175.天啓
《マクシミリアン・キューネルト》
王都神殿に帰り着いたマクシミリアンは、昼間の喧騒から解き放たれてひっそりと静まり返った渡り廊下を歩く。回廊からは澄み渡った夜空が見えた。
今宵も龍神の守護する王都の空には遮る雲ひとつなく、様々な属性の小さな魔晶石が闇に散らばったかのように瞬いている。
(今夜は月が見えないな。)
ヴァイデンライヒでは月はレーニを象徴している。太陽であるソランの愛という光を受けて、闇夜に美しく輝く月レーニ。
この世界の始まりの神をも魅了し、堕天させたというのだから、実在するのならばそれは美しい女性だったのだろう。
レーニはヴァイデンライヒが建国する以前の大昔にこの地に住んでいたとされている。一説にはその子孫が旧プロイセの民だったとか。
レーニの子孫。つまりレーニシュ=プロイセ公爵家とは、元世界神ソランの子孫だったということだ。
(神の子か……だが、元では意味がない。神威は失われているということだからな。いや子が先か、人に堕ちたのが先かはわからんか。)
「どちらにせよ、神の一族を滅ぼすとは……大それた事よ……」
マクシミリアンの呟きは、初夏の夜風に紛れていく。
『智慧』を手に入れるためとは言え、王家も惜しいことをしたものだ。領主一族の生き残りが今もいるのであれば、実験体としては最良であったはず。
おとぎ話のような神話であるため、どこまで本当のことかはわからないが。
ヴァイデンライヒ王国の神とは、初代王ヴァイデンライヒに神託を下した神のことで、その神アプトはこの大陸の大空を支配する龍神だと言われている。そして天空の支配者である龍神の性質は厳格で、天の審判とも恐れられる雷の権能を持つとされる。
その龍神の子、人の身を現した化身の姿がヴァイデンライヒだ。
王国の神殿では、初代王で建国の祖であるヴァイデンライヒが神格化されている。それ故神殿は王室寄りではあるが、あくまで初代王を崇めているのであって、現在の王室を崇めているのではない。
つまり、金髪金眼という姿や全魔法適性というわかりやすい神威を崇めている神殿は、高魔力こそ絶対であり至高という信念がある。
定説として王国での魔力の最たる保有者は王ということになっているので、やはり王室寄りということにはなるのだが。
しかしながら、実際の王は……
ため息混じりに後宮から戻ると、執務室にて上級神官達が王都神殿神官長である彼の帰りを待っていた。
ここにいる側近や上級神官らは、マクシミリアンと志を同じくする同志である。秘密結社『黄金の暁』の下位幹部や構成員だ。そしてマクシミリアンは黄金の暁の下位組織『ミュトス』のリーダーだった。
黄金の暁には階級がある。一般の構成員は下位組織に属する。そして上位組織『ロゴス』の幹部達は覆面や仮面で面を隠し、神名が与えられていて、現在その素性はわかっていない。
だが代表とその側近の顔はわかっている。美しい金髪紫眼の成人男性セラフィムと金髪の成人男性ヘルヴィムだ。
側近の方は会う度に眼の色が違うので、もしかしたら神殿の特殊部隊にいる者達と同じく生体移植した実験体なのかもしれない。それどころか彼が複数いるということは、上位組織では大いなる業を使って、人工生命体『ホムンクルス』の錬金を成功させているということなのだろう。
だとしたら、なんと素晴らしい神の御業だ。どのような技術なのかマクシミリアンには想像もつかない。だが、命の創造が本当に可能ならば、ヴァイデンライヒの再臨も夢ではないのではないか。
ロゴスの幹部達は何故それをしないのか。それとも何かが足りないのか。……もしくはすでに造られているのか。
なんとか実績を上げて、マクシミリアンも上位組織に迎えられる日を目指している。
「マクシミリアン様、おかえりなさいませ」
「ああ」
何やら神官達の顔が明るい。何か朗報なのか。
わずかに訝しく思いながら、皆でソファーの前に立ち、いつものように胸に両手を交差させて唱えた。
「ヴァイデンライヒの祝福があらんことを」
「「ヴァイデンライヒの祝福があらんことを」」
そしてようやく座って寛ぐ。
「マクシミリアン様。本日グリューネヴァルト侯爵邸へ向かったクリスティーネ神官から進捗の連絡がありまして」
「グリューネヴァルト……ああ。あの神童と学院で騒がれていた侯爵令息のところに行ったんだったな。もう治療は済んだのか?何か問題でも?」
(リーデルシュタインの懐刀か。本当に厄介な男だ。貴族学院始まって以来の天才か…)
マクシミリアンはふと思い出す。
あれは確か、髪色、瞳、ともに純粋な金色とはとても言えぬくすんだ色だった。亜麻色と言えばよいのか。それは貴族としてはよくある色味だ。
髪は金色にも近いから魔力は高い方なのかもしれないが。普通に考えれば、あの瞳の色は土魔法の適性だろう。一般的には錬金や傀儡使役の適性だ。その能力であの訳のわからん光の魔剣を独自に作ったのか。優れた身体強化は、錬金術師の特性である魔力操作の器用さの賜物なのか。
(そう言えば何故だ?錬金術師など魔術師とは呼べないほど今や肩身が狭い立場だ。それで何故それほどまでに才能があるのだ?……奴は明らかに神殿の教えに反する存在だ。)
図らずも、今まで気にしていなかったことに疑問を持った。
「医者の見立てではどうやら魔力回路の損傷が倒れた原因らしく、もう数日治療が必要なようです」
「魔力回路の損傷?…成人しているのにか?それは身体がまだ未成熟の幼少期に見られる現象ではないか。…何か無理な魔力でも流したのか?それともこれからまだ魔力が伸びるということなのか?」
自身も神聖魔術師であるマクシミリアンは、その症状についてはよく知っていた。何度か成長期の高位貴族の子供を治療したことがあったからだ。小さな身体に流れる魔力が多すぎて起こる症状である。要するにそれは高魔力の証だった。
最近ハインミュラーの実験施設が何者かに襲撃を受けていると聞く。あそこでは魔術刻印による人工魔術師以外にも、人間や魔獣の生体移植やキメラも造っていたはずだ。
タイミングのよい治療依頼だったので、てっきりその襲撃者がリーデルシュタインの若造の勢力で、その際に深手を負ったのかとも思っていたのだが。
「さあ…それについては詳しくはわからないのですが、問題はそこではないのです、マクシミリアン様」
「…………」
王城ではあまり良い知らせとなるものはなかったため、朗報であれば嬉しいとは思いつつも、彼らの浮かれる様子に全く見当がつかず、マクシミリアンは神官達の勢いに少し呑まれそうになる。
「グリューネヴァルト侯爵邸に珍しい者達がいるそうです」
「珍しい者?」
「はい。一人は紫眼の成人男性で、髪色も紫だそうです」
「何?紫眼だと?」
マクシミリアンは思わず耳を疑う。
神殿では明確な序列が確立されている。紫眼は中でも上位の地位だ。大神官を除く全神官達の中で、現在首位である者は紫眼だ。それだけの価値が紫眼にはある。だからこそ、どの勢力も喉から手が出るほど欲しい人材だった。
初代王から与えられし権能だというその高貴な紫の眼を渇望し過ぎて……倫理に反して、造り出してしまうほどに。
その一体を造り出すために、多大な犠牲と労力が費やされたのは言うまでもない。であれば、やはり天然の紫眼とは貴重な存在だ。
「はい。紫眼は魔素が視える他、神聖魔法の適性も高い。また、龍神の加護として雷魔法の適性もあるはずです」
「そのような者が一体今までどこに隠れていたというのだ。おかしいではないか」
「もしかしたら我々を避けるために、偽装でもしていたのかもしれませんね。クリスティーネ神官はもともとグリューネヴァルト侯爵家とは縁の深いファーレンハイト辺境伯の令嬢ですから。婚約するとの噂もあります。今回は先方も油断したのかもしれません」
なるほど。あり得る話だった。
「しかも彼女の話では、途中ちょっとした諍いが生じて口論になったそうなのですが、彼に威圧された際に瞳の色が変化したそうです。それも血のように真っ赤だったと」
「瞳が変色?魔力で光を帯びることはあるが……そのような例は今までにあったか?」
「潜在魔力量が高いのかもしれません。感情の発露により魔力が変化する例はよく見られることです。そもそも威圧とは高魔力ではないとできない芸当ですからね」
「そうだな。激情により魔法の威力が増大するのはよくあることだが…」
「はい。その一環なのかと。何せ紫眼は大変稀有な才能ですから、その特性も我々がまだ確認できていないようなこともあるのかと」
「ふむ…」
腕を組んで頷く。納得できる解釈だ。
すると何やら神官達も顔を見合わせて頷いている。
(今度は何だ?)
「マクシミリアン様。さらにもう一人、大変珍しい髪色をした子供がいたようなのです!」
互いに頷き合っていた神官の一人が興奮したように話しかけてきた。
「珍しい髪色…?」
すると他の神官達も興奮気味になる。
「はい。なんと、その子供……銀髪だそうです」
「何だと??」
マクシミリアンはさらに動転する。一瞬聞き間違いかと思ったが、はっきりと聞こえたのだ。銀髪、と。
「間違いないのか?白と見間違えたのでは…」
「クリスティーネ神官の話では、見たこともない美しい銀髪だったと」
白髪でも十分に珍しく貴重な存在だ。精神魔法を操る部族の血筋だと言うのなら。だが、“銀髪”はさらにその上をいく。何故なら……
「エルーシアの聖者が、何故ヴァイデンライヒにいるのだ。あれはエルーシアの女神の寵愛の証なのだぞ。女神の加護の届かないヴァイデンライヒで産まれるはずがない」
エルーシアの聖なる御子は彼の地でなければ産まれない。そして彼の地でなければ女神の加護は届かないはず。
聖者が産まれればエルーシアは豊穣と繁栄を約束されるという、今だに神の息吹が生きる奇怪な土地。だが聖者のその身に不幸が起きた時、彼の地に災いをもたらすことは歴史が証明している。加護が弱まれば聖者が害される可能性は高まるのに、エルーシアが聖者を手放すはずがないのだ。
「それについても詳細はわかりませんが、子供は十歳にも満たない少女だそうです。聖女ですよ、マクシミリアン様。本物の魔素の加護を持つ聖女です。あれら聖なる御子は吸魔石のように無限に魔素を集める存在。いくらでも魔力が搾りとれます!是非神殿に欲しい!」
「それが本当ならなんとまあ……これは僥倖か。いや、神の恩寵だな」
聖女がこの地にいる理由はわからないが、それほどの神性、利用しない手はない。
「クリスティーネ神官の話によると、紫眼の男はどういう訳か聖女に仕えているようです。一方は魔素を集めその身に纏い、もう一方はその魔素が視える。それで仕えたのかもしれませんね。きっと彼には聖女が神々しく視えるのでしょう。すごいですね、これは本当に奇跡ですよ」
「奇跡といえば、マクシミリアン様、覚えておいででしょうか?」
「む…?なんだ」
「シュタールの奇跡、ですよ」
“シュタールの奇跡”と聞いて、マクシミリアンはしばらく前の出来事を思い出した。聞いた当初は「何を馬鹿げたことを」と思ったものだが、調べてみるとそれはただの噂の域を超えていた。
「まさか。あれは、その聖女の仕業なのか?」
「あり得ます。シュタールの事件にはハインツ・クライスラーが関わったことは有名ですが、実は直接罪人を捕らえたのは、たまたまそこを通りかかったエーリヒ・グリューネヴァルトだという話です。そして彼はその時、フードで身を隠した少女を旅に同行させていました」
「つまり何だ?……それがシュタールの奇跡、白い少女、神の子か!」
連想ゲームのように思考を手繰り寄せながら、マクシミリアンの声も弾んでくる。
「なるほど……確かに。年齢も銀髪の容姿も合っている。雷は龍神アプトの権能。その噂が広まってからというもの、信者達の手前、神の御業であると言ってはいたが……ではその聖女が雷雲を呼んだというのか?」
「ええ。そうに違いありません」
「……ははっ。それではエルーシア神話そのものではないか。あははっ!結界石などものともしないのか!何ということだ!」
マクシミリアンはこのまま一杯やりたい気分になった。実際に質素や禁欲などを己が身に課している聖職者などごく少数だ。
「しかも噂が本当だとすれば、犯罪者達に精神干渉も施したことになります。それをそんな小さな子供がやってのけるなどとは」
「よほど正義感が強いのか。雷の能力といい、厳格さといい、まるで悪を滅するアプトの化身のようだな。だがそれであれば金髪金眼であるはずだ。…それが異教の聖女の力とは…口惜しいものだ」
唸りながらマクシミリアンは顎を掴む。
「さらに同時期にプロイセであった満月の夜に現れた空飛ぶ白い妖精、あれはシュタールでもあったことだという噂がありまして、その目撃情報は、ほとんどが領主の館の使用人なのです。館の庭園を歌いながら飛んでいたと。そしてその夜は、エーリヒ・グリューネヴァルトが領主の館に滞在していたのだと!」
「……まさか、空まで飛ぶのか?……いや、さすがにそれは…」
マクシミリアンは興奮する神官達に、思わず呆れたように苦笑いする。
「何をおっしゃいますか、マクシミリアン様。ならばプロイセやシュタールの月夜に飛んでいた妖精話とは一体どこから来たのですか。こんな突拍子もない話なのに、急に誰かが与太話でも飛ばして広まったと?彼女は雷雲を呼ぶのですよ?いくらでも上位魔法である雷など落とせるのです。大気の魔素を操って、容易に空すら飛べるのかもしれません」
(エルーシアの聖女がヴァイデンライヒの龍神の権能である雷を自在に操るとは……皮肉なものよ。そして空を飛び、天空まで支配するのか。)
「それではまさに、天空神そのものではないか」
マクシミリアンは身内が震える思いがした。
子供の身でそれほどの魔素を操れるのであれば、よほどの魔力を持つのだろう。ならばその血は高純度の魔力結晶だ。それは良質な魔術素材にも触媒にもなる。
「女神の寵愛を受けた聖なる血。……皆の者。賢者の石だ……賢者の石が造れるぞ!!」
「賢者の石……あの奇跡の力を……」
ゴクリという音が聞こえた。
「我ら『黄金の暁』の悲願が達せられる日は近い……」
(欲しい…。欲しいぞ。それがあればきっと本物のヴァイデンライヒを生み出せる。あのような好色の偽王ではなく、金髪金眼の絶対なる王を擁立するのだ。)
「悲願か……そうだな。ははっ。……だが……グリューネヴァルトか……奪えるだろうか……」
マクシミリアンははたと我に返る。あまりにも心地良い夢をみていたようだ。
「ですが、あのふざけた能力の光の魔剣士エーリヒ・グリューネヴァルトは、今はまだ昏睡状態なのです。チャンスは今しかありません。聖女とは言え相手は子供。捕まえてしまえばあとはこちらのものです。……クリスティーネ神官には治療を長引かせて、邸宅への長期滞在を指示し、なんなら邸宅の人間に薬でも盛って、こちらの手引きをさせましょう」
「そうです、マクシミリアン様。二人を連れてくる際には催眠の法具や隷属の首輪を使えばいい。あとはこちらに着いてから確実に洗脳すれば良いのです。…そしてエーリヒ・グリューネヴァルトは、そのまま永遠の眠りにつけばいい…」
「ふふ…ははは……そうか。奴は今、人事不省に陥っているのだったな」
「ええ。その通りです」
「ふふ……おかしいな。本当にこれは神のお導き、天啓なのかもしれん……ははは…」
「ははは…」
その夜、神官長執務室内には上級神官達の笑い声がしばらく響いていた。