170.暗影
《コンラート・ネーフェ》
その夜、突然エーリヒが倒れ、侯爵邸は周章狼狽の最中にあった。
今しがたエーリヒを診察し薬を処方して医者が帰ったあと、未だ目覚めないエーリヒの傍で看病をしていたヴェローニカは、侍女のリオニーに神聖魔法を教わりたいと願い出た。
魔法には適性がある。
適性がない者はどう努力しても魔法は使えないし、適性があってもすぐに魔法が使える訳ではない。まずは体内魔力を意識して操作する訓練から始めなければならないのだ。
だがヴェローニカの場合、魔法の存在すら知らなかった頃から無意識に大気の魔素を操作していたし、魔力操作も教えていないのに、精神干渉魔法が使える。そして続き部屋のコネクティングドアを封鎖していなかった頃は、何らかの効果でエーリヒの体調は保たれていたはずだ。
コンラートはそれを思い出して、彼女に期待を込めて見守っていた。
――先刻。
応接室でコンラートは侍女と護衛騎士達から今日の出来事について話を聞いていた。すると何の前触れもなくユリウスが立ち上がった。それをその場の一同が見上げる。
「ユリウス様?どうされました?」
「ヴェローニカが呼んでいる。『エーリヒが』って、慌てた様子で…」
「え?エーリヒ様が何か?」
ユリウスとヴェローニカは二人の間で思念の会話ができると聞いていた。
ヴェローニカの異変を感じ取ったユリウスは、急いで応接室を出て行った。
コンラートもすぐに後を追ったが、彼は階段まで向かうことなく二階の踊り場へと驚異の跳躍を見せ、脇目も振らずヴェローニカのいる部屋へと向かう。
その身体能力にも皆驚いたが、そこまでする急迫した事態が起きているのかとコンラートは焦りながら階段を駆け上がっていった。
ユリウスが先ほどまでいた奥の寝室の扉を開けると、魔導灯がついていた応接室や廊下とは違い、部屋の中は薄暗かった。
二人は日が落ちるのも忘れて話し込んでいたのか。
だがマリオネットであり霊体の魔物であるユリウスは、いつものように暗闇でも問題なく視界は見通せた。
ベッドの上にはエーリヒがうつ伏せに横たわり、わずかに身動きをしている。その身体の下にヴェローニカの脚がもぞもぞと動いているのが見えた。
寝室の扉を開けたユリウスの目に映ったのは、エーリヒがヴェローニカを押し倒して覆い被さっている光景だった。
「ユリウス…?エーリヒ様が…」
「エーリヒ!!」
一気にユリウスの怒りは沸点に達し、閃光の勢いでベッドまで飛びつく。ヴェローニカを抱きしめていたエーリヒの首裏を掴み上げて、彼女から無理矢理引き剥がした。
「きゃあ!!ユリウス!だめ!乱暴にしないで!エーリヒ様が死んじゃう!エーリヒ様がっ!!」
怒りに任せて掴み上げたエーリヒの抵抗がまるでなくて、反撃を予想していたユリウスは拍子抜けする。そしてヴェローニカがエーリヒにしがみつくように奪い返そうとしていることにも疑問に思い、少し冷静になってエーリヒを見た。
ぐったりとしていて顔面蒼白だった。意識を失っている。
「???」
「ユリウス!離して!エーリヒ様を早く離して!」
「…エーリヒ…?」
エーリヒを離してやると、ヴェローニカはエーリヒを抱きとめた。小さな身体でエーリヒを大事そうに抱きかかえる。
そこへようやく寝室の入口にコンラートや他の者達もやってきて、事態を把握する。
エーリヒが倒れたと聞いたコンラートは慌てて医者を呼び寄せ、リオニーはすぐさまエーリヒに神聖魔法を施した。
(あの扉を封鎖していなかったら、こんなことにはならなかったのかもしれない。…いや、だが、エーリヒ様の疲労は限界に達していた。やはりいつかは…)
コンラートは続き部屋への扉を振り返った。そしてまた、ベッドの側で会話しているヴェローニカとリオニーの二人を見守る。
リオニーは自分が使えるのは下位の神聖魔法のみであることを説明した上で、眠っているエーリヒに神聖魔法を施して見せた。かざしたその手のひらが淡く光る。
「神聖魔法の下位段階では、回復度合いがあまり期待できません。簡単な傷を塞いだり、炎症や痛みを取り除いたりするだけで、水魔法の水癒と効果はあまり変わらないのです。大きな欠損を治したりするような上位段階の神聖魔法は、残念ながら私にはできません…」
「では、欠損を治したり、体力や気力を回復させたりする手段はあるのですか?」
リオニーの魔法を熱心に見ながらヴェローニカは尋ねる。
「熟練の神聖魔術師なら、欠損の復元やそれに相当する回復は可能だと言われています。ただそれは……適性や会得が難しく、ほとんどは魔術刻印を施して、魔力回路を拡張するようです。もともとある自分の魔力回路では、いきなり上位の神聖魔法は使えないからです。ですがその魔術刻印は神殿が秘匿していて、神官や巫女しか刻めないんです。ですから神殿関係者以外は元来の才能か、長期間の訓練を重ねて魔力回路を成長させ、会得するしかないのです」
「そうなの。魔力回路……」
「それから体力や気力の回復というのは、神聖魔法では血を補えないように、難しいことのようです。病気を治すこともできないと言われています」
リオニーは残念そうに答えた。
(神殿が神聖魔法の独占などしていなければ。リオニーも上位魔法が使えたはずだ。そうすればエーリヒ様の回復も見込めたかもしれない。やはり神殿に頼るしかないのか……)
やるせない気持ちがコンラートの心を侵していく。
「リオニー、触ってもいいですか?」
「え?…ええ。はい」
ヴェローニカが魔法を施しているリオニーの腕や手に触れていく。そしてしばらく口元に手を当てて考えている。
(通常であればいくら適性があったとしても、あれですぐに魔法が使えるようになることはないが……)
「ツクヨミは体内魔素が視えるのですよね」
『まあな』
「エーリヒ様は今、どう視えるのですか?」
『ふむ。今は……全体的に体内を巡る魔力が弱々しい。それで意識を保てないのだ。魔力回路が損傷し、そこから魔力が漏れ出て、肉体を傷つけている。そしてそれを抑えるために魔力の流れが滞って、昏倒したのだろう。……というか、こやつ長い間魔力を封じていたな。それを最近解放したがためにこんなことになったのだろう。容量の少ない既存の魔力回路が、封じていた高魔力で押し流されたのだ』
「…………」
ツクヨミの言葉に眉を寄せたヴェローニカは、心苦しそうに押し黙ってしまった。それを後ろから見守っていたコンラートは口を挟む。
「それは、どういうことなのでしょうか?」
『む?なんだ、知らんのか。自分の主の馬鹿げた魔法適性と魔力量を』
「ツクヨミ、それはエーリヒ様が話すことです。それ以上はいいわ」
『む……そうか。なるほどな』
ヴェローニカが止めるとツクヨミもそれに素直に従った。だがコンラート達は不可解そうに眉をひそめる。
(何のことだ…?)
「それで、このまま休めば回復はするのかしら?それだけ教えて、ツクヨミ」
『ふむ。そうだな。小僧は身体を酷使しすぎたのだろう。急激に大きな魔力を短期間で通しすぎたのだ。長年本来の力をろくに使ってないまま大人になったのだからな。大人になり魔力が安定し、その想定で形成されたはずの魔力回路の許容量を大きく超えてしまったために回路が損傷した。だがそのうち回路が適正に強化補修されると、こやつ本来の魔力も馴染むようになるはずだ。それまで休めば問題はなかろうな。…楽観はできないが』
「そう。…じゃあその魔力回路というのが治ればいいのね」
『そうだな。しばらく安静だな。無理をすると今以上に回路が途切れる。そうなれば余計に回復に時間もかかるぞ』
「切れても回復するの?」
『軽度ならな。すでに今は所々切れている状態だ。だから絶対安静だぞ。こやつだからこれでも動いていられたのだ。また無理に魔力を通して損傷が重度になると、魔法が使えなくなる。言うまでもないがな』
「「え?」」
周りで見守っていたコンラートや侍女達、護衛騎士達が動揺の声を上げた。
(魔法が使えなくなるだと?)
『当然だろう。魔力回路が潰れたり途切れたりしたらどうやって魔力を通すのだ。その状態で無理に通すと身体がそこで暴発する。つまり、四肢が吹き飛ぶ』
「…………」
『しばらくは小僧が無理しないよう見張っておけ』
ベッドの上のツクヨミは尻尾をシタンシタンと大きく振った。どこか苛立っているような素振りだ。
『まさか、泣きっ面どころか、倒れるとは……無理が祟ったとはいえ……この子の反応がそんなにショックだったか』
ツクヨミの小さな呟きをコンラートは聞き逃さなかった。
泣きっ面……
そう言えば以前、ツクヨミは言っていた。
――あの子は心を殺したのだ。今までのあの子と思い、安易に近寄れば小僧は拒絶されるだろう。ふふ…早く小僧の泣きっ面が見たいものよ。
(拒絶……されたのか…?エーリヒ様は……ヴェローニカ様に…)
確かにこうなる前に二人は一緒にいた。
エーリヒの部屋から戻ってきたツクヨミとユリウスから、今は二人で話していると聞き、その間に侍女と護衛騎士らから、王城や子爵邸であったことを聞いた。
ヴィンフリートがヴェローニカを養女にしたいと、ヒューイットの婚約者にしたいと申し出た。商会も一つ預けたいと。それは破格の待遇だ。
彼女は婚約の話には戸惑っていたようだが、エーリヒには拒んだ養子縁組を、ヴィンフリートの提案では快諾したと聞いた。親子というより、利害関係を結ぶという意味での養子縁組を。そして魔素の薄い王都を出て、侯爵領へ移住しようと話していたらしい。
だがそれをエーリヒは遮った。その姿はまるでヴェローニカに懇願するようだったと。
エーリヒは明らかにヴェローニカを引き留めようとしていた。以前に言ったことを忘れてしまったのかと。
つまりエーリヒはすでにヴェローニカに対して、引き留めるための言葉をかけていたのだ。それほどまでに彼女にここにいて欲しかったのだ。
だがエーリヒと話をしていた彼女は気を失ってしまった。ツクヨミによると自らかけた暗示に、エーリヒとの思い出が抵触したらしい。
エーリヒが帰ってきた際、エントランスへ迎えに出たコンラートは、主の張り詰めた雰囲気を感じて状況を把握しようと努めたが、部屋まで付き従おうとした彼をエーリヒは拒んだ。
意識を失い目を閉じた腕の中の少女を大切そうに抱き、自室へと急ぐその表情には、心配、焦り、不安……そして見る者にそれとわかるほど、愛情が露呈していた。
(心を殺した。自己暗示。……思い当たることと言えば……“あの夜”のことか。あれでヴェローニカ様は傷ついて心を閉ざし、すでにエーリヒ様への想いを断ち切っていたというのか。)
コンラートには“あの夜”のあとのヴェローニカが、全く普段通りに見えていた。
壊れた扉を目にした朝、まだレディとも呼べない小さな彼女に心を乱されているのはエーリヒだけなのだと、何か認めたくない気持ちがコンラートにはあったのだ。
そしてそれにコンラートは目を逸らした。
逸らしてしまった。
(その結果が、これなのか……)
コンラートはベッドで眠る自分の主を見て、そして小さな美しい白銀の少女を感慨深く眺めた。
翌日、とある客が侯爵邸を訪れる。
それが凶事の始まりとなった。