202.ソランの愛
《ツクヨミ》
ツクヨミは昔語りを始める。
黎明期、生まれたばかりの世界には魔素が溢れ、自然には精霊が宿っていた。水や空気、石のような無機物から、植物や獣などの有機物、そして人間にも。神代と言われるこの時代、森羅万象は魔素の恵みに育まれていた。
宇宙は魔素で成り立ち、魔素とは神秘そのもの。いわゆる神である。
すなわち神とは魔素であり、膨大なエネルギーと意思の集合体のことだ。
そのうち、魔素が視える生物が現れた。それは人間の中にも現れる。
魔素への感応が高い者に、神は稀に神託を下した。人間がより良い道を選べるようにと。
啓示を受けた人間達は、それを高みにある存在、神であるとし、神をソランと呼び、崇め始める。
天啓によって人間が魔素から魔力を練り、魔法を操るようになると、自明のことではあるが、魔力を多く持って生まれた者がその時代の支配者となった。
魔獣蔓延る混沌とした大地で、儚く脆く哀れな人間が生き抜くには、より強い共同体に属さなければならない。
その中にあって、逆に魔素の加護が弱く、魔力が低い人間も当然存在した。
抗い難い現実は人間に優劣を生み、身分の階級と差別を作り出した。
その対象となった、とある一人の女性がいた。
その女性は、他の者達とは異なる容姿で生まれたことで、周囲だけでなく親からも“忌み子”とされて生きてきた。先天的にメラニン色素が欠乏した状態で生まれる突然変異。アルビノだ。
しかも彼女には魔力すらなかった。魔素の加護を持たない真っ白な髪と肌。不吉な血を彷彿とさせる赤い眼。見慣れず奇異なその外見は、始まりの神を崇める集落において、“神に見放されし者”、“異端者”と蔑まれた。
魔獣による被害、天候不良、天変地異、不作、飢餓、奇病……降りかかる不幸の全てが、禍々しい彼女のせいだとされた。
古代大陸では、人々の不満と不安、憎悪は、生贄の山羊に背負わせて、魔獣が闊歩する荒野に放す儀式が行われていた。贖罪の山羊、スケープゴートである。
しかしある時、神聖なる供犠にて、人間を神の祭壇に捧げようと祭祀を司る長が主張した。自分達の犠牲が大きい分だけ、恩恵に与れるに違いないと。
なんということはない。それまで供物として捧げていた貴重な食料となる獲物や収穫物を惜しんだのだ。
表向きには、神への聖なる生贄。
しかしながらその実は、口減らしであり、贖罪であり、身代わりであり、憎悪の捌け口であった。
当然のように、神は男性性であるはずだとして、生贄に選ばれたのは、女性。となれば、満場一致でそれは決まる。
彼女は皆の憎悪の対象。不吉の象徴。浄化すべき穢れ。誰も彼女を助ける者などいない。
そのアルビノの女性は人間達が捧げた、この世界で初めての人間の生贄だった。
だが生贄を捧げても、一向に神の啓示はない。
神託を受け取れる者は、その時代、その共同体には皆無だった。
祭司曰く、
「これは、神が不出来な生贄に満足されないからだ。犠牲は大きいほど、見返りが得られる。苦痛は耐え難いほど、救いは得られる」
その考えに集落の皆が同調し、餓死寸前まで祭壇に捧げられた彼女を、ついには殺すことにした。それも、苦痛を伴う死を与えることで、大いなる神の恩恵を得ようと。
そのまま彼女は人身御供として人間達に殺される運命だった。
人間達の贖罪のため、神に捧げるために、それまでともに生きてきた集落の者達に無惨に殺されようとしている一人の無垢な女性。
人間とは、時にこうも残酷になれるのか。
その日、神が初めて、この世界に降り立った。
神とは魔素であり、エネルギーであり、意思の集合体。
初め、現れたそれは眩い光だった。それでも彼らは確信した。人間達は奇跡の来臨を前に、「我らの祈りは聞き届けられた!」と狂喜した。
降臨した神は生贄の女性を救い、彼女を守り慈しむ。神には体も性別もなかったが、彼女から人間の構造を学び、彼女に合わせて体を構築し、神ソランは成人男性を象った。
神に愛される。
神話ではよくある話だ。
エルーシアの聖なる子も、人の世では神の愛し子とされる。
だがソランの場合は違った。神としては特殊な、だが人としては正常な、男女の情愛だ。助けた生贄の女性と過ごすことで、ソランは人間を理解し、感情を学び、愛を知ったのだ。
その対象となった人間の女性、初めての神への生贄であり神の伴侶、無垢なる白き女性、それがレーニだ。
そしてツクヨミが語るには、それはヴェローニカの過去世の一つであり、ルーツなのだという。
しかしこの世界を管理すべきソランの偏愛を、宇宙の神である創造神は許さなかった。
神に愛される。
世界を司る神の愛を人間の身でありながらその一身に受けるということは、人間を超越することだ。それはこの世界の均衡を崩し、いつしか破滅の“果”へと繋がる“因”となるだろう。
ソランとの契りにより神の伴侶となった代償として、レーニは創造神の呪いをその身に受けた。
レーニを救おうとしたソランもまた、罰として神の力を封じられ、悠久なる眠りについた。
ソランから与えられ、交わした愛は、魔力を持たなかったレーニの空の器に満ち、愛を知らない彼女を変えた。その源は大いなる世界神の力。
その力が絶大過ぎて、ソランの神威を弱めるためにレーニの魂は粉々に砕かれ、千々に引き裂かれて、無限の宇宙に散りばめられ、ソランから引き離された。
その一つひとつの魂の欠片には、苦渋に満ちた人生を送る創造神の呪いがかけられている。それを全て乗り越えた時に初めて、レーニの魂は赦しを得るのだ。
力を封じられてなおソランは、自分の神威を分けた分霊を現世に降ろし、愛しい人の魂の欠片を探し、拾い集めた。レーニが人として生きるのを見守りながら。
そのソランの分霊として遣わせたのが、光の神と闇の神だ。
すると世界を離れる原初の神々の代わりに、この世界を新たに治める者が必要だ。ソランは各属性の精霊の王を生み出し、またその管理者とするために精霊に感応の高いハイエルフのレヒカを生み出した。
眠り続けるソランに代わり、レヒカは精霊を治め、エルフの里で魔素を生み出す世界樹を護っている。
それまで神々には役割の名称はあれど、名前などなかった。シュペーアとレーニシュという名は、レーニがつけた光と闇の愛称だ。
神であるソランには、家族や名付けという概念はなかったから。だがレーニにとっては、愛しいソランが生み出した神々ゆえに、子供同然だったのだ。
ソランの分霊であり、光と闇を司る原初の神シュペーアとレーニシュは、ソランの代わりに時空を旅して、バラバラになった彼女の魂の欠片を探し廻った。
レーニの魂はあらゆる世界であらゆる不幸な人生を歩む。シュペーアとレーニシュは、永遠とも思える終わりの見えない無窮の年月を追いかけ続けた。
だが人は、一生のうちに多くの人と出会い、誰かと愛し合って人を産む。それが人の人生だ。
しかしソランはレーニを愛している。
レーニが自分以外の誰かを愛するなんて、例え記憶がなくとも許さない。
誰かに愛されるなんて、許せない。
では、どうするのか。
ひとりにすればいい。
誰にも愛されず、誰も愛さず。産まれてから死ぬまでを一人で。
それが、ソランの愛。
『ふざけるな!!何が愛だ!!!』
怒りに任せてユリウスがふるった拳は、側にあった巨木に当たり、それを薙ぎ倒した。
バキッ!メキメキメキメキ…ズ、ズーン…
大人の腕で一回り以上はある太さの大木がへし折れ、周囲の木々も巻き添えにして数本が倒れていった。ユリウスの怒りの魔力が飛び火したようだ。
日射しを遮るほど密に茂った暗い森の中、ぽっかりとその一帯だけ空が現れて、足元に生い茂る下生えに、初めての眩い日光が射し込む。
近くで危機感を煽るような高い鳴き声を上げて鳥達が飛び立ち、敏感に怒りの波動を感じとった周囲の魔獣が逃げていく。
はぁ、はぁ…と立ち止まって肩で息をしているユリウスからひょいと降りたツクヨミは、へし折れて横倒しになり、重なった木の上に飛び乗った。
しばらくの間、ユリウスの荒い呼吸音しか聞こえなかった。流れる時間とともに、舞い上がった土煙が徐々に収まっていく。
怒りで息が乱れるのは人間の仕草だ。マリオネットであるユリウスには必要のない機能だ。だがそれだけ生前の名残りが、彼の意識下にはあるということ。
とても人間らしく、愛すべき愚直さだ。
日頃からユリウスを見ていて、ツクヨミはそう感じていた。
『…そうだな。…そちには理解できんだろうな。…だが、それが神というものだ』
『神?!何が神だ!!!なんでヴェローニカがそんな目に合わなきゃならない!!ふざけるな!!』
抑えきれない怒りから、ユリウスはツクヨミに対して声を張り上げる。
顔を上げ目が合うと、その瞳は怒りで真っ赤に燃えていた。濃厚な魔力が煮え滾る怒りで沸々と練り上げられているのが、ツクヨミには視える。
魔素金属でできた傀儡人形。
喪われた古都プロイセには、本当に優秀な傀儡魔術師達がいたようだ。この体には並外れて複雑な魔術回路と魔法陣が仕掛けられている。だがいくら名匠の作と言えど、あまりにも本来の性能を超えて進化している。そしてその進化は、これからも続いていくのだろう。
ユリウスの体はツクヨミが預かる傀儡人形――ユリウスとは対となる一体と、もはや同じ物ではなかった。これはひとえにヴェローニカの力の恩恵だ。
彼女の血液中の魔力と、彼女が集める良質な魔素、そしてユリウスの成長を望む彼女の切なる願い。それらが起こす奇跡だ。
その奇跡の源が、元世界神とされる……否、現在なお紛れもないこの世界の神であり、膨大な力とエネルギーを有する始原の神、分かたれた神々の始まりであり、世界のエネルギーの源、太陽神ソランの愛という神威。
『吾は人の世に居すぎたからな。そなたが怒る気持ちはわかるのだ。…だが、あれには……あの方には、もうわからんのだろう。愛しい者を目の前で砕かれ、己と引き裂かれた。無限にも思えるこの宇宙で、その者だけを探し求め、還りを待ち侘びて幾星霜。…想像できるか、ユリウス?もう……狂っていると言ってもいい。もはや禍津神の類だ』
「はぁ…はぁ…っ…」
怒りでまだ息を整えられずにいるユリウスを、ツクヨミは哀れむような瞳で見つめた。
原初の神と創造神の愛と呪い。
制御不可能な抗いようのない人知を超えた力など、もはや暴力であり災害。ならば息を潜めて大人しくやり過ごす他に、対処などないもの。
やはり話すべきではなかったか…とも思ったが、話すことでヴェローニカの人生に何か変化がもたらされることを、ツクヨミは淡くだが、期待もしていた。
ユリウスは人間ではない。さらに今やヴェローニカとは血の契約を交わした眷属となっている。もう今生の彼女とは、縁が絡みついていて離れ難い。
そしてもう一つ、人間には知られざるこの話をツクヨミがユリウスに話したのには、理由があった。
ユリウスは、レーニシュ=プロイセの子孫である。ソランとレーニの子とも言われるレーニシュの、“知恵の実”の加護を受けたプロイセの民なのだ。
レーニシュは闇の神であり、レーニとは本当の親子関係はない。だが、レーニは名付け親。そしてレーニは愛の溢れる人間だった。愛に恵まれないがゆえに、家族のような温かな愛を求めたのだ。ヴェローニカもそうであるように。
それがヴェローニカがユリウスを無意識のうちに子供のように愛しく感じる理由でもある。
ユリウスには、心外であろうが。
以上のことからユリウスは、ソランの愛の対象外になっている可能性が高い。つまり彼女を守護する存在として認識されているはず。ならば最悪、彼女を孤独にすることはないだろう。今生は。
「なんとか、ならないのか……ツクヨミ…」
滾るようだったユリウスの怒りの魔力は、いつの間にか、もうすっかり消えていた。そして怒りは全て、狂おしいほどの哀しみと変わり果てていた。
『…………』
それはツクヨミにもわからないことだった。二柱の神の愛と呪いが絡み合っている。しかも一柱はこの世界の太陽、つまりこの世界の生命を生み出す力の根源であり、もう一柱はここだけではない天地万有、全ての世界における万物の創造主だ。神の中の頂点の神である。
『運命というのは決まっていると言うが、それはその時点での方向性が定まっているという意味だ。何をしても変えられないということではない。それでは、生きる意味はないからな』
間違ってはいなかった。ただ少し、表現をぼかしただけだ。ユリウスが、望むであろう言葉に。
そして、ツクヨミも。
「じゃあ…」
『そうだな……安易には言えぬが……変えることもできよう。…恐らくは』
「…そうか…」
はぁ…とユリウスはくしゃりと顔を歪めて、大きく息を吐いた。
(吾が人間の肩を持つとはな。)
ヴェローニカの中にある魂の欠片は、ツクヨミが視るところ、どうやら一つではないようだ。それゆえ魂が馴染まず、感情が不安定なのだろう。
今に至るまで彼女は、ありとある世界で流転の旅を繰り返し、その魂に多くの傷を負ってきた。それを守護眷属となった分霊が探し集め、この世界に還ってきたのだ。だとしても、その魂にはヒビが入り過ぎて、非常に脆く視える。色々な意味であまりにも目立つ魂だ。
(お陰で吾らとの因縁も濃くなった。困ったことに……目が離せんわ…)
光の神シュペーアがこの世界に戻ったのであれば、レーニの魂の復元が近いのかもしれない。輪廻の旅がついに終わるのだ。それはつまり、創造神の呪いが解けるのか?だがそれは、ヴェローニカの生を終えてから、のことだろう。
また精霊結晶でレーニの器となるハイエルフを生み出すのか。前回のエルケのように。であれば、今頃世界樹は精霊結晶を護っていることになる。いや、きっとあれからずっとレーニの器を護り続けていたのだ。魂が還るその日を待ち侘びながら。
世界樹とは、世界の意思。ソランの意思なのだから。
(エルケか。あれは早すぎたのだ。魂もカルマも足りていなかった。今回は、どうなるのか……む?だから光のアプトが干渉してきたのか?同じ光のシュペーアが守護する子だから?)
ツクヨミはアーベラインの方向を視た。あちらには今回も光の精霊の気配を感じる。
アプトは天空を支配する王。そしてツクヨミとは違って、しばらく人の世には顕現していなかったはずだ。だが、引き籠もりとも言っていいほどのやつが今回ヴェローニカに干渉し、そして人の子に……エーリヒに、久方ぶりに自分の権能を分け与えている。それはどういう心境の変化なのか。
ツクヨミはスンスンと大気の香りを嗅ぐようにした。
空に魔素が濃くなってきた。ヒゲがむずむずしてくる。
「今はそれでもいい。…変えられるものならば、変えてやればいいのだ」
ユリウスは心を落ち着かせるように息を整えて、ツクヨミを見つめた。その瞳はようやくいつもの紫水晶に戻っていた。
パラパラパラ…
雨が降り始めた。森の木々の新緑を細かい雨がパラパラと叩く。ずっと王都にいたふたりが雨音を聞いたのは、久しぶりだった。
「…………」
ユリウスは雨雲に覆われた空を見上げる。森の中、木々が薙ぎ倒されてぽっかりとあいた空。
長い年月を亡霊として無為に過ごしたプロイセ城に戻り、数日いたが、その間も雨は降らなかった。あの辺りは小雨程度ならよく降る地域だったのだが。
プロイセを出てだいぶ進み、もう王都は近いというのに、雨が降っている。しとしとと、天を仰ぐユリウスの頬を打つ。
まるで泣いているようだ…
「行くぞ、ツクヨミ。…ヴェローニカが待っている」
『そうだな』
ぴょんとツクヨミがユリウスの肩に乗りしがみつくと、ユリウスは再び森の中を走り始めた。
次回はモノローグ。ふたりの独り言。
「ソランとレーニ」