36.神格の獣(2)
《リーンハルト・マイアー》
ギャアア!
うわぁぁ!
見るにたえない醜い揉み合い掴み合いの喧嘩をしていたその場は、一瞬にして村人達の悲鳴で溢れ、恐怖と混乱に支配された。
彼らは文字通り蜘蛛の子を散らすように、一斉に散り散りとなった。
エルベン側へ、グレーデン側へ、魔獣から逃れようと街道を一目散に走り出す。中には腰が抜けて動けない者もいる。そんな者はまずはじめに魔獣の餌食だ。林の中へと分け入っていく者もいたが、それは得策とは言えない。
グオオオ!!
一際野太く大きな猛獣の咆哮が辺りに響き渡った。レッドベアだ。成獣の大きな赤い毛並みの熊の魔獣が林の中に一頭、いや、二頭いる。二足で立ち上がると人間よりも倍は遥かに巨体でなすすべはない。
大木のような腕を振り下ろされると避けることもできずに、村人は恐怖で目を見開いたまま頭蓋骨はグシャリと潰され、辺りに血と脳漿を撒き散らす。人間だったものはその瞬間に他愛なく肉塊と化す。
こうなってはもはや虐殺である。
グレイウルフが小回り良く駆け回って逃げ道を塞ぎ、ダークウルフが立ち止まった村人に咬み付いて仕留める。
木に登ってウルフ達をやり過ごそうとした者にはレッドベアが器用によじ登ってきて、強靭な腕っぷしによる一撃で払い落とされ、鋭い爪で体を抉られる。
街道を一直線に逃げた者を、大人の体よりも大きなワイルドボアが追いかけて突進し、容赦なく突き飛ばして、全身の骨が粉砕する音が不気味に響き渡る。
種族の異なる魔獣達が、示し合わせたかのように一斉に人間達に襲いかかる様子に違和感を拭えない。
「うわぁ!!」
誰かこちらに逃げてくる。
あくまで魔獣にやられた風を装うのが命令だ。では、どうするか。
リーンハルトは木陰に潜んでいたエリアスを見る。
頷いたエリアスは走り寄って来た者達の前に立ちはだかった。
右手を彼らにかざし、風魔法を放つ。
「ギャア!」
「なんだ?誰だよ!」
こちらにやってきたのは村長一家だった。
エリアスの放った風の刃は先頭にいた村長に当たり、吹き飛ばされつつ胸から血を吹き出して、草むらに仰向けに倒れた。立ち止まった子供二人と女が恐怖に顔を歪ませ震えている。その後ろには他にも村人が数人いた。
「なんだよ、あんた!誰なんだよ!どけよっ!」
そろそろ成人だろう十五歳くらいの少年が、もう感情の限界とばかりに泣き声混じりに喚く。
だがエリアスは無情にも冷たく言い放つ。
「戻れ」
「は?」
「向こうへ戻れと言っている」
少年が悪態をつき、別の方向へ足を向けようとした所へディーターが躍り出て、手のひらに炎を揺らめかせた。
「こっちはダーメ。早くあっちに戻ってよ。燃やしちゃうよ?」
「ば、馬鹿言うなよ!…なんでだよ!お前ら、誰なんだよ!」
「お母さん…」
少年よりは年下の少女が母親であろう女にしがみつく。その顔は涙に濡れ、ぶるぶると震えていて、先ほど兄と一緒に村人に噛みついていた勢いはすでに削がれたようだ。
「あなた、あなた!」
女は倒れた村長を揺さぶった。
「ううっ……お前ら…貴族、か?」
起き上がった村長が切られた胸を押さえてそう言うと、女は取り乱した。
「え?貴族?なんで貴族がこんな所に?」
「貴族だって?…お、お前ら、あいつの仲間だな?そうなんだろ?」
「あいつ?あいつとは……エーリヒ様の事か、小僧…」
(やばい、エリアスがキレる。)
エリアスが右腕を振るって風刃を少年に飛ばした。ビシュッと衝撃音と共に腕が片方吹き飛んだ。
「ギャアアア!!」
少年は泣き叫んで、腕から血を吹き出しながら倒れ込んだ。
「カール!」
「お、お兄ちゃ…」
ゔぁあぁ…と少年は呻きながら、なくなった方の腕を押さえてのたうち回る。
「もうっ!なんなのよっ!…こんなはずじゃなかったのに!村長夫人なのよ?私は!なのになんで?我慢してこんな人と結婚したっていうのに、なんで私がこんな目に合わなきゃならないの?!」
「お母さん…」
「お前…」
「御託はいい。戻れ」
エリアスは能面のような無表情を保ったままで、全く態度を変えない。
「だって、戻ったら死んじゃうじゃない!ほら!あれを見て!皆、死んじゃう!死んじゃうわ!」
街道上ではグレイウルフ、ダークウルフとレッドベアが村人達を蹂躙している。狂気じみた止まない断末魔が、こちらの心も狂わせそうなほど恐ろしく響いて聞こえる。
「ねぇ、助けてよ、お願い。私だけでも助けて。お礼にいいことしてあげるから。ね?」
「お、おい…」
「うるさいわね、離してよ!だいたいあんたのせいでしょ!」
村長が自分の妻を掴んだが、その手はすぐに振り払われた。
「…………」
エリアスは怒りの無表情。ディーターは何故かこの状況に吹き出して、「ぶはっ。まじか」と楽しそうに笑って見ている。
この二人といるとリーンハルトは自分が一番まともに思えてくる。そういう意味でも一応リーダーではあるのだが。たまに二人がこんなふうに突出し、統率できているかは常々疑問である。
「この人が悪いのよね?だから怒ってるんでしょ?この人があの子を殴ってずっとこき使ってきたんだから。全部この人が悪いのよ!私は関係ないわ!あの子を売ったのもこの人だもの!それであの貴族が怒ってるんでしょ?悪いのは全部この人なのよ。私は違うわ。あの子に何もしてないもの。だから私は助けてちょうだい。ねぇ、お願いよ」
「おい、おまえ……」
「…で、でもほら、あの子を売ったから今は幸せなんじゃない。私達のお陰よ?だからもう許してよ!…ねぇ?」
「お母さん?……お母さん!」
少女が母親に縋りつく。
「あんただってそうじゃない。お兄ちゃんと一緒にずっとあの子をいじめてたでしょ?私、あんまりやり過ぎちゃダメよって言ったわよね?だってあんまり痛めつけたら仕事にならないもの。そっちの方が迷惑よ。あんた達は家畜の世話なんかしないでしょ!なのにずっとご飯をあげなかったら、あの子が死んじゃうじゃない!だから私が残飯をあげてたのよ。そうよ、私は面倒を見てあげてたのよ?ちゃんと助けてあげたの、貴族様!」
(救いようのない奴らだな…。エーリヒ様がここにいなくてよかった。)
草むらに膝をついて醜態をさらす村長一家を見下ろしながら、リーンハルトは眉をひそめた。なんとも胸にもやつきを感じる。
ギャア!
女の後ろから叫び声が聞こえた。村長一家の後について逃げてきていた村人が一人倒れる。
するとそこには、大きな美しい白銀の狼……ではなく、白銀の狐が岩の上に立っていた。
薄暗い林の中、真昼の太陽光が木漏れ日となって白銀の毛並みを輝かせている。その悠々たる雄々しい姿は神聖な生き物のように感じられるが、鮮血のように不気味なほど真っ赤な瞳がこちらをひたと見つめていて、どうにも不吉な気がしてならない。
「シルバーフォックス…」
リーンハルトはごくりと息を呑む。エリアスとディーターにも緊張が走った。
先ほどからの恐ろしい気配はシルバーフォックスだったのだと三人はそこで気づいた。
「下がるぞ…」
小声で指示を出す。シルバーフォックスに敵と認定されたらおしまいだ。
『お前達は皆、殺す。あの子の害にしかならぬ』
「しゃ……しゃべった…」
ディーターが目を見張って呟いた。
「ま、待て。お前達というのは……俺達もか?」
リーンハルトが威圧感に耐えながら、冷静さを保って尋ねた。
『…あの村の者達だ。あの子が生きるために村を残しておいたというのに、奴隷として売るなどと……愚かなことをしてくれたものだ。やはりもっと早くこうしておけば良かった…』
するとシルバーフォックスの両脇からダークウルフ達が駆け出してきて、村人達に襲いかかる。
「ギャア!た、たすけ…」
「キャア!いやぁ!!」
リーンハルト達の目の前で、村人や村長の家族達が無我夢中で逃げ惑い、絶叫を上げて咬みつかれる。その惨状はまさに阿鼻叫喚。
三人はその場で硬直したまま、固唾を呑んで目の前で起こっているその殺戮の光景をただ見守っていた。
鼓動は忙しなく逸るが息を殺し、ただひたすらに冷や汗が滴る。
下手に動いて標的にされたらたまらない。ダークウルフは倒せても、ダークウルフを倒したことでシルバーフォックスに叛意と取られる懸念がある限り、身動きはできない。
このシルバーフォックスは確実に、ここにいる魔獣達を使役している。
「ま、待って、待ってくれ!俺はこ、これを持って!ガァッ!ゴフ!」
村長が胸元から何かを取り出して訴えかけたが、ダークウルフに勢いよく喉元を咬み砕かれた。ダークウルフの口元からは大量の血が溢れ出している。咥えられたまま痙攣するように身悶えていたが、しばらくして脱力し、握っていた何かを地面に落とした。
瞳から恐怖の色が消え、光を失いピクリとも動かなくなったところを見ると、絶命したようだ。だがその表情は、壮絶そのものだった。
その場の者達を殺し尽くすとダークウルフ達はリーンハルト達を一瞥したが、静かにシルバーフォックスの後ろへと下がっていった。
まだシルバーフォックスは目の前に佇んではいるがひとまず危機が去ったことで、最後に村長が取り出した物が気にかかり、リーンハルトはそちらを窺う。草むらの中に何かが落ちている。
すると、シルバーフォックスが岩から優雅に飛び下りゆっくりとこちらへ進んできたので、三人は再び硬直する。留まるべきか、逃げるべきか。強大な威圧感に押し潰されそうな感覚がリーンハルトを襲う。
これは未だかつて人生で感じた事のない、暴力的なほどの魔力の塊だと思った。
シルバーフォックスは村長が落とした何かに鼻面を当てて、草むらを探るようにした。前足をそこに当てて顎でひっぱると、咥えた布地が破れた音とともにピィンッと金属音を鳴らして小さな何かが飛び上がり、キラリと煌めいてまた地面に落ちる。そしてしばらくそれを見下ろして眺めたあと、草むらに小さなつむじ風が起こった。
何か小さな物が千切れた草とともに風に浮いて、こちらへと飛んでくる。木漏れ日を反射して飛んできたそれをリーンハルトが受け取ると、それは小さな指輪だった。
『あの子に渡すといい』
シルバーフォックスが間近になってようやくわかったが、これは思念を飛ばして話しているようだ。いわゆる念話というものだろう。
シルバーフォックスはこちらがヴェローニカを保護していることを知っているのか。
どうやって。いつから見ていたのか。
ヴェローニカはシルバーフォックスは神様だと言ったという。リーンハルトは素直にそれを信じられそうに思った。
あれほどの存在は、神格の獣だ。
どれくらいそうしていたのだろうか。いつの間にかシルバーフォックスは立ち去り、街道上の魔獣達も村人達を食い散らかして腹が満たされたのか、姿を消していた。
あれだけ感じていた怖気は一切なくなり、春の昼下がりの爽やかな風が柔らかく肌をなぞる。
だがその春風は、辺り一面を覆う無惨な死体と流れた血によって、心地良さからは程遠く、胸焼けするほどに血生臭かった。
ようやく白夜が。でももふもふ感ゼロ……




