186.灯火(1)
《ユリウス・レーニシュ=プロイセ》
『目覚めたか』
『…………』
ユリウスの意識はいまだ朦朧としていた。明るい空を背景に、黒い何かがぼんやりと見える。しばらく忘れていた、ないはずの体の痛みを感じる。悶え苦しむほどの幻肢痛とずきずきと疼く耐え難い頭痛。そして……意識を失う直前の背中への衝撃を思い出した。
『ヴェローニカ……ヴェローニカは……?』
黒い毛皮と縦に細く割れた鮮やかな黄金色の瞳がようやくはっきりと見えてきて、それが黒猫のツクヨミだと認識する。
『ツクヨミ、ヴェローニカは!』
『あの子は奪われた……今は神殿にいた』
『……いた?…見てきたのか?』
『ああ。…ちゃんと生きている。心配するな』
『何故取り戻さない!見てきただけか!?』
ユリウスは地面に横たわっていた体を起こした。
言ってしまってから気づく。そんなことが今のツクヨミにできるのなら、最初から奪われてはいないと。
それは無力を詰る言葉。今の自分が一番堪える言葉。自分で“おまえを守る”と、豪語しておきながら。
『いや……すまない。私が行く。…神殿とはどこだ?…あれか?あの黒い石がある場所か?』
『そうだが。…そなたが行ってどうする。わかっているのか?自分の状態が』
ツクヨミはわずかに顔をしかめ、心なしか声も硬くなる。
ユリウスは改めて自分を見た。
実体がなく、青白く透けている。
プロイセ城にいた頃の、ゴーストの状態だった。しかも霊体の歪みが酷い。魔素が足りず、存在を拒まれているように魂が剥き出しで、消滅寸前だった。
『ようやくそこまで回復したばかりだ。今その体であんな場所に行ってみろ、十分と持たん。しかもそれじゃ、あの子にも触れんだろうが。それでうぬに何ができるというのか。頭を冷やせ』
『…だが……ヴェローニカを、一人には、できない……せめて、傍に…』
『それで行ってあの子の前で消滅すると言うのか。敢えてあの子の目の前で消えると?…それであの子に新たな心の傷を与えるのか』
『…っ…』
ユリウスは今もなお体中を苛む幻肢痛よりも苦しい胸の痛みを感じる。
ツクヨミの言う通りだ。どんなに気にするなと言っても、自分のことのように他人のことで心を痛めるのが彼女だ。自分のせいで消滅するところなど目にしたら、一生悲しみ自分を責め、悔やむのだろう。
(だが。もしそれをしたら、ヴェローニカは……ずっと私を忘れずに想ってくれるだろうか…)
一生、彼女の心の傷として。
それは同時に、甘美なほどに魅力的で惹かれる思いが湧いた。
だとしても、彼女を傷つけたくはない。そして何より、ユリウスはこれからもヴェローニカを傍で見つめ、守りたい。今すぐに彼女を助け出して抱きしめてやりたい。人の優しさや温もりに戸惑ってしまう彼女を。
ユリウスはヴェローニカのもとにすぐにも馳せ参じたい思いに切歯扼腕し、必死に自分を抑えた。
『安心しろ。印を付けて来た。それである程度あの子の様子は把握できる』
『印?』
『吾の権能だ。あの子の居場所、状態……感情、なんかがわかる』
『権能……そうか。…今は、どうなのだ。…苦しんで、いるのか』
苦しんでいて欲しくはないが、きっとそういう訳にはいかないだろう。
『まだ目覚めぬ。強い催眠状態のようだ。そなたとの繋がりが切れ、寂しさを感じている。…何度か夢現にそなたを呼んでいた。そなたを心配しているようだ』
『…私を……心配…?』
さらわれたのは自分なのに。
『そなたが泣いていたからだろうが。…あの子はそなたが呼ぶ声が泣いていたから心配しているのだ。…全く。情けない奴め』
『…………』
瓦礫に爪を立てて抵抗していたヴェローニカの姿を思い出した。ユリウスが泣いていたから、あのようなことをしたのだ。
『あの体はどこで手に入れたのだ。他にはないのか』
『…マリオネットか。他にもあるにはあるが。あれは魔素金属でできているから、私の力だけでは憑依できない。できてもすぐに弾かれると白夜が言っていた』
『じゃあどうやったのだ』
『ヴェローニカが血で定着させてくれた。元々あれは傀儡人形だ。だからそのように血で契約を結ぶようにできている』
『なるほどな。ではとりあえず新たな体は、吾の血で契約しておけ』
『…ツクヨミが?』
『そなた一人では無理なのだろ?ならば吾が契約するしかなかろうが。体無しではあの子を助けにも行けぬ。…あれに戻りたければあとであの子に契約し直してもらえば良いだろう。魔素金属なら魔力を満たせば破損箇所も自動補修されるのだろう?ならばそれはあの子を取り戻してから成せば良い』
『…それはそうだが。…あれには今は戻れないか?』
『戻るにはあの子の血が必要なのだろう?新たに吾とあれで契約するなら、あの子が与えた以上の血と魔力を与えねばならぬ。いわゆる契約の書き換えだ。あれはあの子の血がだいぶ満たされているからな。今の吾には無理だな。新たな体で契約した方が早い』
『そうか…』
ユリウスは残念そうに視線を落とす。
『仕方あるまい。それともそなたは留守番でもしておくか』
『ふざけるな。ヴェローニカを救うのは私だ』
『…ふ。ぬかせ』
それまで弱っていたはずのユリウスの反論に、ツクヨミは可笑しそうに尻尾を振り、シタンシタンと地面に叩きつけた。
『ヴェローニカの血はほんの少しでもかまわないか?』
『ん?まあ……そうだな。あの子は魔力が豊富だから、すでに契約したあれに入るだけなら少しでも足りるだろうとは思うぞ。いつものように進化させるのが目的ではないからな。要は主の認証として必要なのだ。だがあれの魔力は今は空だ。入れたとて、その後の維持にはやはりある程度魔力がいるだろう』
『…試したいことがある。私は一度戻るぞ、ツクヨミ』
『……?まあ、良いが。あまり長居はできぬぞ。あそこはここよりさらに魔素が薄いのだからな。今まではあの子がいたから、そなたはあんな場所にいられたのだ。だがまあ、今はまだ死体の魔素溜まりが残っているかもしれん。あまり質は良くないがな』
『ん?…そう言えば、ここはどこだ』
『今頃か』
きょろきょろと広い庭園を見渡すユリウスに、やれやれ……とツクヨミはあの後の説明をしてやった。
一通り説明を終えたツクヨミは考えを巡らすように青い空を見上げて、シタンシタンと尾を振る。
『そなた、魔素溜まりがある場所などに心当たりはないか。用が済んだらここを離れて、手っ取り早く魔力補給をせねばならん。魔獣を食らうにも、この辺りにはあまりいないだろう』
魔素溜まりと聞いて、ユリウスが知るのは一つしかない。
『それなら、プロイセにある。別のマリオネットもそこにある』
『そうか。…プロイセ、か。なるほど…』
プロイセは古戦場跡地だ。大量の血と屍、怨念が流れ、染み込んだ土地。そしてユリウスの故郷。確かに魔素溜まりがありそうだとツクヨミも同意した。
『では、行くぞ、ユリウス。まずはそなたの体と魔素の補給が肝要だ』
ヴェローニカを置いて王都を離れるのは身を引きちぎられる思いがしたが、今は致し方ない。
ユリウスはツクヨミの提案を呑むことにした。
◆◆◆◆◆◆
《コンラート・ネーフェ》
『つまり、襲撃者は神殿で間違いないのだな』
「はい。ご説明した通り、使われた魔導具は神殿所持の宝物である法具であるそうです」
『儀式で使用する法具か…。だが証拠品を押さえた訳ではない。いくらでも言い逃れられるのではないか?』
「…それは…。しかし、護衛騎士達が法具の鈴の音を聞いていますし、クリスティーネ嬢の手土産に睡眠薬が入れられていたのは事実です。それだけでも神殿の関与を…」
『それは騎士の空耳で、また令嬢の独断と言われれば言い逃れはできる』
「…………」
コンラートは侯爵の指摘に、左腕の通信魔術具を見つめたまま顔をしかめて押し黙る。
『確かなのは令嬢の悪意のみ。残された魔導具や死体は神殿に繋がるものではない。できるのはファーレンハイト辺境伯家への抗議と責任追及。それから拉致された少女の首の裏にあった魔法陣と騎士の聞いた鈴の音が神殿所有の法具が使用された証だとして神殿の悪行への訴状を王室に届け出ることはできるが、人証のみで物証がないため退けられる可能性も高く、そうなれば敵対貴族の非難も受けるだろう。それを受けて、いわれのない侮辱だ、などと神殿にも強く出られる』
執務室の窓の外からは、今だ邸宅の周りから漂う血の臭いが初夏の生温い風に乗って運ばれてくる。
嫌な気分がまとわりつく。
黒衣の襲撃者達の死体は、朝のうちに片付けられた。今は集められた護衛官達が、邸宅中に残された証拠品の捜索をしている。
「…………」
『だが……そうだな。それでは面白くはないな』
「侯爵様…」
『エーリヒはどうしている』
「まだ、お目覚めではありません。容態は一進一退です」
『そうか』
「…………」
『確か……魔力回路の許容範囲を超える魔力が流れるのが原因だったな』
「はい。そのように、伺っています」
『それは魔力量が多い者の成長期に見られる症状だな』
「そのようです」
『そうか』
「ですが、もしそうでも通常ならこのように長期間の……しかも昏睡状態にまでは及ばないと神聖魔術師も言っていました。エーリヒ様の体内に流れる魔力量が異常なほどに多く、それも日々増していると。それ故治療が長引くのだと」
『そうか』
侯爵は驚きも動揺も見せず、その症状の詳細すら聞き返さずに、しばらく淡々と「そうか…」としか繰り返さなかった。コンラートはそれを少し不審に思う。
(エーリヒ様の容態に無関心という訳ではないだろう。であれば、侯爵様は何か心当たりでもあるのか。)
エーリヒの体内魔力量が増大している。そのことに神聖魔術師であるフェリクスが驚愕していた。高位貴族が、しかも魔術師団エリートの稀有な紫眼持ちが驚愕するほどの事態なのだ。さらにその彼が、魔力の質が尋常ではないと治療しながら漏らしていたのを、コンラートは側で聞き取っていた。
(魔力量と質…)
――『む?なんだ、知らんのか。自分の主の馬鹿げた魔法適性と魔力量を』
――「ツクヨミ、それはエーリヒ様が話すことです。それ以上はいいわ」
――『む……そうか。なるほどな』
コンラートはエーリヒが倒れた日のツクヨミとヴェローニカの会話を思い出した。
(ヴェローニカ様も何かご存知なのか…?)
『コンラート』
侯爵がしばらく沈黙したあと、急に女性の声で話しかけられた。
「侯爵夫人。…お久しぶりにございます」
通信魔術具越しで、コンラートは胸に手を当てて畏まる。会話の相手は現在領地にいるエーリヒの父親グリューネヴァルト侯爵ハインリヒから、エーリヒの母親オリーヴィア夫人へと代わった。
『ええ。久しぶりですね。…さらわれたのは、あの子が保護していた……大事にしていた女の子だと伺いました。あの子が倒れる前にもその女の子と話をしていたとか。それは本当ですか?』
「はい。その通りです。夫人」
『何の話をしていたのかしら』
「…恐らく、ヴェローニカ様はエーリヒ様に、この邸宅からの退去についてお話していたのでしょう。その日ヴィンフリート様がヴェローニカ様の商才をお気に召して、養女にしたいと申し出ていたと侍女達からは聞きました。…ヒューイット様と妻合わせたいとも仰っていたとか」
『まあ…』
「しかし、ヴェローニカ様は……それを本心から望んでいるのかどうかは窺い知れません。あの方はエーリヒ様を思って遠慮されているのだと、私は感じます」
『そうなの…?』
コンラートの脳裏にツクヨミの声が蘇る。
――『今のままだとあの小僧、フラれるぞ』
――『あの子は心を殺したのだ。今までのあの子と思い、安易に近寄れば小僧は拒絶されるだろう』
――「…エーリヒ様は二十二歳です。ヴェローニカ様は、八歳なのです。その、男女の情を意味する訳では、ありませんよね。親愛の情…とか、そういう…」
――『くだらんな。だからあれも素直になれんのだ。…まあそれが今回の障害なのだろう…』
――『吾には体内魔素が視えるのだと言ったばかりであろうが。吾を欺くことなどできぬ』
(もう、目を逸らすのは、止めよう。)
コンラートは迷いを捨て、覚悟を決めるように息を吸い込んだ。
「ヴェローニカ様は年齢は幼くとも、大変聡明なお方です。お話すると、とても年相応とは思えないほどの……クリスティーネ嬢などとは比べ物にはならないほどに優れた淑女なのです。…エーリヒ様は、それはそれは……とても大切になさっていました」
『そうなのね……あの子が…』
夫人の声が感慨深く聞こえた。
「…エーリヒ様が目覚められたら、恐らくヴェローニカ様を救出に向かわれます。何をおいても…」
『…………』
「ですから、どうか、侯爵様、侯爵夫人。どうか、お力をお貸しください」
コンラートは誰もいない執務室で、この場にはいない侯爵と侯爵夫人に最敬礼をする。王都から遥か南の地、グリューネヴァルトに向けて、開け放した南側の窓辺に膝をつき、通信魔術具の先で聞いているであろう二人に敬意を示した。
開いた窓から暖かな風がそよぎ、コンラートの淡い藍色の髪を靡かせ頬をなでる。悲嘆に暮れた夜は明け、太陽は力強く真南に向かって昇っていく。
『それは是非会ってみたいですね、侯爵様』
『…そうだな』
コンラートの心に、温かな希望の火が灯る。
「はぁぁ…」
長い長いため息が漏れた。侯爵との通信を終えて、コンラートは執務室のソファーに座り込むと、項垂れるように頭を抱える。
(お二人のことは、実際に目にせず言葉だけで伝えるのは難しい。息子の小児性愛とはとられなかっただろうか。)
「…はぁ…」
再びコンラートは嘆息を漏らす。
(いや、だがしかし、エーリヒ様が目覚めて現状を知れば、明らかに暴走するはずだ。だからやはり侯爵様のご助力は必要なのだ。…魔力量が増大?質が尋常じゃない?今までだって稀有な才能をお持ちだったのに、これ以上の才能を発揮なさるつもりなのか。そんなエーリヒ様を一体誰が止められると言うのか。)
「…あぁ…」
いや、止められない。
あの日子爵邸での会議のあと、“ヴェローニカを危険に晒すことになった”と自らの主君であるジークヴァルトにでさえ楯突いたと聞いた。
自分の知らない内にヴェローニカが神殿勢力に拉致されたなどと知れば、怒り狂うに違いないのだ。
であれば、コンラートの取るべき道は。
エーリヒは天才だ。
この邸宅の者ならば、皆が皆、そう信じて疑わない。だが今までそれは、本人がその能力をこれでもひた隠しにしてきたからこそ、身内の贔屓目として周囲には捉えられてきたのだ。
だが…最近のエーリヒはひた隠しにしてきたはずの自身の能力を少しずつ漏らし始めていた。その様子は護衛騎士達からも聞いている。迂闊にではない。もう面倒だと言わんばかりに。それどころではないかのように。
その一番不可思議な点が、ディーターに使ったという神聖魔法だ。
怪我の具合と回復効果を護衛騎士達の報告を鵜呑みにすれば、明らかにエーリヒは神聖魔法の上位魔法を使用できる。それは適性の稀有な才能であり、さらに上位魔法は神殿の秘匿する技術。適性があったとしても、そうそう使いこなせるはずがないのだ。
…それは、ヴェローニカにも言えることではあるのだが。彼女は聖女という特殊な存在なので、今回は除外しておこう。
そして神聖魔法適性者は総じて紫がかった瞳を持つのが特徴だ。リオニーも淡い紫がかった桃色の瞳だ。クリスティーネもそうだった。そしてフェリクス・ミュラーは鮮やかな紫色だ。だが……エーリヒは亜麻色なのである。少しくすんだ淡い茶系だ。青でも赤でも緑でもない。それは本来であれば土魔法、錬金術の適性なのだ。
確かに魔力操作については錬金術師や傀儡師のように器用ではある。だが全く紫色とは関係がない。
そして普段から好んで使う風魔法。それ故エーリヒの適性は風魔法と思われてきたのだ。だがそれも大っぴらには使わず、今まで下位の魔法しか見たことがなかった。
しかし、旅の途中で魔獣を燃やしていたと護衛騎士らが見ていた火魔法。ヴェローニカが熱を出した時に使っていたとユリアンが証言していた水魔法と氷魔法。
下位の二元素までならまだしも、上位魔法の氷と神聖を含めて風、火、水の基本の元素魔法全てが使える人間なんて、コンラートは聞いたことがない。
それが可能な人間がいるとすれば、もはやそれは……初代王ヴァイデンライヒ。
だが。エーリヒはグリューネヴァルト侯爵家の三男。古い時代に降嫁した王族でも先祖にいたのかもしれないが。そんな遠い血縁の影響が今頃エーリヒに?そんなこと……あり得るのか。
それにそもそもあの光の魔剣はエーリヒにしか扱えない代物だ。
侯爵邸にはエーリヒの魔剣の予備がある。使用人達が試しに触れてみたことがあるが、自分の適性魔法の刃が増幅されて出る仕組みのようで、元素魔法の魔素の色の刃が出る。誰もあのような光にはならないし、斬れ味も全くの別物だ。そしてその出力を維持することすら難しい。
あれは一体何属性になるのか。
しかもあれはエーリヒが学院時代に専攻していた魔導具の授業で製作した魔剣がベースになっている改良版らしい。
(本当にエーリヒ様の才能は恐ろしい。…いや、恐ろしいのは才能だけじゃない。)
「フェリクス卿がいらっしゃるから、もう治療についての心配はなくなった。あとはエーリヒ様が目覚めるだけ。だが……エーリヒ様の目覚めは待ち遠しいが……恐ろしい…」
エーリヒが目覚め、ヴェローニカが神殿に奪われたこの状況を知ったら。エーリヒは一体どうするのか……
それを止められないだろうコンラートは、もうエーリヒの暴走を止めるのではなく、暴走の程度の制御とその後始末をどう収拾をつけるべきなのかに重点をおいて悩んでおいた方がいいだろう……
(今から補佐官達と相談する必要があるな…)
『はははっ、そうだな。あれは本来、気性が激しい。怒り狂うだろうな』
突然聞こえた声にコンラートは驚いて反射的に身体を波立たせ、抱えていた頭を離して声のした方を見た。
開け放たれた窓辺に、黒い猫が一匹佇んでいる。
「ツクヨミ様……お戻りですか。今まで一体どこに…?」
『木偶が……いや、ユリウスがもうここでは消えそうだったからな。少し離れたのだ。あれが消えたら、あの子が悲しむからな』
「ユリウス様は、ご無事でしたか?」
『まあ、なんとかな』
「そうですか。それは良かった」
(これで少しはウルリカ達も落ち着くだろう。もしあれでユリウス様が消滅などしていたら、一生悔いていたかもしれないからな。)
「それで?…一緒ではないのですか?」
『部屋に戻ったはずだ。今は少し回復したから、あの体に戻れるか試したいらしい。だがもし戻れたとしても、今までのようにはここにはいられん。魔力が足りないからな。元々ユリウスはあの子がいなければ、王都では体を維持できないのだ。だからすぐにまたここを離れなければならない。魔獣や魔物が王都にいられないのと同じよ。まずは魔力の補充をせねば話にならん』
「そうですか…」
(…となると、あとはやはり…)
『大丈夫だ。あの子は無事だ』
「あの子とは、ヴェローニカ様ですか?今はどちらに…」
『あの吸魔石のある神殿とやらの地下監獄だ。あそこに鎖で繋がれていた』
「地下監獄……ですか?神殿には異端者達を閉じ込めておく牢獄があると聞いたことがあります。…まさか、そこに…」
(年端もいかない少女に、神官達はなんということを…)
コンラートはその様子を想像して憤る。
『吾らはあの子を救出する。だがまだその時ではない。何せ魔力が足りなくてな。……情けない話よ』
「…………」
『小僧の回復もなんとかなっているようだな』
「はい。お陰様で」
『ならばよい。…あの子が心配していた』
「……?ヴェローニカ様が、ですか?」
『あの子は今、強い催眠状態でな。まだあれから意識も戻ってはおらん。隷属の首輪も着けられた上に、魔力制御の指輪も外されていた。だからユリウスとの眷属の繋がりも切れたし、索敵魔法にもかからない状態だ。…だが先ほど吾が印を施してきた。だから吾とはリンクしている。どこにいても、あの子の状態や感情が手にとるようにわかるのだ。何かあれば知らせよう』
「…そんなことが…」
『言っただろ、吾は超常、と』
「…っ…」
コンラートは目を見張り、息を呑んだ。
ツクヨミが昨晩、不可思議な能力を見せたとウルリカから聞いていたことを思い出す。
『だが権能は使えても、魔法がまだままならん。まあ、ないとは思うが、うぬらもあまり焦らず今は態勢を整えよ。あやつらはあの子の血や魔力を搾り取り、催眠状態を維持していた。本当は洗脳したいようだが、あの子は抗っている。…殺すことはないだろう』
(血と魔力と洗脳……そのためにヴェローニカ様を拉致したのか。なんて惨い…)
「あの、ツクヨミ様!昨夜の襲撃が神殿の仕業だというれっきとした物的証拠が欲しいのですが、何かありませんか?言い逃れできないようにしたいのです。確実に神殿を糾弾し、攻め落とすために」
ツクヨミはふわりと長い尾を揺らす。ただそれだけの仕草が何故か妖艶に見える。
『げに……人間は面倒だの。吾には明白だが、大義名分がいるか。あの子があそこから救出されれば証拠とはなるだろうが。…はて』
「ツクヨミ様には明白というのは、何故ですか?」
『吾には視えるからな。あの子が神殿にいるのがわかる。ふむ……神殿との見える繋がりか。あの不届き者どもは魔力遮断の衣服をまとっていたな。そもそもの魔力も弱い奴らだが。さっき死体も視たが、あれらは全て洗脳されている。あの子に使った手段と同じだ』
「洗脳……では、ヴェローニカ様に使った魔導具の使用形跡があるのですね。…フェリクス卿にもわかるでしょうか?」
『あの紫眼の坊主か。…どうだかな。聞いてみよ』
「はい」
『奴らはあの子を洗脳し、思うように動かせる傀儡としたいのだろうな。今朝も牢獄で鈴を鳴らしていた』
「聖女の力を操りたいということでしょうか」
『噴飯物よの。人の分際で、神の子を従わせようなどと……片腹痛いわ……』
ツクヨミのおどろおどろしい声がして、コンラートは再び生唾を呑み込んだ。
『あれらの死体は、洗脳することで身体の限界値を超えさせる用途のようだったがな』
「限界値、ですか?」
『肉体の限界を超えさせるのよ。超人の力を出させ、痛覚を麻痺させ、死への恐怖心をなくす。超人の力と言えば聞こえはいいが、限界を超えて力を発揮させるとなると当然肉体は壊れる。でなければ限界値などある訳がないだろう?それだけ死が早まるということだ。もはやあれは人ではなく、ただの兵器だな。それこそ命令に背かない傀儡の人形よ』
「そのような非道を、神殿が…」
『ほんにな。不正を嫌うあれを崇めている集団とは思えん所業よ。…まあ、知らぬのだろう。それほど今の人間に興味がないのか……もしくは全て知った上で、見限ったのか』
「あれ……とは?」
どうせまたいつものように話ははぐらかされるとは思いつつも、つい口をついていた。本当に、昼間の猫の瞳孔は、夜のそれとは別物だ。
『あれか?あれとは、あれよ。…ふむ。吾はいつもそう呼ぶからな。…彼奴らが崇める者のことぞ』
(彼奴らが崇める者?神殿のことか?神殿の神官達が崇める者とは、初代王ヴァイデンライヒと…)
『…ああ、うぬらは確か、こう呼んでいたか。…“アプト”と』
「…え?…」
――アプト――
それはこの王国の神であり、大陸を統べる龍神の名だった。