30.一期一会
翌朝予定通りにエルベンを出て、再び馬車旅が始まった。
昨日のエーリヒとの会話から気まずくなることも懸念したが、拍子抜けなことに全く問題はなく、今日もエーリヒは面倒がらずに道中色々な会話に付き合ってくれる。新しい魔導具や魔法などの知識も増えた。
「それでは王都にも雨は降るのですね」
「ええ。結界石は魔導具ですからいくつか稼働を止めることで魔素への影響の強弱を調節できますからね。それと合わせて吸魔石の方も調整します。どちらも稼働を止めたからと言ってすぐに雨が降るわけではないのですが。それに必要のない限りは晴天です。水源は王都の南のリーヌス湖から水路が通っていますから」
「それでも水を多く必要とする作物もあるのではないですか?」
「そうでしょうが。水路から農業用水や飲料水が確保されていれば問題はないでしょう。水源が枯れないようにそちらでも魔素の調整をしますし。いざとなったら魔術師団の水魔術師もいます」
「ふうん。すごいですね…へぇ…」
ガタガタガタと馬車は進む。このガタガタ感もクッションをお尻に敷けばなんとか慣れるものだな。
エルベンを出て広がっていたまだ芽生えたばかりの小麦畑の風景も去り、しばらくは丈の短い草原が続いている。
春の陽気が心地よい。これが自分の車ならば、窓を開け放ってその風を浴びながらドライブしているところか。
「ヴェローニカは、恐れないのですか?」
私が窓に寄りかかり外を眺めていると、エーリヒに問われた。
「…………」
「私がまた、昨日の話を持ち出すことに」
「恐れていますよ?」
「…ではこのような会話は避けるべきだと賢いあなたならわかっているでしょう?」
「それでは私は賢くないのです」
私はエーリヒを見た。
「私は知りたいのです。もうエーリヒ様のような人には出会えないかもしれませんから」
私はこのままクルゼに帰って白夜に会えたら、二人で旅に出る。二人でこの世界で安心して暮らせる場所を探す。だからもう、エーリヒには会えない。だったら私は、この何でも知っている本当の大人であるこの方から、あらゆる知識を得たいのだ。この限られた時間で。この恵まれた時間で。
この世界で私が初めて認めた、“大人”な彼に。
「“一期一会”と、言うのだそうですよ?」
「いちごいちえ…?」
エーリヒは陽の光を浴びた美しい蜂蜜色の瞳で私を不思議そうに見つめている。
「“一生に一度限りの出会い”という意味です」
エーリヒは動きを止め少し呆けてから、黒い革手袋をはめた片手で顔を覆った。
「……参りましたね……」
俯きがちになり、色素の薄い亜麻色の前髪がサラサラと顔の方にこぼれ落ちていく。束ねた後ろ髪も肩前に流れた。
何をするにも絵になる人だな。かっこいい。
すると何やらマリエルが咳き込んでいるのでそちらに目を向けると、目を逸らされた。少し耳が赤い。
「マリエルさん、大丈夫ですか?」
「え?あ、はい。大丈夫…です」
そう言えばこんな話は王都民のマリエルなら知っているだろう。つまらない話ばかりしてしまったな。
「マリエルさんもエーリヒ様に聞きたいことはないのですか?きっと今なら色んなことを教えてくれますよ?」
「え?…い、いえ。私は…」
「?」
マリエルがもごもごと口ごもっている様子に首を傾げていると、それまで軽快に走っていた馬車が急に速度を落とした。
「どうした」
エーリヒがイヤーカフに左手を当てて、外の状況を確認している。
昨日のことを思い出して馬車内に緊張が走る。
「…状況は?」
エーリヒの会話にマリエルと二人で息を潜めて耳を傾ける。
「距離を保って停まれ」
エーリヒはイヤーカフの魔導具から手を離し、軽く息を吐いた。
「どうしたのですか?」
「どうやら前方の馬車が魔獣に襲われているようです。無視して通り過ぎたいところですが、そういう訳にもいかないでしょう。予定が狂いますが、少し確認してきます」
エーリヒはそう答えると、マリエルに「ヴェローニカを頼んだ」と私を託して停車した馬車を出ていった。
「マリエルさん…」
ここからではエーリヒ達の様子が見えない。大丈夫なのだろうか?
「大丈夫ですよ、お嬢様。グリューネヴァルト卿はあんなにお強いのですから」
「…うん…」
マリエルが私の肩を抱いて擦りながら励ましてくれる。
遠くの方で争う声や悲鳴が聞こえる。馬車が停まったことで、獣の唸り声やけたたましく物が壊れる音も聞こえてきた。
静かに馬車内で耳を澄ませていると、そういった荒々しい音の全てが心を焦らせる。
エーリヒが強いのはわかっているけれど、何も外の状況が見えないままで無事に戻ってくるのをただ待つなんて、不安が募るばかりだ。
外の状況が知りたい。外が見たい。でもそれは危険行為と見做されてマリエルに止められるのだろう。迷惑をかけるのは本意ではない。
どれくらい待っただろうか。二、三十分かそこらだったかもしれないし、それ以上だったかもしれない。しばらく固唾を呑んでエーリヒの帰りを待っていると、いつの間にか遠くの戦闘音が静かになっていて、馬車がゆっくりと動き出した。
「え?エーリヒ様は?」
不安から、マリエルにギュッとしがみつくと、マリエルも抱きしめ返してくれた。
二人で縮こまって、窓の外をじっと見つめる。すると何かが街道に横たわっているのが見えた。
思わずそちらの窓際に向かった。
「お嬢様!」
マリエルに止められながらも窓際にしがみついて外を見ると、それは大きな黒っぽい狼の死体だった。
「あれは……ダークウルフでしょうか。昨日のより大きい…」
マリエルが呟く。
昨日見た狼の魔獣よりも毛並みの色が濃くて、一回りも二回りも大きい。昨日の狼も大きく見えたのに、まるで狼の大人と子供みたいな体格差だ。あれを護衛達で仕留めたのか。時間がかかるはずだ。
ゆっくりと大型狼の魔獣の死体が横たわっていた場所を通り過ぎると、今度は人がまばらに蹲っているのが見えた。皆薄汚れた格好で大人から子供までいるようだ。
子供や女性が泣いている。中には怪我を負っている者もいた。横になっている者は……死んでしまったのだろうか。血溜まりも見えた。
そしてこちらの護衛達とエーリヒが、魔獣に襲われていた者達と話しているのが見えた。
この人達が乗っていたであろう、停まっている二台の幌馬車を追い抜き通り過ぎた所でこの馬車も停車した。
あちこちに狼の魔獣が転がっていたので、既に殲滅したのだろう。
私はいてもたってもいられずに馬車の扉を開けた。
「お嬢様!いけません、お待ちください!」
馬車から降りようとして地面までの高さに少し躊躇するが、そのまま飛び降りようとしてマリエルに捕まえられた。
「お嬢様!危ないですから」
するとエーリヒの従者であるユリアンが駆け寄って来た。
「ユリアン様、もう降りても大丈夫ですか?」
少し困惑した榛色の瞳で、私とマリエルを交互に見つめる。
ユリアンの髪と瞳の色はマリエルに似て、それより少し明るい程度だ。明度が高いほど魔力が高いようなので、ユリアンは下位貴族なのかもしれない。
「馬車を襲っていた魔獣は既に殲滅したようですので、降りても大丈夫かとは思いますが。余り見ない方が良いのでは」
どうやら死体があるのは狼だけではないらしい。
ユリアンの榛色の髪に隠れた左耳にもイヤーカフの魔導具が見えた。それで状況は把握しているのだろう。
「エーリヒ様と護衛の皆さんは無事ですか?」
「多少怪我を負った護衛もいるようですが、無事です。エーリヒ様がいらっしゃいますから、皆大事には至らなかったようですよ」
ユリアンの言葉を聞いて、私を抱きしめているマリエルからほっとため息が出た。でも怪我は大丈夫なのだろうか。
マリエルの腕の力が抜けたので、その隙にするっと馬車から降りた。もちろん扉などに掴まってである。
「あ、わ!お嬢様」
マリエルとユリアンが慌てている間に護衛達の方へ走っていく。
「いけません、お嬢様!お戻りください!」
「ん?ニカ、出てきたのか?」
「フォルカーさん!ロルフさん!大丈夫ですか?」
「ああ。俺は平気だ。…おい…」
「ニカちゃん?」
フォルカーとロルフの姿を見つけて、二人の身体を上から下までぐるりと回って背中までよく見る。体に血がついているが、怪我はしていない。返り血のようだ。ひとまず良かった。
それぞれ右手に持つ大きな剣の先にも血がついている。実際の剣はまだ見慣れないが、とても重量感がありそうだ。
あれを振り回すのは結構大変そうだな。すごいな、皆。
「大丈夫だ。心配するな。結構俺達は強いんだぞ?」
フォルカーはさっきまで険しかった顔を緩めて、私の頭を撫でようと出したその手を止めた。自分の手のひらを見て、指ぬき手袋に血がついていることに気づいたようだ。
辺りは血の匂いでいっぱいだ。気を抜くとえずきそうなくらいに。
あの夜を思い出す。
生きているものが死んでいく匂いに心がざわめく。そして今はその死の香りに、子供や女性の悲愴な泣き声も混じっている。その雰囲気にどうしようもなく胸が塞がる。
目の前に停めてある二台の幌馬車は、魔獣の襲撃を受けて白い幌がビリビリに引き裂かれ、真っ赤な血飛沫もべったりとついている。
それは魔獣の血なのか、人の血なのか。
襲撃の惨状に衝撃を受けつつもキョロキョロと周りに立つ護衛達の様子を窺うが、重傷者はいないようでやっと安心した。
「ヴェローニカ。何故出て来たのですか?」
エーリヒが近づいて来て、あとから追いかけてきたマリエルとユリアンが、「申し訳ありません」と胸に手を当てて謹んだ。
「マリエルさんは悪くはありませんよ?」
エーリヒを見上げながら言うと、「わかっていますよ」とわずかに微笑んだ。また少しいつもの笑顔とは違った。
スッと頭の方に手が伸びてくる。
エーリヒはフォルカーのように頭を撫でたりしたことはない。フードを被せようとしているようだ。
黒の革手袋の手が伸びてきて白いフードを摘み、ふわりと優しく頭に被せてくれる。今まで荒事をしていたとは思えない、とても繊細で丁寧な手つきだ。
惚けている場合ではない。と、エーリヒの状態も確認する。フォルカー達にもしたように、くるりと回って見てみたが、怪我どころかまた返り血など一切ない。
見ていただけな訳ではないだろう。あんなに大きな狼の魔獣がいくつも転がっているのである。中にはやはり真っ二つや、首がないのもいた。そして護衛達は皆、例外なく返り血を浴びている。
一体どんな魔法なんだ?自然と首を捻りたくなる。
ん?そうか。比喩的な意味じゃなくて、本当に魔法を使ってるのかな。
「お、お前…?なんでこんな所に。なんだよ、その格好…」
「ちょっとあんた…!なにそれ?なんであんたがそんなに可愛い服着てんのよ!…あんた、カチクのくせに、ナマイキよ!」
エーリヒの不思議魔法について考えていると、子供達の声が後ろから聞こえた。
ふとそちらを振り向くと、心臓がどくんと鳴った。
こいつらは…
「ちょっと!聞いてんの?!あんたはアタシ達のカチクのはずでしょ!なのになんでそんな格好してるのかって聞いてんのよ!チョーシにのってんじゃないわよ!」
女の子がドンッと身体を押してきた。フラッとよろめく。
「違うだろ?コイツ、もうカチクじゃなくて、ドレイなんだよな?父さんが言ってただろ」
今度は男の子が頭を小突いてくる。その度に小さな身体は、そこに宿るこの心とともにゆらゆらと揺れる。
悪意のこもった声。蔑んだ瞳。楽しそうに歪んだ口元。まだこんなに小さな子供達なのに。その言動には躊躇いがない。
こんな様子を目の当たりにすると、“性善説”と“性悪説”を思い出す。
それがどちらにせよ、まだ何も世界を知らない無垢な魂を、天使にするのも、悪魔にするのも、親なのだ。
子供を導く大人達なのだ。
周囲の環境なのだ。
理性と自制心が働いて、人間らしく振る舞えるのは全てそれからだ。
「お前!こんな所で何してやがる!まさか奴隷商人から逃げ出したのか?」
ガシッと強く腕を掴まれ、乱暴に引き寄せられた。
聞き覚えのある大人の声に身が竦む。掴まれた腕を振り返ると、やはり見知った顔だった。
間違いない、あの村の長だ。さっきの子供達は村長の子供だったから。いつも私をいじめていた、村長の息子と娘。そしてそれをいつも見て見ぬふりをしていた村人達と、田舎の村人にしては派手に着飾った若い母親がそこに立っていた。
相変わらず彼女は自分の容姿にしか興味はないらしい。とぼんやり考える。周りにいる人達よりも随分と小綺麗な格好で、宝飾品さえ身に着けている。
前世の母親も私が殴られていても絶対に助けてはくれなかったな。一度もそんな記憶はないということは、やはり見て見ぬふりをしていたということか。あの人は容姿を気にしていたのではなくて、とばっちりを避けるためだったのだろうが。
あは……結局誰もいないんだ。私を助けてくれる人なんて、ずっと、いつだって、どこにもいない。
「ニカ!」
「ニカちゃん!」
フォルカーとロルフの声が遠くくぐもって聞こえる。
「おい!なんでここにいるのかと聞いてるだろ!答えねぇか!」
私の腕を強引に引きずり、拳を振り上げた村長の動きと声がピタリと止む。ふと見上げると、その喉元には光の剣が突きつけられていた。
『その汚い手を離せ。斬り落とされたいか』
ところで。
今回「ほうける」に“呆”と“惚”をあてましたが、どちらも同じ意味ではありますが、私はなんとなく漢字の種類に受ける印象を大事にしたいと思う派です。笑
二種類使っていても、私的には間違いなのではありませんのでご心配なく。
ちなみに今回はヴェローニカ主観のお話なので、“呆”が正解かはエーリヒ様に伺ってみないとわかりませんが。
諦めずにずっと読んでくださると、この時の正解はいつかわかるかもしれません。




