197.世界を織り成す神々と、黒と白の系譜
《リュシアン・ヴェールテ》
今からひと月程前。
リュカが潜入していた王都平民区にある教会附属の孤児院に不思議な女の子がやってきて、大人達は振り回された。院長も職員達も面白いようにあたふたとして、たった一人の小さな女の子に翻弄された。
その日もリュカはいつものように庭の隅の木の下で、眷属達から送られてくる職員室や院長室の大人達の会話や子供部屋の騒々しさを聞き流しながら、木々の新緑が春風に鳴るのを目を閉じて感じていた。そこに軽い子供の足音。
近づいてきたのは、子供部屋の騒動の元になった紺色の髪の女の子。見た目に反して慎みもなく距離を縮めてきて、面食らう。
孤児院の実情を知りたがる世間知らずな部外者のお嬢様に、“こんな子供に何ができる”と、リュカは嘲笑った。ところが意外にも、「覚悟ならある」と真剣な眼差しが返ってきた。
覚悟なら、自分にもあった。知っていてなお、目的のために静観するのが、自分の覚悟。
だが真っ直ぐな眼で「全力で助ける」と言い放つ彼女の方が、美しい覚悟だとリュカは思った。
嵐のような少女が去った孤児院に、その夜、また一人の訪問者が現れた。
「どういうことだ?先日よりも人数が減っているではないか。今日受け取りに来ると伝えていただろう!」
「申し訳ありません。不測の事態が起きまして…」
紺色の神官服の男が孤児院の子供部屋までやってきて、子供達を見るなり院長を責め立てる。
この男は神都大神殿所属の下級神官らしい。
「何だと?一体どこの令嬢だ!」
「それが…」
今日来ていたニカの話をしているのだろう。
この男に渡すために、“子供達を連れ帰る”というニカの要望に、院長はあれだけ渋ったということか。
この孤児院は、子供の人身売買をしていた。
リュカと同じ特徴を持つ同胞は、異端だとして神殿に囚われることもあるが、運悪く貴重な魔法適性を知られ、売られることもあった。
ここには先日行方不明になった同胞の子供について調べるために潜入していた。ストリートチルドレンを集めているという殊勝な孤児院があるという噂を耳にして。
(教会附属の孤児院が?笑わせる。)
だがリュカの調べでは、ここの院長は黒髪には興味はないらしい。
ここではないのか。それともそれには気づかれないまま、どこかに売られたのか。子供ならばまだ魔力が弱いから、そういうこともあるだろう。
リュカはこの孤児院に身を置きながら、眷属達を使役して、訪れる顧客達の跡をつけ、子供達が売られるルートを一つひとつ調べていたところだった。
それはとても手間と時間がかかる作業だ。そして心が痛み、磨り減る作業だった。
「クライスラーか……仕方ない。…む?」
男はリュカに目を留めた。見下したような目と合い、リュカはふいに目を逸らした。
「こやつ、何故目を逸らした。生意気な奴だ」
ぐいっと胸ぐらを掴まれ、小さな体は寄る辺なく引きずられた。
「こっちを見ろ!おい!」
それはできない相談だ。
「いかがなさいましたか?この者が何か無礼でも?」
リュカが抵抗していると、院長が神官の機嫌を取るように話しかける。
「いや。…だがいくら平民でも、ここまでの黒髪は珍しいぞ。どこで拾った?」
「さあ…?ここにいるのは大体、王都周辺の浮浪者です。路地裏か、貧民区か…いや、郊外だったか…?」
院長は「はて…?」ととぼけた様子。
「前にも言っただろうが」
「何をでしょうか?」
「黒髪は異端だ。“邪教の徒”であるかもしれないのだぞ。出処を調べるのは当然だろ」
「はあ。…いえ、でも。それは大昔のことでは?」
「全く。不信心な奴だ」
「申し訳ございません」
院長はいくつもの指輪を着けた手を擦り、へらへらと笑う。
「まあいい。この前の黒髪はハズレだった。どうせこいつもそうだろうが、異端は異端だ。自分が黒髪に生まれたことを呪うんだな」
神官は嘲るようにリュカを見下ろした。
(この前の黒髪……どうやら、こいつのようだ。)
ガタガタガタガタ…
縛られたリュカを乗せた荷馬車は、王都の夜道を走る。そこに黒い烏のような鳥が迷い込み、蹲るリュカの前に降り立った。
『リュカ様。お逃げになりますか?』
驚くことに黒い鳥は人間の言葉を話した。それに対し、リュカは平然と受け応える。
「いや。このまま行く。いなくなった子供に関わっているのは、あいつのようなんだ。この馬車は王都神殿に向かっている。でもあいつは大神殿の奴だ。恐らく神殿内の転移陣を使って来たんだ。だとしたら王都神殿も神都大神殿も自由に入れるぞ」
吸魔石のある大きな神殿は、光の精霊王である天空の王アプトの古代魔法、光魔術の守護結界魔法陣で護られていて、同じく闇の精霊王であり冥界の王ヴェールテの古代魔法、闇魔術での影移動や眷属の潜入が阻まれる。だが一度、術者が結界の内側に入れれば、あとは中での諜報活動は自由だ。
『しかし神都には別の者達がおりますし、リュカ様自ら危険を冒さなくとも。奴は下級神官なので気づかなかっただけです。上級神官や特級神官なら、リュカ様のその眼を知っている可能性はあります』
「そうかもな。だが今逃げれば余計な騒ぎになる。潜入している他の者に迷惑をかけるかもしれない」
『それも、そうなのですが…』
烏の声が曇った。
「吸魔の綱か?それとも隷属の首輪か。…催眠の法具もあったな。…本当に、陰気臭いものばかり作る連中だ。ついでにその研究所も覗いて来るよ。技術を提供している秘密結社の情報も得られるかもしれないし。勿論、地下監獄もな。そんなに心配するな、レジス。まずいと思ったらすぐに逃げるから。だが俺が入れたら、皆の救出ももう夢じゃなくなる」
『はい』
黒い烏は頷く。これはリュカの仲間であり、部下のレジスが使役する眷属だ。
リュカ自身が真正面から乗り込むことは、さすがにレジスから止められていた。神殿の厄介な魔導具を使われたら、いくら加護の強いリュカでもお終いだからだ。しかし今リュカを連行する男は下級神官で、リュカをまだ子供と侮っている。ならば油断しているうちに、魔力が続く限り、囚われた同胞達を助け出す。
リュカは後ろ手で縛られたまま、拳を握った。
ガタガタと馬車が揺れ、走行音を鳴らすのを聞きながら、リュカは内心ずっと気になっていた質問を切り出した。
「それで……わかったか?」
『…あ、はい。馬車はクライスラー子爵邸へ向かい――』
「やはりクライスラー子爵の親戚か」
『いえ。その後しばらくして、グリューネヴァルト侯爵邸に』
「グリューネヴァルトの令嬢だったのか」
(侯爵令嬢か……高位貴族。しかも竜侯爵とは。気が強い訳だ。)
『しかしリュカ様。グリューネヴァルトには令嬢はおりません』
「そうなのか?」
『はい。もう少しお調べしますか?』
「…そうだな」
一度は肯定したリュカだったが。
「…いや、やっぱりいい。お前の任務を最優先に。…もう行け」
『は。ヴェールテのご加護がありますよう。お気をつけて。…リュシアン様』
黒い鳥は馬車の床に、ズズズ…と沈んで消えた。
この時リュカがそのまま侯爵邸を探らせていたら、もっと違うものに出会えていたのかもしれない。
久しく隠れていた、彼らの神に。
その後、リュカを乗せた荷馬車は期待通りに王都神殿へと入る。リュカは神官に連れられ、転移の間から神都大神殿へと移動。ひとまず地下監獄へ投獄された。
虜囚の身など、逆に好都合。
リュカは眷属を召喚し、囚われているはずの牢獄から、諜報活動を開始する。
闇魔術の魔力で創った黒い鼠達は、まずは地下監獄を捜索。監獄内には無惨な姿の“異端者”達が多数囚われていて、そこに衰弱した同胞達も発見。決起の時に備えて、神殿内で集めた食料や薬品を彼らに配った。行方不明だった子供も無事、見つけることができた。
計画は順調にも思えたが、問題は、魔力量の多い者は隷属の首輪を着けられ、吸魔されていることだった。同胞達を人質に、呪術魔法を利用した魔導具を作らされている者もいた。呪術と錬金術の二属性適性者だ。それは奴らにとって、まさに都合の良い魔法適性だったのだ。
ところが今から少し前、魔導具を作らせて監視していた神官らが苦しみ悶えてバタバタと倒れ、不可解な死を遂げた。
凄惨な死に顔の骸達を前にして、理由もわからず大神殿の者達は困惑していたが、黒い鼠と視覚を共有していたリュカには、神官達の死の瞬間、取り憑いた黒い靄が見えていた。
あれは“呪い返し”だ。しかも返す相手を巧妙に選別している。その証拠に同胞達は皆、無事だった。そしてその威力たるや。
(今の時代にこんな事ができる呪術師がまだいたなんて。誰だろう…)
建国祭も迫っていた大神殿では、新たに囚人達を管理する神官を用意できず、強制労働をさせられていた同胞達は、仕方なく作業場から牢獄へと移された。その際、隷属の首輪も外された。
これはチャンスだ。恐らく建国祭が終わるまではこのままだろう。建国祭の期間は信徒達の出入りも激しくなる。牢破りは建国祭期間で決まりだ。
王国の神殿が崇めている龍神アプトとは、正確には光の精霊王だ。そして大空を支配する天空王の二つ名もある。
万物の根源である魔素は、この世界の精霊でもあり、魔素や精霊に属性があるように、精霊の王には属性がある。火の精霊王、風の精霊王…というように。
精霊王は神ではないとは言わないが、神官の大半は自分達の祀るものの正体すら知らない。皮肉なものだ。
リュカらがそれを知っているのは、大昔、リュカの先祖が崇めていた闇の精霊王であり、地底を支配する冥界王ヴェールテの教えがあるからだ。
ヴァイデンライヒ王国は頑なに龍神を崇める。
だがヴェールテは言った。この世に神とは、ひとつだけではないのだと。
アプトは光でヴェールテは闇。
それは善と悪とを分かつものではない。どちらが欠けても、世界は成り立たない。
そして自然には諸々の神と精霊が宿る。それが美しく調和して、世界を織り成すのだと。
己を盲信するな。他を盲信するな。思考の固定は停滞を生む。
心の眼を啓け。常に感じ、思考しろ。その間も世界は流動している。
人は生まれ、生き、死ぬ。
物は作られ、使われ、壊れる。
其の移ろいを嘆くな。
生は歓びで、死は哀しみではない。
世界は巡り、また新たに生まれ変わる。
光は闇を生み、闇もまた光を生む。
生と死、破壊と再生は、ただの状態に過ぎない。
魂は循環し、情念は果てず揺蕩う。
其は永遠なり。
それが、王国の神殿に“邪教の徒”と迫害される、リュカら“ヴェールテの民”が守り、信じるヴェールテの教え。
神殿は、アプトが単なる“精霊王”であることは、許せないのだ。その遥か高みに、世界神であり始原神ソランが、ソランの神性から分かれた光の神シュペーアが、闇の神レーニシュが、原初の三神として君臨することを認められない。
そして永い眠りにつくソランに代わり、精霊王達を束ねるためにまた、ソランの神性から分かれたエルフの祖、ハイエルフのレヒカがいることを。
ヴェールテの民は、解放の時に向けて周到に準備を整えていた。
そんな折、大神殿には“聖女”がやってきたのだ。
「王都神殿の地下監獄にいたエルーシアの聖女は、大神殿に移送されたそうだな」
『はい。そのように内通者からは聞いております』
牢獄の空気孔から入ってきたいつかの黒い烏は、粗末な長椅子に座ったリュカの足元に降り立ち、報告を続ける。レジスはリュカを追って、大神殿への潜入を成功させていた。
内通者というのは、王都神殿にいる、とある特級神官のことだ。
エルーシアの聖女と噂される少女が、異端とされたリュカの同胞達のように王都神殿の地下監獄に囚われていると、先日その者からの情報があった。そして彼女はすでに首位神官によって、神都に移されたのだと。
内通者は特級神官であり、名門高位貴族。完全に彼を信用している訳ではないが、どうやら彼の背信行為の行動原理も、何故か神殿と自らの家門への復讐によるもののようだし、互いに利害が一致する限り、利用させてもらおう。
「暗殺部隊が襲撃し、聖女を略取してきたのは、グリューネヴァルト侯爵邸だと言っていたな」
『はい。…何か?』
「いや……なんでもない」
ふとよぎった一抹の不安が消えないリュカは、烏を見送った後、まさかとは思いつつ、聖女がいるという首位神官の小神殿に潜入することにした。
そこは今まで、避けていた場所だった。
そして現在。
地下監獄に囚われたままのリュカの元に、イザベラの所へ送っていた眷属の黒い鼠が戻る。寝転んでいた長椅子に上ってきた黒い鼠を手の甲に乗せて眺めた。
首位神官は今夜、聖夜祭の儀式で不在だ。ならばちょうど良い。リュカの能力は夜と相性がいい。
さすがにあの魔素眼は厄介だ。だからこそ、あの場所は避けていた。慎重に眷属を潜入させなければ、すぐにあの眼に見破られるだろう。本当は先ほども危うかったのだが、彼は思いの外、聖女に気を取られていたようだ。
(建国祭は、あと二日。時間がない。今夜、潜入しよう。)
グリューネヴァルト侯爵邸から拉致されてきた、エルーシアの聖女だというあの銀色の髪の子は、恐らくニカだ。孤児院に来たあの日は、髪色を偽装していたのだろう。首位神官メルヒオーアには“ユーリヤ”と呼ばれていたようだが。
彼女の首には隷属の首輪があった。そしてあのぼんやりとした様子。催眠の影響下にあるようだ。もしかしたら、すでに洗脳されているのか。まずは会って、それを確認しなければ。
そしてあの、虹色の魔素の光に包まれた、不可思議な浮遊現象。
「姫、か…」
彼女は、“どこの姫でもない”と言っていたが。
「まさか、エルーシアのお姫様だとはね」
“こんな子供に何ができる”と、あの日のリュカが嘲笑ったのは、本当は彼女ではなく、傍観するしかなかった、いや、傍観することを選んだ、無慈悲で無力な自分だったのかもしれない。
――俺はリュカ。また、会える?ニカ。
――うん。また、会えるよ、リュカ。
薄暗い牢獄の中、壊れそうな長椅子の上で寝転がりながら、リュカは“宵闇の眼”とも呼ばれる星屑の眼を細めて、ふっと破顔した。
◆◆◆◆◆◆
《メルヒオーア》
ここは大神殿の荘厳な謁見の間。王城にある玉座の間にも勝るとも劣らない豪奢な白亜の間だ。
神殿において最も神聖な黄金が白い壁を華やかに装飾し、掛けられた紫色の垂れ幕には、金糸で刺された見事な龍神の刺繍が彩る。
「大神官様がお見えになります」
控えていた神官が先触れした。
メルヒオーアは広い謁見の間にて跪き、胸に交差した両手を当てて頭を垂れ、大神官の訪れを待つ。さわさわと衣擦れの音や人の座る気配などの後、しばらくして声をかけられた。
「待たせたか、メルヒオーア」
頭上から張りのある声が謁見の間に響いた。確か年は八十前後であったはずだが、年齢を感じさせない意外にも若い声だ。そしてその外見も。
「滅相もございません、猊下。ヴァイデンライヒの祝福があらんことを。首位神官メルヒオーア、御前に罷り越しましてございます」
「うむ。楽にせよ。…して、その後、聖女の様子は如何か」
「はい、猊下。催眠を緩めた結果、意識も回復いたしました。ただ、未だ会話などはできてはおりませんので、もうしばらく様子見が必要かと」
「そうであるか」
「…………」
しばらく小声で話す声が聞こえた。側近と何か話しているようだ。
「そなたの眼では、どう視た」
(そなたの眼、か。)
つまり紫眼ではどう彼女が視えるのか、だ。
「はい。首輪が魔素を吸っていますので、聖女を取り巻く魔素は、今はうっすらとしか視えません。ですがあれがなければ恐らく、多くの魔素に守られているかのように視えるのかと。やはり彼女は女神に愛でられし存在であると、私は思います」
「ふむ。魔素に守られているか」
「メルヒオーア様、それはちと過言なのでは?」
食えない様子が滲み出た声が聞こえた。
大神官との会話を遮り、割って入ってきたのは、ケンプフェルト家門の側近だ。
「本当に女神の加護があり、その子供が魔素に守られているというのであれば、そのような催眠状態などにはならないのではないでしょうか。それともかの国の女神の力とは、その程度のもの、ということか」
メルヒオーアがそちらを見ると、大神官の隣に控えた金髪の中年男性が、ケンプフェルト特有の火の魔素の瞳に冷笑を含ませ、見下ろしている。
彼は白い上級神官用の神官服を纏い、メルヒオーアが首から下げている紫色の頸垂帯と同じような白いストラを下げている。
ケンプフェルト家とは、王室との繋がりも強い公爵家で、その家門には魔術師団長と国王の第一側妃が、そして第一側妃の子には、第一王女アドルフィーナがいる。
ケンプフェルト家は火の魔素の影響が強く、魔力が高い。故に魔術師団にはその一族が多く在席しているのだが、彼は例に漏れず炎の適性であり、神聖魔法は使えない。
しかし家門の力とは強いもので、神聖魔法が使えないにも関わらず、彼は神殿にて第三席次の特級神官であった。
そして大神官の信頼厚い側近でもある。何故なら現大神官であるアロイジウスの家門名もまた、ケンプフェルトであるからだ。
彼、マティアーシュ・ケンプフェルトは、大神官アロイジウス・ケンプフェルトの息子であり、イザベラ・ケンプフェルトの父である。
と、されている。
メルヒオーアは壇上の二人を仰ぎ視た。二人の体内に流れる魔力を。
息子のマティアーシュはケンプフェルト家門の血が濃く表れ、孫とされるイザベラはアロイジウスの血が……アロイジウスの魔術因子が隔世遺伝的に受け継がれた、ということか。
恐らくこれも、知っているのはメルヒオーアだけだろう。
“大神官が実は白魔術師”だ、なんて話はどこからも聞いたことはない。そして“催眠の法具”という精神属性の魔導具は、今の大神官の時代に作られた物。
同じ紫眼である第五席次であるオスヴァルトにも、これらは視えているのだろうか。
もしくは、彼女は孫ではなく、娘である可能性もあるのでは?と、メルヒオーアは密かに思っている。何故なら、遺伝のみで継承される魔術因子のこともあるが、イザベラはある日突然、アロイジウスが大神殿へと連れて来た子供だったからだ。
大神殿では、イザベラはマティアーシュの私生児で、それを大神官が見つけて連れて来たのだと噂されている。だが高魔力を誇る魔術師は、年齢に関わらず身体機能も若く保たれるのは常識。不可能なことではないのではなかろうか。
魔術因子のことだけを考えると、それを受け継いではいないマティアーシュの方が、本当にアロイジウスの子なのか、とすら思えてくる。
そして…
メルヒオーアが調べた限り、ケンプフェルト家の家系には、精神魔法の魔術因子を受け継ぐ要素が見つからなかった。
だがもしかしたらアロイジウスの母親、もしくはそれ以前の代のケンプフェルト家の誰かが、少数部族である精神魔法適性を持つ白魔術師をどこかから見つけ出し、迎え入れていて、それについては家門の機密なのかもしれないが。
メルヒオーアはこのことについては、一切誰とも話したことはなかった。腹心であるリヒャルトとも。
「エーリヒ・グリューネヴァルトとは天才と聞いていたのだが。まさかあのような失笑ものの通告を出してくるとは。無礼で頭のおかしな奴め。…やはり人づての噂とは、当てにはならんな。それも過言だったということだ」
「私の能力に懐疑的……ということでしょうか、マティアーシュ神官」
「…………」
マティアーシュの顔が一瞬歪み、大神官の耳元で何かを囁く。
「メルヒオーア。そなたを疑っているのではない。気を悪くするな。ただ…他にも紫眼持ちに視てもらい、判断するというマティアーシュの意見も悪くはない。我々は、対応を迫られているのでな」
「対応、ですか?エルーシアに返還するために聖女を預かったのでは…」
するとマティアーシュがかすかに鼻先で笑い、片方の口の端を上げた。
(自分は知っていると言いたいのだな。小物め。)
「なっ…」
マティアーシュが目を見開く。
メルヒオーアも何かおかしくて、つい口の端が上がっていた。どうやら彼はそれを目敏く見ていたらしい。
「猊下。恐れながら、聖女の返還を反故にすれば、エルーシアは強硬手段に切り替えるのではないでしょうか。それに対し、何か対案はあるのでしょうか」
「ではメルヒオーア様は、グリューネヴァルトは無視して良いとお考えということですね?」
マティアーシュは揚げ足を取るべく、ここぞとばかりに目を剥いた。
彼の方こそ、グリューネヴァルトの通告など、先ほど愚弄していたばかりであろうに。
「そういう訳ではありません。ですが神殿の姿勢としては、侯爵邸襲撃は認めないのではなかったのですか?それとも、認めるのですか?その前提がまずは覆らない限り、そのような発言は出てこないと思うのですが?マティアーシュ神官」
「ぐっ…」
再びマティアーシュは悔しそうに顔を歪めた。
「メルヒオーア」
「は。猊下」
静かなアロイジウスの声が聞こえ、メルヒオーアは身を謹む。首から下げた神殿序列最高位を示す絢爛たる金のストラが、魔導シャンデリアの明かりに煌めいて見えた。
「そなたの懸念は最もよ。だがすぐにエルーシアに聖女を渡さなかったのは、今の聖女を見た彼らがどう出るかわからないからだ」
「はい…」
それはメルヒオーアも憂惧するところだ。それ故、首輪を外し、催眠を解くことを一度進言したのだが、それは通らなかった。
聖女の力と報復を恐れているのだろうか。それで今は緩和の段階を踏んでいるところなのか?
「聖女を拉致したのは、あくまで王都神殿の独断だ。そう双方に明かして、折衝するのも手ではある。事実、大神殿は監禁されていた聖女を保護したのみ。…双方知っているとは思うがな。だが、それは神殿の非を認めるということ。そうなれば、神殿は窮地に陥るのも、また事実」
(それは確かにそうだが…)
「それにな……事態はもっと複雑なのだ」
アロイジウスは髭をたくわえた顎をなでる。
(もしやグリューネヴァルト以外にも、どこかからの容喙でも入ったのだろうか。)
「全く。…猊下。大神殿に紫眼持ちは他にもおります。早速、聖女とやらに会わせてみましょう。ご判断はその後でもよろしいかと。私にお任せを」
「ふむ。そうであるか。ではそなたに任せよう。マティアーシュよ」
マティアーシュが大神官に畏まった。
大神官との謁見を終え、メルヒオーアは判然としない気持ちを抱えたまま、謁見の間を下がった。
投稿前にはまた文字数が増えてしまって、頭を抱える…
なので、入れる予定だったエピソードを次話に送ることにしました。
そうしたら余裕が生まれて、またちょっとだけ別のエピソードを入れたいな…という気持ちが。でもやめよう。だめだめ。
しかしこれでも初期の頃より十分長い。
タイトルも変更したので、あれれ?と思った方。ごめんなさい。(2)ではなくなりました。
それから、白の魔術因子のお話は、ちょっとややこしかったでしょうか。伝わったかな。
ツクヨミ様も昔は饒舌でしたね。
ヴェールテの教えもまだちょっと明かすのは早いかなと思いつつ。えーい。
この世界の神様のことも。今回は難しいお話が多かったですね。
私達の世界でも、神様は国によって名前や立場が変わったり、同一視されたりしています。時代によって、初めは偉大な神であったのに、後世では悪神と言われたり。
各国の神話も、違う神様のお話のはずなのに似通っていたり。そんなものなのです。きっと。
前回の更新日のアクセスが思ったより少なかったので肩透かしを食らい、またしょぼん。
なんだかこんなに…あれだとどうせならもう書換えたい気持ちも出てきて。その時は他サイトで別に上げれば問題ないのかなとは思うのですが、そうするとこちらの進行が遅くなるから。この神殿騒動が一段落してからならいいかな?
何はともあれ、反応をくださる読者様を大切にしたいと思います。
ちなみに今回はまだ建国祭初日の午前中の出来事。まだまだこの日は深夜まで長いのです。
では、また次回。
◆追記◆
画像は地下監獄にいるリュカ