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187.灯火(2)


「やるな、あんた。あんたのお陰で助かったよ。相当名のある剣士なんじゃないのか?」

 剣の血糊を振り払って、傭兵が助っ人の男に声をかけた。街道上に現れた狼の魔獣の群れに護衛の傭兵達が苦戦していたところ、馬車の乗客の一人が加勢してくれたことで、無事魔獣を掃討することができたのだ。

「…いや」

 男は乱れた外套のフードを被り直して、足早に乗り合い馬車に戻っていく。並外れた剣の腕前を傭兵達に披露しておきながら、自分の強さを誇示するつもりはないようだ。


 乗り合い馬車の中では、その活躍を見ていた乗客達が戻ってきた彼を労い、囃し立てる。

「兄ちゃん、強かったな!」

「あんちゃんがいればこの先も安心だ。ありがとな」

 わいわいと賑わいながら、再び乗り合い馬車はプロイセへと走り出す。




「ったく、最近この辺りも急に魔獣が増えたよな。以前は近場に行くのに護衛なんていらなかったのによ。余計な経費がかかって困ったもんだ」

 乗り合い馬車の護衛として傭兵達が街道を騎馬でついてきているのを眺めながら、乗客の一人がこぼした。この馬車の後続には、倒した魔獣用に荷馬車も同行させている。それだけ街道には魔獣が出るということだ。


「春になって山から魔獣が下りてきたって聞くが、こんな王都の近くまで影響があるとはな。物騒になったもんだよ」

「物騒って言やぁ、今まで魔獣はいなかったけど、この辺りは人さらいがいただろ。ほら、子供ばっかり狙ってた……アードラー商会とかいう奴隷商のやつらが悪さしてたって」

「ああ。シュタールの話だろ。白い子供が天から降りてきたとかいう。全く、何をバカなこと言ってんだか…」



「おい、罰当たりなこと言うんじゃねぇよ!あれはシュタールでは神様だって言われてんだぞ!」

 からかうように吹き出した男を見て、興奮したように誰かが抗議した。

「いやぁ……でも、神様だなんてよぅ」

「信じてねぇのか?本当にあの日は突然空が鳴り出して、ビカビカ光って、街中大騒ぎだったんだからな」

 声を大きくしたのはシュタール出身の男だったようだ。わかったわかったと宥める声が上がる。


「雷の話だろ?…まるで龍神様の天罰みたいだよな。もうすぐ建国祭だが、関係あんのかな」

「ああ。龍神様の子だって話だよな、その白い子供ってのは」

「でも初代王は黄金色がその象徴なんじゃなかったのか?」

「そういやそうだなぁ」



 この王国の初代王ヴァイデンライヒの神話は誰もが知っている。幼い頃に街の教会で神話を聞き、毎年の建国祭では龍神と初代王を祀るからだ。

 黄金色はヴァイデンライヒでは尊い色。貴族の間では高魔力と高貴の象徴で、平民や農民達の間では作物を育ててくれる太陽の光であり、実った小麦の色、豊穣の象徴だった。

 そろそろ王国の神を祀り、龍神の末裔――今代の龍神王として国王を敬仰する建国祭が近づいてきて、王国民達は収穫祭、新年祭と並ぶ盛大な祭りの準備で浮き足立ってくる季節だ。




「なぁ、これ知ってるか?シュタールではもう有名な話なんだが…」

「ん?なんだ?何の話だ」

「あの事件ではクライスラー子爵が活躍したって言うだろ?」

「なんだ、そんなのプロイセでも有名だぞ」

「ああ。クライスラー様がシュタールの代官を捕まえたんだろ?あれを聞いた時はスカッとしたぜ」

「そうじゃねぇ。あの事件はな、本当は別の貴族様が解決してくれたんだよ」

「別の貴族様?」

 皆の関心を引いたのを感じたその男は、気を良くして語り始めた。



「ああ。なんでもその貴族様はお忍びの旅をしてたんだが、雇ってた護衛の一人がシュタールの出身でな。子供がさらわれたって助けを求めたら、探すのを手伝ってくれたんだ。そして見事に奴らのアジトを見つけて助け出してくれた。その上知り合いだったクライスラー卿まで呼んでくれて、他の役人や代官まで余罪を調べ上げて、奴らを丸ごと捕まえてくれたんだとよ」


「そんな優しい貴族なんているのかよ?」

「そりゃさすがに嘘だろ。貴族が俺達のためにそんなこと、してくれる訳がねぇ」




 この辺りの領主や代官は評判が悪い。「そりゃ眉唾物だ」と庶民達が決めつけてくるのは当然の反応だった。

 凶作でも税はきっちりと取っておきながら、住民の要望などは全く通らないのは無論のこと、凶作への備えも負担の免除もない。壊れた防衛設備も放置されたまま。

 近年増えていた盗賊や人さらいの被害を訴えるも、取り締まりにも積極的ではなかった。それどころか訴えを棄却されて、暴行を受けることまである始末。



 貴族とは魔法という脅威の力を持つ、平民とは別の生き物、この世界の支配者なのである。

 そして今は人さらい騒動は下火にはなったが、替わって魔獣被害が深刻だった。多少は対策してくれているのかもしれないが、全くその効果は出ていない。

 領主が街を出るときなどは大勢護衛を連れていくはずなのに、もっと魔獣討伐に力を入れたり、街道や農作地に傭兵や警備兵を出してくれないと、安心して暮らすことなどできなかった。そうなると平民達は自費で傭兵を雇うか自警団を組むしかない。



 王侯貴族代表であるこの王国の現王は、女狂いで平民達の間でも有名だった。後宮にいる側妃の人数はここ数代の中でも抜群に多いことは広く知られている。

 最近は神殿の神官まで後宮に入れたとあって、建国祭を前にますます評判を落としていた。それは神殿の貴重な神聖魔術師が減ったことを意味し、加えて後宮に妃が増えればそれだけ国庫を食い潰すことになるからだ。

 そして王家直轄地シュタールでの王族遠縁の代官の不正により、さらなる疑惑の目が向けられることとなった。

 すなわち庶民達の王侯貴族に対する心証は最悪だったのだ。




「嘘なんかじゃねぇ。俺は子供がさらわれたその家族とは知り合いなんだ。貴族様自ら自分の護衛達を引き連れて、人さらいどものアジトの洞窟に乗り込んだんだってよ」


「へぇ。貴族様にもそんなお人がいるんだな。それが本当ならありがてぇことだ」

「そうだな。そんなお方が王様や領主様になってくれたらいいんだがなぁ。一体どこの貴族様なんだ?名前は知らねぇのか?」

「確か…グリュー…なんとか…」



「グリューネヴァルトか?」

 それまで黙って腰掛けていたフードを被った若い男が口を挟んだ。先ほどの魔獣退治では見事な立ち回りを見せたが、彼は暖かくなってきた今の季節には合わない外套を着込んでいる。その足元には黒猫が蹲っていた。



「ああ、そうそう!グリューネヴァルト。貴族様の名前は難しいからなぁ。あんちゃん詳しいな。王都から来たのか?」

「ああ、まあ」

「その王都に住んでるグリューネヴァルト侯爵家のご子息だって話だ。王都に帰る途中でシュタールに寄ったんだって言ってた。その貴族様が協力してくれたお陰で、人さらいどもは即日捕まったって訳だ」

「へぇ。グリューネヴァルトっていやぁ、竜騎軍で有名な南の領地じゃねぇか。そこは港もあって交易で栄えてるって聞くな」

「ああ、竜侯爵か。竜なんか飼い慣らすなんざ、すげぇ領主様だよな。きっと息子も竜騎士なんだろうぜ。竜は並みの騎士には乗りこなせないって言うからな。さすがだな」

「…誰かと違ってな」

 アハハ!と馬車内に笑いが起こった。



 グリューネヴァルトの竜騎軍は隣のファーレンハイト領の国境線で、好戦的なローゼンハイム王国を牽制していることを王国民なら誰もが知っていた。竜侯爵とも呼ばれるグリューネヴァルト侯爵ハインリヒは、庶民達にとって護国の英雄だ。ある意味、龍神王である国王よりも、実際に竜を御する精鋭の竜騎士達が揃うグリューネヴァルトは庶民人気が高かった。



「街の奴らはアジトの目星がついたとき、警備兵に知らせようって言ったらしいんだが、グリューネヴァルト様が用心して自分達だけでとっ捕まえてくれたんだとよ。まさか警備兵や役人までグルだなんて俺達は思わねぇだろ?あの貴族様がいなかったら……きっとまだあの事件は解決してなかったはずだ」

「ほんとだな。王族の代官まで絡んでたんじゃあ、いくら被害を訴えたところで動いてくれる訳がない。…じゃあ本当にその貴族様のお陰だな」



「それでな、これはここだけの話なんだが…」

「ん?なんだ、まだあんのか?」

 それまで気分良く語っていた男が声を潜めると、周囲も耳を澄ますように前のめりになる。

「そのグリューネヴァルト侯爵家のお人が、小さな女の子を連れてたんだが。見た奴らが言うには、真っ白で雪のように綺麗な女の子だったらしいんだ」

「…真っ白で雪のような女の子…?」

「それって……まさか神様の…?」

 乗客達は顔を見合わせた。



「そうシュタールでは話題になってんだよ」

 皆の食いつきに男は得意げだ。

「真っ白い女の子って言ったって、貴族は皆なまっちろいんだろ?日に当たらねぇで広い家ん中で暮らしてんだからな」

「そんなんじゃねぇ。本当に白いんだ。髪が雪のように銀色で、そりゃもう天使みてぇに可愛い子なんだってよ」

「本当かよ」



 盛り上がる馬車の中、王都から来た男は被っていたフードの下でふわっと笑う。足元の黒猫はそれを見上げつつ、優雅に欠伸をした。




◆◆◆


《ユリウス・レーニシュ=プロイセ》




 ユリウスがプロイセ行きの乗り合い馬車に乗る数刻前。


 立ち寄った侯爵邸は護衛官達が配備され厳戒態勢だった。

 敷地内に入ると、ユリウスはツクヨミと別れた。ツクヨミは情報共有のため、コンラートのところに行ったようだ。

 ゴーストの状態の今なら、人間から認識されないように姿を消せる。ユリウスは一人、昨夜の戦闘の場だった庭園へと向かった。




 バルコニーの残骸が散乱する中、護衛官達が瓦礫の撤去や遺留品の捜索をしていた。そこからヴェローニカの部屋の窓を見上げると、ガラスも格子もなくなってボロボロに破れたカーテンが風に揺らめいていた。昨夜の名残だ。


 庭園の花を眺めるのが好きだったヴェローニカのための部屋だったのだろう。客室なのにも関わらずとりわけ広かったバルコニーは、渡り廊下の上にまで繋がっていて、そこからもよく手入れされた庭園が見えるようになっていた。昨夜そこに襲撃者達が押し寄せた光景がユリウスの脳裏に蘇る。

 庭園の死体は全て片付けられて、血の跡はまだ所々に残っていたが、ほとんど洗い流されたようだ。




 ヴェローニカが引きずられ、爪を立てた場所。そこにユリウスは屈み込み、手を伸ばす。青白い指先は一切の感傷も受けつけることなく、すぅっと瓦礫をすり抜けた。

『ヴェローニカ…』


 そこにはもう何も残されてはいなかった。彼女が抗った証の引きずられた血の跡も、あの時剥がれた爪も、何ひとつ。

(水魔法で流し清めたのか。)


 あの跡を見るのはつらいだろうと思ってはいたが、かと言ってこう何もないと彼女の痕跡さえ消え去ってしまって、言いようのない寂しさと胸が押し潰されそうな苦しさを感じた。

 だがツクヨミの言う通りで、正直なところ今の状態ではあの場所はきつい。ここへ来るだけでもだいぶ魔素が薄くなった。急がなければ。活動時間は限られている。




 ユリウスは自分のマリオネットの体を探した。案の定、それは自分が使用していた客室に魔剣と一緒に安置されていた。


 本当はヴェローニカの残した血の跡から、少しでも血と魔力が吸収できないかと思い、ここへやって来た。無駄足だったようだが。

 それでもせっかく来たのだ。一度だけ試そうと、ユリウスはベッドに眠るように安置されていたマリオネットの体に入った。

 そこにはまるで魔力など残ってはいなかった。その上破損箇所だらけで、なけなしの魔力が削られる。これでは憑依状態など保っていられそうにない。気を抜くと今すぐにでも弾かれそうだった。



『くそ、…やはりだめか…』

(できればこの体でヴェローニカを助けに行きたかったが……あとはもう、ツクヨミに別の体を頼むしかないか。)

 それでも燻り続ける反発から、意地になって横たわる体を引きずるように起こす。だがやはり魔力を吸われたあの時と同様に、立ち上がるのさえ困難だった。

 ユリウスは悔しさを噛み締め、寝具をぎゅっと握りしめた。


 その時伏せた視線が、ベッドサイドに見慣れない包みを見つけた。ハンカチのような小さな白い布の包みだ。

 ここはユリウスの部屋。こんなものは置いた覚えがなかった。


 何となくそれを掴んでみると、中に何かが入っているようだ。包みを広げてみる。

『…………』

 それは小さな小さな爪だった。血に塗れたまま乾いた、小さな彼女の剥がれた赤い爪がふたつ。



『っ、…ヴェローニカ…』



 マリオネットでなければ、ユリウスは今、泣いていただろうと思う。それを布に包まれたまま持ち上げて、大切そうに唇を寄せ、目を閉じた。


 自然とそうしていた。

 完全に無意識だった。

 だがそれに口づけた途端、マリオネットの体が反応した。彼女の爪に付着した血液を感じ取ったようだ。彼女の魔力が温かさとともに体の中にじわりと染み込んでくる。心地良くて、それが馴染むまでユリウスはヴェローニカの小さな爪に口づけたまま、じっとしていた。




 どれくらい経っただろうか。しばらくそうしていると、いつの間にか唇に触れていた異物感がなくなっている。そしてさっきまであった幻肢痛や倦怠感もすっかりなくなっていた。体が弾かれるような抵抗ももう感じない。

 唇を離すとその布はただ真っ白になっていた。彼女の小さな爪も、赤く染みついていた血の跡も何もかも。それらは全て、ユリウスの体の中に吸収されて同化したのだ。


 吸血した時のような充足感と幸福感で胸が温かく感じる。それを確かめるようにふと胸を触ると、魔剣で貫かれて空いていた穴が塞がっていた。

 再び得た体。ヴェローニカとともにある。ユリウスはそう強く感じた。



「ふ。…やはり姫はすごいな」

 ユリウスは泣き笑いのような表情をした。

 これでやっと、ヴェローニカを助け出すための光明が見えてきた。だが、まだだ。まだ足りない。

 次は確実に、彼女を奪い返すために。




◆◆◆




「白い神様が浮浪者達のことをそんなに気にかけてるなら、救貧院でも作ろうって話がシュタールでは出てるんだ。恩返しみたいなもんだな」


 フードを被り身を隠しながらユリウスが乗客達の話を聞いていると、いつしかそれはヴェローニカの話にまで発展していたようだ。

 あの捕物騒動があった時期に、白い少女が空から舞い降りてきて、売れ残りのパンや薬を購入していったと話すパン屋や薬屋の店主がいるという。そして暗闇の中で淡く光る少女が路地裏でそれを配っていたのを見たという目撃証言もある。さらには白い少女が代官屋敷へ飛んで帰るところも、夜の酔客にまんまと見られていた。


 どうやらヴェローニカはユリウスの知らない内に滞在していた代官屋敷を何度か抜け出し、あのシュタールの路上生活者達に食事や薬などを与えていたようだ。

 一体いつの間にそんなことをしていたのか。全く把握していなかった。密かに乗客達の話を聞きながら、ユリウスは呆気に取られていた。



 シュタールではもう、エーリヒのこともヴェローニカのこともすっかりその正体はバレてしまっているようだ。

 乗客達は楽しそうに話している。ユリウスはその噂話に内心驚きつつも笑みを浮かべた。姫らしいな、と思いながら。


 ヴェローニカが守ったシュタールが今もなお平和を保っていることに、ユリウスの心はわずかに慰められる。

 それでも。

 ユリウスの焦燥はまだ解けそうにない。




 乗り合い馬車は様々な思いを乗せて、夕暮れの街道をガタガタと進んでいく。プロイセに着くまで馬車の中では、周辺に住む者達が乗り合わせた商人や旅人達を巻き込んで、シュタールで起こった奇跡について熱心に話し込んでいた。




◆◆◆◆◆◆




 大主教は足早に窓辺に佇む人物に近づいて、その御前で畏まった。

「聖下、ご報告申し上げます。どうやら本当にヴァイデンライヒには我らが愛し子、聖女様がいらっしゃるようです」

「なんと……それではハイデルバッハの商人達の噂は本当であったか」

「はい。そのようでございます」


 豪華な白い祭服のような装いをまとう金髪の麗人は、窓から下界を見下ろしたまま憂い声を漏らした。



 そこは厳かな皇宮のいくつかある尖塔のうち、一番高いものの最上階。

 頭上の天窓には宝石を散りばめたような星空が煌めき、足下には聖都エルシェイムの街明かりが広がる。それらがよく見えるようにと温室のような造りの室内の明かりは極力しぼられている。



「ではそれはどこの家門の娘なのだ。いつ産まれた子なのか。調べはついたのか」

「それについてはまだ。…年の頃はまだ七歳ほどの小さな子供だということですが、正確な歳がわかればある程度はしぼられるかと。女神の愛し子は聖下もご存知の通り、枢機卿を輩出する家門から多く生まれますから」


 そう話しながらも、特にその加護を受けやすい代表的な家門の名が一つ頭に浮かんだが、大主教は口をつぐんだ。



「七歳……では、ツェツィーリヤが亡くなってからすぐのことだったのだな。…まるで先代聖女の生まれ変わりのように、その子は生を受けたのか。…今までどこに……いや、何故、どうやってこの国を出たのか。例え産まれてすぐに誰かに拉致されたのだとしても、聖女が産まれたのならばその家門はすぐさま皇宮に届け出よう。これ以上ない国の慶事なのだからな。だがそれもないとは。一体どういうことなのか」

「もしや……失態の追及を恐れてなのでしょうか…?」

「愚かな…」

「聖下…」

「国外では女神の加護からは離れてしまうだろうに……よくぞ生きていてくれた」

「まさに」




 女神エルケの恩恵により、今年もエルーシアの地には例年よりも遅い春がやってきたばかりだ。国中に春雷が鳴り響いたのはつい先日。春雷は温かな雨を呼び、根雪を溶かして川へと流れ込む。それを農民達は畑へと運用することで豊穣に繋がる。

 女神の寵愛を受けし聖女が知らぬ間に生まれ落ち、さらに国外へ流れていたなどとは。女神の恩恵を失いかねない大失態である。



 過去に聖なる御子を冷遇した神皇の御代は、干ばつや暴風、洪水などの災害に見舞われたとの記録もある。それは天罰とも言える災害。つまりは聖なる御子を愚かにも虐げた時代があったということだ。

 近々では、まだ記憶にも新しい八年前。近年稀に見る大干ばつが起こった。そしてそれはまだ完全に回復したとは言えない。




 八年前の運命のあの日、皇宮の一番高い尖塔にある避雷針に一条の紫電が落ちた。今彼らがいる、ここである。

 たった一度きりの雷だったが、聖都から離れた郊外の地からでも、空を切り裂くような紫色の稲光が見えたという。


 それを合図にするかの如く、その年から各地で干ばつが報告されるようになった。エルーシアは元から比較的寒冷な土地ではあるが、至る所で冷害が続き、土壌が乾き、枯れていくという異常事態。

 そしてそれは緩やかではあるが今も続いているきらいがある。当初と比べると数年前から回復傾向であるがゆえに、今は民にはあまり動揺はないが、まだ女神の怒りは解けてはいないのだと高位聖職者達は感じていた。




 雷が皇宮に落ちたあの日、聖女である皇妃が崩御した。その日生まれた皇女とともに。尊い二人の死を女神が嘆き悲しんだのだというのが市井での専らの風説だ。

 それを裏付けるもう一つが八年前から続く例年よりも遅い春の訪れだ。だが聖女とその娘を失ったことが現在も続くあらゆる天災の原因ならば、回天させることはできない。しかしこの長く続く災厄が本当は、その新たに見つかった聖女が国外に流れ、不遇であったからなのだとすれば。

 であれば、この神国の最高指導者である神皇としては、この国に降りかかる女神の憂いを晴らさねばなるまい。



 足元に広がる聖都の街明かりの一つひとつに民の暮らしがある。

 ついこの前まで一面雪景色だった聖都を見下ろしていた彼、神皇アファナシエフは過ぎった悲痛な記憶を拭い去るように大主教を振り返った。




「で?今はどこに」

「聖女様はしばらく王都のグリューネヴァルト侯爵の別邸で養われていたようですが、昨夜その邸宅が襲撃にあった模様です。そしてその襲撃者を侯爵は訴えたとか」

「襲撃だと?聖女は?聖女は無事なのか?」

「それが……すでに拉致されたようです」

「なんだと?!」


 ガツン!と神皇は手にした神杖の先を床に叩きつけた。大主教は神皇の怒気を前に身を謹む。エルーシア最高の魔力を持つ神皇の憤怒の気配が辺りに漏れていた。



「…聖下……どうかお鎮まりくださいませ」

「…………」

 神皇の怒れる魔力を浴びて無防備のままでは内傷を受ける。大主教は畏まった姿勢で、体内魔力を巡らせて己の身を守る。怒気が幾分か和らぐのを待って、報告を続けた。

「…侯爵に襲撃者と名指しされたのは王都神殿。…王国の神殿勢力が我が国の聖女を拉致したのかと」

「神殿?…聖女を拉致して何に利用するつもりだ。魔素か?魔力か?…たかがそのようなことのために…」


 神皇は口惜しそうに再び神杖を握り締めてガツンと鳴らした。

 無理もない。女神の聖なる御子から魔力を搾り取ろうなどと、不敬にもほどがある。このままではエルーシアに再び神罰が下る恐れがある。



「そもそも聖女を我らから奪ったのは、その侯爵なのか?」

「わかりません。聞くところによれば、侯爵令息が王都ヴァイデンにて聖女様を保護していたようなのですが、薄遇していた訳ではないようです。ですが神殿が侯爵家を襲撃してまで聖女様を奪ったのであれば、現在は…。あちらでは我が国は異教徒の国と蔑んでおりますから」


「…これは女神への冒涜だぞ。ヴァイデンライヒとは違って、エルーシアでは本物の女神の加護が実在しているのだ。…女神との旧き契約に抵触しかねない…」

「はい……誠に由々しき事態です」

 大主教の顔も曇る。

「今すぐ王国の大神官に連絡をとれ。知らぬ存ぜぬとは言わせん。何よりもまずは聖女の待遇を確認し、改めさせろ」

「はっ」



 神皇は今一度聖都を見下ろした。聖女の安否にこの国の未来が懸かっている。


「ヴァイデンライヒにエルーシアの聖女は必要ない。我が国の聖女を即刻お返し願おう。…これは明らかに敵対行為だ。場合によっては制裁も必要となるだろう。聖騎士団の派遣も含めて抜かりなく準備せよ」

「御意に」


 また新たな火種が国境を越えて、今まさに燃え広がろうとしていた。




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