200.神罰の矢(2)
《オスヴァルト・リヒター》
『誰だ…』
『私はこの大神殿の神子姫、イザベラ・ケンプフェルトよ!エルーシアの聖女か何か知らないけど、ここはヴァイデンライヒの大神殿よ!あんたのような卑しい端女ごときが!メルヒオーアに守られてここにいるなんて、この私が許さない!神殿の威光に跪いて、私の前にひれ伏しなさい!!』
イザベラはここで魅了魔法を使って、彼女を御するつもりだ。目撃者がいても、どうせまたあとで隠蔽工作をすれば問題ないと踏んだのだろう。今はそれよりも、この聖女を魅了し、支配すべきだと。今まで、都合の悪い事は全て、そうやって処理してきたのだろうから。
オスヴァルトも例外ではないのだろう。イザベラといると、時折不自然な記憶の欠落が生じることがある。そして彼女には神聖属性とは別の魔力が視えた。だがそれに気づき、看破しようとするとまた、不自然な記憶の欠落を感じるのだ。
だからオスヴァルトは、何が視えてもイザベラのことは詮索しないことにしていた。同じように、大神官のことも。
そんなオスヴァルトには今、その魔力の差がはっきりと視えていた。偽りの神子姫と本物の聖女の、無情なまでの魔力差が。
『卑しい端女か。…神殿の、威光?……そんなことのために、私は拉致されたのか?そんなことの、ために、ユリウスは…』
聖女の瞳が虹色に輝き、同色の魔力が濃厚にうねって膨らんだ。それはまるで蛇のように、彼女を中心にとぐろを巻く。
「イザベラ様!いけません!聖女は興奮しています!お下がりください!」
パリッ!!
「きゃあぁ!」
聖女から眩い紫の光が放たれた。雷魔法だ。
テレーゼが素早くイザベラを庇い、神聖属性の障壁魔法を展開する。だが雷が触れた障壁は、すぐにパリン!と粉々になって割れ砕けた。
テレーゼはすかさず二重、三重に障壁を張りながらイザベラを連れてその攻撃から逃げる。だが鞭のように雷撃も二人を追いかける。テレーゼが何かを投げると、雷撃がそちらに逸れた。ニードルのような金属製の暗器に雷撃を誘導させたようだ。
これはただの回復専門である上級神官の技ではない。珍しい雷魔法の特性まで熟知している。
彼女の髪の色は柔らかな亜麻色。秀でた魔力量でもない。髪色を基準とするならば、オスヴァルトよりもわずかに魔力量は低いはずなのだ。
そして今の身のこなしは、熟練の武芸者のそれだ。やはりテレーゼは只者ではない。
テレーゼには王都神殿に双子の妹がいる。所属が違うのは双子は忌み子という迷信からと、二人の仲が悪いかららしい。
その妹は、特級神官だ。容姿は瓜二つと聞いているが、妹の方は派手な性格で華やかな金髪だという。双子で能力に明確な差があることなど、あるのだろうか。
テレーゼの正体についてはいろいろと疑問は尽きないのだが、今のオスヴァルトはそれどころではなかった。
「神殿騎士よ!何をしている!吸魔の綱だ!早く!」
「は!」
オスヴァルトの催促に、気を取られていた騎士がわたわたと踵を返す。
ゴゴゴゴゴゴゴゴ……
外から耳慣れない地響きが聞こえてきて、皆が目を見張り、息を呑む。
ゴロゴロゴロゴロ……
「キャアア!」
それは恐ろしい魔獣の威嚇音のようにも聞こえて、巫女達は互いにしがみついて壁際に蹲った。窓の外が暗くなり始める。
「雷だ……あれは雷雲だぞ!このアーベラインに!」
「ここに雷なんて、あり得ないだろ?まさかアプトがお怒りなのか?…あれが建国神話の、悪を滅する“神罰の矢”?」
「ならばアプトは……神は我らに天罰を??」
神官や騎士が窓の外、すぐ上空に溜まっていく真っ黒な雲を見上げながら、狼狽えた声を出す。
「何を言っているのだっ!あれはアプトではない!アプトは我らの神だ!信仰篤く、高尚なる大神殿の神官に、アプトがお怒りになるはずがなかろう!」
動転する巫女や神官達を、マティアーシュは声を張り上げて叱咤する。
混乱する周囲をよそに、オスヴァルトはただ一人、聖女だという銀色の少女に目を奪われていた。
彼女を虹色に包む鮮やかな魔素の光。これを普段から視ていたのなら、その紫眼の男、ユリウスという名の男が、彼女に心酔するのも無理はないと思った。
今は普通の人間にまで見える魔素の光だが、オスヴァルトの眼には、それ以上に彼女が美しく、眩く光って視えていた。
白銀色の艷やかな長い髪も、真っ白な絹のように滑らかな肌も、神秘的な青銀の瞳も、星々を散りばめた銀河を見るかのように気高く光り輝いている。このままずっと視ていたいと、思ってしまうほどに。
ピカッ!
窓から覗く空が眩く煌めき、オスヴァルトは我に返った。その直後、光を追いかけるように、ドカンッ!ゴロゴロゴロゴロ…!と近くで雷鳴が轟いて、足もとが揺れた。皆が悲鳴を上げながら、耳を塞いでその場に蹲る。
今の落雷の後、マティアーシュの腕はようやく自由になった。外では、建物が崩壊したような大きな音がする。その轟音と周囲の混乱ぶりはまるで、この世の終わりのように感じられる。
『あぁ、ユリウス……そんな……私のせいで……あぁ……あああああ!!!』
少女の叫び声とともに、室内に激しい稲光が走った。
「キャアア!!」
「ぎゃあああ!」
巫女達の甲高い悲鳴と、神官や騎士達の恐怖の悲鳴で、部屋は張り裂けそうだ。
彼らは雷撃に追われ、一斉に出口へと逃げ出して、虚しくも扉で詰まり、一番後ろにいた金属製の簡易鎧を着ていた騎士にバチッと稲光が当たると、彼はドサリと床に崩れ落ちた。
「きゃああ!」
「何をしている!逃げるな!こいつを攻撃しろ!クソッ!役立たずどもめが!」
ソファーの裏に隠れたマティアーシュの魔力が高まる。少女を撃とうとしているのが視えて、オスヴァルトは考える間もなく身体が動いた。だが手を伸ばしたその時には、魔法はすでに顕現し、手から撃ち放たれた後だった。
『猛き炎よ 敵を灼き尽くせ ファイアジャベリン!』
高魔力の持ち主であるマティアーシュから放たれた炎槍の威力は牽制などではなく、明らかに死に至るほどの火力だった。
それを見たオスヴァルトの胸には絶望感が満ち、目の前が暗くなるような感覚に陥る。
(魔素に愛されたあの子を失ってしまう…)
しかしそうはならなかった。
魔法が放たれた次の刹那、まるで何事もなかったかのように、彼女に向かった巨大な紅蓮の炎の槍は、瞬時に消え失せたのだ。
その魔法の行方は、オスヴァルトにだけは視えていた。王国でも有数の魔術師であるマティアーシュから放たれた炎の魔法は、彼女を取り巻く厚い魔素に包まれて、魔法から魔力、そして魔素へと、一瞬にして分解されたのだ。さらにその魔素は、そのまま彼女を守る魔素の衣へと変質して、取り込まれてしまった。
「な?なんだと?!」
必殺の魔法が防がれたマティアーシュの面食らった声が聞こえた。
「くそ!どうなっている?『灼熱の抱擁 炎の息吹 全てを無に帰すまで 我が敵を屠れ!ファイアストーム!!』」
炎の槍が効かないと見て、マティアーシュは範囲魔法の炎の嵐を巻き起こす。これはもう屋内で使う魔法ではない。他の者達も犠牲になってしまう。
「マティアーシュ様!お止めください!」
室内には熱風が吹き荒れ、魔力の嵐に見舞われるが、それも全て聖女の魔素が呑み込んだ。
「…っ…」
愕然とする、マティアーシュ。
『あああ!!…ユリウス!…誰だ!誰がユリウスを殺した!どうして!どうしてこんなことに……ユリウス……うああぁぁ!!!』
炎の嵐を呑み込んで、より虹色の魔素は猛々しく、乱気流の如く渦巻く。飛び散る稲光の中、少女は銀の髪を振り乱して泣き叫び続けた。その瞳は爛々と虹色に輝き、魔力はますます濃くうねりを上げて、大きく膨らんでいく。
「何をしているのです!マティアーシュ神官!」
部屋にメルヒオーアが駆け込んできて、稲光が走り回るこの現状を目の当たりにし、目を見張った。入口には人が倒れ、壁や家具は魔獣の爪痕のように雷撃で切り刻まれている。
「メルヒオーア様!」
オスヴァルトが名前を呼ぶと、メルヒオーアが身を低くし、雷属性の魔法障壁を展開して稲光を防ぎ、オスヴァルトとマティアーシュがいたソファーの裏に近づいてきた。
「メルヒオーア…」
隣のソファーの後ろには、イザベラとテレーゼが隠れている。
室内を走り回る雷の鞭は、壁や天井、照明や家具を切り裂き、今もパリパリ…と響かせながら、蛇のようにあちこちを蠢いている。あれにかすりでもした者は、扉の前で転がっている騎士や神官のようになってしまう。
横たわり、微動だにしない彼らは、目や耳、鼻や口から血を吹き出している。体内が雷撃でやられているのだ。
「死んだのか…」
オスヴァルトはごくりと息を呑んだ。
一緒にやってきた従者のリヒャルトは、メルヒオーアの張った障壁に身を隠しながら、ベッドの上で泣き叫ぶ少女になんとか吸魔の綱をかけた。雷属性の障壁が唯一雷魔法から身を守れる手段だ。彼女に巻き付いた綱が赤く光って、魔力を吸い出し始める。
『あああ!ああああああ!!』
それでも彼女の叫び声は止まない。
「一体、あれはどうしたのです、オスヴァルト」
「…申し訳ございません、メルヒオーア様…」
ゴロゴロゴロゴロ…ピシャッ!ドカンッ!ガーーン!!
外では真っ暗な空に稲光が煌めいて、雷が落ち、鳴動して、轟き続けている。まるで雲の中に、巨大な魔獣でもいるかのように、空は蠢いているように見えた。凄まじい魔力の嵐で、オスヴァルトにもそれが何かはよく視えない。
いつの間にか窓を勢いよく雨が打ち付けていた。しかも雨に混じって雷と、火矢の雨まで降っている。
外から固いものが建物を叩きつけるような轟音が絶えず聞こえてくるが、それが何の音なのかはわからない。時折、窓ガラスが割れる音も聞こえる。もしや氷の矢も降っているのか?
窓の外の光景は、魔法攻撃による戦場のようだ。火、水、風、雷、氷……ありとあらゆる未曾有の大規模魔法攻撃を、大神殿は受けている。
雷鳴や、激しく振り続ける豪雨の音でかき消されてはいるが、外からは恐慌をきたした神官達の悲鳴が聞こえてきていた。外の被害は如何ばかりか。
「彼女が、従者の死を知りました」
「言ったのですか!」
「申し訳ございません…」
状況を説明するオスヴァルトに対し、責めるような声を出したメルヒオーアは、隣にいたマティアーシュを睨んだ。犯人が誰かは明白らしい。
「何ということをしてくれたのです、マティアーシュ神官」
「……あれが教えろと、聞いてきたのだ。どうせいずれは知ることだ」
苦虫を噛み潰したような表情だった。
遥か年下で、しかも孤児でありながら、首位であるメルヒオーアに対する対抗心と劣等感の表れだ。その立場は本来、大神官の息子である自分が在るべき地位であるはずなのに。とでも思っているのだろう。
「ユーリヤが話したのですか?」
(ユーリヤ。それが聖女の名なのか?)
「あいつは催眠状態などではなかった。我々を欺いていたのだ。散々生意気な口を利かれたが、私は聞かれたことに答えただけだ。それに、ああなったのはイザベラ、お前があれを煽ったからだぞ」
「…お父様…」
傷ついた表情のイザベラを、傍にいたテレーゼが庇う。
「イザベラ様はマティアーシュ様を救いたい一心だったのです。そもそも――」
「黙れ、テレーゼ。発言は許可していない。悪いのはあの小娘だが、上位者の許可を得ずに勝手をした結果でもあるぞ」
「…………」
テレーゼは黙したが、その目は静かにマティアーシュを見つめていた。それは怒りでも従順でもなかった。
だんだんと外の雨足が弱まってきた気配がして、窓の外に目を向けると、稲光も収まってきたように見える。
泣き喚いていたベッドの上の少女は、吸魔の綱に絡め取られて魔力をしばらく吸われ続けた後、十分な時間を置いて、ようやくバタリと力尽きるように倒れ込んだ。
室内を走り回っていた稲光も消えて、周囲を取り巻く魔素もだいぶ落ち着いてきた。
「あぁ……ユリ、ウス……ごめんね……ごめん、なさい…」
少女は身体を抱えて小さく蹲り、身を震わせて泣いていた。慟哭。そして、哀哭。とても哀しい色と少女の心からの嘆き。
「リヒャルト、もういい」
きっとそれはメルヒオーアにも視えている。そして誰よりも感じているのだ。
「…はい」
「何を言っているのだ!こいつは危険だ!この私が炎魔法を撃ったのに、全く効かなかったのだぞ!止めるな、リヒャルト!気を失うまで魔力を吸い続けろ!」
『黙りなさい、マティアーシュ。リヒャルトは私の部下だ。お前が勝手に命令をするな』
メルヒオーアがマティアーシュを魔力威圧した。
「…くっ…」
悔しそうにメルヒオーアを睨む。
魔力威圧が可能なのは高魔力保有者である高位貴族のみであり、さらに自分との魔力差が明確にある者に対してだけである。そしてマティアーシュの言う“上位者の理論”を是とするならば、メルヒオーアに従うのが正しいのだ。
高位貴族に対してそれらができるメルヒオーアを、オスヴァルトは尊崇の目で見つめた。
(やはりメルヒオーア様の方が遥かに魔力が高いのか。あの年で。…だが。ならばメルヒオーア様は、一体どこの家門の子なんだ…?ケンプフェルトよりも、上…?)
「ふぅ……とりあえず収まりましたが。被害状況の確認と、事の顛末を大神官様に説明しなければなりませんね。御前で、何があったのかはっきりさせましょうか」
メルヒオーアの紫の瞳がマティアーシュを見据える。
パァンッ!!
突然何かが破裂した音がして、反射的に皆がその方向を見た。その正体はリヒャルトの握る手元。吸魔の綱に取り付けられている吸魔石が割れて弾けていた。
「吸魔石が、割れた…だと?」
マティアーシュの呆然とした声がした。
それくらいあり得ないことだった。
「急いで魔石を持ってこい!隷属の首輪も壊れるかもしれない!」
皆が放心する中、ひとり正気づいたオスヴァルトは、廊下に隠れていた神官達に命じた。
「まさか、そんなことは…」
メルヒオーアも言葉を失う。
だが少女の首の吸魔石を見ると、黒い石が虹色に輝いている。飽和などするはずのない吸魔石が、魔力飽和している。先ほどその吸魔石から、魔力を吸い出し切ったばかりなのに…
パキンッ!
未だ雷撃の動揺が収まらないでいた室内に、またしても澄んだ音が響いた。吸魔の綱に続き今度は、少女の首を縛めていた隷属の首輪の吸魔石が割れた音だった。
◆◆◆◆◆◆
《コンラート・ネーフェ》
「美味しいでしょ?エーリヒ様」
「…ああ」
「それがハンバーグですよ。他にも色々あるんですから。ヴェローニカ様のお陰でデザートも美味しくなったし」
「…そうか」
昨夜と今朝は目覚めたばかりでパン粥だったエーリヒに、遅めの昼食にハンバーグを勧めるディーター。思ったよりも軽い罰で済んだことで気が楽になったようだ。
食堂にいるのはグリューネヴァルトの使用人のみだ。
昨日でエーリヒの治療任務が終了したフェリクスは、「王の元にいたい!」と泣きつきながらも、渋々魔術師団へ帰還した。
その際、「絶対に戻ってきますからね!僕は王の眷属なんですからね!ちゃんとお役に立ちますから、忘れないでくださいよ!」とエーリヒに訴えていた。「あぁ…建国祭で玉座に坐すべきは、我が王なのに…」と漏らしながら。
奔放さにさらに拍車が掛かっている。紫眼を持つ者達は、真の王に仕えることが悲願なのだろうか。
ギルベルトとカルステンは主への報告と護衛官達の統率で、今は席を外していた。
「食事は皆でしていたとか」
「ええ。ヴェローニカ様がそれを望まれましたので。申し訳ありません。身分を弁えず、軽率でした」
コンラートはここ数日を振り返りながら、久しぶりにまともな食事をとるエーリヒを見つめて畏まった。
「いや。ヴェローニカが望んだのなら、それでいい」
「はい」
ようやくエーリヒが目覚め、そして今後の計画も一応は聞き入れてくれた。だが主の心中は今も穏やかではないだろう。「何かあれば計画など知ったことではない」と、そこは譲らなかった。
「大神殿の動きは?」
「いえ。アーベラインからはまだ何も」
「ちゃんと伝えたのか」
「はい。昨夜、エーリヒ様のお言葉通りに」
「ならばもう猶予はいらんな。警告はした。あとは死にたい奴を殺すだけだ。ヴェローニカを救出したら、全てに方がつく。奴らの欺瞞は、もう通らなくなるからな」
「はい」
「私は行くが、ついて来るかは自由とする。お前達は計画の通りに進めれば良い。せっかく穏当な方法を考えたようだが。…悪いな」
「…ですが、伯爵には?建国祭にシャルロッテ様のパートナーとして、参席を頼まれたのでは?」
「…それは昨夜断った」
「…左様でしたか」
長年仕えたコンラートには、落ち着いた口調からもエーリヒの不機嫌さが見て取れた。
いつの間にかあちらはあちらで、シャルロッテのデビュタントと婚約に関して、王室とひと騒動あったらしい。今回前夜祭に出席した者がいなかった侯爵家としては知らぬ事実ではあったが、今はもうコンラートは詳細を把握していた。
「エーリヒ様が動けば、他の方々も動かざるを得ないかと。このまま建国祭に出席している場合ではなくなります」
「ああ。それも話した。あちらにはディートリヒらがいると聞いた。アーベラインに入れば合流してくる。王都神殿の方はこのあと、主君とギルベルトが強制捜査の申請をする手筈だ。さすればハインミュラーの息が掛かった貴族門は封鎖されるだろう。そうなる前に私は出る」
ディートリヒとはエーリヒの同僚の、ジークヴァルトの護衛騎士の一人だ。昨夜のうちにジークヴァルトとは段取りをつけたということか。自分が自由に動くために。
「ハインミュラーや王室は動くでしょうか?」
「不休で働いたお陰で不正の証拠は揃っている。それに他国の要人もいる。下手な事はできないはずだ。…だが、追い詰められればどうだろうな。王都騎士団と魔術師団が動くことも想定しなければならない」
王都騎士団は主に貴族街と貴族門を守っている。当然、王室とハインミュラーの指示に従う組織だ。
そして魔術師団。有事の際には、王直轄の第一軍と、王都守備の第二軍が王の勅令で動くだろう。
第三軍も今は王都待機を命じられているが、第三軍はリュディガーの指揮下にある。いざとなれば、こちら側だ。さらに王都門はハインツ率いる王都警備兵が守っている。
だが貴族門を封鎖されれば、今いる以上の援軍は望めず、貴族街で孤立することになる。普段も貴族の軍隊などは許可なく通れない。だからこそ、ハインミュラーは貴族門を掌握しているのだ。
「王室は証拠を揉み消すために、侯爵家に反意ありと偽って制裁に動く可能性があるということですね。ならば王は周辺領地にも勅令を出して…我々はさらに包囲されてしまうのでは?そうなれば本当に、全面戦争となります。王都にいる者達だけで防ぎきれるとは思えません。…竜騎軍は領地から間に合うでしょうか」
「そちらはヴィンフリート兄上がなんとかする。あとでコンラートも詳細を聞いておけ」
「え?…ヴィンフリート様が?」
(ヴィンフリート様が領地軍を抑えるのか?それとも竜騎軍を支援するのか?)
コンラートにはさっぱりだった。
「だが奴らもすぐには決断はできまい。私が戻るまで王都のことは任せてはあるが……落とし前はしっかりつけさせる。奴らへの断罪は、ヴェローニカを救い出してからだ」
エーリヒの声に迫力が増した。
主の関心事はやはり王室の動きやシャルロッテの婚約などではなく、アーベラインの大神殿にいるヴェローニカのことなのだ。
(惜しい縁談ではあるが、今となってはな…)
「リーンハルト」
コンラートの呼び掛けに、控えていたリーンハルトが視線を向けた。
「エーリヒ様を、頼んだぞ」
「…わかっている」
リーンハルトは真剣な瞳で頷いた。
「エーリヒ!」
「…なんだ」
珍しくギルベルトが慌てたように食堂に入ってきた。
「アーベラインから、報告が!」
「何があった?」
「アーベラインは今、都市上空を雷雲が覆い、雷撃、氷塊、火矢…あらゆる魔法攻撃を受けているらしい」
「それは一体どういうことですか?ギルベルト卿!」
あまりに予想外のギルベルトの報告にコンラートの声も上擦る。
「わからない。あちらは相当混乱している。都市の民達はアプトの怒りだと逃げ惑い、雷雲の中に魔獣がいると言う者もいるくらいなのだ」
「魔獣、ですか?」
「大神殿はどうなった?」
「…ああ。詳しいことはまだわからないが、都市よりも大神殿の被害が甚大だそうだ」
パラパラパラ…
外から屋根や木の葉を打つような音が聞こえて窓の外を仰ぐと、王都の空が雲で淀んで、天から雨が降り出している。
「雨……?王都に……?」
建国祭で賑わうこの時期に、計画雨天などあり得ない。
「馬鹿な……アーベラインの影響が、ここまで?」
ギルベルトも目を疑うように窓辺に進む。
「…ヴェローニカに何かあったのか…」
「エーリヒ様…」
エーリヒの身体から金色の魔力が立ち昇る。魔力の揺らぎに触れたグラスは、ピシッとヒビが入って割れ、流れ出した赤い果実酒が真っ白なテーブルクロスを染めていく。
「エーリヒ様、落ち着いてください。…まずは状況確認を致しましょう」
「もうそんなことを言っている場合ではない」
まだ冷静には見えるが、エーリヒの魔力は動揺するように揺らぎ、手元はテーブルクロスを握り締めていた。
「コンラート」
「は、はい!」
「ツクヨミに状況を聞け。あの黒猫なら何かわかるだろう」
「あ、はい!そうですね!」
(そうか。ツクヨミ様に聞けばヴェローニカ様に何があったのか詳しいことがわかるはず。)
荒唐無稽とも言えるあまりにも信じ難い状況に焦り過ぎていた。まずは自分が冷静にならなければ。
「テオバルト、ユリアン」
「「は!」」
「各都市に檄文を発布する。用意しろ」
「え…?は、はい!」
「…ヘンリック」
エーリヒは次々に部下達に指示を出した後、通信魔術具で連絡を取り始める。相手はヘンリック。どうやら領地で待機中の竜騎軍に連絡を取っているようだ。
(竜騎軍をもう進発させるのか?でも、侯爵様には…)
『エーリヒ様!お久しぶりです!もうお体は大丈夫ですか?』
「ヘンリック、今すぐシャハトの所へ行け。そして私が呼んでいると伝えろ」
『え?シャハト…?シャハトは今回連れて行く気はなかったので、ここにはいません。俺達の言うことなんて聞きませんからね。でもシャハトなら……エーリヒ様の命令だって言ったら、どこへでも飛んで行きそうですけど。…あ、でも飛竜を動かすにはまず侯爵様の――』
『ガタガタ言わずにさっさとシャハトをここへ連れて来い!でないと私だけで今すぐ大神殿に乗り込むぞ!!』
金の瞳が魔力に輝いた。まるでツクヨミの眼のように瞳孔が縦に割れて見える。
(あれは、龍の眼か?)
『は、はい!了解しました!』
(シャハトを呼ぶのか。侯爵領から?あの、エーリヒ様しか御し得ない、暴れ飛竜を?まさか…)
普段は誰も背には乗せない気高い黒竜、シャハト。だがエーリヒが幼い頃から何故か、彼の呼び掛けには言葉を解するように飛んでくる。それが今なら理由がわかったコンラートだったが、こうなれば動くのはシャハトだけではないだろう。
竜達の王、猛き竜シャハトが動けば、他の竜達も動くのは必然。侯爵の命が下りるのを待つまでもない。
『進軍するぞ、コンラート。まずは大神殿に宣戦布告だ。…奴らの天下は、今日で終わらせる』
エーリヒは金の瞳を冷たく光らせ、そう宣言した。
マティアーシュのゲスな仕打ちも、ハンバーグが大好きなディーターとマイペースなフェリクスににんまり。(˘ᵕ˘ )