39.秘密(1)
《エーリヒ・グリューネヴァルト》
少し焦り気味に手綱を引き寄せ、馬の歩みを止めた。かすかに馬が嘶く。
そして目の前の小さな肩をそっと抱いた。
小刻みに震えながら、彼女が涙をぽたぽたとこぼしているのがわかる。音がするのではないかというくらいの大きな涙の粒が、月明かりに照らされて水晶のようにぽろぽろとこぼれ落ちていく。
彼女はこれほどまでに聡いのに、魔法については何も知らなかった。
常識であるはずの、あの小さな双子月のことも知らなかった。だが、月が複数あることは知らなかったのにもかかわらず、その可能性は知っていた。
そして魔法があるとは知らなかったのに、魔法が何であるかは知っているようだった。
彼女の言から推測するに、彼女は一度死んで、生まれ変わった。そういうことなのだろう。
だがそれはこの世界で以前も生きていたということなのではない。
彼女はこの世界の人間ではなかったのだ。
おとぎ話で言えば、他の神が管理する別の世界の住人。
この話をする直前から、彼女の身体が強張っていたのはわかっていた。小さな身体は緊張し、その気配は怯えてさえいた。これから冗談を言おうとするような雰囲気ではなかった。それなのに、信じ難いというだけで笑い飛ばせる訳がない。
とても信じ難いことではあるが、生まれ変わりというこの不可解な現象を受け入れざるを得ない。
だから彼女の発想や着眼点は我々とは違うのだ。不思議な言葉を知っているのだ。あの、呪文のような言語も……
きっとあれは、彼女が生きていた世界の言葉。そう考えれば全ての辻褄が合う。
彼女が、生きてきた、異なる世界とは。一体、どんな……
……いや、違う。
今、考えるべきことは。
何故泣いているのか、正確なことは何もわからない。
前世のことを思い出したのか。前世がそんなに辛かったのか。今もこれほどの苦労をしてきたというのに。
ふと、自分が話したおとぎ話が頭を過ぎる。不遇な輪廻を繰り返す、罰。
生まれ変わりが現実味を帯びた今、この罰も本当にあり得ることなのかもしれないと想像した途端に、それは途轍もなく恐ろしい罰なのだと悟る。
彼女は先ほども泣いていた。感受性が豊かなのかと思ったが、そう考えが至ると納得もする。
感情移入せざるを得ない経験があるのか。それとも前世は今よりも幸せな世界で、その頃を懐かしんでいて……戻りたいのか…?
もしくは……愛しい人のことでも思い出したのか。もう二度と会えない、その人を。
そうであれば、自分にできることとは……
「ヴェローニカ…」
少しでも彼女の不安を、悲しみを取り除きたいと、エーリヒはヴェローニカを背中から抱きしめた。
ビクンと彼女の体が揺れ、強張った。
体に触れられることに慣れていないのだろうか。
そうか。何せ家族の愛を何も知らずに今まで生きてきた子だ。
そこでまたエーリヒははたと考えた。
違う、と。
彼女は体は小さくとも、心は大人のままなのではないか、と。
「すまない…」
その考えに至った途端にエーリヒは焦り、ぎこちなくヴェローニカを離してあげた。
彼女は先ほどから何も発しない。ただただ涙を流すばかりだ。
どうすれば涙を止められるのだろう。どうすれば彼女の悲しみを止められるのだろう。
女性の扱いにはそれなりに慣れているはずの自分が、答えが見つからず、戸惑う。
経験のない、歯がゆさを感じた。
エーリヒは革手袋をはめた手をギュッと握りしめていた。
「ヴェローニカ。私の養女になりませんか」
本当はシルバーフォックスに会って、彼女が自分で今後を決める段になってからの選択肢の一つとして言おうと思っていた。
もしかしたら彼女はシルバーフォックス――白夜との人生を選ぶ方が幸せなのかもしれないと思ったからだ。
でも彼女は秘密を打ち明けてくれた。そして白夜もこの指輪を託したのだ。少しは自惚れてもいいのかもしれない。自分は彼女を守るに値すると。
「…よう、じょ?」
たどたどしい声が聞こえた。彼女に限って、意味を知らない訳ではないだろう。それは涙に震えた声だった。
「養子縁組をするということですが、別に私を父と思わなくとも良いのですよ。要はあなたを保護できれば良いのです。そうすればあなたが望んでいた貴族の学院にも通えますよ。いかがですか?」
ヴェローニカがゆっくりと振り返り、エーリヒを見つめた。見上げてくる涙で潤んだ青銀の瞳が、月明かりで宝石のようにキラキラと煌めいている。夜空に輝く綺羅星のようでもある。
胸がまた締め付けられた。
これは庇護欲か。
「そんなこと…」
「遠慮はいりません」
エーリヒは彼女が固辞する雰囲気を感じ取って、先手を取る。すると彼女は何か言おうと開いた口をゆっくりと閉じた。
「…でも…」
自分を見つめていた美しい瞳が逸らされそうに思ってそれを惜しみ、エーリヒは彼女の頬に手を添えた。
瞳の縁からぽろりとまたひとしずく柔らかな白い頬を流れ落ちた。それは彼女が心を痛めている証左のはずなのに、まるで流れ星を見るかのような美しさだった。
エーリヒの親指は自然とその跡を優しく拭っていた。
着けていた黒い革手袋が白い肌に際立って見えた。それを外し、今度は素手で彼女の頬に触れた。
とても柔らかな、本当に薄い肌だ。
「何が問題ですか?教えてください。一緒に解決しましょう」
彼女は涙を溜めた瞳を見開いた。それを見てエーリヒは愛らしいなと思った。自然と口元が綻ぶ。
ヴェローニカはこくんと息を呑むと、ゆっくりと目を伏せる。
「…こわい、のです」
「私が、ですか?」
威圧したつもりはなかったのだが。
はっとしたエーリヒは頬から手を離した。
「いえっ」
彼女は慌ててエーリヒを見て否定し、首を振った。
「エーリヒ様がじゃなくて。…えと…」
瞳を泳がせている。彼女の恐れる対象は本当にエーリヒではないようだが、答えにくいようだ。だが言ってもらわなければわからない。
貴族社会が怖いのだろうか。確かにそれはそうだろう。だが今からでも十分に教育を施せば、彼女なら乗り越えられる程度のことだ。彼女の優秀さはわかっている。
更に、年齢にそぐわぬ豊富な魔力も持ち合わせているとリュディガーからは聞いているし、それはエーリヒも感じている。
だから貴族として生きていくことに対して、素質に不足はない。何の懸念もないはずだ。余計な汚点が残らぬよう、そのために村人達も一掃したのだから。
そして許可が必要なのは主君であるジークヴァルトであるが、彼もヴェローニカを貴族として取り込むために今頃手頃な誰かとの養子縁組を考慮しているだろうという予測はついていた。
何を隠そう、今回の旅でヴェローニカをそのまま手放してはならないとの命を受けている。
委細、問題はない。
エーリヒは黙ってヴェローニカを見つめ、答えを待った。
すると観念したように彼女は言った。
「家族、が」
エーリヒの胸にチリッとしたものが芽生えた。それは鋭い痛みのような憤り。
全てはあの村人達のせいだ、と。
ヴェローニカが子供達に小突かれ、“家畜”だの“奴隷”だのと蔑まれている光景にしばし愕然とした。これが村での彼女の日常だったのかと。
村長に腕を掴まれて引きずられようとしたとき、彼女の顔は強張り、体は恐怖と緊張で硬直しているように見えた。
普段は利発で気丈な子だ。あの様子だけで体罰が常態化していたことが容易に想像できた。それが村全体で行われるのだ。赤子の頃からずっと。
名前さえ与えず、誰も彼女に優しさもぬくもりも与えず。
あのときにも感じた仄暗い感情が湧き起こる。
あの場で手を下さなかったのは、単にヴェローニカに奴の血がかかるのを厭ったからだ。あの場で即刻斬り捨て、いつものように風魔法で血飛沫を防いでも良かったが、ひとえに彼女を汚したくない思いがあった。奴の存在は勿論だが、奴の血も奴の死ですらも、それは穢れだ。ならば彼女の知らない所で、人知れず始末すればいい、と。
「それはただの言葉です、ヴェローニカ。私のことが怖いのでなければ、なんとかなるのではないでしょうか。時間が解決してくれますよ」
彼女の答えに対して、全て論破できると踏んでいたエーリヒだったが、上手い言葉が見つからなかった。だから言葉のせいにした。
本当は“家族”という言葉にも傷つかないようになって欲しかったが、それはまだ尚早というものだろう。
だが彼女はまだ俯いている。快く承諾してもらうにはもうしばらく時間が必要なようだ。
「ヴェローニカ…」
瞳を逸らされることに寂しさを覚えて彼女の腕をとると、「っ…」とビクンと反射的に身体を波立たせた。
嫌がることをしてしまったかとまた咄嗟に離したが、掴まれた腕を押さえた彼女を見てふと思い出す。彼女は奴にその腕を掴まれていた、と。
「ヴェローニカ……まさか、痛むのですか?」
「…え?」
「見せてください」
「あ、いえ。大丈夫です」
「いいから」
「エーリヒ様…」
ほとんど無理矢理彼女の手を取って、袖を捲る。月明かりに細く真っ白な腕が晒されて、そこには薄黒く変色した跡があった。白く折れそうなほどに華奢な腕に、大人の手が掴んだ痣がくっきりとついている。
あの時だ……と、またエーリヒの胸がざわめいた。
そしてよく見ると、手首には治りかけだが幾つかの引っ掻き傷のようなものもある。浅いもの、深く抉れたものまで。一体何をしたらこうなるのか。
傷だらけだ。
彼女は今まで山で暮らし、そして村人に捕まり奴隷にされた。奴隷商人ともやり合ったと聞いている。他にもこのか弱く小さな身体には、傷が隠されているのではないか?
「大丈夫です、エーリヒ様。これくらいすぐに治りますから」
まだ涙に潤んだ瞳で彼女は微笑んだ。
やはりあの場で殺しておくべきだった……
冷えた心で自ずとそう思う。
「…………」
エーリヒはヴェローニカの細い腕に手のひらを添えた。痣のある部分と傷だらけの手首を優しくなでる。
「エーリヒ様?」
「ヴェローニカ……我慢することに、慣れてはいけませんよ…」
そしてエーリヒの手元がぽうっと淡い光を放つ。
夜闇の中、二人で静かにその光を見守って、エーリヒが手のひらを離すとそこにはもう痛ましい痣や傷痕はなくなっていた。
「今のは……魔法、ですか?」
「ええ。そうです」
「すごいですね。痣が消えました。もう痛くありません」
彼女は腕をさすりながらエーリヒを見て、「ありがとうございます」と微笑んだ。今度は憂いのない笑みだった。
彼女につられるようにエーリヒも自然と微笑んでいた。嬉しいと感じている自分に気づく。温かい。どことはわからないがそんな気がする。
本来であれば隠さなければならない能力なのに。
だがそれよりも、身体の傷のように彼女の心の傷も全てこの力で治せたらいいのにと思う。
傷ついた彼女を癒せたらと……
「ヴェローニカ」
「はい」
月明かりに揺れる青銀の瞳。いつも射抜くようにまっすぐと見つめてくる。
彼女のこの瞳が好きだ。
逸らされたくない。
憂いに曇らせたくない。
「他には傷はありませんか?」
「え…?……いえ、大丈夫です」
「本当ですか?」
「…はい…」
おそらくこれは嘘だろう。まっすぐだった瞳の強さが弱まった。
彼女は嘘をつくのは下手なようだ。だがだからといってここで服を脱がせて調べる訳にもいかない。悩ましいところだ。
仕方ない。あとで侍女に確認するか。
「では養子縁組のこと、考えておいてくださいね。…私は引くつもりはありませんから」
するとまた彼女の瞳が戸惑うように揺れた。
他の傷の詮索を諦めたのだから、これくらいは聞いてもらわないと。
「…………」
話を一度切り上げて、再び手綱を掴み直し、馬を進める。
もうすぐ丘を登り切る、と思った時だった。この先に何かがいる、と張り巡らせていた探知魔法が反応をみせた。
◆追記◆
画像はヴェローニカ
画像差し替えました
よく見たら、大変怖い間違いが…
気づいた方はいたのだろうか…




