201.愛と呪い
《ユリウス・レーニシュ=プロイセ》
建国祭初日の午後。
旧プロイセ城と旧城下町、そして主要街道や農地に至るまで。プロイセ周辺に棲み着いていた魔獣を、ユリウスはすっかり狩り尽くしていた。
これでプロイセの街の住人もしばらくは安心して暮らせるだろう。
建国祭で賑わうプロイセの街から城までの帰路、ユリウスは己の腕をなでながら、仲良くなった職人達とその家族の顔を思い浮かべた。
侯爵邸、プロイセと連日の激しい戦いで、念の為の微調整をして、今はその帰りだ。
プロイセの街での思いがけぬ出会いの後、人形師ドミニクの馴染みの職人達と顔合わせをし、ドミニクとアダムにしたように、ユリウスは自身の身の上とヴェローニカの話、神殿の話をした。
初めは驚かれたが、職人達は協力を申し出てくれた。その返礼としてプロイセ城のひしゃげた魔鉱製の大扉を渡すと、職人達は久々の良質素材に大張り切りだった。
渡した魔素金属で鍛冶屋が打ってくれた暗器は、プロイセ城の亡霊として墓守をしていた頃から慣らしている。さらにあらゆる魔法が使えるようになり、戦闘に応用できるものから魔獣相手に訓練を積んだ。
そして何より神聖魔法も使えるようになり、もうヴェローニカの治療を人に任せないで済むことがユリウスには嬉しかった。
他にももう一つ、魔力不足の懸念から火力の心許ないユリウスは、職人達から攻城用の破壊兵器を貰い受けていた。これは魔法でも魔導具でもないらしい。魔力を一切使わない、平民だからこその新たな技術だった。
◇◇◇
「ユリウス様。あまり無理はしないでくださいよ。腕が外れたって部品さえあれば儂は繋げたり、多少の調整はできるが、新しく作ったり、大きく作り変えたりすることはできないんだ。魔素金属はプロイセ城の大扉を使っていいってユリウス様は言ってくれたが……なんせ技術が足りねぇ」
人形師ドミニクは悔しそうに言った。
「ユリウス様の言うとおりだ。プロイセは技術を失った。全てが砕かれ、燃えて、そして死んでいったんだ…」
「おじいちゃん…」
悔しがるドミニクを孫のアダムは気遣う。
「それに、儂らは平民だ。人形の基礎を作ることは出来ても、それに命を吹き込む作業はできねぇ」
「命を吹き込む?」
ユリウスはドミニクに聞き返す。
「儂の先祖があなたの体を作ったとは言ったが、それは象っただけだ。魔法陣を組み込むなんてのは、魔術師にしかできねぇ。一緒に作った魔術師がいるんだ。傀儡師の一族だ。錬金術師だな。その体が人間と変わらない進化をするのも、あなたが言ったようにヴェローニカ様のお陰もあるだろうが、きっとそいつらの魔術が優れていたからなんだ。だがその一族は、今頃どこにいるのか。生きてるかさえわからねぇ…」
「消息は全くわからないのか?」
「…実は、あの戦争で捕まった魔術師や技術者は皆、王都に連行されたと儂の爺様に聞いたことがあります。それで技術者のいなくなったプロイセは衰退したんだって。爺様も、そのまた爺様に聞いた話らしいのですが。前にプロイセの神聖魔術師が減った話をしましたが、あれもです。だからもしかしたら、その傀儡師達も…」
「連行された?それは……殺すためか?それとも…」
「捕まった貴族達はほとんどが処刑されたとは聞きましたが、技術者達は。…そもそもあの戦争は、プロイセを乗っ取るために始まったんだ。だから…」
「利用するために捕まえたのか」
眉を曇らせ、ドミニクは押し黙る。だが、ユリウスには知りたいことがある。
「ドミニクよ。そなたは……兄上の最期を……知っているか?」
ユリウスの兄、つまり最後のプロイセ領主レーニシュ=プロイセ公爵アウグストのことだ。
ずっと、心に引っ掛かっていた。だが、聞けなかった。知っても知らなくても、過ぎ去ってしまった過去は変わらない。それでも……怖い。
「…爺様の話では、公爵様も捕らえられて、連行されたと。その後の詳しい話は……申し訳ありません」
ドミニクはただ謝って、無念そうに首を振った。
「その後王国は、いろんな魔導具を開発したんだそうです。あの王都の黒い吸魔石もそうだ。だから、技術者達は生かされていたのだろうと」
「そうか…」
殺されなかっただけ、良かったのだと思うべきなのか。彼らがどのような扱いをされていたのかは、わからないが。そして、兄が。
「その時代、プロイセには天才と言われた錬金術師がいたと聞きました。名は、ヘルメス……なんだったか?貴族の名前はややこしいからなぁ。…とにかく、偉大な錬金術師だったそうですよ。恐らくそのヘルメスが、ユリウス様のその体、“レーニシュ”を創ったのでしょう」
◇◇◇
「これに魔術回路を組み込んだ錬金術師ヘルメスか…」
天才と呼ばれた錬金術師がいたということは、ユリウスもおぼろげながら覚えていた。素晴らしい発明をする傍ら、破天荒な研究をしては、周囲を困らせてもいたようだ。
そこまでの天才であれば、やはり王家に生かされていたに違いない。もしかしたら、あの王都の吸魔石を造ったのは、その錬金術師か?
プロイセ城に着いて城壁に上ったユリウスは、午後の光を浴びて虹色に光る鋭利な爪を眺める。
ユリウスの体はもう完全に破損箇所は修復され、調整も済ませて、さらに魔獣を狩りまくって補充した魔力で漲っている。それにより魔素金属もさらに強化された。
今ならもしまたあの吸魔の魔導具を使われても、あんなにすぐにはやられはしない。次はあんなものに絡め取られてやる気など、さらさらないが。
昨夜の月はもうすぐ上弦になるくらいには膨らんできていたが、満ちるまでには遠かった。ツクヨミはまだ完全ではないだろう。だが、これ以上はユリウスには待てない。
(ツクヨミが来たら、伝えよう。先に行くと。)
ドミニクらと出会った日、プロイセの街から帰ったユリウスに、ツクヨミはある提案をしてきた。
ツクヨミには、ヴェローニカに施した“印”の他にも権能があるらしい。それを活かすために、プロイセ城の宝物庫にあるユリウスと対となる傀儡人形を借りたいという。戦力になるならと、ユリウスは快く応諾した。
ツクヨミは女性型の傀儡人形“シュペーア”を自身の血にて契約。それを見事に操り、宝物庫から出して、また魔獣狩りに出かけた。
あれから数日経ったが、ツクヨミとシュペーアはどの程度強化されただろうか。
「ツクヨミに傀儡師系統の能力があったとはな。魔素が視えて魔力操作が巧みならありえるか。…となると、エーリヒも得意そうだな」
この傀儡人形が納められていた棺には名前が刻まれていた。この男性体のマリオネットは“レーニシュ”。女性体の方は“シュペーア”だ。家門名からあやかったのだろう。
魔獣狩りから戻ったツクヨミが、ユリウスがいた城壁上の胸壁にトントン…と上ってきた。早速話を切り出そうとすると、彼女は思わぬことを言った。
『ユリウスよ、そろそろあの子が限界だ』
「何?…限界とは、どういうことだ」
『今あの子は、お前が死んだと知らされたようだ。このままでは危うい』
胸壁の狭間に腰掛けて、背もたれていたユリウスが身を起こす。
(ヴェローニカは私が死んだと、消えたと思っているのか。…声が届かないからか。)
「危ういというのは…?」
『精神が壊れるかもしれない、ということだ。そうなれば…』
「そうなれば、なんだ」
『もはやあの子ではなくなる』
「ヴェローニカではなくなるって。…じゃあ、何になるっていうんだ。また心を閉ざすということか?」
『いや。…そんな単純なことじゃない』
「じゃあ、なんだよ。はっきり言ってくれ!」
『…………』
「ツクヨミ!」
胸壁の上に佇んでいたツクヨミは、その長い尻尾をゆらりゆらりと揺らした。それがまるで心の惑いのようにユリウスには感じられた。
『…あの子の心が壊れていなくなれば、あの子の中のものが目覚めるのだ』
「いなくなる?…目覚めるって?」
『あの子の中の神威が目覚めたら、もうそれは人ではない。次元が違うのだ。…ユリウスよ。神とはな、いるだけで災害なのだ。息をするだけ、身動きをするだけで生あるものを殺せる。心優しかろうと関係ない。加減などできないほどに強大で、人間などとは力の差がありすぎるのだ。だからこそ無駄に殺さないよう、距離を置くのかもな』
「ヴェローニカの中には、そんなものが眠っていると?」
『そうだ。あの子はな……とある神に愛されてしまった子だからな。あの子の魂には、加護と呼ぶには生ぬるいほどの神威が宿っている。そしてそれがもとで、別の神に呪われたのだ』
ツクヨミの黄金色の瞳は、昼の光で瞳孔が細くなっている。夜のくりっとした可愛げのある大きな瞳ではなく、野生の獣の獰猛さを感じさせる瞳だった。
「神に愛され、呪われる…?なんだ、それは?神話の話か?」
『…人の世に知れ渡った神話の全てが、真実という訳ではないのだ』
「神に愛されるとは、エルーシアの女神のことか?聖女とは女神の寵愛の証なんだろ?神がヴェローニカを守ってくれるってことだろ?」
『神の寵愛か。…そうだな。それが全ての始まりだ。ならば神とは、人の心などわからん方が良いのかもしれん』
「よくわからんが…」
深刻なツクヨミの様子に不安は感じるが、ユリウスのやる事など、とうに決まり切っている。
「とにかく、ヴェローニカが壊れる前に救い出せってことだな?そうだろ?」
『…ははっ。……そうだな』
呆気に取られた後、からりと笑うツクヨミ。それを見て、幾分か安堵したユリウスは頷いた。
「では私は先に行く。ツクヨミは無理はするな。…今もアーベラインの大神殿にいるか?ヴェローニカは」
ユリウスは決意を告げて、座っていた胸壁の狭間に立ち上がる。そして遥か城壁の下を見下ろした。
『吾も行く』
その声に、隣の胸壁の上にいるツクヨミを振り返る。
「大丈夫なのか?ツクヨミが来てくれるとヴェローニカを探す手間は省けるが…」
『道中、魔獣も食らっていけば、それなりの戦力にはなるだろう。実はもう変化はできるのだ。この程度であれば、前回のようにはならん。今回は他にも手段はあるしな』
ユリウスはわずかに瞳を見張ってから、ニヤリと笑う。
「手段というのはマリオネットのことか?あれはどうした」
『あれなら持っている。吾の影の中だ』
ツクヨミの佇む胸壁の上には、午後の強い日射しに照らされた彼女の影がある。影は胸壁の端で途切れていて、その下は日光が当たらず、胸壁の側面は全て黒い影となっている。その影の中、胸壁の側面から、にょきっと紫髪の頭がわずかに覗くように出てきて、紫色の瞳と目があった。だがそれはユリウスとは違って、魂のない傀儡人形。意思など持ち合わせてはいない、空虚な瞳。
「…………」
『なんだ、驚いたか』
「いや。影の中に収納できるってのは、やはり便利だな。教えてもらって良かった」
『まあな。吾は闇を司るからな。本来は魂を使役し、死体を操るのだが……あれはあまりウケが良くない。これならまだ良いだろう?』
「はは。ウケか」
ツクヨミには闇の権能がある。あの襲撃の夜に、その一端を見せてくれたことをユリウスも憶えている。ヴェローニカに施している“印”もそのようだ。
闇魔術というのが古代魔法にはあり、影の中に入ったり、物を収納したりもできる。
それがあまりに便利なのでツクヨミに闇魔術を習い、ユリウスも多少だが使えるようになった。その影の中には、プロイセの職人達から預かった兵器もすでに入っている。まだツクヨミと比べると収納量はわずかではあるが、武器などの小物を収納するのには充分だ。
あの夜に彼女が見せてくれた能力。それは確かに人間のウケは良くないだろう。それこそユリウスがいつぞや言われたように、“化け物”扱いされることは想像に難くない。
もしかしたらそれでツクヨミは、あまり自身のことを多くは語らなかったのかもしれない。
(猫であっても、やはり女性だからな。)
『向こうで神官どもを殺してから操ろうかと思っていたのだが、人形自体が魔素金属なら人よりも耐久性がある。どうせ死体は壊れてもいくらでも替えはあるから良いのだが、一つを育てるというのもなかなか悪くはない』
「そうだな。魔素金属に魔力を満たして進化させるのは癖になる。私も昔持っていた魔剣はそうやって、暇さえあれば魔力を注いで育てていたものだ。あれはどこへいったのか。…だが、ツクヨミが死体を操った時の奴らの恐怖に慄く顔も、見てみたかったがな」
『では、楽しみにしておけ』
ようやくいつもの不敵なツクヨミの声を聞き、揺るぎない強者の余裕を感じる。これから王国の暗部である神殿勢力へカチコミをかけるというのに、ユリウスの胸は躍った。
「はははっ!そうだな」
ユリウスは快活に笑ってから再び足下を見下ろし、胸壁からひょいと飛び降りる。人間では着地不可能な高さの城壁を飛び降りて、地面にダンッと着地し、両足を踏みしめると、トントン…と城壁づたいに黒猫が軽快に追ってきた。
神都アーベラインの方向と地形を予めプロイセの街の職人達から聞いて調べていたユリウスは、追いついてきたツクヨミが肩に乗ると、その方向を目掛けて颯爽と走り出した。
一刻を争う今は、いちいち乗り合い馬車などと言うちんたらした乗り物になど、悠長に乗ってはいられない。何せユリウスはマリオネット。魔力さえあれば、疲れなど感じることなくアーベラインまで駆け抜けることも可能だ。ツクヨミが言うように、道中魔獣を狩りながら行けば、その魔力も補給できる。それに、馬などよりもよほど速く走れる。
王都からプロイセまでのかつての移動では、街道を猛スピードで駆け抜けるような目立つ行動を避けていたまでだ。それにそのおかげで付近の住民達の噂話も聞くことができた。
「よほど魔力を失っていたんだな、そなたは」
『忌々しいほどにな。先ほど言ったように神の力とは脅威だからな。魔素の薄い人の世で、体を構築して生きるために、もともと吾は力を抑えているというのもあるが。あのような首輪、吾でなければ死んでいるぞ、全く。…いやまあ、死にはせんか』
「なんだ?神獣は死なないのか?」
『死とは、ただその体の状態だ。人の世にいる吾らの体は生まれ変わり、魔素を集めて新たな体が構築されるだけだ。さすればいずれ、あの忌々しい首輪もなくなるはずだった。多少時間はかかろうがな』
「ふーん。まあ、そうか。…私も今は似たようなものか」
会話をしながらもユリウスは風のように駆けていき、周囲の風景は次々と流れ過ぎていく。
直線距離で駆け抜ける彼は、時に障害物を跳び上がって避ける。そうしながら、ユリウスとツクヨミはとりとめのない雑談を続ける。
あまりの速さに通り過ぎていく風の音が邪魔にはなるが、ツクヨミは思念の声で話すので、会話の聞こえに支障はない。
急ぐ旅なのでなるべく魔獣は避けるが、そもそも遭遇してもユリウスの方が足が速い。
『そちは今の意識が消滅したら、次の生では忘れてしまうからな。なくなる訳ではなく、忘れるのだ』
「じゃあ思い出すこともあるのか?ヴェローニカのように」
『そうだな。きっかけがあればな。魂には生きた記憶が全て刻まれている。アカシックレコードと言われるものだ。元始からのその魂の歴史、想念などが刻まれる。それらが神経細胞のように繋がり、世界の記憶へと集約される。だが、普通に生きていれば思い出すようなことはない』
「ふぅん。よくわからんが。なんで記憶を忘れるんだ?あったら……ヴェローニカのように苦しむからか?」
『あの子は記憶があって良かったと言っていたぞ。苦しいのは自分のせいだからと』
「そうなのか。…姫らしいな。…で?なんで忘れるんだ?あった方が次の人生を生きるのに、効率が良くはないか?」
『あの子を見ていればわかるだろ?記憶があると、基本的な行動範囲が狭まる』
「行動範囲?遠くへ行かないってことか?」
『体の動きも記憶に左右されるだろうが、心の動きのことだ。いろいろあるが……例を一つ言えば、あの子は人を救うことはしても、貶めることはしないだろう。だがまっさらなら、あの子でも環境によっては、それを好むようになるかもしれない』
「だめではないか。悪いことを好むようになるなど」
『その善悪は人の定めたものだ。魂には関係ない。あらゆることを経験し、学び、時に怠け、そして成熟していく。“生きる”ということにおいて、全て無駄なことなど何一つとしてない』
ユリウスはこの数日でツクヨミからこのような話をいくつか聞いていた。初めは自分のことなど話したがらず、秘密の多い雰囲気だったが、今ではだいぶ話してくれるようになった。その度に、やはりこの黒猫は人知を超えた存在なのだなと改めて思う。
ツクヨミが話すことはまわりくどく、ユリウスにとっては難解な内容が多いが、その話はなかなか面白かった。いわゆる禅問答のようなものだ。
「では、悪いことをしても良いということなのか?」
『良いかどうかは己が決めることだ。ただ、因果はある』
「因果?」
『その行動には結果が伴うということだ。簡単に言えば、悪いことをすれば悪いことが返る。良いこともまた然り。であれば、幸せに生きたいのならば、良いことをすべきだな』
「なんだ、結局は良いことをしろってことか」
『しろとは言っていない』
「はいはい。ツクヨミは宗教家のようだな」
『吾は人ではない』
「そうか」
ユリウスはくつくつと笑いながら街道を走り抜け、近道とばかりに林に分け入った。誰も足を踏み入れることのない濃厚な暗緑の鬱蒼とした林の中だったが、暗視可能なユリウスには、夜の闇の中だとしても全く問題はない。迂回するより、この森を突き抜けた方が早いと判断したまで。足元は悪いが。
身体強化を器用に使い、木の根、岩を跳び越えて、木の枝に掴まり、次の枝に跳び移る。着地し、小川を跳び越える。まるでパルクールを見ているかのように華麗でアクロバティックな身のこなしだった。
とうに外套のフードは外れ、風に靡いた珍しい紫色の長髪が時折、木々の隙間から漏れる日光に鮮やかに照らされる。
『まあ、簡単に善悪で話したが……あの子の場合は、課題は別にあるな』
「課題?」
『ああ。魂の課題だ』
「ヴェローニカに足りないもの、学ぶべきものということか?」
『そうだ』
「……そんなもの、あるか?」
『…そちは本当に…』
「なんだ?」
肩の上で、ツクヨミが呆れた雰囲気を感じる。
「で?課題って?」
『……そちもわかるだろう?あの子は愛を恐れている。普通に人が生きれば経験するはずのものを、あの子は恐れているのだ』
「…………」
それは確かにユリウスも感じていた。でもそれはヴェローニカのせいではない。彼女を取り巻く環境のせいだ。それを“課題”と言われても。
『記憶がなければ、いつかは知ることもあったかもしれぬな。…それであれば、今も生きていたかはわからんが…』
「自己暗示をかけたから、このままならもう知ることはないということか?」
『そうではない。…まあ、今はそれもあるか』
「前世の記憶が原因か?でも……それはヴェローニカのせいじゃない。生まれたところは選べないだろ。まずはそこから間違っていた。普通に愛してくれる親さえいたら、少しは違っていたはずだ」
『そうだな。だが、言ったろ。あの子は神に呪われているのだと』
「…なんだよ、それ……本当の話なのか?」
『そう言っただろう』
神の呪いと言われても、ユリウスには今一つ実感が湧かない。そもそも神など雲の上の話だ。
ツクヨミを肩に乗せながら。
森を抜けた。
ようやく光源を得て、明るく暖かな大自然の景色が目の前に広がった。薄暗い森から抜けた開放感と眩い陽の光に照らされた、この世界の愛を感じる美しい風景を見たからか、ヴェローニカの銀色に輝く髪を、愛らしく微笑む姿を、ユリウスは自然と思い描いていた。
(早く会いたい。早く会いに行ってやらねば。きっとひとりで寂しがっている。)
「ヴェローニカの不幸はその呪いが原因だとでも言いたいのか?誰だ、その呪っている神ってのは?…ん?神には愛されているのではなかったのか?神というのは、そんなにいるのか?」
『いるさ。何度も人の世に顕現し、人に呼ばれる名前をいくつも持つ者もいれば、認識されてはいないが、重要な役割を担う者もいる。人からすれば、善神もいれば悪神もいる。だがそれらは善でも悪でもなく、ただ……そうだな。言わば属性で、世界を正常化するためのシステムのようなものだ。この世界の管理者だな』
ユリウスは顔をしかめた。
「つまりはヴェローニカは、その正常化に背く存在だということか?」
『…早く言えば、そうだな』
「だとしても、呪うなんて勝手すぎるだろ、そんなの。悪神と言われても仕方ないぞ。人間のことに神が首を突っ込むな」
『はは。それを吾に言うのか』
「あぁ……そなたも神か。…だが。ヴェローニカが何をしたというのだ。呪われるほどの何かをしたというのか?」
『その通りだな。そもそもあれが悪いのだ』
「あれとは?」
『…………』
「なんだ、まただんまりか」
『いや。固有名詞がな。…神の諱は人には発音できないのだ。聞き取ることもできない』
(そんなことがあるのか。)
「諱?…本当の名のことか?だからツクヨミも自分の名前を言わないのか」
『そうだ。それに人間とは“名”の認識が少し違う。概念が違うのだ』
「ふぅん。なるほどな。…じゃあ人が知ってる神の名は、人がつけたものということか」
『そうなるな』
そしてしばらくツクヨミは押し黙って、その間にもユリウスは、どんどん先へと進む。
また森の中に突入した。今回は山を越える。尾根を越える時に一度木にでも登って、方向を確かめよう。そろそろ王都の近くを通る。上からは大層な隔壁に囲まれた王都が見渡せるだろう。そして、王城が。
(王城か…)
その仰々しい高い壁に守られて、贅を凝らした絢爛な王城では今、龍神王を名乗るこの国の王が建国の宴に興じているのかと思うと、腸が煮えくり返る。
わかっている。
あそこにいるのは、我らを滅ぼした奴らではない。だが、王国民に広く崇められ、勇猛な騎士や魔術師、才知溢れる高官達に傅かれ、護られる、王。その尊貴なる地位は、振るう力が大きいからこそ、相応しい者がなるべきなのだ。
「…ふぅ…」
感傷に浸り過ぎたようだ。
ユリウスは意識を切り替える。そうだった。神の話をしていたのだった。
まあ、神の話だ。そんなにおいそれとは言えないのだろう。そう思った時だった。
『だが……あれには人の世界で呼ばれている名もある』
「ほう。どんな名だ?」
話す気があるのかと少し驚きながらも、軽い気持ちで聞き返した時に、ツクヨミは言った。
『ソラン』
「……は?」
駆け抜ける時に感じる風で、耳がおかしくなったのかと思った。
『ソランだ。この世界の……偉大なる“始まりの神”だ』
それは、どちらかと言えば不可知論者であったユリウスでも聞いたことのある、有名な原初の神の名前だった。
次回、ツクヨミ様はかく語りき。
「ソランの愛」