196.神都アーベライン大神殿
「神官様、最近変な噂があるようなんですが、ご存知ですか?」
「噂ですか?」
大聖堂の手前で、とある神官は老婆に声をかけられた。足を止めて老婆に向き合う。
すると老婆は辺りを気にする素振りを見せ、声を潜める。
「実は…神殿は私達を洗脳しているって言うんですよ。他にもなんだかいろいろと良からぬ話を聞くんですが……まさかそんなわけがないですよね?」
神官は用意していた笑顔を貼り付けた。実を言うと、密かに食傷気味であった。
「困ったことです。変な噂もあったものですね」
「そうなんです。おかげでうちの息子も、もう神殿に通うなって最近うるさくなって。でも今日は建国祭でしょ?こっそり抜け出して来たんです」
「…………」
神官の表情が曇る。
「あ!」
「大丈夫ですか?足元に気をつけて」
ふらついた老婆を神官は優しく支えた。
「ありがとうございます、神官様。膝を悪くしてからは階段を上るのも大変で。でも以前は立ち上がるのもやっとだったのが、お陰様でこうやって出歩けるようになったんですよ。だからちゃんと龍神様には、お礼のお祈りを捧げないと」
「それは良かったですね。龍神のご加護が信心深いあなたにありますように」
老婆は微笑んで、神官と一緒に大聖堂までの階段をゆっくりと上り始めた。
それは微笑ましい光景だ。
神官の左手には白い魔晶石のついたアミュレットが着けられている。その手で老婆の背中を支えてやり、首の後ろの肌に触れて、ほんの少し、魔力を流した。
リーン……リーン……
ここはヴァイデンライヒ王国の神宿る聖なる都、神都アーベライン。その中心地、大神殿。
荘厳なる大聖堂の祈りの間に一歩足を踏み入れると、そこには涼やかな鈴の音色が響き渡り、誰もが皆、魂が清められるような感覚に酔い痴れる。
広い聖堂の天井は高く、眩い魔導シャンデリアに照らされた白亜の壁と、黄金の装飾が美しく壮大で、絶えず鳴らされる澄んだ鈴の音色が、祈りの空間いっぱいに鳴り響き、訪れる信者達を柔らかに包み込んでいた。
――ヴァイデンライヒの祝福があらんことを――
建国祭当日。
並べられた長椅子に座る信徒らが、両の手を胸で交差させ、その身を捧げるかのように目を閉じ、熱心に祈る。
両脇には初代王に仕えた使徒の彫像が並び、埋め込まれた紫色の魔晶石の瞳が、敬虔な信徒らを見つめる。それはこの王国の高位貴族の祖先の姿だ。
その彫像の一つひとつが、ヴァイデンライヒに与えられた雷魔法と神聖魔法を行使する様子をそれぞれに象っている。
正面の祭壇の奥には大きなステンドグラス。
着色された色鮮やかなガラスで描かれているのは、天空の支配者、龍神アプトの御体が大空を覆い、この聖なる地にて初代王ヴァイデンライヒに神託を下された場面である。
ステンドグラスの手前には、両の腕を広げた初代王ヴァイデンライヒの神像が、黄金色の瞳で見下ろしている。それに向かって皆が祈りを捧げる。
信徒の首の裏にはそれぞれ、小さな魔法陣が浮かび上がっていた。ある者は手の甲に、ある者は腕に。それぞれ肌の露出する部分のどこかに魔法陣が現れている。
だがここにいる者達は誰も、それを疑問には思わない。ただ、専心祈りを捧げるばかりである。
月に一度の市民開放日には、信徒ではない者達にも門戸は開かれ、大神殿の入口にて、わずかなお布施で神聖魔法を受けられる。代わりに大聖堂で感謝の祈りを捧げて帰るようにお願いされるのだ。
立ち寄った祈りの間では、法具の鈴の音が鳴らされている。言うまでもなく、神聖魔法を受けた時点で法具のアミュレットによる魔法陣は仕掛けられている。
そうやってまた、信者は増えていくことになる。
鈴の音で呼び起こされた魔法陣は、洗脳された者には見えない。見えてはいるが、見えないと洗脳されるのだ。それは信者同士も同じ。
鈴の音色は周波数によっていくつかの種類がある。洗脳具合、洗脳する内容によって魔法陣と周波数を使い分けている。その種類の魔法陣が視認できるかどうかすらも。
その全てを管理するのは、王国の神殿のトップである大神官なのである。
◆◆◆◆◆◆
ヴェローニカはぼうっとしながら、目の前に出されたスープを飲んだ。
久しぶりの食事だった。子爵邸で目覚めた日のようだ。
「起き上がれるようになったようですね、ユーリヤ」
金色の髪。紫色の瞳。美しい少年だ。この人は私をユーリヤと呼ぶ。
少し前に、こんなことを言われた。
「君の名前は、ユーリヤというのかい?」
ユーリヤ…?誰?
「君の指輪にそう書いてあったよ。これはエルーシアの古代宗教文字だね。やはり君はエルーシアの生まれのようだ。つまり、女神エルケに寵愛されし御子、正真正銘の聖女だ」
指輪?そう言えば指輪の内側に何か書いてあった。あれはエルーシアの文字、古代宗教文字とかいう特殊な言語で、だからエーリヒにも読めなかったのか。でもどこか見覚えのある文字だった。前世の世界の文字だろうか。ロシア語…かな?
ユーリヤか。それが私の本当の名前。
ユーリヤ…
誰がつけた名前なのかな?親?それとも。
古代の宗教文字。エルーシアは宗教国家だという。…また、宗教か。
女神に寵愛されし御子ね。それはありがたくて涙が出るね。親にも寵愛なんてされたことないのに。
つまりここの人達は、私が聖女だからさらったという訳だ。
でも。エルーシアで捕まるならわかるけれど、なんでヴァイデンライヒの神殿に捕まったんだろう。
目覚めたら牢獄からは出されていて、寝心地のいいベッドの中だった。
剥がれた爪も神聖魔法で治され、元のように生えた。こびりついていた血も、汚れた身体も綺麗になって、服も替えられていた。
この世界の貴族はなんでも使用人に手伝ってもらうから、これが当然なのだろうけれど。
そもそも私は他人に触れられるのが好きじゃない。
侯爵邸でも自分でできることはなるべく自分でしていた。
でも。髪を結うのはリオニーに任せていた。いつも楽しそうに上手に私の髪を結い上げてくれるから。それが私も嬉しかった。
◇◇◇
「ヴェローニカ様、ヴェローニカ様!」
「どうしたの、リオニー?」
「ふふふ…」
リオニーはブラシと髪飾りやリボンを両手に持ちながら、ヴェローニカに近づいてくる。
「今日は、“ツインテール”にしましょ!」
「…ツインテール…」
ツインテールとは、あの、ヲタク達が泣いて喜ぶ選ばれし者の髪型なのでは?
あの、「あんた、◯カァ?」で、お馴染みの…
いや、あれは正式には、ツーサイドアップというらしいが。だとしても。
「い、いや…でもね、リオニー…」
「はーい、座ってくださいねー、ヴェローニカ様ー」
「あ、あのね、リオニー…」
「なんですかー?」
「私は、ツインテールは…似合わないと思うの」
「そんなことないですよ!ね?ヘリガ」
「きっとお似合いになります」
「ほら!ね?ウルリカ」
「似合う以外に感想などあろうか」
二人はうんうんと頷いて、リオニーのやる気を煽る。
「でも…ね、リオニー…えーと…」
「はーい、動かないでくださいねー」
「あぁ…」
◇◇◇
皆はどうしているのだろう。心配、しているだろうな。
身体のだるさと、勝手に拉致された不満と、断りもなく身体に触れられる不快さと。いろんな感情からまだ一言もしゃべっていないけれど、この人はそれが催眠状態にあるからだと思っているみたい。
もしかしたらそれもあるのかもしれない。何もかも億劫だ。スープを飲むのも面倒くさい。
この感覚には覚えがある。まるで鬱状態のようだ。
ヴェローニカはもう一口、スープを口に運ぶ。それを目の前の彼は黙って見ていた。
何を話しかけても返さないからだろう。
温かく、旨味と塩気のある優しいスープが弱った体にしみる。喉を通り、空っぽの胃に落ちていく。ほわりと、温かくなる。
あれ?
どうしてユリウスは泣いていたんだろう。
どうして、今までそれを考えなかったのか。
ヴェローニカは急に胸がざわついて苦しくなる。指先が冷たくなるのを感じた。
侯爵邸の皆には、何もなかったのだろうか。
聖職者だとしても、有無を言わさず子供を他所の家から奪い去るような人達だ。その子供を地下牢に鎖で繋いで監禁するような団体だ。宗教団体がまともじゃない類例など、前の世界でもいくらでもあったじゃないか。
目の前のこの人が優しく接してくれているからといって、その団体全てが肯定される理由にはならない。
人は善だと信じたい。
それで何度裏切られたの?過去世で表裏のある人達をどれだけ見てきたの?盲信してはいけない、考えることを放棄してはいけないと、自分で言ったくせに。
あの夜、どうやって私を拉致したの?バルコニーからあっさりとさらえたの?誰もそれには気づかなかったの?
じゃあどうしてあの時、ユリウスは泣いていたの?
私がいなくなったことにあとから気づいて泣いていたのが、念話で聞こえたのだと思ってた。
でも、それなら……なんでユリウスの声が、今は聞こえないの?
ユリウスは、ちゃんと、元気でいるの…?
私を守ろうとして、傷ついたんじゃ…
◆◆◆◆◆◆
《メルヒオーア》
大神官の命を受け、あの日メルヒオーアは王都神殿を訪れた。
神官に聖女の居場所を尋ねたが、話ははぐらかされた。無駄な時間稼ぎを…と、メルヒオーアは神殿内を探知する。そして地下監獄に、微弱だが不思議な魔力を感知した。
薄暗い地下監獄の長椅子に横たわっていた白銀色の少女は、薄汚れて指先は血で穢れ、首輪と枷をつけられたまま数日放置されているようで、痛ましいほどやつれた様子で蹲っていた。声をかけてもただ瞬きを繰り返すだけで、メルヒオーアの言葉には反応を示さなかった。
こんな状態でも、薄い魔素が彼女を包んでいる。
エルーシアの聖女。女神エルケの寵愛されし御子であり、神の子。
確かに王国の神殿で崇めているのは、この王国の初代王ヴァイデンライヒだ。そして神託の龍神アプト。だがだからと言って、他の神を蔑ろにするなど。
相手が邪神や禍津神の類であったり、アプトと対立している神だというのならわかるが。あれから調べた限り、そんな言い伝えはない。
あくまでアプトはこの大陸の、ひいてはこの世界の厳格なる龍神。
南の大陸にある技術先進国カレンベルクなどでは、アプトは神としての格は低く、原初の光の神シュペーアの不在を埋めるべく生まれた、光を司る精霊という解釈のようだが。
この大陸は遥か昔、魔獣の脅威に晒されて、人間達はわずかな安全地帯と豊穣の土地を巡る不毛な戦乱を繰り返していた。それをアプトは見過ごせずに、ヴァイデンライヒに神託を告げ、大陸の混乱を平定させようとした。
対してエルケはエルーシア地方に降り立った慈悲の女神だ。土地神とも言えるのかもしれない。
どちらもか弱き人間の嘆きに応えて、遥かなる高みから降りてきてくださった尊き神。
神話の通りに神々が実在するのなら、同じ大陸に司る彼らに、面識がないとは思えない。
ならばこのような扱いが、許されるはずがない。
何故、そんなこともわからないのか。神を敬い、祀っておきながら、神の怒りを畏れないとは。
メルヒオーアは彼女の枷を外し、傷ついた手足を治癒し、大神殿に戻ったのちは巫女達に禊をさせた。催眠状態を少し緩めると、しばらくは軽い傾眠状態であったが、ようやく起き上がれるまでに意識が回復した。
今彼女はメルヒオーアの目の前でスープを飲んでいる。まだやつれた様子ではあるが、見慣れない銀色の長い髪、新雪のような穢れなき真っ白な肌、水晶のように輝く清らかな青銀の瞳の少女。まるで雪の精のような姿だ。
確かにエルーシア神話で読んだ、女神エルケの少女時代のような御姿。まだどこかぼんやりとして見えるが、それが一層、彼女の非現実的な神秘さを誘う。
こちらから話しかけてもたまに視線を合わせてくれるだけで、その瞳は宝石のように無機質で一切の感情も見せないし、まだ一言もその声を聞かせてはくれなかった。
(彼女はどんな声で語るのだろう。どんな風に笑うのだろう。彼女は、どんな人なのだろうか。)
彼女の青銀色の瞳は、高位貴族に多い氷属性を持つ水色の瞳とは、また少し輝きが違う。見ていると吸い込まれそうなほどに澄んでいて、ふと我を失いそうになる感覚がメルヒオーアにはあった。彼女の心の向こう側に入り込みそうな、そんな不思議な感覚が。
メルヒオーアは彼女の周りを漂う淡い魔素を見つめる。
こんなにも鮮やかな魔素を纏う人間をメルヒオーアは視たことがない。それでもどんどんと首輪に吸い取られていく様子が視えるのだ。これで首輪がなかったのなら、一体普段はどれだけの魔素を纏っているのだろうか。
(本当はこのような扱いは。…いや、だが、これは大神官様の意向。自分は首位神官なのだ。従わなくてはならない。だが彼女を無事にエルーシアに返還するまでの間、なるべく彼女が冷遇されないように立ち回らなくては。)
つい先日も彼女の眠る部屋に不審者が侵入したばかりだ。それを受けて、今は守りの厚いメルヒオーアの居住区に移動している。
大神殿が聖女の存在を知ったのは、あまり国交などなかったエルーシアからの聖女返還要請があってからのことだ。
エルーシア神国からの寝耳に水の非難と抗議に、初め大神官は聖女の存在など知らないと伝えた。ところがあちらは武力行使も辞さないという、強い態度を示した。
そのため、首位神官であるメルヒオーアが王都神殿に派遣されたのだが。
あとは聖女を返すのみ。
だがここで、また新たな難題が降りかかる。
昨日の夕刻、グリューネヴァルト侯爵令息から大神殿へ、以下の通告がなされた。
『神殿の神官らに告ぐ。
侯爵家からは王室と司法院へ神殿を告発する訴状が出されたはずだが、一向に返答がないのはどういう了見か。
用件は一つ。
私が人事不省に陥っている間に、我が邸宅から不当に拉致した私の婚約者を速やかに返せ。
今夜中に返答し、返還せよ。
さもなくば、そちらへ自ら迎えに出向く。
その際、妨げるもの、立ちはだかるものあれば、全て壊し、殺す所存。
命が惜しくば、おとなしく彼女を無事に返すことだ。
私の邪魔は許さない。
これはそちらが招いたこと。異論はあるまい』
神官達は侯爵令息エーリヒ・グリューネヴァルトからこの通告を受け取っても、誰も深刻に受け止めようとはしなかった。一介の貴族令息に、この大神殿を揺るがすことなどできないと、ここにいる誰もが思っているからだ。
そして「世迷い言を」と嘲笑った。それ故、未だ返答などはしていない。
だが彼は、いや、侯爵家は、聖女が王都神殿にはもういないというだけではなく、神都の大神殿にいることを突き止めている。それだけでも侯爵家の情報収集能力は優秀と言えよう。
それを受け、エーリヒ・グリューネヴァルトが目覚めたと知った大神官と側近達は、すぐさま暗殺部隊を集めて大神殿に配備した。さらに周辺都市の神殿騎士を召集。あるだけの吸魔の魔導具も準備したようだ。
これは完全に迎え撃つ態勢のように見える。
そもそも神殿の見解としては、侯爵家への襲撃を認めてはいない。
今回の相手は名門高位貴族だ。今までの力なき弱小家門ではない。一度非を認めれば、責任追及、賠償、それに加えて神殿の威厳と権威、存在意義が揺らぐ、大きな負担が発生する事案だ。
大神官は素知らぬ顔でそのまま秘密裏に聖女をエルーシアに返還すれば、事態は収まると踏んでいたようだ。さすれば拉致したはずの少女は、本当に神殿にはいないと言い張れるのだから。
ところがエルーシアは建国祭に合わせて、王城と大神殿に堂々と使節団を送ってよこした。かつては国交などなかった国がだ。だからこんなにもややこしい事になっているのだろう。
大神殿は王都神殿の犯した不始末に、どう収拾をつけるべきなのか。この事態に関わらなければ良かったのではないのかと、大神官の周囲に侍る側近達ならば思っていそうだ。
となると、これから“スケープゴート”探しが始まるのかもしれない。
古代この大陸で、人々の罪を負った山羊が荒野に放たれた儀式。人々の不満や憎悪を逸らすための、哀れな“身代わり”として。
「起き上がれるようになったようですね、ユーリヤ」
「…………」
相変わらず、彼女は何も発しない。そしてカチャリとスプーンをテーブルに置いた。
「もう、食べたくありませんか?ずっと口にしていないのですから、少しでも食べてください、ユーリヤ」
彼女はどこかを見ていて、全く視線をこちらに向けてはくれなかった。
(催眠は緩めたはずなのに、どうしてまだこんな状態なんだろう。魔力を吸われているからか?それとも……絶望からか?)
彼女を拉致する際に、従者を一人殺したと聞いた。
紫眼の従者だったという彼は、彼女を取り戻すために、王都神殿が投入した暗殺部隊の大多数をたった一人で殲滅し尽くしたという。
(紫眼か。きっと彼女の魔素に惹かれたんだな。その彼を殺すとは。それを見てしまったのだろうか。催眠状態だったはずなのだが。もしそれを見たのであれば、彼女は心を開いてはくれないのかもしれない。)
『ユリ…ウス…』
はっとした。彼女が初めて声を出した。しかも魔力が乗っている。
「ユーリヤ、魔力を込めないで。落ち着いて話してみて」
『ユリウス……なんで、泣いてたの…?』
彼女は悲しそうな声で言った。
違う。声は出ていない。これは思念の声だ。彼女の唇は動いてはいない。
メルヒオーアは周りを確認した。給仕をしていた巫女達は不思議そうな顔をしている。
(彼女の声が聞こえているのは私だけか。)
『ユリウス……どこ…?なんで、返事をしてくれないの…?』
(ユリウスとは紫眼の従者のことか。もしかして、彼らは念話で会話できるのか?それが繋がらないから不安がっているのか?…だが、彼は、もう…)
『どうして聞こえなくなったの…?何か、あったの?…ユリウス……遠いから聞こえないの?もしかして、怪我をしたの?それとも魔素が足りないの?ユリウス?ユリウス…』
(魔素が足りない?どういう意味だ?)
彼女はすっと立ち上がり、振り返ってふらりと歩き出した。
「待って、ユーリヤ。どこに行くの?」
メルヒオーアがテーブルを立ち、周りにいた巫女に目配せすると、頷いた巫女が彼女を追いかけていった。彼女は窓辺に向かって歩いていって、窓を開け放ち、そこに上がろうとし始める。
「ユーリヤ!だめだ!早く止めろ!」
「は、はい!」
巫女達が彼女の身体を掴み、押さえ込む。すると彼女の身体の周りに、急激に魔素が集まり出した。彼女は窓からさらに身を乗り出している。
「メ、メルヒオーア様!このままでは落ちてしまいます!」
メルヒオーアは彼女のもとに駆けつけて、その手首を掴んだ。窓枠を掴んでいたのを邪魔されて、彼女がメルヒオーアを振り返る。だが青銀の瞳は彼を捉えてはいなかった。ただ鏡のように、彼を映し返すだけ。
その瞬間、ほんの少しだけメルヒオーアの意識がぼんやりと霞がかった。しかしすぐにギュッと目をつむり、己を取り戻す。
再び彼女を確認するが、やはり焦点は合わず、どうやらまだ催眠状態にあるようだ。
『ユリウス、泣かないで……今、行くから…』
「ユーリヤ!落ち着いて!ここは三階なんだ、落ちたら死ぬよ!」
その時だった。身体に異変を感じた。ふわっと浮いた感覚がしたのだ。通常では考えられないほどの濃い魔素に身体中が包まれて、それが淡く虹色の光を放っている。
下を見れば、床からほんの少しだが浮いていた。彼女と、それを押さえている巫女二人にメルヒオーアが、確かに宙に浮いていたのだ。
「え?…きゃあ!」
「メ、メルヒオーア様!」
その騒ぎを聞きつけて、扉前に待機していた神殿騎士が部屋に駆け込んできた。
「メルヒオーア様!」
何事かと騎士達が駆けてきて、それまであった幻想的な光がふっと消えたと思ったら、急に浮遊感がなくなり、ドタンと床に落下した。
彼女の身体がゆらりと崩れていったのを見て、メルヒオーアは慌ててそれを支えようと手を引いたが、巫女達がしがみついていたのでそれもかなわず、彼女達は一緒に床に倒れてしまった。
「大丈夫?ユーリヤ?」
すぐさま彼女を抱き起こすと、どうやら気を失ったようだ。
「メルヒオーア様、い、今のは…?」
やってきた騎士達もメルヒオーア達が宙に浮いていたのを目にしたようだ。
「わからない。とりあえず、口外しないように」
「は、はい」
メルヒオーアは騎士に彼女をベッドまで運ばせた。
◆◆◆◆◆◆
《イザベラ・ケンプフェルト》
最近メルヒオーアはあのエルーシアの聖女とかいう子供につきっきりだ。
大神殿に連れてきた当初はイザベラも入れる区域の部屋にいたはずなのだが、どこかの誰かがその子供に何かいたずらをしようとしたらしく、今はメルヒオーアの居住区域である首位神官の小神殿に移されている。
あれではさすがのイザベラも手は出せない。…もとい、様子を見に行くことができなかった。
「もお、つまらない。メルヒオーアはどうして会ってくれないの?」
「仕方ありませんよ、イザベラ様。メルヒオーア様は建国祭でお忙しいのですから。建国祭の期間は、昼は信徒の前で礼拝があり、夜も聖夜の祈りの儀があるのですよ?」
イザベラの居室にて。側仕えのテレーゼがいつものように主人のイザベラのご機嫌をとりながら紅茶を淹れて、お気に入りのデザートをテーブルに用意する。それに手を伸ばしたイザベラは、控えていた教育係に尋ねた。
「それ、私は出なくてもいいのよね?」
「はい。聖夜祭の儀式は深夜になりますから」
「メルヒオーアも私と同じ未成年なのだから、他の者達に任せればいいじゃない。王都の貴族だったら、まだ学院にいる年齢でしょ?学院では王城のように毎晩、夜会が開かれるって聞いたの。私もドレスを着て、華やかなパーティーに出てみたいわ。…ねぇ、高位貴族のお屋敷なら、パーティーをしてるんじゃない?お誘いはなかった?テレーゼ」
「招待状なら届いていましたが、イザベラ様が出席なさる訳には…」
「あら、どうして?まだデビュタントをしていないから?」
「イザベラ様。神子姫であるイザベラ様が夜の祈りの儀に参加されないのは、成人されてはいないからなのですよ。なのにパーティーに出るなど、なりません」
奔放な発言をしたイザベラを教育係が諌めた。
(ほんとこの女、いちいちうるさいわね。)
この教育係はお小言ばかりだ。イザベラは辟易していた。だがここでため息をついてもまたうるさかろう。
「メルヒオーアも未成年じゃない。今夜だけでも一緒にパーティーに行けないかしら?一度くらいならいいでしょ?」
「メルヒオーア様は首位神官なのですよ?そういうわけにはまいりません。それにあのお方は未成年とは言え、大変優秀ですので、もう学院での基礎課程などはとうに修めておいでなのです。執務も成人の神官と同じように…いえ、それ以上に立派に務めておいでです。イザベラ様もメルヒオーア様を模範となさるのが良いでしょう」
悪びれない教育係の発言に、我慢していたため息がつい漏れていた。
「だから、それは何度も聞いたわ。私だってがんばってるでしょ」
「イザベラ様は基礎課程も大事なのですが、早く古代宗教文字を習得しなければなりません。せめてそろそろ聖典原書の序文が読めるようにならなければ。メルヒオーア様はイザベラ様のお年の頃には、すでに原書を諳んじられていましたし、今では他国の古代宗教文字で書かれた資料すらもお読みになられるのですよ」
神子姫に対する期待の大きさからか、彼女の声には落胆の気配があった。
「はぁ……うるさいわね…」
「…はい?」
「イザベラ様…」
イザベラの不機嫌な声にテレーゼが気づいた時にはもう遅かった。イザベラの淡い桃色の眼に魔力が宿る。
『だから何?お前は誰に向かって口を利いているの?私はお前の言うように“神子姫”なのよ?この王国の大神官であるお祖父様の孫なの。お前ごときが偉そうに説教していい相手じゃないわ。それにメルヒオーアは将来私の夫になって、大神官の座を継ぐのだから。古代宗教文字くらい、読めて当然じゃない』
「…はい…仰る通りです…」
教育係の目は虚ろになる。
『生意気な口を利いた罰よ。自分で平手打ちしなさい』
「はい、イザベラ様…」
バチン!
『私がいいと言うまでよ』
「はい、イザベラ様…」
バチン!…バチン!
痛みも怒りでさえ、何も感じてはいない様子で、ただただ言われた動作を、教育係の女は機械的に繰り返す。
◆◆◆
《リュ???・ヴェー?テ》
(またやってる…)
黒い鼠はいつものように、部屋の隅の調度品の陰に隠れ、イザベラ達の様子を窺う。何を隠そう、先刻あった首位神官の小神殿での理解し難い騒ぎも、例外なくこっそりと盗み見ていた。
はたから見れば、イザベラは可憐な少女だ。しかしああやって、気に障った者に罰を与えているところを、鼠はもう何度も見ている。皆があの外見に騙されているのだ。
傷ができたり、腫れたりしても、あとで神聖魔法で治療すれば問題はない。そして彼らには、イザベラに危害を加えられたという記憶も残らなかった。
この神殿には、信者を洗脳する魔導具がある。精神属性の白い魔晶石をはめた魔導具だ。だがその魔導具は上級神官に厳重に管理されている。最近は不穏な噂が増えたせいか、聖堂前でやたらと使用しているのを鼠は見かけるが。
しかしイザベラのあれは魔導具によるものではない。彼女は声に魔力を乗せている。魔力を放った痕跡がその瞳に表れている。
あれは、精神干渉魔法だ。つまりイザベラの本当の魔法適性は精神属性。白魔術師である。
白魔術師の外見的特徴は白髪。ところが何故かイザベラの髪は金色。瞳は紫がかった薄桃色で、神聖魔法が使える。二属性持ちなのだ。それは知られざる白魔術師や黒魔術師にとって、実は良くある才能。
となると“神子姫”と持て囃されるのは、神聖魔法とは別の理由からだろう。彼女は精神魔法の適性を明かしてはいない。精神魔法は呪術魔法と同じように、悪用されるのを警戒される魔法だからだ。
このような隠蔽が可能なのは、この大神殿を支配している大神官の容認があるからだろう。
イザベラはまだ子供ではあるが、自分よりも魔力に劣る者は魅了魔法で操れる。彼女の身の回りを世話する従者、教育係に、崇拝する信者。皆、イザベラの魅了には太刀打ちできない。
だが、一人だけ。ここに例外がいた。彼女の正体を知りつつ、側に侍る者が。
「イザベラ様。そろそろお止めになってください。誰かに見られますよ?」
「だってテレーゼ、頭にくるんだもの。この女、いっつもなのよ?いーっつもメルヒオーアと比べるの!こんな女、魅了をかけたら思い通りにできるのに」
「大神官様に知られたらことですよ?」
「でもこれくらいどうってことないでしょ?見習い神官だったら、上位者に逆らえばムチ打ちなのよ?」
「それはそうですが。鞭打ちはあれで、精神修行の一環なのです。正式に苦行を与えるには、上級神官の許可がいります」
「ならテレーゼがやってよ。テレーゼも上級神官でしょ?」
側仕えのテレーゼが着ている白い神官服は、上級神官であることを示している。
「…イザベラ様…」
「……わかったわよ」
イザベラはしぶしぶといった感じでテレーゼに従う。部屋に鳴り響いていた痛々しい平手打ちの音がようやく止んだ。
「ねぇ、テレーゼ?あの子、殺しちゃダメ?」
「…イザベラ様…」
「いいじゃない!誰にもわからないようにするから!」
「それがバレたから聖女は今、メルヒオーア様の小神殿に移されたのですよ?」
「…次は失敗しないから」
聖女の眠る部屋に忍び込んだ下働きが捕まり、現在地下監獄に囚われている。危害を加えようとしたようだが、動機はわかっていないらしい。
「それでも、大神官様にはバレますよ」
「そうかもしれないけど……でも、あの子がいるからメルヒオーアが忙しいんじゃない。あの子が来てから、全然私に会ってくれなくなったのよ?メルヒオーアにちゃんとお願いするのはすっごく魔力を使うんだから。でもまずは会わないとそれもできないでしょ?」
「それですが。メルヒオーア様は本当にイザベラ様の魔法にかかっているのでしょうか?」
「あら、どうして?」
「だってメルヒオーア様は、あの年で首位神官になれるほどの魔力の持ち主なのですよ?」
「ちゃんとかかってるわよ。だってお願いすると、時々すごく優しい時があるでしょ?その時のメルヒオーアが大好きなの。でもメルヒオーアは魔力が高いから、かかっても無理なお願いは聞いてくれないし、すぐに解けちゃうの。私がまだ子供だからなんだわ」
「魔力量と精神力、その時の健康状態も精神魔法は関係しますからね」
テレーゼは話を聞きながら、冷めてしまった紅茶を淹れ直す。イザベラとのやりとりには慣れた様子だ。
「ねぇ、テレーゼ。もしかしたらあの子も精神系の魔法が使えるんじゃないかしら?それでメルヒオーアを魅了してるのよ、きっと。だって神国の聖女なんて言われてるんでしょ?あんな、その辺の路地裏にいる汚い子供みたいなくせに」
クッキーをかじりながら不平を言いつつ、イザベラは新しい紅茶を受け取った。
「あの子達、ほんとに汚いの。汚れた手のままで私に触るのよ?それなのに笑っていなくちゃならないし。なんであんな格好のままでいられるのかしら?私、施しの日は嫌いだわ。なんで私まで行かなきゃならないのよ」
イザベラの不満は聖女から、別の対象にまで移ったようだ。
神殿では定期的に、貧民街や路地裏に住んでいる生活困難者のための炊き出しを行っている。
施しの日の話に触れれば長くなることを知っているテレーゼは、彼女が今、本当に不満に思っていることだけを言及することにした。
「イザベラ様。聖女は吸魔され続けているのですよ?例え精神魔法が使えるのだとしても、自身の催眠さえ解けないでいるのに、そんなことができるはずもありません。ですからそんなに敵視しなくても大丈夫ですよ」
「そうかしら」
「そうです。ほら、紅茶が冷めますよ」
イザベラは不満そうな顔で紅茶にミルクと砂糖を入れ、スプーンでくるくると撹拌した。納得はいかないようだ。
テーブルの脇には、教育係の女が頬を腫らしてぼんやりと床に座り込んだまま、二人の会話は続く。それは異様な光景だ。
イザベラは椅子に深く腰かけて、浮いた足をプラプラと揺らす。口うるさい教育係が控えている普段は見せない仕草。
「お祖父様にお願いすればなんとかならないかしら?」
「それは無理だと思いますよ?」
「どうして?」
「今年の建国祭にはエルーシアから大主教が来ているのです」
「え?大神殿に?王城じゃなくて?エルーシアとは仲が悪いんじゃなかった?」
「そうなのですが、今回は聖女返還のためにいらしたそうですよ?」
「ふーん。聖女がいることを知ってるのね。じゃあ、もう大神殿に来てるの?」
「大神官様は大神殿へのご滞在をお勧めしたのですが、高級宿の方にいらっしゃるようです。異教の神の神殿に滞在はできないと」
「だから知らなかったのね。じゃあ、もう返してあげればいいじゃない。そしたらすぐに帰るんでしょ?」
「大神官様には深いお考えがあるのでしょう」
「もう。殺してもダメ。返してもダメ。お祖父様は何を考えてらっしゃるのかしら。メルヒオーアに会いたいのに」
イザベラは無邪気にテーブルに頬杖を両手でついて、ぷうと頬を膨らませた。
(やっぱりあの子を狙ったのはこいつだったか。)
監獄にいる犯人の様子から、見当はついていた。
目的を果たした黒い鼠は、自身の影の中にトプンと身を沈め、その影もろとも跡形もなく消えた。
自分で書いておきながら、超ヤバい組織…
安価な月一施術日に、気軽に体を治しに一歩足を踏み入れたらお終いです。
この後、最後の視点キャラのここに至るまでの回想が続くのですが、入り切らないので次回でお許しください。なので今回はまだキャラ名に?を入れておきました。誰かはおわかりかとは思いますが。
どんどん文字数が増えて、今回は12000も突破。それでも書き込み足りない。はわわ…
勢い余って次話も仕上がりましたので、更新日を検討中です。
読者様がリアクションを押してくださるのを見るのが楽しいです。ありがとうございます。
◆追記◆
画像はアーベライン大神殿