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171.嵐の前の静けさ


「ふふ……可愛いです」

 ヴェローニカは眠っているエーリヒの顔にかかる色素の薄い前髪を指で払い、優しく頭をなでた。普段は完全無欠な彼が無防備に眠る姿にほっこりする。

 夜明け前、彼の眠る寝室は、壁を照らす魔導灯の暖かみのある灯りにほのかに包まれている。



『可愛い…?これが…?』

「もう。これとはなんですか。失礼ですよ、ツクヨミ。……それで、どうですか?」

『ふむ。良くなっている。歌で癒やすとは。そなたは器用よな』

 ベッドの上の黒猫がエーリヒの寝顔を眺めながらゆらりと長い尾を振ると、柔らかな間接照明が灯る部屋の中で黒い影が揺れ動いた。



「さっき神聖魔法は見たのですが、いきなりエーリヒ様の治療に使うのが怖いの。だから今まで通りに歌に、魔素に願いを込めました。体の中の仕組みを想像して、悪い所を治すイメージというか。……重力もそうだったのですが、強くイメージするとうまくいくようです。私もツクヨミのように体内の様子がわかれば、もっと上手くできる気がするのですが…」


『ふむ。イメージか。そうだな。確かに神聖魔法とはちと違うようだ。魔素を巡らせてそれをもとに治癒力を上げているのか。……なかなか理に適っているぞ。魔力ではここまでの効果は期待できないだろう』


「それはどうして?」

 エーリヒの汗が気になり、首筋を濡れたタオルで拭いてやりながら話を続ける。


『む?魔力は血液と一緒で、人によって適合性が違う。相性のようなものだ。魔力の親和性が高ければ治療の効果も高いが、魔術刻印などに頼っている今の人間共には魔力を変質させるなど困難だろうからな。だが魔素とは魔力の素。純粋なエネルギーであり、全ての動力だ。魔素をそのように扱うとは面白いものよ』


「そう…。そこまで考えていた訳じゃなかったけど……それなら良かった」

 ヴェローニカはほっと安堵のため息をついて、来た時より表情が和らいだエーリヒを眺める。



 普段はしっかりした大人のエーリヒが眠る様子は、とても母性本能をくすぐられる。

 早く良くなって欲しいな。


 そっと彼の頬に触れて優しくなぞった。

 どうやら熱は引いたようだ。



『だが魔力の流れを見るに、小僧はまだ目覚めるつもりはないようだ。再び流れ出した魔力を抑える気配がない。このまま放っておくと魔力が強すぎてまた回路が傷つく。これではいたちごっこというやつだな。この分だとまだしばらく目覚めんぞ』

「そうなの?」


『小僧の魔力が強すぎて自然治癒では追いつかんのだ。こんなことは余人には起こらん。こやつはそもそもの属性と魔力量がアレだからな。本当は幼少期から少しずつ、成長とともに魔力回路に通す魔力量を増やして地道に丈夫にしていくものだが。それを短期間で行い、魔力回路や身体の再構築をしようとしている。長年己を偽ってきたせいで負担が大きすぎるのだ。そなたが治癒を施せばそれも修復されるが。それでも本来の潜在魔力を問題なく通せるようになるまでには、段階を踏まねばならぬ』



 ツクヨミはお小言を言うようにつらつらと話し、彼の状態を説明してくれた。

「つまり破壊と再生を少しずつ繰り返して強化していくから、全回復にはまだ時間がかかるのね?」

『そうだな。今少しかかろうな』

「では定期的に治療が必要なのね……それなら今日のところはもう戻りましょう。続きはまた明日です」

『ふむ。手間をかけさせおって』



 一人と一匹は寝室から続くバルコニーに出る。

 明け方近くの白んできた空には、鋭利な細い月が浮かんでいた。


「夜明けの三日月だわ。綺麗ですね、ツクヨミ。あなたの名前は月の神様からとったのですよ」

『……吾ではないのだがな』

「え?…何ですか?」

『いや。……朔が近いな。魔力の回復が遅い訳だ。…煩わしい…』


 一人と一匹はバルコニーから飛び立った。




◆◆◆




 …歌が聴こえる…

 美しい歌声だ。

 聴き慣れた歌声。

 身体中の痛みが薄れていく。

 寒気が引いていく。

 ずっとこうして、微睡んでいたい…

 このままずっと…

 だが、何か、忘れているような…

 何だったか…


 誰かが頭をなでている。

 頬にも触れた。優しい手つきだ。

 まるで子供扱いだな。だが、悪くない。

 以前もこんな風になでられたな。


 香しい花のような甘い香り。

 これは……きっと彼女だ。

 銀色の髪が靡いて……

 待て。……行くな……

 だめだ、届かない……行ってしまう……


「ヴェローニカ……」




◆◆◆◆◆◆


《ヒューイット・シュレーゲル》




 倒れたヴェローニカの容態を昨夜のうちにエーリヒの執事に確認したところ、彼女は意識を取り戻したが、今度はエーリヒが倒れたという。それを父親から聞いたヒューイットは、翌日グリューネヴァルト侯爵邸に見舞いに訪れた。



 あの不思議な黒猫の見立てから、魔力回路の損傷が原因と聞いて、ヴィンフリートは上位の神聖魔術師を都合しようとしているようだとヒューイットは執事のコンラートに伝えた。


「では、神聖魔術師に来ていただけるのですね。…ありがとうございます、ヒューイット様」

 コンラートは心からほっとした様子だ。昨夜は主が気がかりであまり眠れなかったのかもしれない。

「ううん。お礼はお父様に。僕からも伝えてはおくよ、コンラート」

「はい。お願いいたします」



 エーリヒは倒れてからずっと、まだ昏睡状態のようだ。

 ヒューイットがエーリヒを見舞った時には、ただ穏やかに眠っているように見えたのだが、昨日倒れた時には顔面蒼白だったと聞いた。

 邸宅にいる下位の神聖魔法が使える侍女の処置と、医者の処方の後でも、その時はあまり回復したようには見えなかったようだが、今朝になってだいぶ容態は落ち着いたようだ。

 治療の効果が出てきて回復に向かっているのだろう。これで上位の神聖魔法を施すことで、意識も回復すると良いのだが。




「ヴェローニカはもう大丈夫なの?」

 ヒューイットは向かいに座ってコーヒーを飲むヴェローニカに尋ねた。


 あの黒い飲み物は苦いはずなのに、彼女はいつも美味しそうに飲んでいる。しかも黒いままで少しだけ飲んでから、身体のためには……と悲しそうな顔でミルクを入れるのだ。

 その時の彼女はヒューイットにはちょっと理解し難いが、なんだかしっかりした印象のいつもと違って笑ってしまう。



 今日はヒューイットの方から訪ねてきたので、ヴェローニカは髪色を変えることなく銀髪である。

 その姿は雪の妖精のようだ。時を忘れて見惚れてしまう。



 昨日はずっと心配だった。あのような隷属の首輪なる呪物を解呪して、手のひらにあれだけの傷をつくり、血だらけになって、そして倒れてしまったのだから。

 倒れたのは隷属の首輪を外したことが直接の原因ではないようだけれど。


 そして首輪を外してもらった黒猫本人……本猫は、何事もなかったかのようにまた彼女の膝の上で蹲り、のんびりと欠伸をしている。

 ヴェローニカの猫への扱いは、しゃべる前と全く変わっていないようだ。猫が突然しゃべりだしたというのに、本当に不思議なものである。



「大丈夫ですよ、ヒューイット様。ご心配をおかけしてしまって申し訳ありません」

 ヴェローニカは胸に手を当て目を伏せた。

 なんだか胸がぎゅっとした。


「ねぇ、ヴェローニカ」

「はい?」

「……もっと、くだけて話してもいいんだよ?同じ、歳なんだし……」

「…ありがとうございます。ですが、そういう訳には参りませんから」

 そう言うとは思っていた。だが。


「リュディガー様は君のこと、ニカって呼んでいたね」

「はい。そうですね」

「……僕も、呼んでもいいかな」

 ヴェローニカはコーヒーをこくっと飲んでカップをソーサーに置いた。そしてふわりと微笑む。

「もちろんですよ。お好きに呼んでいただいても」

「そう。じゃあ……ニカ。……僕のことも、何か愛称で呼んで欲しいな」

「愛称、ですか?」

「うん」

 ヒューイットの胸が期待で高鳴る。



「でも…」

 彼女は瞳を揺らしてヒューイットを見て、そしてその後ろに控える従者を見た。今日はいつも側に控えるクラウスと、外出時に伴う護衛騎士のランベルトも連れている。


「いいよね?クラウス」

「そうですね。…いいとは思うのですが。一応今のように他の方がいない、お二人の時だけでしたら、ヴェローニカ様も呼びやすいのではないですか?」

「そうかな。…別にいいと思うんだけど。…そうか。…どう?ニカ」

「……では。はい」

 彼女はそれでも少し戸惑っているようだ。



(そんなに畏まることなんてないのに。僕達はいずれ……婚約者に、なるかも、しれないのだから。)

 ヒューイットの胸はますます高鳴る。

(おかしいな。なんだか、顔が熱いや。)


「では、愛称とは。ヒューイット様はどのように呼ばれたいですか?」

 ヴェローニカはこてっと首を傾げてこちらを見る。何から何まで仕草が可愛らしく見える。


「それは…ヴェローニカが……ニカが決めてよ」

「では……ヒュー様、でしょうか?」

「様はいらないよ」

「…………」

 またクラウスを見ている。

 ヒューイットは少し唇を尖らせたくなる。

「二人の時なら、様はなくてもいいよね、クラウス」

 振り向くと、クラウスは少し困ったような顔で微笑んでいた。



「ヴェローニカ様、ヒューイット様。昼餐の準備が整いました」

 ヴェローニカの後ろに控えた侍女が通信魔術具を操作してからこちらに声をかけてきた。

「わかりました。行きましょうか、ヒューイット様……ヒュー様」

 少し戸惑いながらヴェローニカが言い直した。


 様はいらないのに。とは思いつつも、ヒューイットは嬉しそうに返事をして、食堂に向かった。





 食堂で用意された食事に、ヒューイットは目を瞬く。

「これは、何?見たことがない料理だね」

「これはハンバーグステーキですよ、ヒューイット様。他にも何を出すか悩んだのですが、男性にはこれが一番好評なのです。ね、ロータル?」

「はい、ヴェローニカ様。どうぞ召し上がってみてくださいませ、ヒューイット様。ヴェローニカ様が教えてくださったレシピは他にもいろいろあるのですが。これは中でも試行錯誤をして、とても好評なのです。ヒューイット様のお口にも合うと良いのですが」



 ここの料理長が自信を持った一品のようだ。

 彼はいつもヴェローニカが持ってくる“チーズケーキ”や“マカロン”、“プディング”などの美味しくて珍しいデザートを作ってくれるシェフに違いない。ならばきっと味は期待できそうだ。


(あれ?ヴェローニカが教えたレシピ?このシェフが考えたんじゃないのか。)

 早速ヒューイットがカトラリーを持ち、フォークとナイフを刺すと、それはステーキよりも柔らかくて、すぐにナイフで切り分けられた。そして中からジュワリと肉汁が溢れ出してくる。しかも中には黄色いチーズが入っていて、それもとろけ出している。驚きつつも周りを見ると、皆美味しそうに食べている。



 ここではいつも侍女達も一緒に昼餐をとると聞いて驚いた。ヴェローニカが皆と一緒に食べたいと言うらしい。

 さすがに他の使用人達は別に食べるようだが、たまに食事会と称して新たなレシピを試す時には、料理人だけではなく使用人達までもが一緒に食べるらしい。

 彼女は邸宅の使用人達ととても仲が良さそうだ。



 今日はヒューイットが来ているので侍女達は遠慮したのだが、いつもそうなら別に構わないとヒューイットは許可した。ヴィンフリートが招待する晩餐でも侍女達も座らせていたことだし。彼女達も貴族の子女なのだ。

 そして今日は隣にクラウスとランベルトも同席していた。


「これは…美味しい…」

 クラウスがボソッと呟いた。ハンバーグなるものを口にしたようだ。

 ヒューイットも続いてそれを口に運んだ。

「美味しい!」

 ヴェローニカを見ると、彼女は微笑んでヒューイットを見ていた。食べた感想が気になっていたようだ。



「ヒューイット様、こちらのブロートはとても柔らかいですよ、食べてみてください」

 護衛騎士のランベルトが少し興奮気味に声をかけてきた。言われた通りに食べてみると、本当に食べたことがないくらいにふんわりした白いブロートだった。

 他にも見たことのないブロートがある。そちらは手にとるとさらに羽根のように軽く、バターの味が濃くてサクサクもっちりとしていて、なんとも幸せな味だった。


「他の方々もお口に合うのでしたら、こういうレシピでレストランを開くのもいいですね。クラウス、ヴィンフリート様に食べた感想などを交えてお話してみてくださいますか?レシピはうちの料理長がわかりますから」

「え?……そうですね。承知しました、ヴェローニカ様」


 またいつの間にか商談になったなとヒューイットは思いつつも、ハンバーグを口一杯に頬張った。




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