189.神の庭
つらく、永い夢を見た。何度も何度も生まれ変わる夢を。
何度も傷ついて、裏切られて。妬まれ、嵌められ、貶められて。人間の愚かさ、醜さを嫌という程思い知る。親に売られ、恋人に売られて。生きることを何度も諦めかける。やっと愛する人に出会えたら、愛しい人は殺されて、自分も無惨に殺される。
心も体も私の自由にはならない。死ぬ、その時でさえ。
何の救いもない、繰り返される醒めない夢。これは何の罰なのか。もう全てが虚しい。
もう心がもたない。
もう、耐えられそうにない…
精神が摩耗する永い永い夢の後、気がつくと、身体がふわふわと浮いていた。いつもよりも、身体が軽いような気がする。もう痛くも寒くも苦しくもない。でも心がすっかり疲弊してしまっていて、麻痺したように現実感がない。
目の前には剥き出しの石の壁。揺れる蝋燭の灯り。下には粗末な木のベッド。その上には銀髪の少女――私が寝ていた。
そこはまるで地下牢のような場所だった。じめじめとした湿気と嫌な気配が立ち込めている。
ここはどこだろう?
そう思ったら、突然明るい外に出た。
眩しさに目を細めると、建物の屋根の上に浮いていた。王都が一望できる。
急に背筋に怖気が走って振り向くと、高い塔がそこにはあって、上空には塔の先端を囲むように大きな虹色の環が見えた。
魔素が集まっている。精霊達が吸われていく。
悲鳴が聞こえるような気がして、耳を塞いで目を閉じた。
悲鳴が静かになって息苦しさも和らぎ、鼓動も落ち着いてきて、ゆっくりと目を開ける。
今度は部屋の中。見覚えのあるそこはいつもの侯爵邸の部屋だった。
帰ってこれたと、ほっとする。でも色味が違う。上等な果実酒のような深いワインレッドの寝具じゃなくて、落ち着いたダークブルーの寝具。最近良く目にしていた部屋の内装だった。
じゃあ今そこで眠っているのは…
『エーリヒ様…』
浮いたまま、急いでベッドに近づいた。
彼は目を閉じて、ベッドに横たわっている。柔らかな亜麻色の髪。ここ数日で見慣れた穏やかな美しい寝顔。肌に血色が戻っていた。よく見ると肌の奥に金色の流れが見える。
これがエーリヒ様の魔力なのかな。
ふと、頬に手を伸ばす。滑らかな肌。温かな感触があった。これは夢じゃないのかもしれない。
なんとなく、わかった。もうすぐ、目を覚ますって。
『良かった…』
ふわりと微笑んで瞬きをした時、薄暗かった部屋からまた太陽の下に出た。肌に髪に風を感じる。転移したみたいに一瞬で場所が変わった。
そこは知らない土地だった。眼下にはたくさんの武装した兵士達が行軍していた。鎧を纏い、盾を持ち、腰に帯剣して。魔獣のような生き物に騎乗している者達もいる。まるで映画やゲームの戦争みたいな光景。
漠然とした不安を胸に、戸惑いながらそれを空から見下ろしていたら、誰かと目が合った。
「銀色の……女性…?」
「女神様だ…」
「おい、女神様だ!エルケ様だぞ!」
「エルケ様が空に浮かんでいらっしゃる!」
誰かの小さな呟きはすぐにざわざわとした喧騒になり、叫び声に変わる。
鎧を纏った兵士達がガチャガチャと金属音を鳴らしながら、熱気を帯びて集まってくる。聖職者のような白い祭服を着た男性達もやってきたようだ。
駆け寄ってくる者達の白い祭服に、いつかのクリスティーネを思い出す。悋気に囚われ迫ってきた彼女の憎悪の瞳と悪意のある言葉。あれを何とも思わなかった訳じゃない。それでも彼女はエーリヒの婚約者で、エーリヒを救える神聖魔術師で。あの場で私には何の権利もなかった。ただ見守るしかなかった。
私自身には、何の身分も権利もないのだから。
商店街での騒動だって、私が元から貴族令嬢だったのなら、身分を明かして権威を振るえばそれですぐに収まったはずなのだ。
でも実際私は違う。
それでも侯爵家の侍女達がいたのだから、フリをすることもできた。その方がきっと早い。でもそれでは侯爵家に迷惑をかけてしまうかもしれない。貴族として生まれ生きてきた訳ではない私には、どこまでが許容される事柄なのか判断がつかない。
そして何より私は、それをしたくはなかったのだ。
それではまるで“虎の威を借る狐”だ。
私自身には、何もない。
空っぽなのだと認める、惨めな行為だ。
“所詮、人は皮しか見ていない”
それはきっと、私もそうなのだ。
見合った立場が羨ましいのだ。
胸元を掴んでギュッと目を閉じる。
また場面が変わった。どこかの庭園だ。まだ花は咲いていなかった。こんなにも魔素は満ちているのに。
もう王国の季節は初夏で、貴族街のどの邸宅も庭園の花は咲いていて、緑が濃くなりつつあるのに、ここにはまだ春すら訪れてはいない。
王都じゃないのかもしれない。だってこれで魔素が薄いとは思えない。これだけの魔素に恵まれているのなら、花も実もいくらでも成長しそうなのに。
何かが足りない。花達は何かを待っている。
あれ。魔素があれば成長するって、なんでそう思ったのだろうか。
ただなんとなく、そんな気がするの。
植物の蕾に近づいて、手を伸ばしてみた。視界に映った日射しに照らされた手はいつもの小さな手ではなくて、前世で見慣れた大人の手のようだった。
そう言えばさっきもそうだったかな?
不思議には思ったが、触れた瞬間蕾が膨らんで花びらが桃色に色づき、優雅に開いたことで心がそちらに奪われる。すると周りの花達も一斉に蕾が開いた。まるで永い冬眠から目覚めたかのように。広い庭園の花という花がみるみるうちに全て色づいて、花開き、咲き誇る。香しい花の香りが辺りに漂う。
『うわぁ…』
こんなの、初めて見た。一気に花が咲くなんて。やっぱり夢なのかな?
いつの間にか、体は大人に成長していた。ずっと大人になりたいと思っていたようだ。上から見下され、子供扱いされて、自分の意見が通らないことを余程にストレスに感じていたのだろうか。
同じ目線になりたいと。
…誰と…?
ひらひらと蝶々が飛んできた。鮮やかな羽根の大きな蝶々、白や黄色の小さな蝶々。鳥が嬉しそうにさえずり、飛んできて、腕を伸ばすと手の甲にとまった。
『ふふ。…そう、嬉しいの?』
何故かその気持ちが伝わってきて、そっとその子に頬を寄せた。
「え?何?花が…どういうこと?」
誰かの驚いた声に鳥が飛び立つ。
それを目で追ってから振り返ると、メイド服の女性がこちらを見て何か呟いて、慌てて誰かを呼びに行ったようだ。
やはり私が見えるのか。
このままここにいると、また騒ぎになってしまうかな。
『せっかく綺麗に咲いてくれたのに、ごめんね。もう行くね。…またね』
そうして魔素の濃いその土地をいくつか転々として、各地で花が咲き、実がなるのを見届けた後で、次に目を開けて見えたのは……
『大きな樹…』
とても大きな樹が生えている。樹齢なんて想像もつかないほどに太く立派な大きな樹だ。
でも左右で纏う魔素が違う。四方に広がった枝は絡み合い、魔素が混じり合っていて、“連理の枝”を思わせる。それは“男女の仲睦まじさ”を表すけれど、これは“世界の調和”というべきか。
燦々と降り注ぐ陽光を浴びた美しい緑が淡く、濃く重なって、優しい風にそよいでいる。
その大きな樹の周りには生命力溢れるかのように美しい花々が咲き、清らかに澄んだ泉が囲んでいて、歩いて樹の根元まで行くことはできないようだ。
身も心も浄められるかのように空気が清々しく澄んでいる。そしてどこよりも辺りの魔素が濃い。
いつしか大気に漂う魔素が視える。精霊達が喜んでいるのがわかる。この魔素の集まりが精霊なのだろう。魔素が濃くなればなるほど、その意思が強く感じられる。
『常世の国…?』
夢じゃなくて、もしかして、私、死んじゃったのかな。
ここが神の庭だと言われても信じられる。
でもこんなに穏やかなら、それも悪くない。
辺りを見回すと、とても美しい自然の風景の中に街が溶け込んでいる。地上にも家はあるが、木の上にもログハウスがあったり、吊り橋があったり。風変わりな集落のようだ。
それを見ているとぴょこぴょことうさぎが駆け寄ってきた。
『わぁ。可愛い』
今度は森の茂みから子鹿が姿を現して、また近寄ってきた。何やら森の動物達が警戒心もなく寄ってくる。
本当に常世の国なのかも。
「エルケさま…?」
動物達と戯れていると、近くから女の子の声が聞こえて振り向いた。薄い緑がかった銀色の髪の女の子が私を見上げている。
初めて見る髪色だ。妖精さんみたい。
驚きのあまりに目と口を愛らしく丸く開いている。手にしていた籠をドサ…と取り落とした。中に入っていた花やきのこ、木の実が散乱した。
びっくりさせてしまったようだ。幽霊として見えているのなら、怖いよね。どうしよう。
可愛らしい女の子の登場に、声をかけるべきか否かと様子を窺っていると、その子の耳が少し尖っていることに気づく。
え?あれって……エルフ?
◆◆◆◆◆◆
「あれ?光ってない」
女はポケットから取り出した指輪を燭台の灯りにかざして、その透明な石をじっと見つめた。やはり手に入れた時のような虹色の輝きはない。あまりに綺麗に光っているから、仕事の合間に小指に着けては眺めていたのに。
「入ってた魔力が抜けちゃうなんて。安物だったのかぁ」
子供が着けていたのだから、加工の甘いガラクタだったのか。着ている寝間着は汚れてはいるが上等な物だったから、指輪も値打ち物かと期待していたのだが。
いや。ここに来るまでの過程で壊れてしまったのかもしれない。
女はみすぼらしい寝台の上で寝ている少女を見下ろす。その首の裏には、今も魔法陣が浮いていた。だが女には見えない。
地下監獄の一番奥、二重扉のそのまた深部の部屋に移された少女。子供には度を越した鉄製の手枷足枷をし、触れるのも忌まわしい首輪をしているが、少女は珍しい銀髪だ。どこの子供かは知らないが、この髪色のせいでここに捕まったに違いない。
この地下監獄には王都神殿が定めた“異端者”が多数囚われている。異端者というのは表向きなのはわかっている。だが理由など女にはどうでもいい。異端審問官が“黒と言えば黒”なのだから。
今も辺りからかすかに聞こえてくる不快なうめき声を聞き流す。ここでの作法のようなものだ。異端審問官の執拗な追及は正視に耐えない。
女は巫女とは名ばかりの下働きの平民だ。神殿の外、平民区では巫女と言えば敬われるくらいなのだが、やっていることは下女以下で、勿論口外禁止。
ここでは日に一度の飯の配給や汚物の掃除、収容者の生存確認が主な仕事。誰もが嫌がる地下監獄の担当を先輩巫女から押し付けられていた。
というのも、先輩がお仕えしている上級神官の具合が良くないらしい。またサボるための口実かと少し覗いてみたのだが、あれだけ高飛車でわがままだった神官が確かにどこか上の空。おかしいのは救済――神聖魔法での治療行為――から帰ってきてからのようだ。
数日前、突然就寝時間前に手が足りないからと先輩に呼び出され、明日は婚約者に会いに行くから準備しろと、神官の荷造りに髪や肌の手入れなど、夜中までかかってやらされた。
そこまでして喜び勇んで行ったはずなのに、帰ってきたら予想に反して神経質になっている。てっきり惚気を聞かされご機嫌取りをやらされるものと嫌気が差していたのだが、全く浮かれるような様子ではない。それどころか、未明にあった貴族街での騒動を聞くと、無闇に怯え出したりして挙動不審だった。
これは婚約者と何かあったのではないかと巫女達で噂し、それが耳に入ったのか神官長に呼ばれていって、帰ってきたら今度は始終上の空だ。時折不気味に「ふふふ」と笑う。
きっと婚約者と破談になったのだ。その呼び出しだったに違いないと、また巫女達で面白おかしく噂する。
彼女は辺境伯令嬢の自分にこだわっていて口喧しく、やっと還俗していなくなってくれると先輩は喜んでいたのだが。どうやら還俗は遠のいたようだ。そのショックから立ち直れないのだろう。だが当たり散らされなくて良かったと先輩達も言っていた。
「綺麗に光ってるうちに売っとけば良かった。でもなんでこれ、サイズも変わんないのよ。やっぱり壊れてるのかな?これじゃ売り物にもなんないな。…金目のもんがなきゃ、こんなとこで囚人の世話なんかやってられないのに…」
ぼやきながら、どうにか小指以外のどれかの指に指輪をはめようとする。だが魔導具の指輪のようにサイズが変わるような兆しはない。
「これが売れなくても、お小遣い稼ぎはできたからいいけど。…この子の血が欲しいなんて、気持ちわるっ。神官長達もこの子の魔力と血を抜き取ってるみたいだから、よっぽどなんかあるのね……でも何に使うかなんて知らない方が身のためよ」と息をつく。
「さすがに今さら指輪を戻したら怪しまれちゃうよね。神官長に見つかる前に捨てちゃうか。勿体ないけど」
この少女の指は今もまだ血や泥で汚れたままだ。気持ち悪くてあまり触る気にはなれない。お陰で神官達は収容時にこの指輪の存在には気づかなかったようだ。
こびりついた血を洗い流した時の美しい石の輝きを思うと後ろ髪を引かれるが、持っていても子供サイズから変わらない上に、元の石の輝きが戻らないのならば意味はない。
女は指輪を捨てる前に、最後にもう一度よく観察してみた。
指輪の内側に何か文字が彫ってあるようだ。
「なんだろう?…何か書いてある…」
「それは何です?」
「え??」
急に声をかけられた拍子にビクンと体を波立たせて振り返ると、そこには白い神官服の少年が立っていた。
自分よりも年下と見て、いきなり驚かさないでよとつい悪態をつきそうになったが、その少年の白い神官服は上級神官の衣服だ。この王都神殿では見たことがない少年ではあるが。
こんなに若いのに上級神官とは。自分との待遇差になんだか腹立たしいが、よく見ると彼は金髪だ。ならば間違いなく高位貴族の上級神官である。そしてすぐ後ろにはもう一人、成人の上級神官が立っていた。
女は慌てて神殿での敬礼をして畏まる。
まずい所を見られてしまった。どう誤魔化すべきか。
金髪の上級神官達は高位貴族出身ではあるが、家門から捨てられた庶子であることが多く、その劣等感からか嗜虐性が強い傾向にあるらしい。
「それは何だと聞いているのですが」
「え?…こ、これは…私の物です」
しどろもどろになっていると、少年の後ろにいた上級神官の男性が女の手からそれを奪った。
「あ!」
「指輪ですね。…水晶でしょうか?」
その男性は少年に恭しく指輪を渡した。上級神官服を着た成人男性よりも、この少年の方が身分…いや、神殿での序列が上ということだ。
一体この少年は何者なのだろう?
女は怯えながら畏まり、伏せていた視線を上げて少年を盗み見る。
地下監獄の灯りは薄暗い。だからやっと今、それに気づいたのだ。
少年の肩周りの、紫色の頸垂帯に。
まず、ストラは特級神官しか纏えない。
そしてこの王国で紫色とは、黄金色に次いで尊い色。つまり彼は神殿での最高指導者、黄金色のストラを纏う大神官に次ぐ序列。
この王都神殿の長である神官長マクシミリアン・キューネルトは神殿序列の第四席次だ。彼ら一桁台席次の特級神官達のストラは、白地に金糸でそれぞれの縫い取りがある。だが紫地はそれよりも遥かに高い地位。その紫を纏う彼は、王国神官達の中の最高位。
まさか……そんなはずは。
あの方は神都の大神殿の所属のはずだ。そんな尊いお方が、下賤の者達が閉じ込められ、饐えた悪臭漂うこんな地下監獄に足を運ぶことなんて。
恐る恐る少年の顔を覗き見る。彼は手にした指輪を調べている。見惚れるほど若く美しい顔。宝石のような紫色の眼。
間違いない。この少年は……
首位神官……メルヒオーア。
その事実に思い至った女は「ひっ」と引きつった声を上げて、さらに恐縮するしかなかった。このような場面を見咎められ、我が身の行く末を思うと震えが止まらない。
「これは古代宗教文字だ。君には読めるのか?」
「え…?」
「読めないのであれば、君のものとは証明できないね」
独言は聞こえてはいなかったのか。ならばまだ誤魔化しようはある。
「そ、そんな、…読めなくても別に――」
「そう。意味は教えてもらっていないのか。…そういうことも、あるかもしれないね」
「…はい…」
良かった。なんとかなりそうだ…と、女は潜めていた息を吐いた。
「これは母から娘へと贈られたもののようだね。ではここにある名前は君の名前であるはず。…母親の名前でもいい…」
眺めていた指輪から視線を外して、少年は冷ややかな声を発する。その時初めて彼、メルヒオーアと目が合った。
「答えたまえ」
紫水晶のように冷たくも美しく煌めく瞳が、女を見据えた。
「…………」
ヒヤリとした空気の中、どこかでポタリと雫が落ちる音が牢獄に響いた。
「どうやら常習犯のようだな。…聞かせてもらおうか。“神官長に見つかる前に捨てる”…とは?」
◆◆◆◆◆◆
《マクシミリアン・キューネルト》
「聖女の様子はどうだ」
マクシミリアンは執務室にやってきた上級神官に尋ねた。
襲撃の夜から地下監獄に聖女を閉じ込めて、三日目になる。そろそろ限界だろう。首には魔力を吸い続ける隷属の首輪。手足には鉄製の枷に鎖を着けている。そして魔導具による強い催眠状態が今も維持されている。
(いくら魔力豊富な聖女といえど、いつまでも抗えまい。)
「まだ子供ですからね。だいぶ弱ってはいますが、魔力はどんどん溜まります。通常では考えられない吸魔石の充填速度です。しかも子供であれなら、成人すればどうなることか…」
「意識はあるのか」
「虚ろなようです。洗脳状態になってもおかしくはないはずなのですが…」
「魔力を搾り取るだけでは勿体ない。血液はすでに各研究室に送ったが……他にも使い道はある。早く洗脳を進めるのだ。ちょうど建国祭もある。洗脳が成功すれば面白い催しができるだろう」
「建国祭での催しとは?」
「…神都には神子姫とやらがいるではないか。あの世間知らずな小娘が」
「ええ。大神官の…」
神殿と教会の総本山である大神殿がある神都アーベラインには、大神官と紫眼の首位神官がいる。さらに公爵家門出身の第二、第三席次の特級神官、そして第五席次にまた紫眼の持ち主がいる。それだけでも王国での信者の支持率が高いというのに、大神官が自らの孫を神子姫と吹聴するとは。ただの綺麗事に守られている甘やかされた小娘に過ぎないというのに。
(初代王を祀る神殿で神子姫とは。愚かしいにも程がある。だが、あちらがそうくるならば…)
「老いぼれめが。どうあっても権威は譲らぬと言うのであれば、王都には王都の神子姫を祀り上げれば良い。こちらはあちらとは違って有名無実ではなく、本物の奇跡を起こす神子姫となろう。無論、正体は隠してな」
「なるほど!それは良いですな。…ですが建国祭までに間に合いましょうか。やはり通常よりも抵抗が強いようですし…」
「子供でも神国の聖女ということか」
マクシミリアンは歯噛みした。
「ハインミュラーの研究室からは追加で検体を寄越せと急かされているのだ。さもなくば聖女自体を寄越せとな。やはりあの血液は有用なようだ。洗脳状態になる前ではあるが、そろそろ血液以外も取り出し始めるか」
「催眠状態が醒めないか懸念はありますが…」
「やむを得ん。あちらに聖女を渡せば廃人になるまで実験材料にされかねない。それではこちらで利用できなくなる。何か臓器の一つも送ってやれば、しばらくは静かになろう。催眠を強めれば、痛みで目覚めることもないだろう。あわよくば洗脳も進むかもしれん」
ハインミュラーの研究室では聖女の血液をどのように利用しているのかは知らないが、マクシミリアンの所属する秘密結社黄金の暁の下位組織であるミュトスでは『賢者の石』を造っているところだ。以前に比べるとそれに近いものはできている。だがまだ賢者の石には至らない。一体何が足りないというのか。
「賢者の石ができてからと思っていたが、先にロゴスに聖女の血を献上してみるか……賢者の石に至る何かヒントをいただけるかもしれん」
「おお。ロゴスならば大いなる業で聖女の血のさらなる活用法が見つかるやもしれませんね。…しかし、ロゴスも聖女の組織が有用と知れば、ハインミュラーのように欲しがるのでは?」
「…問題はそれなのだ…」
ハインミュラーよりも黄金の暁の上位組織ロゴスに聖女を要求された場合の方が断れない。だがやはりロゴスのホムンクルス技術は欲しい。悩ましいところだ。
「ところで……クリスティーネ神官の様子は?」
「彼女なら大人しくしているようですよ?しばらくは洗脳を定期的に行う予定です。今は記憶の混濁も見られますが、いずれ先日の記憶は封じることもできるかと。グリューネヴァルトから辺境伯家に抗議があったようですが、先手を打っておいて正解でした。あの様子では侯爵に白状してしまいかねませんでしたから」
「そうか。ならばそちらは心配することはないな」
そこへマクシミリアンの通信魔術具に連絡が入った。
『マクシミリアン様…』
「どうした」
『神都アーベラインから、その…首位神官様がお見えに…』
「なんと?メルヒオーア様がか。何故、急に」
(想定外に大事になってしまった侯爵家襲撃の件は、すでに大神官の耳には入っているだろう。お咎めのためにこれ見よがしに虎の子を寄越したのか?それとも…)
出迎えるまで足止めするよう言い含めて、マクシミリアンが急いで神殿の出入り口に向かうと、メルヒオーアの姿は見えない。
「メルヒオーア様はどうした」
「それが、その……地下監獄へ向かわれました。付き添いなども拒否されまして…」
集まっていた神官達に問いかけると、憂惧していた事態が起きていた。この者達には首位神官が例え子供であろうと、止めることなどできやしない。それが神殿での明確な序列だからだ。
「なんだと?何故地下監獄へ?まさか話したのか?」
「いえ!我々は、誰も…」
「ええい!何故お止めしないのだ!」
(紫眼か!くそ!…あの状態でも感知できるのか。外部にバレないよう、索敵魔法にはかからないと確認までしたのに。なんて面倒な能力だ。)
マクシミリアンは部下達を引き連れ、慌てて異端者達を収容している地下監獄へと足早に向かった。
マクシミリアンが金魚の糞を引き連れて地下監獄へと向かう。それを遠巻きに見ながらこそこそと巫女達が話している。
「やぁ、小鳥ちゃん達。何を話してたのかな?」
「きゃ!…ヒルデベルト神官様!…小鳥ちゃんだなんて。うふふ…」
柱の影から金の髪の美しい男が現れて巫女達を囲むように柱に手をつくと、彼女達は男を見上げて頬を染めた。男の肩には白地に金糸の刺繍のストラを下げている。
彼はヒルデベルト・エルツベルガー。王都神殿所属の序列第六席次の特級神官だ。エルツベルガー侯爵家は第二側妃、アレクシオスの実母の家門である。
「それで?どうしたの?」
「それが…」
「ん?」
少し言い淀んだが、ヒルデベルトに微笑まれると断れない。巫女は声を潜めて耳打ちした。
「ふーん……メルヒオーアがねぇ…」
ヒルデベルトは神官長らが去った方を見ながらボソリと呟く。
「首位神官様は何しに来たのかな?」
またヒルデベルトは屈託のない笑みを浮かべた。こういった話は下の身分の者達の方が詳しいはずだ。
「神官様もご存知ですよね?今、地下監獄に特別な少女がいるって…」
「しーっ!ダメよ、それは」
「ん?何かな?俺が知らないことを子猫ちゃんは知っているようだね」
ヒルデベルトの指先がつつ…と巫女の顎下をくすぐるようになでた。突然の誘惑に女は赤面して戸惑う。
「そ、そんな、ことは…」
「へぇ。教えてくれないんだ。悲しいなぁ…」
「…………」
巫女達は互いに見つめ合い、どうする?と心の声を掛け合っている。
「俺の部屋で話そうか?」
先ほど口を滑らせた女の肩を抱き寄せると、「きゃ」とまた頬を赤らめ、はにかむ。それをもう一人が「だ、だめよ」と制止した。
「俺は二人でもかまわないよ?」
「…………」
「じゃあ、仕方ないね。嫌がる女の子に無理強いするのは俺も嫌だし。他の子に聞こうかな…」
ヒルデベルトがあっさりと肩から手を離して立ち去ろうとすると。
「え?待ってください!お教えいたします!」
「そお?ありがとう。…じゃあ、教えて?」
淡い青紫色の瞳を細めて、またヒルデベルトは甘やかに微笑んだ。
◆追記◆
画像は首位神官メルヒオーアのイメージ
でも神官ぽくない…
神官服がなかなかうまくいかない
AI君はストラがよくわからないようだ…