204.宣戦布告
《マティアーシュ・ケンプフェルト》
「やっぱり龍神様が怒ってるんじゃないのか?アーベラインに雷なんて、俺は生まれて初めてだ」
「雷だけじゃないよ。氷や火の雨まで降ってきただろ?しかもあれが降ったのは神殿だけだって言うじゃないか。街には雨しか降ってないんだよ?大神殿のその辺に転がってる氷の塊、見たか?あんなのが当たってみろよ、死んじまうよ!」
龍神の加護も篤い神都アーベラインの地。
吸魔石の光輪に守られた澄み渡る蒼穹に、突として雷鳴が轟くなど、一体誰が想像しただろうか。
午後ののどかな時間に、それは大空から来襲した魔獣の咆哮のようにも聞こえた。
聞いたこともない轟音に天を仰ぐと、真っ黒な雲から降るはずのない雨が降り出し、光の矢も降ってきて、木々や家屋は炎炎と燃え上がる。さらに凶器のような拳大の氷の塊が投げつけるように落ちてきて、建物や窓を容赦なく破壊していく。
ところがその氷の塊と火の雨の大半は、大神殿の敷地を中心に降り注いだのだ。これが天の配剤と言わずして、なんだというのか。
アーベラインは荒天を知らず。
その氷の塊を“雹”、そして火の雨のような光の矢を“雷”とは知らないアーベラインの住民達は、噂通りに神官らが神に背く愚行を犯し、龍神の逆鱗に触れたのだと恐れ慄いた。
激しい雷雨がようやく収まった夕の刻迫る頃、この前代未聞の災厄について問いただすため、神都の住民達は大神殿に殺到した。
彼らの動揺と混乱は激しい。落雷とは、ヴァイデンライヒの守護龍神アプトの権能とする、“神罰の矢”とされているからである。
だからこそなのか、空を見上げた民衆の中には、「雷雲の中にアプトの龍体が見えた」と訴える者も現れ、さらなる混乱を呼ぶ事態となっていた。
大神殿側も慌てふためいていた。落雷により、いくつかの小神殿などの建物が崩壊、倒壊したのだ。
神官達は壊れた施設の被害状況の確認や建物の下敷きになった死傷者の救出、治療などの処置に追われていた。
しかし建国祭初日の午後、大聖堂には多くの信徒たちが集っていた。幸い、大聖堂には被害はなかったものの、まずはその動揺を鎮めなければならない。
ところが動揺した信徒達を宥めていたはずの大聖堂ではまた、新たな騒ぎが起こる。
その頃、この度の騒動の発端について大神官に釈明をしていたマティアーシュ・ケンプフェルトは、幸か不幸か、その最中に大聖堂に呼び出された。信徒達を鎮めるために洗脳の法具を鳴らしていた神官が、突如青い炎に包まれて意識を失い、倒れたとの報告を受けたからだ。
その際に使用していた法具が落下し壊れたことで信徒達の洗脳が一気に解けてしまったのだ。大聖堂に着いたマティアーシュが扉を開けると、信徒達は怒鳴り、入り乱れ、その場は大混乱となっていた。
使用していた法具が壊れると、それで洗脳されている者達の催眠は解かれ、覚醒してしまう。そのため法具の扱いについては、細心の注意を払うことを義務付けられていたはずなのに。
「俺は雲の中に龍神様がいたって聞いたぞ!どういうことなのか、ちゃんと説明してもらいてぇ!」
「やっぱあの噂、ほんとなんじゃないのか?神官達は悪意のある噂だから騙されるなって言うけど、ほんとは俺達、皆、洗脳されてるんじゃ…」
「怪しいのはそれだけじゃないよ。神殿や教会も子供達の拉致に関わってるって言うじゃないか!なんだってそんな酷いことを!」
「さっきだって見たか?神官が青白い炎に包まれたんだ。あんな色の火、見たことねぇ。きっと龍神様が怒ってるんだ、神官達に。じゃねぇとここに雷なんか落ちる訳ねぇじゃねぇか!」
「俺はおかしいと思ってたんだ!お布施なんかもう払わねぇぞ!今まで払ったもんも、全部返しやがれ!」
今、大聖堂では信徒達の軽い暴動が起きている。重ねがけされていた洗脳が急に解けたのだ。落雷のこともあって、不安がさらに煽られた結果だった。
何故自分が神殿に足繁く通い、高額なお布施などを払っていたのか。龍神の加護があるべき神都に、龍神の権能であり神罰であるはずの雷が、何故落ちたのか。
洗脳が解け、ただただぼんやりとする者もいたが、「支払ったお布施を返せ!」と怒鳴り込む者達も大勢いた。
(全く、役立たずどもめ。…だが、皆が口々に言う、青い炎とは、一体何のことだ?)
マティアーシュは神殿で一番の強力な火の適性を持っている。それは炎の加護とも言うべき優れた適性だ。だからこそ、その不可思議な炎の解明のためにこの場に呼ばれたのだが、マティアーシュを以てしても青い炎など見たことも聞いたこともなかった。
しかも全身を炎に包まれたというのに、その神官が纏っていた神官服には、燃えた痕すら見当たらない。
その場にいた者は、青い炎からは熱を感じなかったと言うし、意外にも時間を置かずに火は消えてしまったので、消火活動をする暇もなかった。
火が消えたあとに倒れた神官に触れても、全く熱くはなかったようだ。
思考を巡らせている間にも、やいのやいのとくだらない騒ぎがマティアーシュを妨げる。下級神官達が信徒達を宥めている様子を、苛立たしげに睨んだ。興奮した信徒が神官を責め立てている。
(あんな奴らは私の炎で、まとめて荼毘に付してやりたいものだな)
今は新たな法具を準備して、信徒らを順次洗脳し直しているところだ。
洗脳されていない者には、魔法陣が見えてしまう。それでは神官達が怪しい魔術を信徒達に施しているのではないかという疑念が、確信に変わってしまう。
ことは慎重を要する。一人ひとり確実に、ブレスレットの魔導具で魔法陣を仕掛けてから、別室へと言葉巧みに神官達は信徒を誘導していた。
「いかがですか、マティアーシュ様。何かわかりましたか?」
騒ぎ立てる民衆をよそに、聖堂の片隅では上級神官達がしきりに意見を求めてくる。
(青い炎など、そんなもの私にわかるものか。火魔法とは赤いものだ。それは火の魔素からもわかるように常識なのだぞ。…だがわからないと言うのもな…)
「倒れた神官はどこだ?」
「はい。医務室へ運びました」
「では目覚めたら容態と状況を確認しておきなさい。ここで憶測を話したところで何にもならん。今は信徒の対応が先だ」
「そうですね。仰る通りです。失礼いたしました」
それらしい事を言ってやると、上級神官達は納得する。信徒達の対応をしている神官達の補佐にそそくさと向かうのを眺めていると、誰かが駆け寄ってくる気配に気づいた。
「マティアーシュ様!大変です!」
「今度はなんだ、騒々しい」
(今以上に大変なことがあってたまるか)
息を切らしながらやってきた神官が、周りを気にしながらも興奮気味にマティアーシュに報告する。
「ぐ、グリューネヴァルトが!」
「グリューネヴァルト?また何か変な通告でも出してきたのか?…ああ、昨日の返事の催促か。あんな気味の悪い小娘を、自身の婚約者だとは。寝込んでついに頭がおかしくなったのだな」
「…その、グリューネヴァルトとリーデルシュタインの連名で、大神殿に宣戦布告がなされました!恐らく夜にはアーベラインにグリューネヴァルトの竜騎軍がやってきます!」
その報告にマティアーシュの側に残っていた側近達が驚愕し、ざわついた。
「は?…宣戦布告…?」
マティアーシュは素っ頓狂な声を出す。
(宣戦布告?竜騎軍だと?…グリューネヴァルト侯爵は神殿と戦争でもするつもりなのか?)
「これは宗教弾圧ではないか!昨夜の通告を無視したからと言って、いくら脅しでもやり過ぎだ!…ですよねぇ?マティアーシュ様」
側近達はマティアーシュの顔色を窺う。
「何を言っているのだ?宣戦布告?竜騎軍を動かすなど、そんなこと、できるはずがない。許可なく所領を出た時点で、王家に対する反逆ではないか!」
「それが、各都市にエーリヒ・グリューネヴァルトからの、神殿を糾弾する檄文が出されまして……奴は本気かと」
「檄文?…エーリヒ・グリューネヴァルトだと?…目覚めてからおかしな通告を送ってきたと思ったら、今度は檄文だと?」
「マティアーシュ様、急ぎ大神官様のもとへ。お呼びでございます」
「…わかった」
どうやら冗談などではないようだ。マティアーシュが歩み出そうとすると、さらに耳を疑う報告が続いた。
「それから……実はあの後、大神官様はメルヒオーア様に……懲罰を…」
「…何?」
確かにマティアーシュも、あの行動はいつものメルヒオーアらしくないとは思っていたが。まさか。
(大神官様がメルヒオーアに……鞭打ちを?)
咄嗟に口元を押さえた。吹き出しそうになったからだ。
(やはりな。いくら首位とて、メルヒオーアは所詮、孤児。何の後ろ盾もない。ならば恐るるに足らず。…本当に厄介なのは、奴の方よ…)
マティアーシュの脳裏には、爽やかに、だが小賢しく微笑む美青年がチラつく。
「マティアーシュ様?」
「…ふん。行くぞ」
「は」
マティアーシュは側近達を連れて、大神官の待つ謁見の間に急いだ。
◇◇◇
謁見の間では、主だった序列上位の特級、上級神官達が集まっていた。大神官の御前だというのに、次から次へと起きる非常識な出来事の数々にざわざわと喧騒が絶えない。だがここに真っ先に来るべき首位神官が、まだ姿を現してはいなかった。
このような非常時に首位神官不在など。これでは御前会議が始められない。
「メルヒオーア様はまだか?リヒャルトは?」
壇上でマティアーシュは控えの神官に苛立ちの声を上げる。広間の下座の方に視線を走らせると、メルヒオーアの側近のリヒャルトがいるのが目に留まった。
「リヒャルト神官はいらっしゃったようですね」
リヒャルトが一人で来たのなら、メルヒオーアは来ないつもりなのか。あの従順だった、メルヒオーアが?
「マティアーシュ様……もしや……メルヒオーア様は今、来れないほどの状態なのでは…?」
傍に控えていた側近が声を潜めた。
「……」
そうなのか?そこまで痛めつけたのか?それほどまでにメルヒオーアの反抗が気に障ったのか?
「マティアーシュ様…」
「リヒャルトにメルヒオーア様の……所在を聞いてこい」
「……」
「早くしろ」
「はい」
マティアーシュに命じられた側近は、緊張した様子でリヒャルトの元に向かった。
◆◆◆◆◆◆
《メルヒオーア》
マティアーシュが大聖堂にて御前会議の召集に応じる前、メルヒオーアはひとり、吸魔楼の最上階へ訪れていた。吸魔楼とは、大神殿の最奥にある吸魔石の設置された高楼である。
大神官の鞭打ち苦行からようやく解放され、小神殿から出た頃には空は黄昏れ始めていて、吸魔楼内部はもう薄暗かった。そもそもここには元から、まともな明かりなどない。必要がないからだ。
寝台に横たわった聖女の首には新たな隷属の首輪が装着され、マティアーシュの指示により手首、足首には厳重に吸魔の綱が巻き付けられている。それらは今なおメルヒオーアの目の前で、赤い光を帯びて彼女の魔力を吸い上げ続けていた。まるで彼女の生き血をすするかのように。
「これでは、ユーリヤが死んでしまう…」
だが無力なメルヒオーアには何もできやしない。
暗がりの中メルヒオーアは、目の前で魔力を吸われ続ける少女を見つめて、嘆くしかなかった。情けなくもせめて、この背中の痛みとともに。
事件当時はまだ日も高く、聖なる都アーベラインの多くの信徒達が大聖堂に集まり、祈りを捧げていた。その中での突然の雷雨。目撃者は、アーベラインの全ての民。これが神罰であるという意識と恐怖は、彼らに強烈に植え付けられた。
当然の如く聖女は危険視され、その処遇は吸魔楼最上階への監禁。
ここ吸魔楼は、神殿に仇なす異端者や罪人たちを閉じ込めて、魔力と自由を奪う施設で、罪が重い者ほど上階に収容される。
この部屋のすぐ上には、吸魔石の魔導具が設置されている。つまりここがアーベラインで一番吸魔石に近い場所。高魔力保有者であるメルヒオーアですら、ここに長居は辛いものがある。この部屋に留まっているだけで、刻一刻と魔力が吸われていくのだ。
要するにここに無期限で収容されるということは、ある種の死刑宣告とも言えるのである。
そうやって吸魔石が集めた魔力は、大神殿の各施設や信者としてのランクが高い高位貴族達の屋敷に供給されるように魔導回路が組まれている。供給される魔力量によって、上納される献金の額が決められる仕組みだ。
神都アーベラインとは、大神殿と吸魔楼を中心に同心円状に区画された都市で、中心に近いほど高級住宅街――大神殿からの魔力供給がある高位貴族達が居を構え、外郭に近いほど平民や貧民の区画となる。
信徒達は大神殿に至る神聖なる道、“ホーリーロード”と呼ばれる中央道を通って、祈りの聖堂に通っている。
吸魔楼への立ち入りは、メルヒオーアよりも遥かに魔力が低い平の神官や巫女などでは命にも関わる。そのため罪人を運ぶのは、ある程度魔力が高い神官に任せられるのだが、今回聖女は最も危険な最上階へと運ぶため、上級神官が行うこととなった。
ところが彼女に触れるとバチバチと火花が散り始め、人によっては先刻の騒動のように部屋中に雷魔法が飛び散った。その筆頭がマティアーシュである。
これをマティアーシュは魔力が高い者に対して現れる現象だとしていたが、検証した結果はそうではないらしい。魔力の低い神官の一人が触れても火花は散り、その後オスヴァルトが触れた時には何も起こらなかった。そしてメルヒオーアの時も然り。
「おかしいですね。私も先ほどは彼女の魔素による抵抗を多少は感じたのですが…」
オスヴァルトも不思議がっていたが、彼女を運ぶ役目には最適だと彼が選ばれた。
メルヒオーアはその現象を起こすのは、敵意ではないかと推測した。だがそれを皆の前で言ってしまうと、オスヴァルトを窮地に追い込む可能性を考えて、それは本人のみに伝えた。すると彼は妙に納得したような表情を見せた。同じく紫眼の彼には彼女の尊さがわかるのだろう。メルヒオーアのように。
聖女の処分が決まった時、メルヒオーアは大神官に再考を上訴したが、当然却下され捨て置かれた。
オスヴァルトもこの決定には承服してはいないように視えたが、その時彼は一人抗議するメルヒオーアを擁護はしなかった。
神殿では上下関係は絶対の教えだ。メルヒオーアよりも唯一の上位者、大神官の下した判断は覆らない。そして反抗は勿論、懲罰対象である。
オスヴァルトは神殿序列第五席。特級神官の中でも上位者ではあるが、それは家格や魔力量からではなく紫眼という稀有な才能からであることを自身がよく弁えていた。
特段裕福でもない片田舎の伯爵令息である彼は、それ故のやっかみを昔から度々受けてきたからである。
髪色も少しくすんだ亜麻色で、金髪ばかりの特級神官の中では珍しい。それでも彼の家門の家格が高かったり、財力があるなどの特出した力があれば、もっと扱いは違っただろう。
例えば魔術師団のエリートであるミュラー家の令息フェリクスのように。
辺境伯家であるミュラー家は、国境を守るための軍事力を有している。その力で誰もが欲しがる紫眼の子息を神殿には入れず魔術師団に。しかも王直轄である第一でも、王城と政治に縛られる第二でもなく、有力侯爵家のリュディガー・アイクシュテットが軍団長として統率する自由な気質の第三師団に入団させることができたという裏話がある。
そんな事情でオスヴァルトは序列第五席次でありながら、何かに不服を感じてもメルヒオーアのようには決して口には出さない。それが彼の処世術なのだ。
それでもそれは神殿のもつ体質上、仕方のないことだとメルヒオーアは彼を責める気にはならなかった。
そして魔素とは口ほどに物を言う。
メルヒオーアとオスヴァルトは、常日頃から魔素を視て、彼らの感情や本質を普段から察している。席次に関わらず結局は、自分の意見など通らないのだということを。
それでもメルヒオーアの眼には、オスヴァルトの真意が視える。ただ彼女の身を案じる者がこの大神殿に自分の他にもいるのだということだけでも、メルヒオーアの心は慰められた。
それでも、この仕打ちは。
(あれはマティアーシュの失態なのに…)
あろうことか、マティアーシュは自身の弁明に娘のイザベラをも盾に使った。最終的に聖女を怒らせたのはイザベラだったようだ。だがその以前に行っていたマティアーシュの所業も、メルヒオーアは一部始終を聞いた。
彼女の頬は赤黒く腫れ上がって、頬の傷と唇からは血が流れていた。そしてそれは、治療できる力があるのにも関わらず、神官は誰一人としてそれをしなかったということだ。
(こんなになるまで、殴ったのか…)
「マティアーシュめ…」
自分の血筋と家門の力を笠に着て、大神官の側近となり、神殿での地位を確立させ、彼はやりたい放題だ。
神殿での序列の首席はメルヒオーアではあるが、実質的には第三席のマティアーシュの力は強い。そしてそれに対抗できる勢力もメルヒオーアではなく、第二席、フロイデンタール公爵家の者だった。
結局、彼らにあってメルヒオーアにはないもの。それは、家門の力。実家の勢力である。
それでもメルヒオーアが十四の身空で首席でいられるのは、ひとえに才能。紫眼の能力と誰にも引けをとらない豊富な潜在魔力。その魔力量には、優秀な特級神官の中でも上位者ですら圧倒的な差があった。
メルヒオーアはぎこちなく彼女のもとに屈み込み、腫れ上がった頬に手をのばす。
「っ…」
鞭打たれた背中の傷が引き攣れて、痛みに顔を歪めながら魔力を込めた。
『庶幾わくは 彼の者を癒やしたまえ… 我は忠実なる…御身の、下僕……』
(忠実なる下僕……ヴァイデンライヒの、祝福か…)
メルヒオーアは神聖魔法を発動する際の祝詞を普段通りに唱え始めて、そしてそれを止めた。
祝詞の詠唱を途中で止めてもこれまでの反復からか神聖魔法の光は灯り、無惨にも腫れて変色していた皮膚がもとの白いつややかな肌に戻っていく。
「ふぅ……っく、ぐぅ…」
頬の傷が癒えてほっとひと息つくと、いつもの頭痛よりもずっと強く、頭が割れるような痛みを覚えて、それを押さえた。あまりの痛みからか、動悸や息切れも同時に起こる。治療はともかく、手当てもせずに真っ先にここに来たために、背中の傷もズキズキと苛むように痛んだ。
「はぁ、はぁ…」
(この状態でここに居すぎたからか…)
メルヒオーアは胸元を握りしめて、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
前屈みになった彼の背中には、白い神官服に血が滲み……首の裏には、魔法陣が浮かび上がっていた。
だがそれは、洗脳された者には決して認識できない魔法陣。罪悪感を感知して背信行為と見做されると魔法陣が起動し、魔力回路を滞らせて、戒めの痛みが伴うものだった。
背中の痛みと息苦しさに蹲りそうになった時、視界の端で魔力の歪みを感じた。メルヒオーアは咄嗟にその方向を確認する。
(なんだ…?あそこに何か違和感がある)
視えすぎて普段は抑えている紫眼の能力を少し精度を高めてみた。薄く乱れた魔素が天井に向かって上がっていくのが良く視える。そして横たわった聖女からも辺りより数段濃い目の魔素が上がっている。この上の吸魔石に吸われているのだ。
だがその向こう側、部屋の片隅に、ひと塊の澱のように揺蕩った白銀の魔力があった。聖女自身の魔力とも似ている神聖さを感じる魔力。それも純度の高い膨大な魔力だ。
(なんだ、あれは?いつからあそこに?…あんな魔力なら、この程度の違和感で済むはずがない。もっと早く気づいていたはずだ…)
『紫眼か……面倒な奴め』
声がした。だがそれは前にも感じたような、不思議な違和感のある声。念話だった。
「だ、誰だ?!」
『大声を出すな。喉を掻き切るぞ』
ふわりとかすかに風を感じた。つい今まで天井に向かって吸われていた魔素が、あの白銀の魔力の塊を中心にゆっくりと渦を巻くように流れが変わる。この部屋の魔素をあの魔力の彼に掌握されたのだ。
メルヒオーアは悟った。
もう自分が何をしたとしても、この白銀の魔力の塊に自分の命を握られてしまっていると。
(これほどまでの力。神聖な気配。そうか…)
軽く息を吐いた。
命の危機だというのに、何故かほっとしている自分が少しおかしかった。
「…あなたは誰ですか?…何をしに、ここへ?」
落ち着いた声でそう聞いているメルヒオーアには、本当はうっすらとわかっている。聖女に似た白銀の魔力を持つ存在がここに現れたのならば、彼女を奪いに……いや、救いに来たのだと。そして、自分はその敵なのだと。
『敵意はないのか』
「…あなたに適うはずがありませんから」
『賢明な判断だな』
姿の見えないままの彼の声は、至極当然だと言わんばかりだった。
そしてメルヒオーアは尋ねる。答えのわかり切った、その問いかけを。
「彼女を、迎えに来たのですか?」
『そうだ。……酷いことをするものだな、人間は』
“人間は”と彼は言った。つまり彼は人間ではないのだ。彼の言う“酷いことをする人間”には、自分も含まれるのだと、メルヒオーアは苦しく思った。
エーリヒ様の怒りの檄文内容は、あと数話先…
のはずだったのですが、繰り上げようかと調整しました。最近、癒やしが足りないので。
この時間帯は、大神殿(大聖堂の青炎騒動、この後の御前会議)、メルヒオーア(吸魔楼)、大神官(御前会議後の祈祷室)、王都(王城、平民街、貴族門)、ユリウス達(移動中)、エーリヒ達…と、同時進行中。
なので、お話が多少前後しても大丈夫なのですが、檄文内容の入るお話は、だいぶあとの予定にしていたのです。
でも今回チラッとあの子が出てきてしまったので。
ということで次回は、
「檄文」の予定です。
「御前会議」が先の方が良い気もしますが。
時系列通りであれば、このまま吸魔楼にてメルヒオーアと??のお話の続きとなります。




