な晩餐を終えて、用意された部屋で寛いでいたエーリヒはまた思案に明け暮れていた。

 今後の展開について具体的に詰めなければならない。できればヴェローニカの秘められた力についてもう少し情報が欲しかった。

 エルーシアについては、あちらでもそろそろ経過報告があるかもしれない。


 エーリヒは左腕のバングルに目をやった。

 これは通信魔術具で、いくつかの機能があり、主な機能は遠方の者との連絡である。リアルタイムで応答できない場合は、メッセージを残すことも可能だ。連絡するには前もって相手の魔力の登録が必要となる。



 リーンハルト達は王都で得られそうな情報は他の補佐官に任せて、自分達はハイデルバッハに向かうと王都への帰路の途中で知らせが入った。少しでも詳細な情報を持ち帰ることを期待したい。


 そろそろ一度主君に連絡を入れておくか。今日も色々なことがあった。何から報告すれば良いか。




 バングルに魔力を流そうとしたときだった。部屋の扉がノックされた。

 ユリアンにも別の部屋が与えられて、今はもう自室に下がっている。応対は自分でするしかない。

 何かの報告か。ユリアンか、護衛か。…ヴェローニカに何かあったのか。

 ふと一抹の不安を覚えたが、念の為探知魔法をかける。扉の外にいるのは弱い魔力だった。

 知らない魔力だ。

「…………」


 眉をひそめ、ソファーを立ったエーリヒは入口に向かい、扉を開いた。

 そこには薄物を着た若い女性がひとり立っていた。

 見覚えがあるな。



「エーリヒ様…?よろしければ、一緒に飲み直しませんか?」

 エーリヒに近づいて見上げ、首を傾げて妖艶に微笑む。

 領主の娘か。

「このような夜更けにこちらへ来たのは……父上の指示でしょうか」

「…いいえ。私の意思ですわ。…エーリヒ様のお話はどれもとても興味深くて。貴重なお話をもっとお伺いしたかったのです」



 十代後半か。夜の男の部屋に一人訪れる度胸があるのを見ると、余程自分の美貌に自信があるようだ。父親に命令されて仕方なく、という風には見えない。実際に命があったかどうかは知らないが。


 長く艶やかな赤い巻き髪に色気の香るような褐色の瞳が印象的で、紅をひいた柔らかそうな唇は蠱惑的な笑みの形に弧を描く。

 怯えも虚勢も見えない。男慣れしている振る舞いだ。

 確かに美しくはある。そして着ている薄物の夜着も、白くみずみずしい素肌とその目的までが透けて見える。



 領主の娘は一歩、部屋の中に足を踏み入れ、よろりとよろけた。

「あ…」

 エーリヒにしなだれかかり、胸元に抱きつく。

 途端にふわりと香る香水。甘い香りが身を包む。


「…大丈夫ですか」

 聞いても無駄とは思いつつ、このまま黙っているのも受け入れているとでも勘違いされるだろう。

「……先ほどのお酒が、まだ残っているみたい……」

 女は吐息混じりにエーリヒの胸に甘えるように顔を埋め、その服をキュッと掴んだ。どうやらこのまま離れる気はないようだ。



「…………」

 馴れ馴れしいな。

 無遠慮な距離の詰め方に、覚えのある不快な香水の香りが身を包み、エーリヒの心が凪いでいく。

 エーリヒは廊下に目をやった。部屋の前には誰もいない。

 護衛騎士を一人も連れていないと、こういう時に厄介だな。一人は残しておくべきだったか。


 ヴェローニカの部屋の前には、今夜は交代で護衛に立つように指示しておいたから、あちらは大丈夫か。


 今だに自分の胸にしがみつく女を見て、軽く息を吐く。

 引き剥がしてやりたいが、身体に触れれば触れたで何か仕掛けられるのも面倒臭い。

 しかし……いつもならここまで苛立たずに対処できるのだが……ああ、晩餐がしつこかったからか。



「私はこれから主君に報告があるので、あなたと話す時間は取れそうにありません。明日も早めにここを出ないといけませんので」

 すると女はエーリヒの胸に埋めていた顔を上げる。

「まあ、そんな……帰るなどとは仰らないで。プロイセは古い都ですけれど、それだけ観光地として見所もあるのですよ。明日はそちらへご案内したかったのです。ですからここでもう少しごゆっくりなされて、旅の疲れを癒やしましょう?エーリヒ様。…私で良ければ、ご一緒いたしますわ」

 女は、うふふ…と上目遣いで微笑む。


 観光地、と言われて、夕方古城で嬉しそうにしていたヴェローニカを思い出した。

 世界遺産、とか言っていたな。古い建造物に興味があるのだろうか。もっと見たいだろうか。

 このまま王都へ戻れば、あとはいつ出られるかはわからない。エーリヒはジークヴァルトの筆頭護衛騎士なのだから。



「…………」

「エーリヒ様…」

 女の手がエーリヒの頬に触れようと伸びてくる。それをすんでのところで手首を捕らえた。

 エーリヒが思案していたのを承諾と受け取ったのか。


「…それについては一考しておきます。ですが今日はもうお引き取りを。主君が私の報告を待っていますので」

「でも、私……エーリヒ様ともっと……お近づきになりたいのです……エーリヒさま…」

 女が縋るようにずいと豊満な体を押し付けてきた。エーリヒの厚い胸板に指を添わせてくる。物欲しそうな紅い瞳で。



「……しつこいな……」


 エーリヒはそれまで浮かべていた笑顔を消した。亜麻色の瞳は冷淡に女を見据える。たったそれだけでエーリヒを包んでいた優しい雰囲気がガラリと変わった。


「え…」

 女は言葉を失い、ぱちりと瞬いた。


「それとも、あなたのせいで連絡が遅れたと、主君に報告いたしましょうか……ご立腹なさると思うのですが」


「……いえ」

「…………」

 領主の娘はしばし呆然として、一変したエーリヒの冷たい視線と沈黙に息を呑む。

 そして恐る恐る「申し訳、ございません」と、しがみついていたエーリヒから離れた。


「では、そういうことで」

「あ、え…?」

 軽く微笑み、パタリと扉を閉めた。

 断られたことなどなかったか。あれなら手籠めにされたなどと吹聴するようなこともあるまい。

 まあ、どうでもいい。




 エーリヒは自身に風魔法をかけ、催淫効果のある香水の匂いを身体から消し去ってからソファーに戻り、再度左腕のバングルを見る。


 まさか、ユリアンの所にも行ってはいまいな。

 領主の娘はもう一人いたはず。ふと思ったが、まあ、本人に任せよう…と、バングルに魔力を流した。




『エーリヒですか。報告が遅かったですね』

 同僚であり、首席補佐官のアルブレヒトの声が頭の中に響いた。



 バングル型の通信の魔術具で連絡を取ると、相手の声が魔術具と自身の魔力回路を通して頭の中に聞こえる。会話を周囲に聞かれたくない場合、遮音の魔導具があるが、通信具にもその簡易機能があるので、自分の声を周囲に遮断することも可能だ。

 会話を周囲の人間に聞かせて参加させることのできる、オープン回線という使用方法もある。多人数で会議をするときなどには便利な機能だ。



「まあ。色々とありまして」

『おや。声が硬いですね。何か問題でも?』

「いいえ。なんでもありませんよ、アルブレヒト。主君はお変わりありませんか」

『ええ。こちらも問題はありませんよ』

「では…まずはシルバーフォックスなのですが…」



 エーリヒはシルバーフォックスにはグレーデン周辺で接触できたこと、念話を使い、自身を神獣であると名乗っていたこと、今後もヴェローニカを見守る意思があること、そして更に成長して人化を果たして会いに来ようとしていることを伝えた。

 それからシルバーフォックスが移動したために、現在山から魔獣が多数下りてきていて、山脈沿いの村々は壊滅し、街道にも魔獣被害が出ていることも合わせて報告した。


 山裾の村落が魔獣達の襲撃を受けたのは、本当は白夜が移動したからではなく、白夜がけしかけたからだ。

 それについてはエーリヒも予想はしていたし、護衛達の話からするとそうなのだろうが、敢えて断言は避けた。当然エーリヒがクルゼ村の村民達を見殺しにしたことも報告などしない。



「グレーデン、エルベン間は魔獣被害のために街道が閉鎖されて通行規制となったので、今は中央街道を利用し、プロイセに滞在中です」

『プロイセですか……王太子の派閥でしたね。滞在はもしや領主の館ですか』

「しつこくお誘いいただきましたので」

『向こうも浅はかな真似はしないかとは思いますが、気をつけてくださいね』



「ええ。それと、ヴェローニカについてなのですが」

『ええ』

「彼女は恐らく大気の魔素を操るような能力がありそうです」

『大気の魔素を……ですか?』


 アルブレヒトが声を乱した。さもあろう、本当にそれが可能ならば魔力の高い高位貴族でも、前代未聞の能力だ。

 アルブレヒトは最初のシルバーフォックスの報告から動揺しきりである。



「無意識に行っているようなのですが、一応報告しておこうと思いまして」

 エーリヒは今日の昼にあった沢での出来事を簡単に説明した。


『歌を、歌っただけで、雨を?それはたまたまなのではないのですか?エーリヒ』

「そう思いたい所ですが……彼女の周りで魔素らしき反応があったので」

『魔素とは我々には見えないものなのですが。その常識が覆りますね。その光が魔素だとエーリヒは考える訳ですね。…魔素を視る瞳を持つ者に確認が必要ですね』

「はい」

『リュディガーに相談してみましょう』



 リュディガーが所属する魔術師団には、魔素を視ることができる貴重な紫眼を持つ者がいた。白夜が魔素の揺らぎで発言の真偽を判定できた、あの能力である。


 紫色の瞳、紫眼は特殊な瞳で、魔素を視ることができる魔素眼と貴重な上位魔法である神聖と雷の適性を持ち、訓練によってはそれ以外の属性の習得も可能だと伝えられている。

 現在王国で確認されている紫眼の持ち主は、五人もいなかったはずだ。



「それから、ただいまヴェローニカと養子縁組をしようと説得中です」

『え。あなたと、ですか?』

 もしかしたらジークヴァルトが勝手に話を進めているかもしれないので、先に言っておくことにする。

「白夜も賛成したので一度は許可をもらえたのですが、やはり不安があるようで、今はまた悩んでいるようです」

『白夜…?』

「シルバーフォックスの名前ですよ」


『白夜というのですか…。確か、北国の方では一日中太陽が沈まないような明るい夜があって、そのことでしたか』

「ええ」

『シルバーフォックスにそのような名前を…?何故知っているのでしょうか?博識な子ですね』

「ふふ。そうですね」

『…………』



「とりあえず報告はそのような所でしょうか。…ヴィクトールの方は報告は上がりましたか」

『エルーシアのことですか』

「ええ」

『ふぅ……それが』

 アルブレヒトはため息をついたようだ。

『懸念があるのか、報告を渋っているようですね』


 エーリヒには心当たりがあった。エリアスの、あれだ。ヴィクトールはジークヴァルトに対して、日頃から忠犬のように心服している。何か彼が憂虞することがあるのだろう。



「…迷惑ですね」

『…………』

 ボソリと呟く。つい言葉にしていた。

「情報は開示してもらわないと」

『ふふ。閣下も同じように漏らしていましたよ。上がった情報を精査するのは自分だと』

「当然です」

 ふふっとアルブレヒトの含み笑いが聞こえた。


 ジークヴァルトの乳兄弟であり、エーリヒよりも年上で、有能な首席補佐官であり、かつエルメンライヒ小侯爵でもあるアルブレヒトは、こうやって二人をからかうような雰囲気を見せることがある。それは三人でいる時のみで、人前ではしないことではあるが。



「こちらでも部下に調べるように指示しましたので、ヴィクトールが情報を出し渋ったとしても問題はありません」

『エーリヒの部下にですか?』

「養女に迎えるとなれば、やはり詳しい情報は欲しいので。ハイデルバッハへ向かいました」

『なんと。…エーリヒも閣下と同じようにその子が気に入ったのですね』

「…………」


 なんと答えれば良いか。

 確かに彼女を気に入っている。だがそれだけでもない。あれだけの能力を持っているのだから。つまり彼女の能力や聡明さを買っていて、価値があると踏んでいる。それがヴェローニカに対する負い目のようにも感じられて、素直に返事をする事ができなかった。


『主従は似るようです』

 アルブレヒトはまた、くつくつと含み笑いをした。




 アルブレヒトへの報告を終えて湯浴みをし、素肌にガウン一枚を羽織って部屋に戻ったエーリヒは、冷えた水で喉の渇きを潤す。グラスの中に入っているのは、魔法で生み出したただの水と氷だ。純水ではなく飲料水としての。


 部屋のテーブルの上には、すでに溶けた氷水の入った入れ物の中に冷えた果実酒の瓶が用意されているが、あの女の様子だと何か混ぜられているかもしれない。

 どうせ解毒はできるが、得体の知れない物を口にする気にもなれない。用心するに越したことはない。

 エーリヒはベッドに横たわり、息を吐いた。殊の外それが大きくなったのは、今夜の諸々の煩わしさからか。



 ぼんやりと思い出すのは、昼間聴いたヴェローニカの歌。

 あれを今、もう一度聴きたい。

 子供が歌うような童謡だとは言っていたが、言葉はわからなくとも、きっと今聴けば心地良く眠れそうだ。


 エーリヒは瞳を閉じる。

 さすがに今日は、部屋を抜け出したりはしないだろう。




エーリヒ様。それはフラグです。

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