195.前夜祭
《コンスタンティン・フォン・ヴァイデンライヒ》
その夜、王城の絢爛豪華なパーティー会場では、明日からの建国祭のために集まった王国貴族、そして各国の大使が前夜祭の宴に興じていた。
『皆様、ご静粛に。栄えあるヴァイデンライヒ王国国王陛下、王妃殿下のお成りでございます』
「「ヴァイデンライヒに栄光あれ」」
衛士の先触れに会場の者達が最敬礼で国王と王妃を迎え、王国貴族達が声を揃える。
会場正面に聳えるように長く続く大階段。最上段の奥の扉から王妃とともに姿を現した国王コンスタンティンは、碧眼をすいと巡らせ、フロアを俯瞰する。そこにリーデルシュタイン公爵フリードリヒを認めた。
王国の有力者であり、均衡の中立を貫く五大公爵家筆頭、眠れる獅子フリードリヒ。誰もが認める由緒正しき高貴なる出自、異母妹であり美しき公爵夫人ジークリンデ。そして豊かな才能を持ちながら、その美しさは生きる神像とまで持て囃される、時代の寵児、伯爵ジークヴァルト。
忌々しき、リーデルシュタイン…
(やはり素直には連れてこなかったようだな。まあ、想定内だ。)
コンスタンティンは冷ややかな笑みを浮かべた。
『楽にせよ』
拡声魔導具を通した国王の合図で、会場の貴族達が姿勢を正す。静かな会場にさわさわとさざ波のように広がった衣擦れの音が、集った者達の多さを伝え、王国の影響力を知らしめる。仰ぎ見た階上に揃い立つ王と王妃は、中年とは思えない若さと美貌に溢れていた。
『皆、よく集まってくれた。今年も王国の偉大なる始祖ヴァイデンライヒを称える建国祭を無事迎えられることを慶ばしく思う。今夜は前夜祭だ。あまり気負わず楽しんでいってもらいたい』
会場からは拍手が起こる。国王が腕を挙げると、それはピタリと止んだ。広い空間の静けさが、緊張を呼ぶ。
『この輝かしい建国祭に相応しく、本日はめでたい報告がある。建国祭の……恐らく最終日になるだろうが、我が王国の重鎮であるリーデルシュタイン公爵家の嫡女シャルロッテ嬢のデビュタントを王城にて行う予定だ』
おお…と会場がどよめいた。
「シャルロッテ嬢がお出でになるのか」
「王室自ら公爵家の令嬢のお披露目を手助けするとは」
「リーデルシュタイン家のシャルロッテ嬢はヴァイデンライヒの至宝とも言われる美貌の持ち主と聞くぞ」
「これはまさか……あの噂は本当なのか?」
毎年収穫祭の時期に、貴族学院卒業の夜会にて行われるはずのデビュタントが、ひとりの公爵令嬢のために急遽前倒しで王城の建国祭にて行われるという発表は、王国貴族だけではなく、外国からの来賓の興味も引いたようだ。シャルロッテの美しさは、今や国内外に広まっているとわかる反応。
目を剥くフリードリヒを階上から見下ろし、小気味良さを感じながら、コンスタンティンはとどめを刺そうと口を開いた。
『ええ、陛下。誠におめでたいお話ですこと』
『王妃…』
突如、王妃が遮った。
この計画は恐らく王妃に最後まで隠し通すことは不可能であっただろう。それでも慎重に事を進めてきたと自負している。ここまできて、今さら邪魔立てなどできないはずだ。だが、心中穏やかではないであろう王妃の華やかな笑みを目にして、コンスタンティンの胸には嫌な予感が過ぎった。
『待て――』
『今回わざわざ王室を挙げて、一令嬢のデビュタントを行うのは、ひとえに陛下の可愛い姪に対するお慈悲でしょう。そして陛下の後継、王太子ジルヴェスターに、この慶ばしき晴れの日に新たな妃を迎えようという親心でもあります。…そうですわよね?陛下?』
その声は拡声魔導具により、会場の隅々にまで行き渡った。
王妃エリーザベトは妖艶に微笑む。
(やられた…)
「なんと!シャルロッテ嬢をジルヴェスター殿下の側妃にか!」
「そうでしたな。殿下とはお従兄妹同士。これは美男美女でお似合いでございますな」
「お待ちください、王妃殿下!そのようなお話、リーデルシュタインは…!」
階下からフリードリヒは声を張り上げる。
『あら?建国祭の佳き日に、まさかこのような誉れを辞退する気ではありませんよね、公爵?ヴァイデンライヒの偉業を称えるこの建国祭で、次期龍神王の花嫁となれるなど……これは陛下のご厚恩であり、大変な名誉ですよ?ねぇ、陛下?』
『…そうだな』
賽は投げられた。さしものコンスタンティンもこの場は肯定するほかない。
(軌道修正なら、今後まだ可能なはずだ。)
『それとも、公爵には……何か含む所でもおありなのかしら?』
「…っ…」
巧妙に王手をかけられたフリードリヒは、階下からエリーザベトを睨み上げるしかできない。
「これは異なことを!」
二の句を継げられぬフリードリヒの前に出たのは、小公爵ジークヴァルト。
魔導シャンデリアの綺羅びやかな照明と会場の衆目を一身に集めた彼の右腕が、たおやかに胸元を押さえ、階上の王族に恭しく敬礼する。
「我が父、公爵は、リーデルシュタインは聞き及んではいないと申し上げたまで。恐れながら、シャルロッテにはすでに検討中の縁談がございます。王家のご厚情は幸甚の極み。なれど、それを蔑ろにする訳にもまいりません。それに求婚とは……急がず、焦らず。一見、迂遠にも思える段取りも、愛しい花嫁への大切な配慮でございますよ?」
追い詰められたはずの立場で、ジークヴァルトは薄い唇に優雅な弧を描く。それは会場の男女が思わずため息をつくほどの傾国の微笑。
「ほう…」「まあ…」あちこちからそんな吐息が聞こえる。
「妹御思いであられるな」
「あんな風にジークヴァルト様に想われてみたいものです」
「迂遠に思える段取りも、愛しい花嫁への大切な配慮。まさにその通りですわ」
会場の雰囲気は一気に、若い伯爵――次期公爵であるジークヴァルトに味方したことを、王と王妃は察した。
『ジークヴァルト……いえ、伯爵?この王国の王太子を差し置いて、一体どこの家門が名乗りを上げているというのです?』
「それは……後のお楽しみとしておいてください。それほどお待たせはいたしませんよ」
『…………』
エリーザベトの翡翠の眼が冷たく細められた。
ヴァイデンライヒ王国の正統なる歴史と龍神王の血族たる威厳を誇示する建国祭を明日に控えた前夜祭。その場に集うは、国内外の錚々たる特権階級。
その宴の会場の大階段を挟んで、階上には国王と王妃、階下にはフリードリヒ公爵と伯爵であり小公爵ジークヴァルトが、互いに譲らぬ鋭い視線を交わしていた。
◆◆◆◆◆◆
《フランシス・ギュンター》
「先の報告の通り、魔術刻印を確認しました。定期的に服用している丸薬も、魔術刻印が消費する魔力を補うためのものだと思われます。丸薬と刻印の模写はこちらです」
青髪の青年は、折り畳まれた紙片を押さえるように、バルコニーの柵の上に小瓶をコトリと置くと、あとは整えられた王城庭園を見下ろした。隣に佇む男に話しかけながらも、目を合わせようとはしない。
一方、バルコニーの柵に背をもたれながら、金色の髪の男は悠長に紫煙を燻らせる。
「そうか。…ふぅ……どこにあったんだ?」
「…腰です」
「ははっ。それは確かに人目にはつきにくいな。隠蔽刻印でも、通す魔力量によっては浮き上がる場合もある。だが腰ならば、いくら魔法を発動しても誰も気づかないだろう。…あとは肌を晒す相手が、こんな物を持っていなければ…だが」
男は葉巻を片手に、手にした小さな円筒状の魔導具を眺めた。それから発せられる特殊な光は、隠蔽されているはずの魔術刻印を浮かび上がらせる。
「なるほどな。だから王も王妃も本物が欲しいって訳だ。今までの報告の中で一番面白い情報だな。…さっきのリーデルシュタインとの小競り合い、見たか、フランシス?互いの切実さがわかり合えずにいがみ合っている姿が、何とも笑わせるよな。まだ前夜祭だというのに、奴ら、面白い余興を見せてくれる。ここのところ、王国内には不穏な動きも見られるようだし。ふはは……金髪にも満たない魔力量の分際で、龍神王を名乗るとは。ヴァイデンライヒも堕ちたものだな」
男は葉巻を燻らせ、その煙を吐いてから、痛快そうに嗤った。
葉巻は王国ではまだ珍しい代物だが、海を越えた南の地カレンベルクでは、上流階級の者達の代表的な嗜好品の一つだった。
「本当に奴らは無知蒙昧だ。アプトは光の精霊王に過ぎないというのに。フランシスは知ってたか?カレンベルクで本当の神とは、畏き原初の神々のこと。“始まりの神”ソランは創造と力の根源。そこから光と再生を司るシュペーアと、闇と破壊を司るレーニシュが生まれた。なのに王国の奴らは始原神である三神を崇めない。“始まりの神”を堕ちた悪神とする輩までいる。…そしてついにこの国は、神殿と王室の腐敗により、アプトにも見放された。これが笑わずにいられるか。ははっ」
王城でこのような会話ができるのはもちろん、音声遮断の魔導具を使用しているからだ。
バルコニーのカーテンは閉じられている。それは夜会において、バルコニーが使用中であることを意味する。
一応それまで男は、柵を背にしてバルコニーの入口を見張ってはいたが、野暮な者でなければそこを覗こうなどとはしない。それが貴族の暗黙のマナーだ。
カーテンの向こう、前夜祭の会場からは、ダンスのために奏でられている優美な曲と貴族達のざわめきが聞こえる。
「しかし。時間がかかったな」
「神経質な方なのですよ。なかなか深くは眠らないのです」
「ふぅん。意外だな。薬を使えば良かったではないか。毒や媚薬なら商会からいくらでも揃うだろ?なんせ、王妃サマも御用達なんだからな」
「…神経質だと言ったでしょう?あの方は口にするものや些細な変化にも敏いのです」
「葉巻も吸わないのか?それに混ぜればいい。お前は錬金術師なんだから、お手の物だろ」
男は青年の青髪を眺める。あれは本来、水の適性を示す色だ。だがそれも偽装に過ぎないことを男は知っている。彼が小さな傀儡を操ることが得意なことも。例えば、蜘蛛のような…
「匂いが好みじゃないと」
「気取りやがって。…王太子はただの放蕩者だと聞いていたのだが…」
青髪の麗しい青年に、男はチラリと流し目を送る。
庭園をライトアップする魔導灯に照らされた彼は、男というには華奢な体つきであった。その横顔は繊細な美しさがある。細い首筋には、きめの細やかな肌に赤い痕が浮いて見えた。
男は煙を吐き、バルコニーの柵の上に吸っていた葉巻を押し付けて火を消した。持っていた魔導具と柵の上に置かれた丸薬入りの小瓶、それと紙片を懐に仕舞う。
「…お前の手管でも簡単にはいかなかったのか?」
男が青年、フランシスの顎を捕え、くいと正面を向かせた。ハッとした美しい顔に影が落ちる。
「やめてください」
フランシスは逃れようと顔を逸らし、相手の胸元を押し返した。
「どうした?」
「誰かに見られたらどうするのですか?こんな、所で…」
「だからカーテンを閉めているのだろ?」
押し返していた手首を取られ、強引に腰を引き寄せられる。意に反して、フランシスの体はすんなりと上背のある男の胸に抱かれた。
「っ!」
「見られたら、旧交を温めていたとでも言えばいい…」
抱きしめられて密着した体に男の昂ぶりを感じて、フランシスはつい声を張り上げていた。
「私に手を出せば殿下が黙ってはいませんよ!」
「…………」
その沈黙に、まずい…とフランシスは焦る。
「随分手懐けられたものだな、フランシス。そんなにジルヴェスターは良かったか?」
不機嫌な声。
腰にあったはずの男の手が下がり、挑発するように尻に触れた。
「っ…」
(落ち着け。)
「…何を仰っているのですか。ここは王城だと言っているのです。警戒すべきは夜会に出席している貴族だけではない。衛兵も巡回している。…ほら…」
フランシスが庭園に視線を落とすと、バルコニーの下、少し離れた場所に確かに人影が見えた。
「それに、殿下は敏いと言ったばかりではありませんか。…痕を残されても困るのです」
「バレるかどうかを愉しむのも、ありだろ…?」
体を寄せ、男はわざとらしく耳元で囁く。その掠れた声、かかる吐息にフランシスの背筋がゾクリと疼いた。反射的に身を縮める。
掴んでいた男の服をキュッと握り締めて、押し返したい衝動を抑えた。きっとそれでは男の矜持を傷つけ、逆効果だ。
「…あえてリスクを冒す意味がわかりませんね。あなたはそれでいいかもしれませんが、私はどうなるのですか?」
気丈に聞こえるように努める。
「…わかったよ。そういうことにしておいてやる。だからそう怒るな。時間もないことだしな」
嘆息しながら、しぶしぶと男はフランシスを離した。
「そうですね。あまり長居は危険です。他の貴族も逢い引きに利用しますから。私が先に出ましょうか?」
「…先に行く」
「はい。ではお気をつけて」
慇懃に畏まったフランシスを不服そうな表情でしばらく睨み、男は踵を返した。それを見て、息を漏らしそうになるのをフランシスはまだ堪える。
「フランシス」
呼びかけられて、再びそちらを見た。緊張で唾を呑み込みそうになり、冷静を装う。
「裏切るなよ」
「ご冗談を」
フランシスは冷笑する。
「…………」
またしばらく沈黙が落ちた。フランシスの真意を見定めるようにして、男はようやく立ち去っていった。
足音が聞こえなくなり、数呼吸後、フランシスは細く息を吐いた。男の纏う葉巻の香りを吸い込んだ、肺の中の空気を全て出し切るように。
◆◆◆◆◆◆
王城のとある貴賓室。
パーティー会場では前夜祭もたけなわではあったが、白の祭服を纏った者達はそのためにはるばるヴァイデンライヒ王国まで赴いた訳ではない。
「まさか王室とリーデルシュタインが反目していたとは。リーデルシュタインは中立と聞いていたのですが…」
上座に座った高年の主教が先刻目にした出来事について言及すると、周囲の者達も各々の意見を述べ始めた。
「今までヴァイデンライヒとの交流などなかったのです。我々が情報に疎くとも仕方がありません」
「だがこのままでは、どちらかとしか接触できないのではないか?」
「それでもあれを見る限り、王妃殿下は噂通り立場がお強いようです。神殿にもリーデルシュタインより影響力があることでしょう」
「ふむ…」
ある程度意見が出たところで主教が再び声をかけた。
「残念だったのはグリューネヴァルトが前夜祭に出席していなかったことです。聖女様との関係を伺いたかったのですが。こうなったら直接赴くほかありません」
「主教様。話によると、今は令息が昏睡状態だとか」
「それは神殿による襲撃でですか?」
王都の貴族街にある高位貴族の邸宅を、神の代理人となるべきはずの神殿が襲撃したというだけでも衝撃的な話だったのだが、と主教は動揺する。そのような組織に聖女が囚われてしまったのであれば、その安否は…
「いいえ。そうではないようです。話によると…」
王都ヴァイデンに入ってから集めた情報を皆で共有していると、使いに出したもう一人の主教が戻ってきた。
「王妃殿下との謁見の許可が下りました。明日にはなりますが」
「そうですか。皇妃殿下とメレフ枢機卿猊下のお陰ですね。どうか姉君とお父上に感謝をお伝えください、エドアルト主教」
「いえ。カレンベルクの口添えあってのことですから」
謁見の申請をしてきた主教エドアルトが、この使節団を率いる主教ネストルに畏まった。
「確かに。国交自体が少ない我々がこの御縁を繋げられたのは、大国カレンベルクの仲介のお陰ではありますが、だからこそ今回のことは、そのカレンベルクと交易を行っているメレフ家の功績と言っても過言ではありません」
「そうですね」
「ネストル主教様の仰る通りです」
ネストルの言葉に頷く同胞達を見ながら、エドアルトは微笑む。
「もちろん皆様のお気持ちはお伝えしておきますが、まずは明日の謁見に備えましょう。我らは何としてでも、聖女様を救出し、母国にお連れしなくてはなりません。大神殿に向かった大主教様達の方もどうやら難航しているようですし…」
「そもそも我らの聖女様への拝謁を、何故王国の大神官ごときに拒否する権利があるというのか!王国はきっと我らを異教徒と軽視しているのですよ!」
「左様です。聖女様を拉致するなど、言語道断ではありませんか。ハイデルバッハに駐留させている聖騎士団をもう動かすべきです」
「皆、落ち着いてください。そのために明日、王妃殿下に執り成していただけるよう謁見するのですから」
「それはそうなのですが…」
場が熱くなりかけ、ネストルが一同を抑えた。武力行使は手を尽くした後の最終手段である。
「あの…聖騎士団の前に現れた方というのは、本当にエルケ様だったのでしょうか…?いえ!疑わしいという意味ではないのです。…もしそれが本当なら、私も女神のご光臨を仰ぎたかったと、思ったものですから」
輔祭の一人がそう発言した。
ネストルら使節団は、武装し行軍する聖騎士団よりも一足先に転移魔法陣を使ってハイデルバッハを通過したので、遺憾ながらその奇跡に立ち会うことはできなかった。
その報告を聞いてからというもの、何度も話し合ったのだ。本当に女神が再臨されたのであれば、何故今、聖騎士達の前に?それは聖騎士達を鼓舞し、“聖女を取り戻せ”という啓示だったのでは?と。
女神が聖騎士達の前に降臨した同日、エルーシアでは各地に女神が現われて、草花や農作物が急成長するという奇跡が起きた。そしてその恩恵は今も広がり、まだ雪が解けたばかりだったエルーシアには、待望の春が訪れた。
近年の不作による民の不安は解消され、女神と聖女の顕現という僥倖に感謝の祈りを捧げているという本国からの知らせに、ネストルらは沸き立った。
「ここ数年は干ばつや冷害などの被害により収穫量が減少していたが、女神のご加護により今年は豊作になるだろう。まさに奇跡だ」
皆が頬を紅潮させて、女神の奇跡を称える。
「であればこそ、我らは女神の神意を正確に受け取り、ただ啓示の通りに行動しなければならないのです。皆、肝に銘じなさい」
「「はい、主教様」」
エルーシアの聖職者達は、上座に坐すネストルに厳かに身を謹んだ。
◆◆◆◆◆◆
《エーリヒ・グリューネヴァルト》
王城では様々な思惑蠢く前夜祭が行われている中、グリューネヴァルト侯爵邸では――
「と、いう訳で……ヴェローニカ様の前でその話をしてしまったので……恐らくそのことが原因なのではないかと」
「つまり、ヴェローニカは……私がその女の所に泊まったと……今も思っていると?」
「…ええ。…ご存知かと」
「それで、幻滅したと?」
「そう、なるかも……しれませんね」
「コンラート」
「…はい…」
コンラートは身を硬くし、エーリヒの言葉を待つ。
「…誤解だ…」
「はい?」
「私はその女を抱いてはいない」
「……え?……」
はぁ……と顔を覆ったエーリヒは盛大にため息をついた。
『余計なことを…』
再び声に魔力が混じる。
ちらりとディーターを見た。
あれは怒られるのがわかっている顔だ。そして表情以上にわかりやすい魔力の流れだった。
『コンラート。あれはただのアレクシオスの手先だ。手を取ったのも情報収集の一環だった。そうしないとアレクシオスからの密書を手放さなかったんだ』
苛立ちを感じ、頭を押さえたまま軽く目を閉じた。
自然とまた魔力が高まっている。有り余る魔力をまだ上手く制御しきれていないことを、目覚めてからずっと、エーリヒは自覚していた。
コンラートが息を呑む気配を感じた。エーリヒの苛立ちとともに再び魔力が高まったことを周りの者達も敏感に感じとって、緊張し始めたようだ。
今まで以上に魔力が豊富な上に感覚も鋭敏で、探知魔法を意識しなくても周囲の詳細が手にとるようにわかる。さらに何やら、他人の魔力の流れまで視えるようだ。
魔力の流れ、魔素の濃淡、魔素の色合い、空気の流れに、人の息遣い。脈拍、体温、発汗。筋肉の緊張と弛緩。そしてそれらの情報による、人の感情。
感覚的に捉えられるこれら全ての情報が多過ぎて、取捨選択に少し手間取る。
これが紫眼の特性か。
魔力が高まるとさらに雑然とした情報が荒波のようにエーリヒを襲い、頭痛がしてくる。煩わしさに苛立つと、また魔力が増して悪循環だ。
慣れるまでは苛立ちを抑えねば。
しかし。
そんなくだらないやりとりのせいで、ヴェローニカは心を閉ざしただと?
ツクヨミは言っていた。
“ヴェローニカは過去世の夢を時折見て、心を痛めている”と。“私のことが重なった”と。“心を殺せば穏やかに過ごせると思った”のだと。
つまり男性遍歴でのトラウマか。私の行為でそれを想起させてしまったと?
ヴェローニカに、私は“節操がない”と思われたのか。そして過去にもそうやって、誰かに悩まされたということか。
そのせいでヴェローニカは、あんな風に…
あんなに愛おしく微笑んでくれていた彼女が。失望し、私を、厭って…
あの日、倒れる前に話し合った時の、エーリヒを見つめる青銀の瞳がふいに過ぎった。
“自分がいなくなれば愛する方を邸宅に呼べる”と、何の憂いもない瞳で言ったヴェローニカ。だから自分の部屋をああもあっさりと、婚約者を言い張るクリスティーネに譲ったのだろう。エーリヒとの続き部屋である、特別なあの部屋を。
――エーリヒ様……幸せになってくださいね…
幸せ?…幸せだと?
エーリヒは胸を押さえて握りしめていた。
胸が狂おしく締めつけられて痛む。
握った衣服が軋みをあげていた。
これが、“切ない”という感情なのか。
寂しいような、悲しいような、それでいて苛立つようでいて、もどかしくて。どうにも胸が苦しくなる。とにかく歯痒くてやるせない。
自分ではどうしようもないほどに、不快な胸の痛みにじわじわと蝕まれていって、このまま呑み込まれそうで…
だが徐々に沸々と怒りが沸き起こる。目を閉じたまま、堪えるように噛み締める。
ヴェローニカを傷つけた、過去の男?
心を殺したくなるほどの傷を、ソイツに負わされたのか。
一体、どんな野郎だ…
知らない男といるヴェローニカが、ふと脳裏に浮かんだ。それは夢の中でみた、大人の姿のヴェローニカと、自分じゃない、誰か。
…くそ…
エーリヒがボソッと口の中で罵ったのが、ずっと緊張で感覚を研ぎ澄ませていたコンラートには聞こえた。
普段は穏やかに品良く微笑み、そのくせ裏では無慈悲な言動をすることもあるが。こんな卑俗な言葉を吐く主を、彼は見たことがない。
今日のエーリヒはやはり冷静さを欠いている。
ディーターに対する罰を想像して、コンラートは密かに冷や汗を流した。どう言って宥めれば効果的なのかをぐるぐると悩み始める。
先ほどのギルベルトを参考にして…だがこれはそのヴェローニカのことで…だがしかし、あれが誤解であったのであれば、自分が間に入り、なんとか二人を執り成せば…
コンラートはエーリヒを前に、己の思考に忙しい様子。だが当のエーリヒもそれどころではない。
『お前ら、あれはただの情報提供者だったんだぞ。ただの、アレクシオスの寄越した女で、ただの…』
はぁ……
訴えるために遮音の風魔法を解いたが、それ以上はもう口に出すのも不愉快で、本当に心底からの嘆息を漏らす。長く、長く、苛立ちを散らすように息を吐いた。
『とにかく、話をしただけだ。それを何故ヴェローニカにそのような余計なことを伝えたんだ、ディーター。お陰で…』
地を這うようなぞっとする声で名を呼ばれたディーターがビクリと慄いた。だがそれを把握する前に、とある思考がエーリヒを占める。
待て。
それで、心を乱したのか?
私が、女を抱いたと思ったから。
もしかして、ヴェローニカは……嫉妬したのではないのか?
その考えに至ると、それまで感じていたエーリヒの胸の苦しみが、一瞬でふわっと軽くなった。同時にじわりと何かが湧いてきそうな、初めて感じる奇妙な感覚に戸惑いを覚える。
その湧き上がる未知の感情を自覚して急に赤面し、また咄嗟に顔を覆った。
俯き、口元を押さえる。
鼓動が高鳴っているのが自分でわかる。口元を押さえている手が、全身が、脈動で、かすかに震えている。
まずいな、これは。抑えないと。何かが、溢れそうだ…
「エーリヒ様?」
「…………」
返事をする余裕などない。
私の行動で過去を思い出したのではあるのだろうが、私に対して何の感情も持っていなければ、気にすることでもないのではないだろうか?
それとも、誰がそうしてもやはり傷つくのか?彼女は繊細だ。そういうこともあるのかもしれない。
そう言えばプロイセ城で、色仕掛けをされた私を愉快そうにユリウスがからかっていたが、あの時のヴェローニカはどこか不服そうだった。笑い続けるユリウスを冷めた瞳で見ていた。
そうか。それほどまで関わりたくはない話題なのか。ならば、嫉妬ととらえるのはまだ尚早か…?
それに、そうだな。誤解とは言え、それでヴェローニカを傷つけたのは、事実。
逆の立場として考えれば、ヴェローニカが他の男と一夜を……だめだ。考えたくもない。
ヴェローニカの男性遍歴か。そうか……そう、だよな。
それは男の自分にもあるように、大人の女性であればあって然るべきなのだ。そんな当然のことすらわかっていなかった。
くそ。確かに冷静ではいられない。
ヴェローニカの愛した男……?
一体どんなクソ野郎なんだ…
ああ…
考えたこともなかった。こんなこと。
彼女を取り戻したら、許しを請わなくては。
誤解ではあるが、そんな風に認識させて彼女を傷つけてしまったのだから。
だがそれにはまず何としてでも、暗示を解かなければ。でなければきっと、謝罪にもならない。
もしも暗示が解けたら。
君は私を見て、どんな表情をするのだろうか。
…気が早いな…
「ふふ…」
「エーリヒ様?大丈夫ですか?」
「…ああ」
笑いが漏れていたようだ。だがお陰で苛立ちも落ち着いたか。
コンラートが訝しげに見ている。
あの夜、情報のためにはついて行くべきかとも迷ったが、どうしても気が乗らなかった。その理由をアレクシオスの思惑に乗るのが癪に障るからだと思っていたのだが。どうやらそれは違ったようだ。
今ならわかる。そして今なら、確信を持って、もう過たない。
取るに足りん些細な情報のために誘いに乗らなくて良かったな、と。エーリヒは正直、あの夜の自分の選択に、心から安堵した。
実はずっと入れたかったんですよね…
何って…?
BL要素です。
ですが、不快に思った方。申し訳ありません。
BLに限らず相手が誰であれ、情事に関しては好みがあるかと思うので、避けていたところはありました。どこまで攻めていいのかが難しいところで。
でも現実を思うと必要な要素だとも思うのです。それなしでは愛は語れない。
今こんなことを言えるのも、肯定してくださった読者様が一人でもいらしたからだと思います。
本当にありがとうございます。(この回を肯定してくださるかはわかりませんが)
よろしければまたご意見くださいませ。
今回はエーリヒ様の発言もあれでしたが、フランシスの方が上手でした。
いえ、でもエーリヒ様の言動はいつも、本当は結構あからさまなのですが、私フィルターがかかってしまうのです。フィルターかけずに直訳してもよろしいでしょうか?本当はそうしたい…
そう言えばジーク様も頑張っていたのですが、全てフランシスにもっていかれてしまいました。
タイトルも初め『王の覚醒(3)』でしたが、エーリヒ様は前夜祭に出席したキャラ達に食われてしまいましたね。
次回からは神都大神殿。ようやくリュカの正体が。
リュカの瞳の煌めきに予想していた方もいるかもしれません。あれは魔力だとエーリヒ様の時に説明したので。
でも次話に入るかは…断言は避けておきましょう。