173.婚約者(2)
しばらく皆で話していると、にわかに部屋の外が騒がしくなった。誰か来たようなのだが、明らかに喚いているような諍う声だ。
寝室の向こうはヴェローニカの部屋の居室だったが、もちろん誰にも入室は求められてはいないし、許可も出していない。不穏な雰囲気を察し、それぞれの従者達がベッドにいたヴェローニカと側のソファーにかけていたヒューイットを守るように警戒する。
「お待ち下さい、クリスティーネ嬢!」
不躾にもガチャリと寝室の扉が開かれて、まずコンラートの背中が見えた。そして彼を部屋に押し込むようにして、怒気をあらわにしたクリスティーネとその従者が姿を現す。
「まあ!どういうことですの?隣が騒がしいと思ったら」
「クリスティーネ様…」
突然の招かれざる客の登場に、ヒューイットが唖然とした声を上げた。だがそれには構わずクリスティーネは続ける。
「ここはエーリヒ様の正妻の部屋ですのよ?それはつまり、私の部屋となるのです。何故あなた方がここにいらっしゃるのかしら?」
「クリスティーネ嬢、おやめください。こちらはヴェローニカ様のお部屋です。ご滞在されるのでしたら、クリスティーネ嬢には別のお部屋をご用意いたしますので」
部屋に闖入してきたクリスティーネの前に、再びコンラートが立ちはだかる。
「そんなのおかしいですわ、コンラート。私はエーリヒ様の婚約者ですのよ?ここは私の部屋ではなくて?」
「申し訳ありませんが、私共はそのお話は聞き及んではおりませんでしたので、本日は客室にてお泊りいただきます」
「コンラート!そんなのひどいわ!婚約者の私を差し置いて、何故こんな子供がエーリヒ様の隣部屋なんですの??」
コンラートに食いかかった勢いのまま、クリスティーネはヴェローニカをキッと睨んだ。
その剣幕は先ほどまでの令嬢然とした余裕と優雅さは欠片もない。嫉妬と怒りで我を忘れてしまっているのか。だが、このような子供にまで、とは思うが。長年想い続けたのであれば、婚約者の立場としてはやはり虚仮にされたと思うか。
ああ、やってしまった。とヴェローニカは思った。
婚約者だと聞いた時点でこの部屋を出るべきだったのだ。
「私を侮っていますの、コンラート?このような扱い、お父様と侯爵様に言いつけますわよ。よろしいの?」
「…………」
コンラートはその言葉に目を見張り、言葉を失う。
「クリスティーネ様。あなたが叔父上の婚約者だと言うのなら、叔父上の大切にしているヴェローニカにも敬意を払うべきではありませんか?」
「ヒューイット様…」
コンラートでさえたじろいでいるこの場面で、ヒューイットが堂々と忠言した。だがその勢いはとどまることなく、クリスティーネの視線は一層冷たく光った。
「大切に?……ここは特別な部屋ですのよ?私の……エーリヒ様の正妻となる、この私の部屋なのです。ここの使用人達は、婚約者である私に礼を尽くすべきなのに。……ヒューイット様はエーリヒ様が、私よりもこのような子供を好いているとでも仰るのですか?……汚らわしい可笑しな嗜好を……あの方がお持ちだと、そう言うのですか」
「僕はそんなことを言っているんじゃ…」
「コンラート、ごめんなさい。私が移動します。今からだとお部屋のご用意が遅くなってしまうと思うのですが、よろしいですか?ファーレンハイト令嬢」
「…………」
クリスティーネは返事もせずに無言で睨んだままだ。
「いえ。いけません、ヴェローニカ様。こちらはヴェローニカ様のお部屋だとエーリヒ様がお決めになられたのです。私は執事として主の意向に従います。クリスティーネ嬢、どうかお引取りください」
「…コンラート…あなた…」
コンラートがここまでエーリヒの指示に頑なだとは思わなかった。
だがこの様子だと、クリスティーネは絶対に引き下がったりはしないだろう。これでは執事であるはずのコンラートの立場が悪くなる。未来の夫人となる女性をこれ以上怒らせるべきではない。
ヴェローニカはベッドから降りて立ち上がった。だが急に立ち上がったからか、立ちくらみがして、よろけてしまった。
「ヴェローニカ!」
「ニカ!」
すぐに側にいたユリウスが抱きとめてくれて、転ぶことはなかったが、しばらくくらくらとめまいが襲い、立っていられない。心配そうに侍女達が名前を呼ぶのが聞こえる。
ああ、またか。
「…………」
「大丈夫か?」
『ユリウス、待って……めまいがするの…』
ヴェローニカはわざとユリウスにしか聞こえない念話を使った。
『わかった。どうすればいい?』
ユリウスも気づいて念話に切り替えてくれる。
『……このまましばらく、支えててくれる?』
『ああ、わかった』
「なんなの、あなた?倒れたふり?そうやって同情でも買ってここに居座る気なのかしら?そもそもあなたは誰なの?どこの家門の子なの?エーリヒ様の何なの?ねぇ、コンラート」
「……それはクリスティーネ嬢にはお答えできません」
「ちょっと、なんなの?コンラート!私にこんな扱いが許されると思って?……あなたがそんな態度なら、もう神聖魔法なんか使わないわよ!」
「そんな…!」
「お待ちください。今から私は移動しますので。…コンラート、ごめんなさいね。あとはよろしくお願いします。…ユリウス、お願い」
「ああ、わかった」
ユリウスはヴェローニカを抱き上げて寝室の出口に向かう。コンラートは眉をしかめてそれを見ている。
ヴェローニカはユリウスの胸に手を置いて、コンラートの前で一度止まってもらった。
「大丈夫です、コンラート。そんな顔をしないで。迷惑をかけてごめんなさい。あとはお願いしますね」
「……はい、ヴェローニカ様……」
苦衷を感じさせる声でコンラートは礼をして畏まる。
そのまま通り過ぎようと歩を進めたが、出口の前を塞いでいたクリスティーネの前でユリウスが止まった。
クリスティーネがユリウスを惚けたような瞳で見上げている。淡く紫がかった薄桃色の瞳が丸く見開かれ、釘付けだった。
「あなた…紫眼なんて珍しいわね。上級神官である私が神殿に紹介してさしあげましょうか。きっと神殿であなたは優遇されますわ。そのような子供に仕えるよりも、よっぽどあなたのために――」
たった今の激昂も忘れてクリスティーネが甘やかに微笑みながら、ユリウスを見上げて手を伸ばしてきた。
「うるさい。邪魔だ」
クリスティーネの言葉に最後は被せ気味で、ユリウスは冷たい声で言い放った。
「…え…」
全くの想定外の言葉だったようだ。クリスティーネはユリウスを見上げたまま、伸ばした手の行き場もなくしてしばし呆然となっている。
「邪魔だと言っている……」
ユリウスが一歩足を進めて、クリスティーネを見下ろした。
『どけ!』
ユリウスの瞳が燃えるように真っ赤に染まった。
クリスティーネは「ヒュッ」と息を吸い込んだまま驚愕に目を見開く。そして瞳は恐怖の色に染まり、胸を押さえて苦しそうによろめいた。
クリスティーネの側にいた従者が自身も恐慌状態に陥りながらもよろめく彼女を支えたが、支えきれずに二人で何歩か後退り、悲鳴を上げて後ろに倒れ込むように尻もちをついた。
ようやく開かれた道をヴェローニカを腕に抱いたまま、ユリウスはすでに足早に通り過ぎていて、クリスティーネ達の身に降り掛かった些細な災難になど目もくれずに、ヒューイットと他の従者達も続いて出ていった。
倒れたクリスティーネの名を呼んで騒ぎ立てる従者の声を聞きながら、その部屋に取り残されたコンラートは、苦渋の表情で拳を握りしめていた。
◆◆◆◆◆◆
《ウルリカ・アイゲル》
「ヴェローニカ、僕のところにおいでよ。あんな事を言われてまで、もうここにいる必要はないよ」
ヒューイットは二階の客室に移動したヴェローニカにそう声をかけていた。だがそれに対して彼女は首を縦に振ることはなかった。
彼女は先ほどから顔色が悪い。エーリヒの部屋から帰ったあと、しばらく休んでようやく落ち着いたところだったのに。
成長痛によるものなのか、それともあの女のせいなのか。
あんな扱いを受けてまでどうしてとヒューイットが問うと、エーリヒが倒れる前にヴィンフリートの所に移る話を二人でしていたそうだ。でもエーリヒはそれに同意しなかったという。だからせめてエーリヒが意識を取り戻してからだとヴェローニカは言った。
正直それには心から安堵した。それはウルリカだけではなかったはずだ。
ヴェローニカに心酔し、常にユリウスに対抗意識を燃やしているヘリガも、なんとかヴェローニカを着飾らせたくて仕方がない上に、ユリウスが彼女に傅く姿に密かにときめきながら……妄想しながら見つめているリオニーも、つい先日怪我のために侯爵邸で療養し、ヴェローニカの人となりを知ることになったいつもは軽薄な印象のディーターも。
そして普段から熱い思いなどとは縁のない、興味があるものと言えば、戦闘か武器類くらいしかないウルリカでさえ。
ヴェローニカには何か惹かれるものを感じる。このような子供が普通いるものだろうか。聖女とは産まれた時から何か特別な存在なのだろうか。
エルーシアでは銀髪の人間は女神に愛された証だと言われているらしい。女神の現身だと。
つまりここがエルーシアの地であれば、ヴェローニカはヴァイデンライヒ王国でいうところの初代王のような神聖さなのだ。
ならばきっと彼の地では、このような扱いなど許されないはず。
だがウルリカは無神論者だった。ウルリカにとって、それは単なるおとぎ話。
ヴァイデンライヒなど、知ったことか。
神などいない。
妄想だ。
そう思っていた。彼女に会うまでは。
エルーシアの女神。女神エルケ。
ヴェローニカがエルーシアでは聖女と言われる存在だと知ったウルリカは、リーンハルトに頼んでその資料や神話の本を取り寄せてもらい、それを読み込んだ。
雪のように白い肌、白銀の髪、青銀の瞳。
それはまるで雪の女王のような美しい女神なのだという。
エルーシアを守護する神。そしてその女神は月の女神とも言われている。
月光のように凛とした神々しい御姿。
欠けたところのない丸く満ちた大きな満月を背にして、女神は青墨色の夜空に浮かび、エルーシアの民達の前に顕現した。
エルーシア神話では、月の光も凍てつくようなある満月の輝く夜、女神エルケはエルーシアの地に降り立った。そしてその地に住む者達に祝福を与えた。
高い山脈に囲まれた年中雪深い常冬のその土地は、女神の祝福により満足に人の住める土地となったという。
女神は月の満ちたその夜、一面真っ白な雪原であった不毛の大地に、真っ黒な雷雲を呼び寄せた。
闇夜を引き裂くような稲光が走り、落雷の轟音が体の芯にまで鳴り響き、全てを押し流すかのような勢いで降り続く豪雨。それらが一昼夜に及んで続いた。
その日人々はついに世界の終わりかと女神の審判に畏怖し、最後となるであろう暗闇に包まれた日を家族とともに過ごした。
そして丸一日以上が経ち、翌明け方まで続いていた雷の轟音が鳴り止んで朝日が昇ると、人々は奇跡を目にした。
常冬の地に春が訪れていたのだ。
それからは毎年、春が訪れる前にはその合図のように決まって春雷が鳴る。その後の雪解け水がエルーシアのやせた土壌を豊かにしていく。
さらに奇跡はそれに留まらず、南の地、今はハイデルバッハとなっている地へと山は開闢され、一日にして道が拓かれた。
そう、言い伝えによれば、エルーシアとはもともと四方を山脈に囲まれた、外界から秘められた雪に覆われた土地だったのだ。
古から大陸各地から迫害を逃れた者達が、最終的にその地に辿り着いたと言われる隠された土地。それがエルーシアだった。
理想郷というには過酷な土地ではあったが、俗界を離れた追われる身である者達にとっては平和で清浄な、元は真っ白な雪原だった。
そしてそのような閉鎖的な風土は、女神エルケを絶対的な守護神として祀る宗教国家が芽吹くには十分だった。
その後女神の加護を象徴するかのように、銀髪の子供が時折産まれるようになる。女神によく似た聖なる子供を祝福するかの如く、国中で花は咲き誇り、作物はよく実る。そしてその聖なる子供があらゆる奇跡を、その時代ごとに起こすのだ。
きっとエルケとは、ヴェローニカのように慈悲深い女神なのだろう。理不尽に苦しめられる人間達を見るに見かねた神の一柱だったのかもしれない。
ヴェローニカが大人になれば、きっとそのような姿になるに違いない。
今でさえあのように人間離れして美しく、そして孤児達に対してとても慈悲深い。
人間ではない猫のためにだって、自分の身を傷つけ血を流しながら、不可能だと言われながらもあの隷属の首輪を壊したのだ。
だが罪人には非情になる。
シュタールの地では雷雲を呼び、犯罪者達を精神干渉で苦しめ、王都に来る前は奴隷商の一人を短剣で自ら刺殺し、さらに大魔術で奴隷商人達を一人残らず消滅させたという。
それを知ったウルリカは身震いした。畏怖からではない。高揚したのだ。
そしてウルリカは先日、王都の商店街で、そして子爵邸での会議で、ヴェローニカの威厳を見た。ヴェローニカの言葉を聞き、その想いを知り、その力を見た。そして神など信じないはずのウルリカは、その崇高さを思い知ったのだ。
ウルリカは、ヴェローニカを主と仰ぎたい。
あのような癇癪持ちで妬心の強い神殿の女などではなく。
(呑気に眠っている場合ではないぞ、エーリヒ様。)
あの女が侯爵邸に滞在するのなら、ヴェローニカに危害を加えようとするかもしれない。
何としてでも、ウルリカの真の主を守らねばならない。