172.婚約者(1)
「お久しぶりね、コンラート。…エーリヒ様は、どちらかしら?」
「……クリスティーネ嬢……」
エントランスホールにて客を出迎えたコンラートは、その女性を見て何故か動揺を見せた。
清楚な白い神官服を着た美しい妙齢の令嬢が、午後に侯爵邸を訪れた。
ほぼ金髪だが少しピンクゴールドにも見える手入れの行き届いた豪奢に流れる長い髪に、薄い紫がかった桃色の瞳の可愛らしい女性だ。
色合いはリオニーに似ていて、神聖魔法の使い手とはこのような髪色や瞳の色なのではないかとヴェローニカは思う。
ヴィンフリートが呼んだ上位の神聖魔術師とは、神殿の神官だったようだ。そもそも上位の神聖魔法などが使えるのは神官くらいで、あとは還俗した既婚の貴婦人。
男性の場合は神官であるまま婚姻することが多いため、あまり還俗はしないらしい。そして貴婦人は他人の治療など請け負わない。そうなると必然的に神聖魔法を施せるのは、神官ということになる。
コンラートが動揺を示したのは、彼が名前を呼んだことからも二人が知り合いであるからなのであろうが、彼女が神殿の人間だったこともあるのだろう。エーリヒは神殿や教会を警戒していたように思うから。
それでも全くの知らない神官よりは顔見知りの方が彼も安心だろう。背に腹は代えられない。
早速コンラートは治療に訪れた女性神官をエーリヒの部屋へと通した。
寝室のベッドには、まだ眠りから覚めないエーリヒが横たわっている。
クリスティーネは眠っているエーリヒの様子をしばらく見下ろしていた。病状把握をしているのだろうか。その表情は後ろからは見えない。
そして彼女はベッド脇に置かれた椅子におっとりとした振る舞いで腰掛けた。それは貴族令嬢の所作の上品さを窺わせるものだった。
「顔色はよろしいようですね。お話を聞いた時には心配しておりましたが、急を要するような状態ではなくて安心いたしました」
彼女は胸元をキュッと掴み、ほっとした顔で柔らかに微笑んだ。仕草も声も淑やかで愛らしい。髪や瞳の色合いから、可憐な花のような印象を受ける女性だ。
「では今から治療を行いますので、エーリヒ様と二人きりにしていただけますか?」
「……いえ、クリスティーネ嬢。そういう訳にはまいりません。せめて私だけでも残ります。邪魔は一切いたしませんので」
「…そうですか…。なるべくなら、治療は非公開でというのが神殿の基本なのですが。それに私が神殿に入ってからというもの、こうやってお会いするのは久しぶりですもの、エーリヒ様がお目覚めになられたら二人きりでお話したかったのに……婚約者でも、だめなのかしら?コンラート」
クリスティーネは悩ましく唇を指でなぞり、科を作って上目がちに微笑んだ。
「婚約者?」
コンラートは再び動揺を見せた。
エーリヒの執事であるはずの彼が、どうやら初耳のような反応だった。ヘリガ達も目を瞬いて、同じく動揺している。
「あら……」
クリスティーネも心外そうに目を瞬く。
「ヴィンフリート様から今回の治療の件で神殿に要請があったのですよね?患者がエーリヒ様ということで、縁も深い私の名が挙がったのです。お父様と侯爵様が神殿の方に、私達の婚約のための還俗のお話を以前から進めていらっしゃったものですから。神殿では私をエーリヒ様の婚約者だと認識しています。聞いてはいなかったかしら?」
「はい。全く」
「……そうですか。エーリヒ様がこのようにお倒れになって、侯爵様も慌てていたのかもしれませんね」
クリスティーネは「もう。お義父上様ったら、仕方がないわね」と困り顔をしながらも、少し恥ずかしそうに頬に手を当てて事情を話す。
「私も昨夜急にこちらに来ることに決まって慌てましたもの。何しろ、神殿でのお務めがある私はエーリヒ様とお会いするのは本当に久しぶりでしたし。次にお会いできるのは私が還俗して、婚約式の時とばかり……」
侯爵様とはエーリヒの父親のことだろう。
コンラートとこのクリスティーネは面識があるようだし、貴族令嬢がヴィンフリートとエーリヒをファーストネームで呼ぶのだから、家族ぐるみの親しいつきあいに違いない。すでに侯爵を“義父上”と呼んでいるのだから。
婚約者か……
ヴェローニカは、ついに来るべき時が来たと思った。そろそろここを立ち去る時が来たのだ。居心地が良かったこの邸宅を。せっかく皆と仲良くなったけれど、お二人の邪魔になってはいけない。
だが、上位の神聖魔法とやらはしっかりと見ておきたい。今後のために。できればリオニーにも見せてあげたい。
「婚約者であるのならば、なおさら皆の前で行っていただいても良いのではないでしょうか?皆、エーリヒ様が心配なのです。見守らせていただくことはできませんか?」
ヴェローニカはクリスティーネに微笑みながら話しかけた。
「コンラート?この子は…?銀髪なんて、初めて見ましたわ」
「ええと…」
「ヴェローニカと申します。よろしくお願いいたします」
ヴェローニカは丁寧に礼を示した。
「見ない子ね。どちらの家門の方なのかしら?……あら、そちらの方は?」
クリスティーネはヴェローニカの隣のヒューイットを見た。
金髪はやはり目立つらしい。
「僕はヒューイット・シュレーゲルです。先ほどお話に出た、ヴィンフリートの息子です」
「まあ!ヒューイット様?大きくなられましたのね。……そうね。ヴィンフリート様の面影がありますわ」
クリスティーネはにこやかにヒューイットに話しかける。
ヴィンフリートやヒューイットの近況などを話し込んで、すっかりヴェローニカのことは忘れてしまったようだ。
「そうですね。私達はこれから家族になるのですもの。…では、今回は特別によろしいですわ。本当であれば上位の神聖魔法はヴァイデンライヒの祝福であり御業。あまりお見せできないしきたりなのですけれど。皆様はそちらでお待ちになっていて」
クリスティーネはすっかり気分を良くしたようで、このまま治療を行うことにしたようだ。
だがヴェローニカはひとり、“家族になる”という言葉に胸をざわつかせていた。
クリスティーネが何か神への祈りのようなものを詠唱し始める。
「庶幾わくは 彼の者を癒やしたまえ 我は忠実なる御身の下僕 御身に捧ぐは我が魔力 聖なる光 癒やしの御業 ここにヴァイデンライヒの祝福を賜らん」
神に捧げる祝詞だろうか。前世式で言うところの、『かけまくもかしこき……』のような、この世界の神様への希求だ。
詠唱が終わると、エーリヒの身体にかざしたクリスティーネの両手の手のひらが淡く光を放ち、彼を包んでいく。リオニーの治癒の光は局所的だったが、彼女の魔法は広範囲だった。それを見守りながら、ヴェローニカの胸にはいつの間にか苦しさが襲ってきていて、ふと胸を押さえた。
「どうしたの、ヴェローニカ?大丈夫?…苦しいの?」
隣にいたヒューイットの言葉で改めて息苦しさに気づき、落ち着いて息を整える。
「……いえ。大丈夫……」
その時、「君は今後“大丈夫”と言うのは禁止だ」というエーリヒの声がふと蘇った。なんだかおかしくなって、ふふっと笑いが漏れていた。
「大丈夫です、ヒューイット様。ありがとうございます」
ヴェローニカはヒューイットの優しさに救われて、笑みを浮かべた。
「本当に?…少し休もう、ニカ。そうだ、ニカもクリスティーネ様に治療してもらう?」
ヒューイットはそう言うと、ヴェローニカからクリスティーネへと視線を移した。
彼女は名前を呼ばれた拍子にそれまで熱っぽく見つめていたエーリヒからこちらへと流し見た後、大様に首を傾げてみせた。その薄桃色の瞳は先ほどまでとは違い、あまり関心がないように見える。
「…………」
「いえ。病気な訳ではありませんし、少し休めば大丈夫ですから。問題ありません」
クリスティーネはエーリヒの治療のために来たのだ。ヴェローニカは特段どこが悪いという訳ではない。急激な成長に伴い、筋骨の発育や魔力の増減により身体が少し痛むのと重怠いだけだ。
きっと長年魔力を吸われていたツクヨミや今そこで眠っているエーリヒはこれ以上に痛み、異常をきたしていたのだろう。それに比べればどうということはない。
「……コンラート、ヴェローニカが具合が悪いみたい。僕たちはもう部屋に戻るね。叔父上を頼むよ」
神聖魔法も見せてもらったし、あとはコンラートにこの場を任せて邪魔しないようにしようと、二人は従者達を連れてエーリヒの部屋を退室した。その際にはいつものように心配したユリウスが、有無を言わさずヴェローニカを抱き上げて移動した。
「本当に大丈夫?ニカ。眠らなくていいの?」
ヒューイットが心配そうにベッド脇で見守っている。
「大丈夫です。もう苦しくなくなりましたから」
「じゃあ、やっぱりさっきは苦しかったんだね。無理しちゃだめだよ、ニカ」
ベッドの枕元に置かれたたくさんのクッションにもたれかけ、楽な姿勢でいるが、その上にはまた黒猫が丸くなっている。
「君はいつもニカにべったりなんだね」
ヒューイットがなんとなく声をかけると、
『なんだ童、羨ましいのか?』
「え?」
急に言葉を返されてヒューイットはドキッとした。今の今まで普通の猫のふりをしていたのに。
『あの女は誰だ?』
それまで寛いでいたツクヨミが体を起こした。黄色い瞳が縦に細く絞られて、その視線は可愛さよりも鋭さが感じられる。
「あれはファーレンハイト辺境伯の令嬢だ。グリューネヴァルトとは領地が隣接している」
「あの方は神殿の上級神官なんです。だから私とは違って上位の神聖魔法が使えるんです」
言いづらそうな雰囲気の中でウルリカが答えると、リオニーがしゅんとした。
『それで?小僧との関係は?』
「それは…」
『婚約者というのは本当なのか?』
ツクヨミが侍女達を見回すと、ヘリガが眉を寄せた。
「ウルリカが言ったように、隣接した侯爵領と辺境伯領は領地の防衛上、昔から交流があるのです」
クリスティーネの出身地であるファーレンハイト辺境伯領はローゼンハイム王国と国境線を接していて、彼の国はその国境線を度々侵し、国境砦付近では頻繁に小規模な局地戦を行っているようだ。
そして二つの領境に強力な魔獣が現れた際にも共同で討伐隊を編成する。南部には竜が棲むほど、強大な魔獣が棲息しているのだ。
「侯爵様が雷名轟く竜騎軍を動かすと、ローゼンハイムの兵はすぐ撤退するので、戦線が拡大する前に時折ファーレンハイトから援軍要請があるのです。ですから、辺境伯家は侯爵家との繋がりを強固にしたいと考えていることでしょう。ですが今回、私達は何も聞いてはいません。……確かに縁談が過去に上がったことがあるのは事実ですが、エーリヒ様にはそのようなおつもりはなく、ファーレンハイト令嬢が神殿に入られてからはそういったお話はなくなりましたので…」
『ふーん…だがあれは小僧が気に入っているようだな』
「…………」
ヘリガは押し黙った。それはどうやら肯定を示している。
『隠しても仕方がない。むしろ明らかにせねばならぬだろう。あれが婚約者だと言うのなら、この子の身の振り方も考えねばならぬのだからな』
「…………」
それでもヘリガとリオニー、ウルリカは俯きがちで沈黙を守っている。
ヴェローニカはその雰囲気になんとなく心苦しくなって、後ろにいたユリウスとその隣のディーターを見た。
エーリヒが王城に登城しないので、護衛騎士達も今日は登城していない。主が心配ではあるようだが、容態が落ち着いているので今は交代で休みをとっているようだ。ずっと彼らはエーリヒに付き従っていて忙しかったらしい。今日は先日怪我で休みを取っていたディーターにあとを任せて、他の二人はお休みだ。
ディーターは少し気まずそうな顔をした。
「軽口は控えるようにコンラートからは言われてるんだけど、ヴェローニカ様もやっぱりちゃんと知った方がいいと思うんだよね。その黒猫の言う通りだと俺は思うよ」
「ディーター」
ヘリガが咎めるような口調でディーターを睨む。
「……あの令嬢は昔からエーリヒ様を慕っていたようで、学院時代とかはよく追いかけてたよ。あの通り神聖適性があるから、他の令嬢達よりも自分が有利だと思ってたみたいだね。でもエーリヒ様は避けてたと思う。エーリヒ様は元々そういう傾向があって、本気で来る令嬢は皆避けてたから。多分、それで諦めて神殿に入ったんじゃないかな。神聖魔法の適性者には神殿の勧誘がしつこいし。でもいざとなったら辺境伯家なら還俗もできるし、上位の神聖魔法を習得できたら領地にも貢献できるしね」
「…………」
侍女達は苦い顔でディーターを見ている。
本気で来る令嬢は避けてた、か。
じゃあ本気じゃなければ問題はなかったのね。時期的な問題だろうか。それとも重い女は面倒臭いということなのかな。冷めた姿勢がなんとなくエーリヒらしい。
あんなに可愛らしい人でもだめだったのか。貴族令嬢は美女が多くて、免疫がついたのかな。高位貴族の方が容貌に優れていると以前にも聞いたし。
つまりクリスティーネは昔エーリヒに本気で想いを寄せていて、一時は失恋して神官になったけれど、年月が経って二人の時機も良くなり、晴れて今、婚約者になれたということなのか。それはきっと幸せの絶頂だろうな。
両家の仲も良好ならこのまままとまりそうだ。何より侯爵と辺境伯が乗り気であるならばきっと覆らない。
なのに、侍女達とディーターは複雑な表情だ。それを感じてヒューイットとその従者達も事情がわからないながらも少し気まずそうである。
「話してくれてありがとう、ディーター」
「……ううん」
ディーターが気まずそうに微笑む。
まだ以前の発言を気にしているのかな。何も問題ないのに。
…そう言えば、あの時の恋人はどうするつもりなのだろう。でもここでは一夫多妻制だから問題はないのか。
ちょっと待って。不公平だな。なら女性も多夫制にすべきじゃない?
いや、結婚しない私には関係ないことか。うん。
「リオニー、神聖魔法は見ましたか?参考になりました?」
「え?…あ、はい、見えましたが…参考になったかは……おそらく令嬢は魔術刻印を施しているのだと思うので…私には真似はできません…」
「そうですか」
「あ、でも勉強にはなります。神聖魔法はなかなか見られませんから。あれを参考にして修練してみます」
リオニーはそう言って笑ってくれた。
「これからはあの方が神聖魔法を施してくれるのなら、もうエーリヒ様の治療は大丈夫かしら?ツクヨミ」
『……どうだろうな。あれで良いかは小僧の流す魔力次第だが。あれはそなたが昨夜施した治癒より効果は低いぞ』
「そうなのですか?」
「え?ヴェローニカ様、昨夜エーリヒ様に何か行ったのですか?」
ヘリガが驚いて尋ねてきた。
『明け方にこの子が小僧を治癒してやったのだ。見事なものだったぞ。あれの魔法などよりもな。だから今朝は顔色が良かっただろう?』
「そうなの?ニカ」
ヒューイットも驚いたようだ。
「でも、私の場合は神聖魔法とは違うようなのです。ですから神聖魔法とは効果が異なるものなのかと思って。エーリヒ様が治るのであればその方が良いですから」
「それでお話にはならなかったのですね」
「神聖魔法とは違う回復魔法なの?」
ヘリガは納得したようだが、ヒューイットはますます驚いている。
『だが小僧の魔力回路はこうしている間にも損傷は進む。あれは一度の治療で治るものではない。一度この子が完全に治癒して回路が強化されたからか、どうやら流れる魔力量が増えたようだ。もしかしたら今後どんどん増える可能性もある。あやつがこれから治癒を担うのであれば、あれでは全然足りぬ。日に何度かは治癒をかけないと追いつかぬ。そのうち損傷が蓄積して回路が完全に破壊されるぞ。それは心に留めておけ』
ツクヨミは尻尾をシタンシタンと寝具に当てながら話し、気を取り直すようにペロペロと毛並みを舐めた。
『全く。今まではひた隠しにしてきたのだろうが、今度は負担も顧みず一度に覚醒しようというのか。面倒な小僧よ』
とぼやきながら。
◆追記◆
画像はクリスティーネのイメージ