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180.課せられた使命

《コンラート・ネーフェ》




「なんだって?お帰りになったのではなかったのか」


 シャルロッテとギルベルトを見送ったのち、クリスティーネは神殿へ帰ったものと思い、コンラートは使用人達にエーリヒの隣部屋を清掃させようとした。あの様子では挨拶なしで退去しようとも致し方ない。逆に面倒事が減ったと。

 だが、まだ部屋には荷物が残っていると聞いたコンラートは、苛立ちながらクリスティーネの帰りを待つ。また一戦交える覚悟で。




 日も暮れた時刻、ようやく侯爵邸に戻ったクリスティーネはコンラートに来るようにと言付けてきた。

 エントランスに迎えに出ると、話があるからヴェローニカも連れてきて欲しいと言われたが、それはできないと断った。彼女はムッとした雰囲気を見せたが、少し眉をしかめて、三階の部屋へと向かう。


(なんというふてぶてしさだ。)


 そこはあなたの部屋ではないと苛立ちつつも、コンラートは無表情を心掛けてクリスティーネについていく。



 部屋に戻って悠々とソファーにかけたクリスティーネは、室内魔導灯に照らされた淡い東雲色の髪をなまめかしく耳にかけたあと、コンラートを見つめた。

(なんだ、この目は。)

 コンラートはクリスティーネにどこか奇妙な違和感を覚えた。出て行った時の様子から、もっと怒りを向けられると思っていたのだが。



「私、少し気持ちを落ち着けて参りましたの。ごめんなさいね、コンラート。あなたにきつく当たったことは謝るわ。でも還俗の話があったのは本当なのよ?お父様が今回の治療を機にエーリヒ様との婚約を進めてくれると言うから……」



 クリスティーネはこれまでの言動を謝り、神妙な態度を見せて、今回の経緯の説明を始めた。だがエーリヒの治療を機にということは、やはり神聖魔法での治療をダシに侯爵に婚約を要求したということなのではないのか。だからクリスティーネはあれほど強気に出ていたのではないのか。

 主の意思を蔑ろにする者が、主を慕い婚約者を名乗るとは。

 コンラートにとっては笑止千万、憤懣遣る方ない。



「それなのにあなたは冷たいし、エーリヒ様とはまだ話せてもいないし……だから少し焦ってしまったのね。だって隣部屋に他の子がいるなんて。……でも。そうよね、エーリヒ様も、他意なんてないわよね。まだあんな子供なのに」

 クリスティーネはふっと吹き出して微笑む。それは嘲るような笑い方だった。

「聞けば養子縁組を考えていたっていうじゃない。なのに私ったら、あんな子供に嫉妬するなんて」

 頬を押さえて伏し目がちに嘆息する。


「…………」

(養子縁組の件はどこから漏れたのだろうか。)

 コンラートは不審に思いながらも無表情を貫き、クリスティーネの言い分を黙って聞いていた。


「よく考えたら可笑しいわね。あの冷静なエーリヒ様が、あんな子供を相手にする訳がないわよね。……うふふ。あの子にも悪いことをしてしまったわ。だから謝ろうと思って呼ぶように言っただけなのに……そんなに警戒しなくてもいいじゃない」



 その言動にはいちいち癇に障るが、どうやら本当に少しは頭を冷やして帰ってきたようだ。

 だがクリスティーネは神殿の人間だ。このままここに置いておく訳にはいかないし、エーリヒが庇護したいのはヴェローニカだ。ヴェローニカに危険が及ぶものは許容してはいけないのだと、昨夜コンラートは強く思った。



「申し訳ありません。クリスティーネ嬢。先に申し上げました通り、魔術師団の神聖魔術師を派遣していただくことになりましたので、神殿への依頼はこれにて終了とさせていただきます。…婚約のお話につきましては、エーリヒ様がお目覚めになり次第お伝えさせていただきますので、今回はこのままお引き取り願います」


「お引き取り?今日はもう帰れということ?」

「全てはエーリヒ様がお目覚めになってからでございます」

「それはそうだけれど……もう遅い時間だわ。このままここへ泊まらせてはくれないの?コンラート」

「申し訳ありません」

「……そう」

「…………」


(おかしい。)

 コンラートはクリスティーネを訝しく見つめた。苛立ちも見せずに受け入れている。クリスティーネのこれまでの気性を思うと、「このまま帰れ」と言われて怒りを我慢しているような様子すらないというのは、どうにも怪しいとコンラートは思う。



「では最後にエーリヒ様を治療いたしますわ。今日はもうこんな時間なのだから、魔術師が来るのは明日なのでしょう?それまでエーリヒ様が苦しむのではないかと心配だわ」

「…先ほどすでに処置いたしまして、それには及びません」

「あら?誰が?……あの子?」

「……あの子とは?」

「…………」

 クリスティーネはコンラートを見極めるように見つめている。



「確か、一人いたわね。神聖魔法の適性者が。でもあの子じゃ未熟なのではなくて?……本当に大丈夫なの?コンラート」

「治療方針を変えられた今となっては、うちの者とクリスティーネ嬢とは、治癒効果に大した差は生じないかと」

 コンラートの言葉に、クリスティーネは再び眉をつり上げ声が大きくなる。

「…んまあ…!そんな言い方はないのじゃなくって?コンラート。私の方が間違いなく治癒効果は高いわ!」



「では何故、治療方法を変えられたのですか?こちらとしましては、その高い治癒効果とやらをぜひ使っていただきたかったのですが」

「あれは……ですから……説明したじゃない。急激に回復させると、体に負担がかかるのだと…」

 また癇癪を起こすのかと思ったのだが、クリスティーネは少しバツの悪そうに口ごもる。



 コンラートからすればクリスティーネの一連の行動は、少しでも治療を長引かせようとする意図が見え見えだった。だがそれが、ただ単にエーリヒの側にいたいからだとか、エーリヒの体に触れたいからだとかいう不純な目的からだと思っていたのだが……どこかクリスティーネの様子にコンラートは腑に落ちない。

 それでも今は彼女を侯爵邸から排除することが先決だ。



「それではやはりうちの神聖魔術師で十分なようですね」

「…………」

「明日には魔術師団の神聖魔術師が来ますので、令嬢のご心配には及びません」

「本当に大丈夫なのかどうか、エーリヒ様のお顔を見るのもだめなの?少しだけでいいの。お顔を見るだけよ。何もしないわ」

「申し訳ありません」

「……どうしてもだめなの?……」

「申し訳ございません」


 再度コンラートがすげなく謝罪すると、クリスティーネは悔しそうに唇を噛みしめる。

「…わかったわ。荷物をまとめます」

「ご理解いただきありがとうございます」

 コンラートは礼を示した。




 クリスティーネは帰り際、どうしてもヴェローニカにも謝りたいと言い出した。何かお詫びの手土産を用意していたようだ。

 断りたい気持ちはあったが、最後にエーリヒに会わせることすら拒否したので、謝罪ならばと伺いを立てると、ヴェローニカがユリウスとウルリカを連れてエントランスホールまでやってきた。ヘリガとリオニーはエーリヒの看病などをしているのだろう。



「お帰りになるとお伺いしました。どうぞお気をつけて」

 ヴェローニカが丁寧に挨拶をした。

 それをクリスティーネは何やら無言で見つめていたが、ふと足を踏み出した。ウルリカが警戒し、ユリウスが遮るように近づく。それを見てクリスティーネは躊躇する。


「何もしないわ。ただ謝りたかっただけよ」

 クリスティーネがユリウスに向かって弁明した。一度威圧されたことでクリスティーネも警戒しているようだ。

 先ほどエーリヒに会いたいと言った時もそうだったが、今までの態度とは違って、「自分は無害だ」と訴えたいようだ。少しは反省したのだろうか。



「ごめんなさいね。私が悪かったわ。許してくれるかしら…?」

「……はい」

「そう。ありがとう」

 クリスティーネはふいにヴェローニカの前に屈み込んで抱き寄せた。突然のことにヴェローニカは驚いて、身体を強張らせている。


「おい、姫を離せ」

「何よ、いいじゃない、少しくらい」

 ユリウスから引き離すように、ヴェローニカをぐいっと自分の方に抱き込む。そうやってしばらく抱きしめたあと、近くでヴェローニカを見つめた。彼女の珍しい容姿を観察するような目だった。


 その後はお詫びにと何かの菓子折りを渡して、クリスティーネは馬車に乗り、素直に夜道を帰っていった。




◆◆◆◆◆◆




 その箱は最近王都で流行りの店の菓子折りだったようだ。


「毒でも入っているのではないのですか?コンラート」

「そうよ、きっと毒だわ。そんなの捨てちゃいなさいよ」

「ああ、間違いない。あの女ならやりそうだぞ。私もヘリガとリオニーに賛成だ」



 訪問客達がいなくなり、食堂で遅めの夕食をとって、今は応接室でクリスティーネが置いていった問題の手土産を前に皆で顔を突き合わせていた。

 夜番交代のためにウルリカも戻って来て、護衛騎士達は今夜も交代でエーリヒの警護についている。



「お店で売っている物なら、大丈夫なのではないですか?とりあえず開けてみたらどうです?」

 ヴェローニカがそう言うと、

「開けたら危険な物だったらどうするのです!中身が違う場合もあります。このまま捨てましょう」

 ヘリガが強く反対する。

「そうだな。だが、確認しないというのもな。…まずは毒物かどうかを調べてみよう」


 コンラートは用意していた魔導具を取り出して操作し、箱の上に置いた。すると魔導具が光り出し、それをスライドさせてくまなく箱を調べているようだ。それが終わるとまた別の魔導具を当てる。

 なんだか金属探知機みたい。


「どうやら毒でも何か仕掛けられているわけでもないようだ」

「逆に不気味ね」

 リオニーが胡乱げに呟いた。

 念の為、菓子折りは開けずに捨てるようだ。



 この世界にも開けたら爆発するような危険物なんてあるのかしら。ああ、魔導具ならありそうね。中身を確認しないのもちょっと怖いけれど。

 あの探知機のような魔導具はどの程度信用できるのだろう。

 コンラートは結局、そのままクリスティーネから受け取った菓子折りを下げた。




「今日はまだ隣部屋の清掃は済んでいないので、客室でお休みいただくことになります」

「ええ。急がなくても大丈夫よ、コンラート。お疲れ様でした。今日はゆっくり休んでね」


 コンラートのここ数日の苦労を労うと、彼は珍しく顔を歪めて、ヴェローニカの前に跪いた。

「申し訳ございませんでした、ヴェローニカ様」

「コンラート?何をしているんですか。やめてください、早く立って」

 ヴェローニカは慌てて膝の上にいたツクヨミをソファーに置いてから立ちあがり、コンラートの肩に触れた。


「いえ。あの部屋はヴェローニカ様のお部屋でしたのに。私の力不足でした。申し訳ありませんでした」

「コンラート……。いいえ。あれは私が悪いのです。ああなることも想定していなければいけませんでした。先に客室に移動していれば、あの部屋を奪われてエーリヒ様を危険に晒すこともなかったかもしれません。コンラートは十分私を守ってくれましたよ。ありがとう、コンラート」

 跪いて最敬礼で謝罪するコンラートの前に、ヴェローニカも膝をついて微笑んだ。



 この気持ちは本当だ。コンラートは激昂したクリスティーネの前に立ちはだかって庇ってくれたから。婚約者だと名乗る美しい令嬢よりも。自分の主の命令を守ろうとした結果ではあろうが、庇ってくれたことには変わりない。

 それがまるでこの邸宅での自分の存在を肯定してくれたかのようで、ヴェローニカはとても嬉しかった。


「さあ、立って。コンラート」

「……はい」

 コンラートは立ち上がったが、まだ自責の念に駆られた顔をしていた。




 ロータルに作ってもらっていたプリンを皆で食べて、今日は早く休むことにした。最近はデザートの種類も少しずつ増やしている。

 もう今夜はエーリヒの治療は終わっているので、あとはまた朝になったら様子を見るとコンラートには伝えた。


 ようやくクリスティーネがいなくなり、侯爵邸は久しぶりに穏やかな雰囲気になっている。たった一泊二日の滞在だったのに、皆すごく疲れたようだ。特にコンラートが。今日は早く休んでもらおう。




◆◆◆◆◆◆


《クリスティーネ・ファーレンハイト》




「仕掛けてきたか?」

「はい。仰せの通りに」


 クリスティーネはブレスレット型のアミュレットを腕から外し、上級神官の執務机の上に置いた。アミュレットの白い石が魔導灯の明かりを受けて鈍く光っている。


「そうか。よくやった。君がいないことで今宵はきっと油断しているだろう。奴らはずっと警戒していたようだからな」



 クリスティーネが侯爵邸から王都神殿に戻ったのは、日も沈んで暗くなってからの事だった。

 クリスティーネが今夜侯爵邸を辞するのは予定通りだったのだが、「君がいないことで今宵は油断している」「ずっと警戒していた」と言われていい気はしない。

 そして何故そんなことを知っているのかと思いつつも、クリスティーネには本当はわかっていた。すでにあの邸宅は見張られているのだと。



「…あの、実はあのあと、エーリヒ様にはお会いできなかったのです…」

「会えなかったとはどういうことだ?帰り際にも治療をしてこなかったのか?じゃあ奴には仕掛けられなかったのか?」

「その…。会うことが許されませんでしたので」

「なんだと?……くそ。計画が狂うじゃないか…」

 上級神官の苛立った様子にクリスティーネは不安に駆られる。


「あの、何故エーリヒ様にもこれを仕掛ける必要があったのでしょうか?」

「……念の為だ。今は昏睡状態といえど、いつ目覚めるかはわからんだろ。指示通り治癒効果は抑えていたとしても、君は神聖魔法をかけ続けていたのだ。起きてきて邪魔されても困る。用心するのは当然だろう。それに……君もその方が都合が良いと思ったのではなかったのかね?」



 初め、エーリヒにも催眠の魔導具を使用しろと言われて不審には思ったが、「その方が君が彼を洗脳できるのだぞ」と言われてそれを想像し、浮かれてしまっていた。だがこの上級神官の焦りと苛立ちは何?


 エーリヒを洗脳できれば、彼が目覚めたあとにクリスティーネを愛してもらうことができるし、彼の心さえ手に入るのなら、険悪な雰囲気になってしまった侯爵家の使用人達とも和解はできる。

 そう思い、本当は是非とも彼を洗脳したかったのだが、あまりしつこく食い下がるとヴェローニカにも会わせてもらえなくなるかもしれない。そうなれば……一体どんな罰を受けることになるのかとクリスティーネは恐れた。


 しかし。よく考えてみると、神殿側がクリスティーネのためにエーリヒを洗脳するメリットとは何だろうとも思う。嫌な予感がする。



「ですが…」

「なんだね」

「…本当に、エーリヒ様は大丈夫なのでしょうか?」


「我らの目的はあくまで聖女を手に入れることだ。次に紫眼。両方手に入れば申し分ないがな。だからできれば紫眼の方にも仕掛けて欲しかったのだが、諍いがあったのでは身体に触れては不審がられるだろうしな。欲を出して肝心の聖女の方を失敗しては元も子もない。君の話によれば聖女は二階の部屋に移ったのだろう?紫眼も二階。三階で眠る奴とは鉢合わせないはずだ。…何もなければな」



 上級神官は少々煩わしそうに言いながら、返却されたアミュレットを大事そうに箱にしまう。

 上級神官の態度にクリスティーネは拭い切れない不安を感じた。



「あの子は本当に、聖女なんですか…?」

「君はエルーシア神話を知らないのかね。……学のない君が異教の教えなど知る由もないか」

 上級神官の瞳に嘲りを感じる。

 このような目で見られるのには、ここでは慣れていることだ。領地ではあり得なかったことだが。辺境伯の愛娘がこのような扱いを受けているとは、領地の者達は思いもよらないだろう。

 自分はここで暮らす内に随分と卑屈になったものだ。



「何故エルーシアの聖女をエーリヒ様が保護していたのでしょうか…」

「まあ……どうせリーデルシュタインの差金だろう。だが本来の価値も知らずに持っていてもな。奴らには過ぎた代物だ。やはりその能力を知る我々が有効利用するべきなのだ」

「有効利用…」

「何かね」

「いえ…」

 鋭い視線を向けられ、クリスティーネは咄嗟にふるふると首を振った。


「あれは異教徒が崇める聖女なのだ。我らの聖女なのではない。尊ぶ必要などない」

「…………」

「まあ良い。ご苦労だったな。君の還俗については辺境伯と話を進めておこう。下がりたまえ」

「…………」

 クリスティーネは神殿での上位者に対する敬礼をして、上級神官の部屋を下がっていった。





 魔導灯が照らす足元を見ながら、クリスティーネは追われるように自室へと足を急がせる。



 今回の治療で侯爵邸に呼ばれたと知った時、心からの喜びと幸せを感じた。侯爵邸へ訪問するその時を待ちわび、時間はないながらもその夜は肌や爪、髪の手入れを念入りに行い、お気に入りの香油でマッサージさせ、着ていく神官服に高級なお香を焚きしめて、ようやくベッドに入ってもドキドキして眠れなかった。


 翌日、期待を胸に侯爵邸を訪れた。

 ずっと慕い続けたエーリヒを救うのが、野心ある他の上位の神官でもなく、高位貴族との婚姻を狙う下心ある尻軽な女性神官でもなく、幼馴染みのこの自分なのだから。

 どれだけ歓迎され、どれだけ感謝されることだろう。そしてクリスティーネの力で目覚めた彼は、自分を救ってくれたクリスティーネをどんな瞳で見つめてくれるのだろうか。



 ところがエントランスで久方ぶりに顔を合わせたエーリヒの執事や侍女達は明らかに動揺を示していた。

 もっと歓迎されると思っていた。

 もっと歓待されてしかるべきなのに。

 不愉快には思ったが、ベッドに横たわる美しいエーリヒを見て舞い上がった。甥のヒューイットを見て未来の家族づき合いを思い描いた。

 味気のない神殿での生活が終わり、エーリヒとの心ときめく新婚生活が始まるのだと。

 ここは私の、エーリヒとの二人の愛の巣なのだと。



 なのに隣部屋にはあの白銀の美しい少女がいた。

 甥のヒューイットとエーリヒの侍女達と護衛騎士、その上あんなに美しい紫眼の従者まで携えて。


 そこは私の場所だ。私が長年思い描いていた場所なのだ。

 それなのに。

 怒りを抑えることなんてできない。




 幼い頃からずっと父に、「お前は侯爵家の三男と婚姻するのだ」と聞かされてきた。父は兄二人とは違って金髪ではない彼を軽んじていて、クリスティーネもそんな男との婚姻など願い下げだと思っていた。そう、彼に会うまでは。

 そんな思いを胸に、初めて家族とグリューネヴァルトの領主城を訪問した日のエーリヒの姿は今も鮮明に覚えている。

 彼の亜麻色の髪と瞳は、年の離れた兄二人の金髪などよりも上品で、そして優しそうな笑顔を向けてくれた。

 この人だと思った。この人は私の運命の人なのだと。


 だがクリスティーネが十歳になり、学院で久しぶりに会った年上の彼は、クリスティーネのことなどまるで覚えてはいなかった。

 領地で大切に育てられ、美少女だと評判の自分が再会の感動を伝えると、無機質な瞳で「忙しい」とあっさりとあしらわれた。それなのに、年上の華やかな令嬢達に囲まれて涼しげに微笑むエーリヒを見て、あれは私のものだ。絶対に手に入れてやると誓った。


 他の女達にはない自分の強みは、隣領であること、そして神聖魔法。

 神殿に入ればしばらく彼とは会えなくなる。それでも上位の神聖魔法はグリューネヴァルトにとっても手に入れたい手札のはずだ。だからクリスティーネは上級神官になったのだ。ここが、こんな恐ろしい伏魔殿だとは思わずに。




 神殿に捕まれば、あの子はきっとつらい目に合うだろう。

 でもそれは私の知ったことではない。


 神殿とは表沙汰にはできないことが行われている場所だ。どんな非道なことが行われているのかまでは知らない。知ろうとも思わない。

 辺境伯令嬢とは高位貴族ではあるものの、余計なことに首を突っ込めば、いつ自分が暗い神殿の深淵に転落するはめになるやもしれないと日々怯えて暮らしていたのだから。



 自分よりも上位の神官の命令には素直に従い、不要な話は聞こえないふりをした。怪しい噂話にも自ら深入りしないようにしていたし、悲鳴やうめき声のする薄気味悪い地下監獄には近寄らないようにしていた。王の目に留まらないように行幸の際には顔を伏せていた。


 噂好きの新人は突然いなくなる。それは特に身分の低い巫女や見習い神官が多かった。平民ならなおさら。

 いなくなった者達は他領の神殿や教会に異動したとは聞いている。聞いてはいるが、好奇心が強い者ほどすぐに王都神殿からはいなくなるのだ。



 クリスティーネも初めはあまり気にしてはいなかった。そんな陰謀めいた話が自分の身の回りに起こるはずがないと。


 そんなある日、出張で他領の神殿へ治療に出向いたことがあった。

 そう言えばここには以前自分の小間使いをさせていた噂好きの巫女が異動したはずだと思い出して、泊まった部屋の小間使いをしていた巫女に彼女のことを聞いてみた。するとすぐさま顔を歪めた。彼女はここへ来てすぐにとある事件に巻き込まれて亡くなっていた。

 偶然だと思った。たまたまだと。でも出張の度に、そんな話を二度、三度と聞いてからは、クリスティーネはもう余計な話はしないことに心に決めたのだ。



 あの子が銀髪だからいけないのよ。

 あの少女が聖女だから。


 そんなの私のせいじゃない。

 私のせいじゃ、ないわ……




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