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190.始まる聖女争奪戦


 目の前には、耳の尖った…恐らくエルフの少女が私を見上げていた。淡く緑がかった銀の髪の可愛らしい女の子。


「エルケさま、起きたの?」

『…起きた?』

「だって、エルケさまはあの樹の中でずっと寝てるんだってパパ達に聞いたの。エルケさま、お寝坊さんだね」

 よくわからないけれど…うん。確かにどちらかと言うとお寝坊さんね、私。



『あなたはどうして私をエルケ様と呼ぶの?』

「だってエルケさまでしょ?そっくりだもん」

『そっくり?……エルケ様って、誰のこと?』

 あれ?そう言えばさっきもエルケって呼ばれたような。あの、兵士達に。

 エルケって…エルーシアの…


「ハイエルフの女王さま」

 ハイエルフ?…ってことは、エルフの上位種かな?

 くりくりの淡い緑のおめめで見上げてくる。

 とんでもなく可愛いな。

『あなたはエルフなの?』

「そうだよ。ここはエルフの里だもん」




 話によると、どうやらここはゲーアノルト山のどこからしい。ゲーアノルト山とは、クルゼの山村があった裏山の険しい山脈のことだ。

 あの村の近くにエルフの里があったとは。知らなかったのは私だけ?実は常識だった?今まで一切エルフの話なんて聞いたこともない。




「エルケさまが起きたってパパ達に教えて来るね」

『え?』

 それまで一緒に座って話していたエルフの女の子が立ち上がる。

 ここがエルフの里なら私は異邦人なのではないだろうか。排斥されたりしないかな。

 ここに来る前にそんな夢をたくさん見てきたから、なんだか知らない人達に会うのが怖い。


「どうしたの?エルケさま」

『…私、知らないうちにここに来たの。だから、怒られないかな?』

「怒られないよ!だってエルケさまのこと、みんな待ってたもん。エルケさまが起きるの、ずーっと待ってたんだよ?」



 この子が慕ってくれるのは嬉しいけれど、多分私はこの子の言う“エルケ”じゃない。だって私はハイエルフじゃなくて、人間だもの。そして今は大人の女性の姿のようだが、本当は子供だ。

 それに“エルケ”というのは、エルーシアの女神の名前だったはずだ。つまりあの兵士達の言う“エルケ”でもない。

 二人の名前が同じなのは、偶然なのだろうか。


『私は“エルケ”じゃないわ。…ヴェローニカというの』

「…エルケさまじゃないの?」

『うん。…ごめんね』

「…でも、エルケさまにそっくりなのに…」

 女の子は納得がいかない様子。

『そうなんだ?』

「うん。そうだよ。とっても綺麗な女王さまなの。絵で見たの」

『そう。じゃあ良かったら、エルケ様のこと、もっと教えてくれる?』

「いいよ!」




 エルフの女の子、リーフェは私にエルケとこのエルフの里について教えてくれた。

 エルフの里は、人間には辿り着けない場所にあるらしい。だから知らなかったのね。

 リーフェはよく理解していないようだが、この山には人間達には“迷いの森”とされている場所があり、感覚を惑わせる幻想花グロウリリーに護られた“異空間”にあると親達が話していたようだ。始まりの神の眷属神である“原初の光シュペーア”が造った里らしい。

 神の庭というのは、あながち間違いではなかったということか。


 “原初”とは、以前ツクヨミから聞いた記憶がある。始まりの神の眷属だから、原初なのだろう。シュペーアを“原初の光”と呼ぶのならば、もう一人…いや、もう一柱であるレーニシュは“原初の闇”ということなのかな?

 光と闇は陽と陰とも言える。陰陽は万物の根源で相反する気。万物の根源というと、この世界での魔素や精霊の考え方にも通じる。


 ふと、大きな樹を見上げてみた。

 左右で違う魔素の光。その色合いは何色とも言い難いが対照的だ。それが上の方の枝で混じり合う。

 あれがこの世界を司る光と闇ということなのかな?




『あの樹はなぁに?』

「あれはね、世界樹。エルケさまがあそこに眠ってるんだって」

 なるほど、世界樹か。…そもそも世界樹ってよく聞くけど、どういう意味なのかな。世界の中心?世界を支える樹?

『どうやって?』

「うーん…あたしはあの中に入れないけど、シュペーアさまはあそこに入ってエルケさまに会いに行くんだよ。あの中に“精霊結晶”があるんだって」

『精霊結晶…?』

「エルケさまが眠ってる綺麗な石のことだよ。あの樹が精霊石や精霊結晶を生むの」

『樹が石を生むの?…シュペーア様って、今も来るの?』

「来るよ!こないだも来たもん!」


 眷属神と言えど、シュペーアとは神様だろう。このエルフの里には、普通に神がやってくるのか。まあ、この里を造ったのがシュペーアだというのだから、当然とも言えるか。



『シュペーア様ってどんな……神様?』

「シュペーアさま?…うーん…綺麗な人だよ?お姉ちゃんみたいに真っ白で、おめめが赤いの」

 目が赤い…

 そう聞いて、白夜を思い出した。白夜は今どこにいるのだろうか。やるべきことがあると言っていたけれど、それは終わったのかな?人化はできるようになったのかな?元気かな、白夜。


『ねぇリーフェ?白夜って白い狐を知ってる?』

「びゃくや?……知らない」

 ふるふると頭を振るさまを見ると本当に知らないようだ。

『そう』

 もしかしたらと、思ったんだけど。白夜も神獣だから。白くて赤い目なんて…本当に白夜みたい。白夜が人になったら、そんな感じなのかな。それとも白夜はシュペーアの神使なのかも。宇迦之御魂神の神使みたいに。



「でもね、白い狐は森にもいるよ」

『そうなの?』

「うん。シルバーフォックスでしょ?」

 それはきっと本物のシルバーフォックスのことかな。

 世界樹の周りの魔素と緑豊かな森を眺める。

 …いそう。


『リーフェ、シュペーア様は男の人?女の人?』

「…うーん……男の人…?」

 首を傾げるリーフェ。男か女かわからないくらいに中性的で美しいということか。

「んーん、やっぱり男の人でも女の人でもないよ。だって昔は女の人の時もあったって誰かが言ってたの」

 ああ…両性だとか、性を転換できるということなのかな。神様だから人じゃないのか。




 二人で話し込んでいると、視界の端でキラキラと何かが光った。ふとそちらを見ると、世界樹に何か実が生っている。それが少しずつ大きくなり、光輝を放っていた。

「わぁ!精霊石がなった!すごーい!初めて見たぁ!」

 ここに住んでいるリーフェでも初めて見る現象のようだ。まさか本当に樹に石が生るとは。しかも今、目の前で。

『あれが精霊石なの?』

「そうだよ。あれから妖精さんが生まれるんだって」

 え?樹から石が生まれて、今度はそれが妖精になるの?なんだか常識が崩壊する。



 話しているうちに、世界樹の実の輝きがどんどん強くなっていく。辺りの魔素が実に集まってくるのが視える。

「うわぁ!すっごくピカピカしてきたね!生まれるのかな?」

 パァッと輝きが増していき、その光は蝶々に姿を変えて羽化する。さっき庭園で見た花の蕾が膨らむようにするするとはねが広がって、その光の翅が開いた。ゆっくりと何度か羽ばたいて、樹から飛び立つ。光の蝶々がこちらに飛んできた。


「わぁ!妖精さんが生まれたぁ!」

 ふわふわと私とリーフェの周りを飛び回る。淡く光り、光の粒子を鱗粉のように振りまいていて幻想的な蝶々だ。

『イイ香リ…魔力ノ香リ…』

 ふわふわと飛び回りながら、妖精が何かを言っている。

『イイ香リ…魔素ノ香リ……光ノ香リ……シュペーア…』

 妖精もシュペーアを知っているのか。

 リーフェはシュペーアがよくここに来ると言っていた。勝手にこの秘められた里に入ってしまって、見つかったら怒られたりはしないだろうか。



「すごい!やっぱりパパとママに教えなきゃ!」

 うきうきしているリーフェを見ると、もうこれ以上引き留められない。この場所のこととか、妖精のこととか、気になることはたくさんあるけど、誰かに見つかる前に立ち去らないと。


『そう。じゃあ、私ももう行くね』

「え?…帰っちゃうの?一緒に行かないの?」

『一緒に行ったら怒られちゃうよ』

「怒らないよ、パパとママは優しいよ」

 それはリーフェだからだよ。普通のパパとママはそうなんだよ。…多分ね。

 心の中でそう返した。



 遠くでリーフェを呼ぶ声が聞こえる。

『ほら、お迎えが来たよ、リーフェ』

 可愛いリーフェと別れるのは寂しいけれど、他のエルフ達が来る前に立ち去ることにしよう。

 さようなら、小さなエルフさん。

 寂しそうな表情のリーフェを見えなくなるまで見つめていた。




◆◆◆◆◆◆




ガチャガチャ…ジャラ…


 反響するように響いた金属音。指先の疼くような痛みと足首の冷たい痛みに目を覚ますと、そこは薄暗い場所だった。

 燭台の蝋燭の灯りが石壁に揺れているのが目に入って、さっき夢で見た牢屋の光景だなと思う。

 視界に映る小さな血だらけの手のひら。ズクンズクンと拍動とともに痛みを感じる。


 やはりこちらが現実か…



 憶えているのは、バルコニーで星を眺めていたこと。もうあまりにも遠い記憶に思える。あれからずっと、永い夢を旅していたから。


 でもあれがただの夢とも思えない。きっとここはあの黒い石の下、王都神殿なのだろう。精霊達が泣いていた、あの。

 成り行きは憶えてはいないけれど、侯爵邸の皆が警戒していた神殿という組織に、バルコニーから拉致されたのだろうか。

 季節は夏に近づいてきているはずだけれど、ここは空気がヒヤッとする。金属の枷が冷たくて、手足が冷えて痛む。

 まだあの日の夜着を着たままだった。



 ……寒い……寂しい……


 微睡みの中、ユリウスが呼んでいた。

 泣きそうな彼の声に胸が痛んで、手を伸ばした。

 でも今はもう聞こえない。

 何度か声をかけたのだが、ユリウスには繋がらなかった。


 久しぶりに感じた。こんな空虚な気持ち。何だかぽっかりと穴が空いたみたい。だから今まではずっと、寂しくなかったんだって気がついた。いつも誰かが傍にいてくれたから。

 失ってから気づく幸せもある。そう知ってはいたけれど、実感はいつも、失ってから。

 なんて幸せな環境だったんだろう。夢のような日々だった。



 そうだった。思い出した。

 ただ、もとに戻っただけ。もとの独りぼっちに。

 そう思うと、少し怖くなくなるの。


 人はたくさん持っていると、奪われるのが怖くなる。でも今はもう、何もないから。

 本来の私はこうだった。ただ、この身ひとつ。



 ここは何やらいろんな匂いがする。湿ったカビの臭い、腐った臭いに獣臭。炙られたような匂いがするから、これはあの蝋燭の匂いなのかもしれない。獣脂を使っているのかな。

 ぼんやりと、そんなどうでもいいことが頭をよぎる。


 あれからどれくらい経ったのだろうか。ずっと見ていた何度も生まれ変わる夢は、本当に夢だったのだろうか。夢にしては、あまりにも痛みが鮮明だった。

 もしかしたら私は、もう何度も転生を繰り返しているのかな。




 何か気配がして、白い衣装を着た人が部屋に入ってきた。クリスティーネのような白い神官服。帯のような紫色の布帛ふはくを首に下げている。


「目覚めたのかい、ユーリヤ」

 エルケといい、ユーリヤといい、今日は何かと知らない名前で呼ばれる。名前なんて、初めはなかったのに。

 瞼が重くて、ゆっくりと何度も瞬きを繰り返す。

 部屋は薄暗く、まだ視界もはっきりしないけど、金髪のようだ。高位貴族か。



「…酷い扱いだね。もっと厚遇しているかと思っていたんだが。地下監獄に入れているとは…」


 何を言っているんだ。他人事のように。お前も神官じゃないか。


「受け答えもできないのか。…催眠が強すぎるようだね。まだ子供なのに、手加減もなしか。…まあそれだけの力はあるのだろうが…あまりにも…」

 彼は口ごもる。

「首輪がない君は、どんな風に視えるんだろうね。視てみたいよ、早く。今でさえうっすらと君の周りに虹色の魔素が視える。まるで君を守ろうとするかのようだ」



 魔素が視える?

 先ほどまで視えていた魔素は、今はもう視えなかった。あんなに鮮やかで…精霊達の優しさに溢れる世界だったのに。どこにいても精霊達が寄り添ってくれて、寂しくなかったのに。

 その魔素も今はこの首輪に吸われているのね。あの時のツクヨミのように。同じ首輪を使うのなら、神官達は奴隷商とも繋がっているのかもしれない。こんな乱暴なことをする人達だもの。




 ツクヨミは言った。

 魔素とはいわゆる精霊。万物の根源。魔素が願いを拾い、奇跡を叶え、神を肯定するのだと。


 白夜は言った。

 強く願え、と。


 なんとなく、知っていた気がする。

 強く、願わなきゃ、望まなきゃ、何も叶えられないのだと。ただいい子で待っていても、誰も幸せにしてくれやしないのだと。


 でも、自分のための願いなんて…




 私はきっと、神様は私の浅ましい心をお見通しなのだと怖かったのだ。だから今まで、私が不幸だったのは、私が幸せを願わなかったからなのだ。

 幸せになろうとしなかった。

 もしかしたら、必死に願えば、何か奇跡が起こって、幸せになれたりするのかもしれない。


 じゃあ、私は何故それを躊躇うのだろう。

 必死に願っても叶わなかったら怖いから?違う、むしろ、逆なのだ。

 叶ってしまったら、私はそれの対価に何を奪われるのだろうと、怖いのだ。そもそも幸せになる資格などないのだと。


 ただで願いが叶うはずなどない。

 全てに対価は必要だ。

 私にそれは支払えるのか。

 その対価として、やっと手に入れた幸せをすぐに失うのではないのか。


 ようやく手にした幸せを失う。

 それ以上に怖いものなどない。ならば初めから手に入れない方がいい。

 何より、望みを神に要求するに足る清廉さが、私にあるとは思えない。




 変なの…

 まだ幸せを手に入れた訳でもないのに。

 まるで進んで罰を受けたいみたいだ。自分が罪深いと。

 ああ、もしかして、助けてもらいたいのかな。助けてもらえるほど、誰かに大事に想われてるって感じたいのかな。


 必死に足掻かないと手に入らないような愛じゃなくて、誰かに自然に選ばれたいんだ。

 ただ君がいいと言われたいんだ。君じゃなきゃダメだと。

 誰か、一人でも…



 一人でもいいの……誰か……私を愛して……



 “好き”と、言われたことはある。でも、“愛してる”なんて言われたことは……本当にあったかな。

 いつ、どこでなんて思い出せないから、全くの記憶違いなのだろう。ただの妄想か。

 でもそんなの、どうせ上辺だけなのだとも知っている。



 季節のように移ろい、他愛なく裏切り、跡形もなく消える、上っ面の、愛。



 本当に私って、天邪鬼。

 確信を与えられないといつも動けない。

 白か黒か。正か否か。正義か悪か。

 私は必要とされているのか、いないのか。

 愛されているのか、いないのか。


 自分の意志はどうなの?ほんとは欲しいんじゃないの?幸せになりたいんじゃないの?それが醜いから言えないの?


 それなのに、どうしても手を伸ばせない。

 バカみたい…


 あんなに、何度も思い知ったのに。

 本当に、バカみたい…




「どうしたの?大丈夫…?魔素が乱れてる」

 あれ?この人、意外に若い声だ。

 視線を向けると、こちらに近づいてきた。

 白い神官服はクリスティーネのものよりも金糸の刺繍が豪華に施されている。


 まだ若い。金髪紫眼の成長期を窺える美しい少年だった。紫色の瞳はユリウスよりも淡く、やや青みが強い。

 紫眼とは、フェリクスのように明瞭に魔素が視えるはず。それで先ほどの発言か。

 フェリクスよりは若いだろう。口調が大人びていてわからなかった。今の案じるような声は、変声期前のようにも聞こえる。普段はわざと低めに出してるのかもしれない。



「君の手、血だらけじゃないか。ここに連れてこられてから治療もされていないの?」

 白い神官服の少年は、気遣うように優しくヴェローニカの手をとった。

「っ…」

 指先が脈拍を感じる度にズキンズキンと痛む。痛みと寒さで震える指には、血がこびりついていた。


「爪が…剥がれているね。まさか拷問された?…いや、抵抗したのか…」

 同情を示すような声だった。



庶幾こいねがわくは 彼の者を癒やしたまえ 我は忠実なる御身の下僕 御身に捧ぐは我が魔力 聖なる光 癒やしの御業 …ヴァイデンライヒの祝福を賜らん…』


 以前クリスティーネがエーリヒに神聖魔法を施した時に聞いた祈りの言葉だ。どうやらこれはヴァイデンライヒを讃える神殿の祝詞のようだ。

 彼の紫の瞳が淡く輝く。手のひらがほわっと温かくなって優しい光に包まれた。ズキズキと苛んでいた痛みが和らいで消えていく。


「他にも痛いところはある?今は君の魔素が弱くてわかりづらいんだ」



――あとは大丈夫か?――



 急にエーリヒの声が重なった。

 さっき夢で会えたのがほんとならいいのに。それなら彼はもうすぐ目覚めるから。もう何も心配はいらない。

 …私がいなくても…

 そう思ったら、また眠くなってきた。瞼が重い。




 向こうから、また誰かがやって来る気配がする。大勢の足音とざわめき。少年もそれに気づいて振り返り、立ち上がった。

 重い鉄の扉が軋みながら開かれる。



「メルヒオーア様、こちらにいらっしゃったのですか。ようこそ王都神殿へ。…ヴァイデンライヒの祝福があらんことを」

 おじさん達がぞろぞろと入ってきて、少年の前で跪く。


「お久しぶりですね、マクシミリアン神官長」

「メルヒオーア様。このようなむさ苦しい場所へ何故わざわざ。まずは応接室でお寛ぎを。お忙しい御身、ですがせっかくおいでなのですから、神官達もメルヒオーア様のお話を拝聴したいことでしょう。もしよろしければ後ほど信者達にも是非、説法などお願いできましょうか」


「私はこの子に会いに来たのです。…エルーシアの聖女に」


 少年の声はもう先ほどまでの穏やかで優しげな声ではなかった。その若く張り詰めた声に、おじさん達が緊張する空気を感じる。



「…左様ですか。ですがあまりそれに不用意に近づかないようお気をつけくださいませ。それは子供でも恐るべき力を持っています。シュタールでの雷雲騒動はお聞き及びでしょうか?あれはそれの仕業のようですから。それに以前、王都郊外で起きた雷撃も、それによるものかもしれません」


「そうでしたね。…だからといって、ここに連れて来てから治療もしていないというのは、どういうことですか?神聖魔術師は豊富だというのに。異教の神とはいえ、彼女は神に愛された子です。このような扱いが正しいとは思えません」

「……申し訳ございません。怪我をしていたとは。…しかしながら、仰るようにそれは異教徒です。我らの聖女ではありませんので、尊ぶというのも、いささか…」

 跪いたまま、マクシミリアンがメルヒオーアを窺うと…



「尊べと言っているのではない。最低限の礼儀を示せと言っているのだ」



「…は。申し訳ございません」

 怒りのこもったメルヒオーアの低い声に、改めてマクシミリアンが身を謹んだ。


 この様子を見るに、この少年はだいぶ高い地位にいるようだ。本当に身分制度には長幼の序というものがない。いい年のおじさん方が少年に跪く光景に、未だ違和感を禁じ得ない。

 ジークヴァルトがハインツを従えている時もそう思っていたが。

 まあでも、私のように魂は長幼が違うのかもしれないと思えばいいのか。おっさんだろうが爺だろうが、敬えない人格破綻者がいるのは事実だ。



「ここまで意識が朦朧としているのですから、枷や鎖は外しても良いのでは?手首や足首を痛めています。このような不衛生な場で放置していては、悪化しますよ」

「……しかし…それでは魔力抽出の際に、神官の身に危険が及ぶかもしれませんし、仮に逃亡を図った場合も枷があれば動きを阻めます」

「では少し催眠を緩めてください。これでは話もできない」

「……ですが…洗脳も進めませんと…」

 マクシミリアンは食い下がるつもりのようだ。


「こちらでの待遇改善は望めそうにありませんね。…ではやはり聖女は神都の大神殿へ運びます。これは大神官の意向です。今後、聖女は私が預かります。異論は一切受け付けません」

「な…お待ち下さい、メルヒオーア様!」

「異論は受け付けないと言ったはず」



 有無を言わさぬ鋭い語気にマクシミリアンは目を剥き、悔しそうに眉をしかめた。

 承服しかねる様子ではあるが、それを食い縛っているようだ。


 神都へ運ぶ?王都を出るということ?

 ぼんやりと考えながら、もうどうにも意識を保てなくなり、ヴェローニカはまた眠りに落ちた。




◆◆◆◆◆◆




 メルヒオーアは王都神殿の転移の間にて、自らの側近が戻るのを待つ。帯同している神殿騎士が聖女を抱きかかえている。細い手足をいましめていた枷はすでに外し、治療済みだった。



「メルヒオーア様。お待たせ致しました」

「リヒャルト。…あの巫女は?」

 側近の上級神官リヒャルトが近づいてきて、二人の周りに薄い魔力の皮膜が張られたような感覚をメルヒオーアは覚える。魔力や魔素に敏感な者にしか感じ取れないほどのわずかな違和感だ。リヒャルトが盗聴防止のための音声遮断の魔導具を使用したのだ。


「審問の途中で王都神殿の者に連れ去られました」

 神官に連行されたのなら、恐らくもう無事では済むまい。

 メルヒオーアは視線を伏せた。

「…何か聞けたか?」

「はい。その指輪はやはり聖女の物だと。マクシミリアンらは気づいてはいないようです」

「そうか」

「それから、どうやら彼らは聖女の魔力と血液を採取していたようです」

「魔力結晶か。神殿の研究部門に回したのだろう」

 神殿の研究部門はハインミュラーの息が掛かっている。何か非道な研究の用途に使われるのだろう。



「それと…他にも何者かが聖女の魔力結晶を手にしたようです」

「何者か?」

「誰に渡したかは記憶が曖昧なようで、もしかしたらその者が法具を使ったのではないかと」

「あれを巫女にか?」

「恐らく」

「あれは記憶の書き換えも可能なのか。そのような使い方……っ…」


 ふいにメルヒオーアは頭痛を感じて頭を押さえる。リヒャルトがそれに気づいて彼を支えようとした。

「メルヒオーア様、大丈夫ですか?今、薬を…」

「…いや、大丈夫だ」

「もう戻りましょう。ここでの用事は済みました」

「…そうだな」



 メルヒオーア達は床の真ん中に描かれている転移の魔法陣に入った。神殿騎士も聖女を連れて魔法陣に乗り、魔力を流すと空間が歪んで転移する。

 歪みが消えて見えた場所は、代わり映えのない小部屋だった。ただ、違う事は…



「メルヒオーア!」

 転移してすぐ視界に映った数人の白い神官服を着た者達の中から一人の()()の少女が駆け寄ってきて、その勢いのままメルヒオーアに抱きついた。

「イザベラ様。メルヒオーア様を呼び捨ててはなりません」

「もう、わかってるわ。…“メルヒオーア様”。これでいいでしょ?」

 イザベラと呼ばれた少女は側近達に諌められ、赤みが差した頬を膨らませた。

 彼女がいるのであれば、ここは間違いなく神都アーベラインの大神殿だ。



「イザベラ様。メルヒオーア様はお疲れですので、お放しください」

「もう、リヒャルトまで」

 しがみついていたメルヒオーアから離れると、確かに彼の表情は良くない。それでも眉目秀麗な風貌は全く見劣りはしないが。

「メルヒオーア…具合、悪いの?また頭痛い?」

「…いえ。大丈夫ですよ」

「もう、また敬語なんだから…」


 再び頬を可愛く膨らませると、後ろにいた神殿騎士が抱いている少女がイザベラの目に入った。見たことのない美しい銀色の髪。だがその格好は浮浪者のように小汚く、みすぼらしかった。

「これがエルーシアの聖女なの?…まるで乞食ね。それに思ったより子供だわ」

 拉致されて地下監獄などに放り込まれれば、誰でもそうなる。だが神官や信徒達に傅かれて育った彼女の薄桃色の瞳には蔑みが見えた。

「…大神官様から聞いたのですか?」

「うん。お祖父様がメルヒオーア…様が、聖女を連れてくるって」



 大神官をお祖父様と呼ぶイザベラは、昨今“神子姫”と信徒達に評判の少女だった。その人気はどこか異様な熱気を帯びていた。そしてその理由にメルヒオーアだけは気づいている。

 イザベラは()()の可愛らしい少女だ。だが、メルヒオーアの眼には、その()()が視えるのだ。


「…そうなのです。ではイザベラ神官。私は務めがありますので、これで失礼致します」

「え?…『待って!メルヒオーア様…!』」

 イザベラの魔力のこもった呼び掛けには応えずに、メルヒオーアは従者を連れて転移の間を出ていく。

 神子姫の側近達が彼女を宥める声が背中越しに聞こえた。




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