169.この想いの正体は(4)
《エーリヒ・グリューネヴァルト》
「エーリヒ様…?」
ヴェローニカがどうかしたのかというふうに覗いてくる。硝子玉のように澄んだ美しい瞳だ。吸い込まれそうなほどに。だが……
違う。この瞳じゃない。
君はもっと、もっと……
そうだ。もっと、戸惑いつつ私を見上げた。
恥じらうように、私を見上げていた。
君が秘密を打ち明けてくれた夜は、肩を震わせて涙を流す君をどうやって慰めればよいのかわからなくて、歯痒くて。
家族が怖いと言った時の、胸に芽生えたあの痛みのような憤り。
――私から離れるな。もうどこにも行くな、ヴェローニカ。傍にいてくれ。
あの日、君がさらわれたと思った。そしてユリウスが現れた。
君は養子縁組を受けてくれない。
……いなくなってしまうと思った。どうやって私のもとに留めておこうかと思った。
あの言葉を耳元で囁いた時、君は頬を染めて、その青銀の瞳を涙で濡らしていた。
どうにも胸が締めつけられ、私はそれを指で拭った。
こうして柔らかい頬に触れて見つめると、恥ずかしそうに首をすくめ、目を細めて、頬を朱に染め……君は濡れた瞳を戸惑うように揺らして……私を見つめ返して……
「エーリヒ様?」
突然名前を呼ばれて、ピクッとエーリヒは動きを止めた。
いつの間にかヴェローニカの頬に触れて身を寄せていて、目の前には薄紅色の小さな唇があった。
もうそれは、ほとんどキスする寸前の距離だった。
自分でも戸惑って彼女の瞳を覗くと、瞳をぱちくりと見開いて、驚いているようだった。
そう、彼女は驚いているだけ。
あの日の君は、もうどこにもいない。
「大丈夫ですか?エーリヒ様」
急に胸がざわついて苦しくなった。
これは不安だ。
言い知れない不安が襲ってくる。
そしてそれを振り切るように彼女から離れ、身を起こした。
「…………」
今のは自分が悪い。
……だが、悪かったとは言いたくはなかった。
――《生者必滅 会者定離》とは……この世の定めです。生ある者には必ず死が訪れ、出会った者達はいずれ…いずれ…
生ある者は必ずいつかは死ぬ。
確かにそれは道理だ。
であれば、出会った者達はいずれ……別れの時が来る。ということか。
人は死に、いずれ別れる……別れの、暗示。
またエーリヒの胸がざわついて締め付けられるように苦しくなった。
指先が冷たい。息がしづらい。何か、身体がおかしい。
「エーリヒ様、あの……今日は帰りが早かったのですね」
「…ああ」
ざわざわと忍び寄るような寒気を感じながら、心ここにあらずという体で彼女の声に返事をする。
「毎日お忙しそうですね。朝も早いのに、帰りも遅くて……お身体は大丈夫ですか?無理はしていませんか?」
「ああ。…大丈夫だ」
「そうですか」
心配そうに気遣う瞳だ。
「あの……エーリヒ様。今まで、ありがとうございました」
なんだって…?
またざわりとする。急に嫌な感覚が胸を占めた。
これは……いつ味わったのかも忘れていた、“怖い”という感情に似ている。
「それは……どういう意味だ」
「え?あの、だから……エーリヒ様には本当に、とてもお世話になって、感謝しています。…エーリヒ様はこんな私を保護してくださって、ずっと優しくしてくれたから…」
「だから、なんだ」
口調に自ずと苛立ちが混じっている。そしてそれを彼女が敏く感じとっているのが、わずかに怯えた瞳でわかる。
「…あの、えと……ヴィンフリート様が、私の面倒を見てくださるそうなんです。初めは冗談かと思ったのですが、ヴィンフリート様は商会をいくつも持っていらっしゃるので、私一人くらいは余裕があるようですね。ありがたいことに、多少なりとも私はそのお役に立てるようなので、それならばその方が、良いかと。雇ってもらえるようなものですね。普通ならこんな子供の身で、そのような機会には恵まれません。…エーリヒ様のお陰で、ようやくこの世界で居場所が見つかりそうです。ちゃんと、頑張らないと」
「本気で言っているのか…」
だめだ。自分を抑えられない。刺々しさを、なんとかしなければと思うのに。
「あ、…確かに、初めはそんなに役に立たないかもしれませんが、今、長期的な計画でとある商品開発をしていて。それが上手くいったら、だいぶ利益が見込めると思うので、そうしたら、エーリヒ様にもきちんと今までのお礼をいたします」
「そんなことを言っているんじゃない!」
突然声を荒げたエーリヒに、ヴェローニカはビクンと身体を揺らした。そしてその瞳には驚きと、確かな恐怖が見えた。
いつかも見たことがある瞳だ。
プロイセ城でユリウスの腕の中で彼女が目覚めた時、ユリウスが彼女を抱きしめたのを見て苛立って声を荒げた。あの時のような表情だ。
何時間も探し回り、やっとの思いで君を見つけたのに、何故お前が抱きしめるのだと、苛立って仕方なかった。
旅路の街道で、村の長が彼女に怒鳴った時も彼女は怯えた瞳をした。
今までずっとあのように怯えさせていたのかとあいつに殺意を覚えた。
彼女は怒鳴られることが苦手なのだ。
それは誰だってそうだ。でも、彼女の場合は、それが日常だったから。それを思い出させてしまうから。
「すまない、ヴェローニカ…怖がらせてしまった…」
エーリヒは思わず膝の上の彼女の身体を抱きしめた。
とても小さな身体だった。当然だ。まだ幼い少女だ。その小さな身体が強張っている。
私を怖がっているのか。
そう思うと胸が痛む。
彼女から甘い香りがする。
酒気が回り意識が奪われるような、微睡みたくなるような心地良い香りだ。
甘い香りに誘われて、エーリヒは無意識にその首筋に身を寄せていた。一層身を固くさせたヴェローニカを、これ以上怖がらせないよう、出来得る限り優しく包み込む。
どこかで嗅いだことのある香りだ。
庭園の花……それと、いつかの朝、優しい夢から目覚めた時の残り香……ベッドで眠るヴェローニカ……
あの時、ベッドサイドに活けてあった花からはこの香りはしなかった。これは庭園の花の香りだと思っていたが、あの時にも彼女がいた。この腕の中に抱きしめて……
じゃあこれは、彼女の香りなのか。人の香りとは、こんなにも香り高くなるものなのか。
これが彼女の魔力の香り。
魅了の香水など、魔力の高い私には効かないというのに。
…待て。
こんな小さな女の子に、キスをしようとしたのか、私は……
なんなんだ、これは。
なんなんだ、この感情は。
こんなことは、あってはならない。
もう、おかしくなりそうだ。
「ごめんなさい……エーリヒ様」
「……何故、謝る」
「エーリヒ様を、怒らせてしまったから…」
「…………」
「ずっとエーリヒ様にお世話になっていたのに、ヴィンフリート様にお誘いいただいたからと言って、調子が良すぎますよね…」
寂しそうな声だ。
そんなふうには思ってはいない。
だが、それでヴェローニカが思い止まってくれるのなら。それでもかまわない。
「……でも、その方が良いと思うんです。エーリヒ様は独身ですし、私がここにいては、今後エーリヒ様のお邪魔になりますから……だからその方が、きっといいんです。そう、思いませんか?」
憂いのない、笑顔。
ヴェローニカは本気で、私の幸せのために言っている。
それが私の幸せなのだと微塵も疑ってはいない。
届かない。
そう思った。
自分の言葉が、今のヴェローニカには、届かない。
どんなに言葉を尽くしても、この想いは……
「やめてくれ、ヴェローニカ…」
「え?」
「お願いだ、ヴェローニカ……元に、戻ってくれ…」
触れられても、戸惑うことなどなく、恐れることなどなく、君がこの邸宅で過ごすことで皆に注がれる愛情に少しずつ慣れて、受け入れられるようになって欲しいと思っていたのではなかったのか。
それなのに、今さら、こんな。
その柔らかな頬に触れたら、戸惑うように、恥じらうように私を見つめて欲しいなどとは、本当にどうかしている。
抱き上げても、「大丈夫」などと遠慮などはせずに、素直にその身を委ねて欲しいと。
私を見て微笑んで、ただ、甘えて欲しいと。
罪悪感など感じずに、ただ、私を受け入れてほしいと。
君が望むのはいつでも、他の誰でもなく、私だけであって欲しいと。
ただ、君の傍にいたい……
こんな気持ちは、初めてなんだ。
「…エーリヒ様…?」
ヴェローニカがまた不思議そうにエーリヒを見つめる。
――万全か。…なるほど。それで最近忙しくしているんだね。だがそれを相手は待っていてくれるだろうか。
――お前は言い寄る女の対処法しか知らない。自分で追い掛けたことがないからだよ。
「君を、放っておいたと思ったのか?君をここに連れてきておいて、一人にしたと……私を、恨んだのか」
それで、寂しい思いをさせたのか?
…私に、会いたかったのか…?
「え…?そんなふうには、思ってはいません。エーリヒ様がお忙しいのはわかっていますし…」
彼女は本気で困惑している。
違うのか…?では、どうして…?
「では…」
今度はエーリヒの方が少し寂しい思いに囚われながら、また別の可能性を考える。
「ここにはコンラートもいますし、侍女の皆も良くしてくれます。エーリヒ様が私に気を配ってくださっているのは、ちゃんとわかっていますよ。…それに…ユリウスもいますし、今はツクヨミもいますね」
彼女は優しく微笑む。
ユリウス…
違う。そんなことが聞きたいんじゃない。
…あれから、私の話をしなくなったとは、なんだ?
放っておいたと疎まれていたんじゃないのなら……それとも、今の君からはもう本心は聞けないということなのか?
「私が君を傷つけたのなら、謝る。だからお願いだ。どうして私から離れようとするのか、教えてくれ」
ヴェローニカ……頼む、ヴェローニカ……
「君の、本当の心を……君が私を、どう思っているのかを知りたいんだ…」
私はただ、君に傍にいて欲しいんだ。
それが私の望みなのだと、言ったではないか、ヴェローニカ……
何故、私から離れようとするんだ……
何故、君は……心を閉ざしてしまったんだ……
そう、聞いてもいいだろうか…?
「あの……どうしたのですか?エーリヒ様?」
「もう……限界だ」
「…え?」
「限界なんだ、ヴェローニカ……もう…」
ヴェローニカを抱きしめたまま、意識が薄れていく。エーリヒの身体から力が抜けていく。
ずるずるとヴェローニカの小さな身体に成人男性の身体がのしかかってきた。
「わ…エーリヒ様?」
支えきれずにそのままエーリヒにベッドに押し倒されるように崩れていって、ヴェローニカはベッドの上に組み敷かれるように仰向けに倒れた。
ぱちぱちと混乱しながら瞬いて、ヴェローニカはベッドの天蓋を見上げる。
でもそれからエーリヒは動かない。何も話さない。
寝室はしん…と静まり返っていた。
「……エーリヒ、さま?……」