185.歔欷(2)
《コンラート・ネーフェ》
「私は一人でも行くぞ、コンラート。早くしなければ、ヴェローニカ様はどこかに連れて行かれてしまうかもしれない。今ならまだ王都の神殿にいる可能性がある」
「早まってはだめだ、ウルリカ。相手が手強いのはお前にも十分にわかっているはずだ。…せめて侯爵様に協力を仰いでから――」
「では早くそうしろ、コンラート!侯爵様に竜騎軍を動かすよう進言してくれ!それで奴らを、王都神殿を攻めるんだ!」
「落ち着け、ウルリカ。侯爵領の竜騎軍なんてここに呼んだら、反逆罪だ。それじゃあ神殿どころじゃない。…王家と戦争になるぞ。わかってるだろ」
コンラートに食いかかるように興奮したウルリカに、近くにいたリーンハルトが諌めたが。
「ああ、そうだ。戦争するんだよ。何が悪い。先に攻めてきたのは向こうなんだぞ、リーンハルト!…お前のように……どうせグリューネヴァルトの竜騎軍が王都に来ることはないと、奴らは高を括っているんだ。…神官共め……根絶やしにしてやる…」
奈落を這うような恨みがましい声だった。
コンラートは侯爵邸の応接室にて集まった護衛官達と、現状の把握と今後の対策について話し合っていた。
ウルリカらしくない。こんなに取り乱すなど。
だが無理もなかった。ウルリカは唯一あの場にいた。ユリウスが戦闘不能になり、ヴェローニカが奪われた、あの凄惨な場に。
増援がようやく侯爵邸に着いて、ヴェローニカの部屋に駆けつけた時には、すでに全てが終わっていた。
そこはまさしく地獄。戦場となったバルコニーは落ち、香り高い初夏の花々が見頃だった眼下の庭園には瓦礫が散乱し、無数の死体と肉片が飛び散り、血の池ができていた。むせ返るような血生臭さと鉄錆の匂いで辺りは充満していて、気を抜くとえずきそうなほどだった。
そこで負傷して動けなくなっていたウルリカは、自分でもその場で多少回復魔法を施していたようだが、今はリオニーや魔術師団の神聖魔術師によって回復した。
鬼気迫る熾烈さで侵入者達を次々と殺戮していたユリウスがようやく死んだと見ると、敵は戦略を変更して退き始めた。速やかな撤退を優先させたために、回復魔法を使って戦っていたウルリカには止めを刺さなかったのだろう。
エーリヒの方は護衛騎士達がなんとか守り抜き、治療を施して、今はまた、穏やかに眠っている。
「ウルリカ。気持ちはわかるが……お前の無駄死にをヴェローニカ様は許さないだろう」
「っ…」
ウルリカは顔を歪ませた。
本当は本人も十分にわかっているのだ。ウルリカは自分を罰したいのかもしれない。だが、そんなことは許可できない。
「では……どうするのだ、コンラート」
「…わかっている。だが、ユリウス様でさえ、ああだったんだ。またあの吸魔の魔導具を使われたら、どうしようもない。何の策も講じずに闇雲に動いても、徒労に終わるだけ。それどころか、次は犠牲が出るだろう。…ヴェローニカ様を殺すつもりはないはずだ。だからもう少し待て。できる手は打つつもりだ」
コンラートも無念だった。神殿勢力に高位貴族である侯爵家が襲撃を受けるなど、前代未聞だ。さらわれたヴェローニカの身も心配だ。だが、だからといって自棄になる訳にはいかない。
(こちらにはまだ、エーリヒ様がいらっしゃる。エーリヒ様さえ、お目覚めになれば…)
まだ目覚めてもいないエーリヒを頼るなど、他力本願であることは否めない。侯爵には状況を伝えたが、どのように対処してくれるのかはまだわからない。
相手は神殿。信者は王国中にいて、後ろ盾は王室だ。いくら侯爵でも、下手に手を出す訳にはいかないだろう。息子のエーリヒは襲われはしたが、無事だったのだ。使用人達もかろうじて死者は出なかった。唯一奪われたのは、侯爵とは縁のない、ヴェローニカのみ。
(だが、エーリヒ様はそうじゃない。エーリヒ様は、きっと…)
「ヴェローニカ様の仰った通りだった。悪人には狂気じみた覚悟がある。ならば悪人の目線で、悪人の手段をもって、こちらも挑まなければならなかったのだ。…清いままでは勝てないと、ヴェローニカ様は仰った。世界は優しくないのだからと」
(ヴェローニカ様が、そのようなことを…)
「ジークヴァルト様には現状を伝えた。こちらでも対処するだろう。それまでは早まるな。安易に動けば……卿の言ったように謀叛と見られるだろう。それこそ神殿どころか王家の思うつぼだ」
ギルベルトは顔をしかめる。
彼は今のような顔をして、庭園でただの傀儡人形と化したユリウスの有り様を見下ろしていた。
「ハインツ卿が王都門の検問を厳しくしてくれている。そう簡単には王都からは出られないはずだ」
ギルベルトの話を聞いて、コンラートは幾分か安堵する。それにはウルリカや他の侍女、護衛騎士達もほっとしたように緊張を和らげた。
「もしかしたら、ユリウス様とツクヨミ様は、すでにヴェローニカ様を探しに行かれたのかもしれない…」
テーブルの上の拳を握りながら、ウルリカが苦渋の表情を滲ませる。
「ユリウスとやらの体は、もう動かないのだろう?」
ギルベルトの質問に、コンラートが答える。
「ユリウス様は元はゴーストだと聞いていますから、もしかしたら今はその状態で彷徨っているのかもしれません。誰もあの状態のあとのユリウス様には、会っていないので」
「……あのまま消滅した可能性は?」
「……わかりません。王都は魔素が薄い。魔物には酷な場所だとは聞いています。ですから……その可能性がないとは、言い切れません」
コンラートが首を振ると、腕組みをしたギルベルトが顔を一段としかめた。この場に集まっている皆の顔色も暗くなる。
現在、ユリウスとツクヨミの消息はわからない。
ユリウスのことは心配ではあるが、消滅してしまったのであれば、もう何もできることはないし、自分の意思でいなくなったのであれば、なおさらだ。ツクヨミに関してもそうだ。ならば今は、コンラート達には他に考えるべきこと、やるべきことがある。
侯爵邸は今、ギルベルトの連れてきた伯爵の護衛官達と、ヴィンフリートの邸宅から来た護衛官達で守られていた。
昨夜戦闘に加わっていた使用人達は、治療を済ませて休ませている。日頃の訓練に精を出していたからか、重傷者はいたものの、ジークヴァルトの要請で駆けつけてくれた神聖魔術師に治療してもらい、幸い死者はなかった。
比較的、戦闘向きではなかった料理人達は、何故かあれだけの騒ぎの中、眠っていたようで、こちらも無事だった。
話を聞くと、どうやら昨夜捨てようと厨房の隅に置いておいたクリスティーネの菓子折りを料理人の誰かが見つけて、今王都で話題の菓子の味への追究心から、仕事後、皆でそれを食べたらしい。それには時間差での催眠作用があったようだ。
神聖魔術師が残っていた菓子と料理人達の体内に残る毒素を調べて、それを判明させた。毒を暴く魔導具でも検出できない類のものだとは。
コンラートの脳裏には、王妃の家門、ハインミュラー公爵家がちらついた。王妃は毒を扱う。それで王の愛妾達を始末しているという噂は、貴族の間では昔から有名だ。
神殿は王室よりの勢力だと言われている。ならば王妃や王太子の助力があっても、不思議ではない。
致死性の毒ではなくて良かったが、それは決して優しさなどではない。あの場で毒により誰かが死んでしまったなら、侯爵邸全体で警戒されてしまうため、そうしたのだろう。何より神殿の大事な存在であるヴェローニカが口にする可能性がある。
いずれにせよ、致命的な毒薬ではなかったことは、不幸中の幸いである。
さらにウルリカの話では、ユリウスの背中に魔剣を突き立てた男は、顔や身体中に魔術刻印が刻まれていて、しかも紫眼であり、雷魔法を放ったという。それは護衛騎士やギルベルトの話だと、ハインミュラー家門による魔術刻印の実験体。つまり、神殿の裏には王家とハインミュラー家が絡んでいるようだ。その上、紫眼までも人工的に造っている可能性がある。
“昨夜の襲撃は神殿だ”という証拠はあるのかと侯爵に尋ねられたコンラートは、昨夜の時点では心証しかないことを告げていた。だがこれで少しずつ、ハインミュラー家門と神殿、そこに属するクリスティーネの悪意と脅威を証明できるはずだ。
(こういった細かな証拠も重要だ。神殿という大きな組織を本気で攻めるなら、正当性がどうしても必要になる。時間をかけてでも。恐らくヴェローニカ様は、殺される心配はない……はず。)
「そうだ、コンラート。あの時、ヴェローニカ様の首の裏には何かの魔法陣のようなものが光っていたんだ。ヴェローニカ様は首輪を着けられていた。あれはツクヨミ様が着けられていた首輪と同じだろうが……あの魔法陣は、一体…」
ウルリカが思い出したように話すと、それまで心痛そうに眉をひそめて話を聞いていたフェリクスが口を開いた。
「彼女の様子はどうでした?ちゃんと意識はありましたか?受け答えはできていましたか?」
「え…?いや。何度もユリウス様が呼びかけていたが、全く。私も呼んだが、反応はなかった。だが……引きずられていく時にユリウス様に呼ばれて、少しだけ抵抗していたようだ……瓦礫に、爪を、立てて…」
それを聞いた誰もが表情を歪めた。ヘリガやリオニーは俯いて涙ぐんでいる。
二人は夜番をしていたウルリカとは交代で休んでいたため、廊下で鉢合わせた侵入者の排除や倒れている者達を介抱したりして、ヴェローニカの元まで行くのが遅れた。そしてそれを自身が責めているために、先ほどから何も発言できないでいる。
だがヘリガとリオニーが襲撃者や負傷者を避け、ヴェローニカの元へと直行していたら。きっと、他の使用人達に犠牲が出ていただろうと、コンラートは思う。そしてそれは、ヴェローニカが知れば、悲しむだろう事態だと。
「それは恐らく……神殿の法具によるものですね」
フェリクスの神妙な声に、その場の皆が魔術師団の貴重な紫眼の魔術師である彼を見た。
「法具…?」
ギルベルトも聞いたことがないようだ。
魔術師団には魔導具の研究や開発をする部門があり、加えて王国内で押収される特殊な魔導具類も目にする機会がある。フェリクスは紫眼での解析や開発の助言などを依頼されるため、その手の物には詳しかった。
「神殿の宝とも言える貴重なアミュレットの一つです。それは鍵と鍵穴のように対となって作用するもので、一つはブレスレット、一つは鈴や音叉のような決まった音の鳴る魔導具なんです」
「対の魔導具…?どうやって使うものなのだ?」
ギルベルトの疑問に、フェリクスは先を続ける。
「ブレスレットを着けた者が対象者に直接触れて、法具の魔力を流します。するとその人には精神系の魔法陣がセットされる。もう一つの鈴や音叉の音を聞くと潜伏していた魔法陣が起動し、その人は催眠状態になる。そうなるとあとは、音を鳴らした者の言いなりです。魔法陣を起動するまでは、僕のこの眼でも仕掛けられたことがわかりませんでした。注視すれば……違和感はあるのかもしれませんが…」
「そんな魔導具が神殿にはあるのですか?精神系の魔導具というと……まさか…」
驚いたのはコンラートだけではない。皆がそれぞれに驚愕の表情を浮かべている。
「そのまさかです。深く瞑想状態に入り、悟りを得るための神殿の儀式で使われる、とは聞きますが……悟りなんて…」
フェリクスはハッと蔑むように笑って、「要は体の良い、洗脳ですよ。信者を従わせるためのね」と顔を歪めた。
以前から神殿では、信者を洗脳している疑いがあったが、その証拠は挙がらなかったという。だが今回、隷属の首輪を扱う組織を調査する上で、一部で魔獣や奴隷の洗脳にも使われていた魔導具の存在が明らかになってきたと、フェリクスは語った。
「待ってよ。じゃあ、あの時聞こえた金属音って…」
ディーターが机に手をついて前のめりになり、エリアスを見た。
「襲撃前に外で金属音が鳴っていた。…何か、鐘を打ち鳴らすような」
エリアスも当時を思い出すように、ディーターに続いて補足した。
「ということは、すでに魔法陣は仕掛けられていましたね。その下準備があって、襲撃を決行したのでしょう。それでうまく洗脳できたなら、抵抗なく拉致できますから」
「すでに仕掛けられていた…?ヴェローニカ様に…?どうやって…」
コンラートは呆然とする。
「あの時だ……あの、女だ…」
ウルリカが目を見開き、うわ言のように呟く。
「やはりあの女だ!あの女だったんだ!…クリスティーネェッ!!」
ドカン!と怒りに任せてテーブルを叩く。固く握りしめた拳の下には、亀裂が入った。
「……」
ウルリカの剣幕に周囲が痛ましそうに口をつぐむ。
蹲ってしまったウルリカは、「っ…」と肩を震わせる。隣にいたリオニーが涙ぐみながら、彼女の丸まった背中をさすった。
「皆はあれを、見てないから……ユリウス様達の、あの、最後を…」
彼女の押し殺したむせび泣く声が、重苦しい空気の漂う部屋を包む。
クリスティーネが侯爵邸を去る時、その別れの挨拶を許したのは、コンラートだった。
(私はまた……判断を誤った…)
取り返しのつかない己の不覚に、コンラートは忸怩たる思いに駆られ、身を震わせた。慚愧に堪えない。
エーリヒだけは守れたと、思うことなど、できない。
コンラートは瞑目し、後悔を呑み込む。そして静かに返報を誓う。騎士ではなく、執事としてのやり方で。
「これで、襲撃者は神殿であるという証拠は揃いました。改めて私から、侯爵様にご報告致します。…あの時、謝罪したいと請われたからとはいえ、クリスティーネ嬢をヴェローニカ様に会わせてしまった責任は、私にあります。責めは、エーリヒ様がお目覚めになってから受けます。今は……ヴェローニカ様をお救いする術を考えなくては」
◆◆◆◆◆◆
《ツクヨミ》
朔の夜は、人間よりも魔素に敏感な魔物や魔獣にとって、魔力に飢える刻。
月光は魔力に大いに関係する。太陽の光とは植物を育み、月の光とは魔素を育む。魔素生成量は月齢によって変化するのだ。
月光は太陽光の反射。“始まりの神”の力は今だ絶大である。
――過ぎたるは猶及ばざるが如し――
彼の力は生物には直接取り込むことは不可能な劇薬。“始まりの神”の過ぎた狂愛を受けて、“月”は万物の根源である精霊に慈愛を与える。それが魔素を育む月光の正体である。
そして高濃度の魔素は世界の亀裂を生み、異次元の門を開く…
貴族街のとある侯爵邸で深夜繰り広げられた戦闘によって、その夜、多数の死者が冥界の門をくぐった。
現世に大量に流れ出た血と転がった死体の山には、魔素溜まりができる。それが彼の消滅を一時的に留めてくれた。
だが王都の貴族街には、巨大な吸魔石が二つある。あれが魔素を、精霊を、万物の根源を、吸い尽くす。
王都の民はことごとく、あれに生命力を吸われている。
もう幽体も保てず、霞のように危うい魂の状態で、彼はずっとうわ言を繰り返している。
『ヴェローニカ……ヴェローニカ……』
すすり泣くような弱々しい悲痛な泣き声が、夜の闇に溶けて消えていった。
黒猫は暗闇に紛れて消滅寸前の魂を咥え込んだまま、塀の上を風の如く駆け抜け、跳び移る。
(急いで貴族街から離れなければ。今宵は魔力を消耗し過ぎた。こやつも、吾も。)
『いつまで泣いている。その形で行って何ができるのだ。そうやってあの子を前に、ただ泣くのか。本当に消滅するぞ。…それで良いのか』
『……』
『まず吾らに必要なのは、魔素だ。魔力だ。そしてそれによる体と力だ。あやつらはどうせあの子は殺さん。ならば遣り様はある。だが何を成すにも、まずは強くなるしかない。そして…』
黒猫ツクヨミは――遠い昔、かつて自身が築いた集落にて、権能を分け与えた人間達に“ヴェールテ様”と崇められていた冥界の王は、自らの支配すべき闇夜に跳躍する。
『あやつらを八つ裂きにするのだ。思い知らせてやるぞ、神の怒りというものを。勝手に神だ何だと祀っておきながら、神を敬う心を無くしたあれの愚かな信者共には、神罰を与えてやらねばならぬ。…なあ、ユリウスよ』
ツクヨミとユリウスはヴェローニカが奪われた夜、王都の外郭の近くにあるハインツの子爵邸まで逃げ延びていた。ユリウスが消滅寸前まで追い詰められ、ツクヨミが意識のないユリウスをそこまで運んだのだ。
子爵邸はツクヨミも一度ヴェローニカとともに訪れているので、魔素の程度も把握しているし、勝手がわかる。
王都の貴族街の辺りではもう魔素が薄すぎて、魔導具に魔力を吸われ続け傀儡人形から弾かれたユリウスには、もはや幽体状態すら保てなかった。人魂のような今の状態で、王都を彷徨うのは自殺行為だ。
王都の外郭の結界石は外側に向けて効果があるように設置されてはいたが、外郭に近づきすぎたり、さらには外郭を越えると、結界石の影響が強まり、魔素が乱れる。それも今はあまり望ましくない。
ツクヨミはこの邸宅の主を探したが、火の魔素の持ち主の気配はない。まだ明け方であるにも関わらず使用人達の慌ただしい様子は、侯爵邸での凶報がこちらにも届き、対応に追われているのだろう。
『是非もないか…』
不安定なユリウスの魂を一時預けられればと思ったのだが。
一先ずは庭園の草陰に隠し、彼の意識が回復するまでに、ツクヨミは一度また貴族街に戻り、ヴェローニカを探しに行った。
ヴェローニカの気配は今までになく弱まっていて、神殿に近づくまでは微弱にしか感知することができなかった。それでもツクヨミだからわかるのである。それは彼女の権能に関わる能力だったからだ。
まだ日の出前に神殿の敷地に忍び込むと、どこからか憶えのある純音が聞こえ、誘われるようにツクヨミはそちらへと向かう。
建物の下部、鉄格子の入った小さな穴の向こうの石壁に蝋燭の灯りが揺れて見えた。饐えた臭いの漂うその通気孔から覗くと、中には神官らしき白や黒の法衣をまとった男達がいる。白い方が潜在魔力がいくらか高いようだ。
ヴェローニカは半地下の牢獄で鎖に繋がれていた。いまだ首の後ろには魔法陣が浮かび上がり、ツクヨミも着けられていた隷属の首輪で魔力を絶えず吸われ、彼女を慈しむように護っていた虹色の魔素も、もはや薄膜のような弱々しい状態で寝台の上に横たわっている。
「やはり洗脳状態には移行しないようだ」
「魔力抵抗が高いのでしょうか」
「これだけ魔力を吸い上げているのにか?」
男達の手元の台の上には、いくつか魔力の満ちた虹色の魔石が転がっていた。そして透明な密閉容器に高魔力の赤い液体。それらを、太陽に蛇だか龍だかが絡まり、自らを飲み込むエンブレムの入った箱にしまう。
(この子の魔力結晶がこやつらの目的か。)
全てを手に入れたと驕る人間が、最終的に望むものなど、いつの世も決まっている。どうせまた、不老不死だろう。
(懲りない奴らだ。…くだらん。)
だがそうなると、プロイセを滅ぼしたのは、こいつらか。あそこにはレーニシュが気まぐれに加護として与えた『知恵の実』があったはず。
プロイセの滅亡後にできた『吸魔石』。ツクヨミをも煩わせた『隷属の首輪』。ユリウスを消滅寸前に追い込んだ『吸魔の綱』。ヴェローニカを催眠状態にした『催眠の法具』。その全てが、“原初の神々”から与えられた『知恵の実』を奪った犯人だと示している。
(蛇か……業が深いことよ…)
ならば、ヴェローニカの血液という高純度の魔力結晶から造ろうとしているのは恐らく、奇跡を叶える『賢者の石』。ヴェローニカが神威を宿す仮の器であると知っているのか。それともただ、“エルーシアの聖女”としての認識なのか。
いや、深読みのし過ぎだろう。どうせこやつらはエルケの正体すらも知らぬ。
(この子の魔力結晶は驚異的な力はあろうが……うぬらがどう足掻こうが、喉から手が出るほど欲する不老不死の霊薬『生命の実』など、永遠に手には入らんよ。)
ツクヨミの黄色い瞳が冷たく光る。牢の天井近くの通気孔から、ツクヨミはしばらく人間達を見下ろしていた。
人間達が去った後、ツクヨミはヴェローニカのもとへ下りて、粗末な木の長椅子のような寝台に上がった。
ヴェローニカの血だらけの右手には、いつもしていた指輪がない。
どうりで魔力が不安定な訳だ。
あれは聖女の魔力の制御を補助する魔術具である。それは魔素に護られた者にしか機能しない。未成熟な身体では泉の如く湧き出る魔力が安定せず、そのまま魔力が溜まりすぎると暴走の恐れもある。今は首輪に吸われて、溜まりようがないが。
魔力が安定しないということは、それがヴェローニカであると認識できないのと同義だ。
つまり今の彼女は魔力を安定させる指輪もなく、魔素や魔力を吸い取る首輪を着けられ、さらに魔力の流れを阻害する催眠状態という、外部には感知されづらい状態であった。
だがそれすらもその視界に収めれば、ツクヨミには視える。そして加護の印を与えれば、“宵闇の眼”には全てが看破される。
しかしそれは、闇の精霊王であり神格の獣、ツクヨミの権能を分け与えるということ。
『……』
もっと早くからこうしていれば良かったのだ。くだらぬこだわりなど、捨てて。であればきっと、今宵のこの子のあの不安定な状態にも、原因があったとわかったはず。
彼女の涙の跡を見て、拭ってやりたい衝動が起きたが、自分の舌には糸状乳頭があり、舐めると脆弱な薄い肌には痛みが生じることを思い出す。仕方なく彼女の涙の跡に、小さな黒い頭をすりすりとこすりつけ、額をペロペロと舐めた。
ヴェローニカの意識は戻らなかった。細い指先は痛々しく爪が剥がれて、削れたように血がこびりついている。催眠状態にあり、正体を失いながらも、抗った痕。
『……チッ……』
何を成すにもまだ、ツクヨミには魔力が足りなかった。
変化してこの子を連れ出すことも、あの強欲な人間共を食い散らかすことも、催眠を解いてやることも、満足に治療してやることすらできない。それは隷属の首輪で長期間魔力を吸われ続けたことや、今夜が新月であること、何より、永らく魔素の薄い人の世にいた弊害でもあった。
このままここにいても、すぐには意識は戻らないだろう。それよりも早くユリウスのもとへ戻らねば。
…起きたらあやつが何をやらかすかわからない…
『これだから人間とは、面倒なのだ…』
冷えた地下牢の空気に、そのぼやきは溶け込む。
ツクヨミはヴェローニカに印だけを残し、その牢獄の一際濃い影の中に身を沈めるように、トプン…と消えた。