167.この想いの正体は(2)
《ジークヴァルト・リーデルシュタイン》
ジークヴァルトの周りには、自分の身を守れる高位貴族や有力家門出身のような派手に着飾り美しく、一見すると奥ゆかしいが言い回しが迂遠で、その実気位の高い令嬢しか近寄れず、ジークヴァルトもそれを十分に理解していたので、自分から誰かに軽率に声をかけるようなこともしない。
だがそれでは愛が芽生える隙も育む暇もないというものだ。
それでも彼がただひと度声をかければ女は落ちるのは必定なのだから、必死に口説くこともなければ、互いに理解を深め合う手間暇をかけることもない。
それは心など伴わぬほんの仮初めの、玉響の如き逢瀬。
ともすればさしずめ気にすることはただ一つ。関係を隠し通すこと。それができなければ命さえ危ういのだから相手も協力してくれる。
そして令嬢達から贈られる物には昔から、飲食物には媚薬や毒物が、プレゼントには盗聴魔導具が、ありとあらゆる愛憎混じりの劇物が仕込まれていた。
(うんざりだ…)
だがふと、あの娘がアルブレヒトやリュディガーのように自分の幼少期から傍にいてくれたのなら、どうなっていたのだろうと考える。
彼女ならば、自分の傍にいれば敵意を向けられると知っていてもなお、きっと離れないのだろう。それどころか、自分が守ってあげるとでも曇りなき満面の笑みで言いそうだ。そしてそれはきっと好きだからなのではなく、姉のような気持ちからなのだろう。
あの性格ならば口撃してくる令嬢達と真正面に立ち向かうのだろうな。嫌がらせにも正々堂々受けて立って、もしも毒物が入った菓子を贈られたと知ったのなら、自分のことのように憤るのだろうな。と。
(危なっかしいな。)
だがその儚き虚構の世界の、なんと楽しいことか。
ふっと笑いが漏れた。
「しかし…あの黒猫は何者なんだろうね…。フェル、首輪が外れたあとのあの猫の魔素はどうだったの?」
「まだ外れたばかりでしたからね。魔力が正常に戻るにはもう少し様子を見ないと。今までどれだけ魔力を吸われていたんだか…そもそもなんであんなものを着けていたんでしょう…」
「貴族の一部では魔獣を飼うのが流行っていると言うね。だけどいくらなんでも猫にあんな首輪は着けないだろう。おそらく何かの犯罪に巻き込まれたんだと思うんだけど。隷属の首輪なんて物は裏社会でもそんなに簡単に手に入る物じゃない。しかも、あんな性能のものがあるなんて…。帰ったら出所は調べておかないとね、フェル」
「うわぁ……はい。そうですよね。とりあえず首輪を持ち帰って調べてみます」
あのような厄介な魔導具を扱う組織だ。手間ではあろうがしっかりと調査してもらいたい。
「…でもあの子はどこから来たんだろう。ヴェローニカが拾ったんですよね?」
リュディガーがヴィンフリートを見て疑問を口にする。
「王都の平民区の商店街からついて来たそうですよ。また商店街に連れていっても、帰らなかったと」
「平民区画か…あの辺りのどこかから逃げてきたのかな…それとも貴族街の隔壁を越えられるのだとしたら、その限りではないか。…さすがに王都の外郭は越えられないかな」
「魔物とは、そんなによくしゃべるものなのか?リュディガー。シルバーフォックスだとか、ゴーストだとか、ヴェローニカの周りには何故あんなにも珍獣が湧くんだ」
「…珍獣って…ジーク…」
ジークヴァルトの言葉にリュディガーはまた仕様がないなという風に口元を緩めた。
「多分あの子を取り巻く魔素が関係しているんでしょうね。ユリウスさんも魔素が視えると言っていましたし。あの猫もあの子のことを“魔素溢れる者”と言っていましたから」
「それでついてきたとも言っていたしね」
フェリクスの意見にリュディガーも頷く。
「魔素が視える者からしたら、本当にあの子はよく目立ちます。逆に言うと、あれは無視できません。どんな人混みの中でも、たったひとりのあの子に目がいく。本当にあの子のまとっている魔素は……なんと言うか、虹色に輝いていて…言うなれば天の羽衣のような……とにかく特別な存在なんです。魔獣や魔物は良質な魔素を好みますから。どうしても惹かれてしまうんでしょう」
「ではあれは魔獣なのか、魔物なのか…?魔獣も話せるようになるのか?…だがヴェローニカとわからない言語で話していたぞ。ただの魔獣にそんなことができるのか?…それともあれもシルバーフォックスと同じく神獣の類なのか?」
ジークヴァルトが脚を組み替えてリュディガーに問いかけた。
「そうだね。それが不思議だね。あれは何なんだろう。ニカも何故そんな言語がわかるのかも不思議だし、エーリヒ卿も何かその言語を使っていたようだけど、意味を聞いていたよね。もしかしたら古代語だろうか……それが暗示の鍵なんだろうか」
最後は呟くようにリュディガーは言った。
「とにかく人語を解する魔獣など私は聞いたことがないな。ニカの言う、白夜以外にはね。それが神獣だと自ら名乗ったのなら……あれもそうなんじゃないのかな」
「神獣か。おとぎ話や神話の類だぞ、それは。…それが突然うじゃうじゃと…」
「それだけニカが特別だということだよ。あの子がいなければ私達は、神獣だというシルバーフォックスにも、昔滅んだ神の末裔と言われる領主一族のゴーストが憑依したマリオネットにも、あのしゃべる黒猫にも、出会っていない」
リュディガーがそう言うと、部屋にいる者達はまた神妙な面持ちでしばらく沈黙した。
◆◆◆
《コンラート・ネーフェ》
「コンラート、エーリヒは?姫はどこだ?部屋か?」
もう日も暮れようかという頃、ユリウスと侍女三人、それからエーリヒの護衛騎士の三人まで、王都グリューネヴァルト侯爵邸のエーリヒの住む別棟のエントランスに押し寄せた。
つい先刻、珍しく早い時間に戻ってきたエーリヒを出迎えたばかりだったコンラートは、そのまま彼らを迎え入れた。
帰るなり血相を変えてコンラートに詰め寄ってきたユリウスは、今にも階段を駆け上がる心算のようだった。
「ユリウス様、お待ち下さい。エーリヒ様は人払いをされています。三階に上がることは禁じられました」
「姫は?まだ眠っていたのか?」
「ええ。そのようです」
「…………」
『そう心配するな、そのうち目を覚ます。ただ…小僧に何ができる訳でもないとは思うがな』
黒猫はそう言って、とことこと階段を駆け上がっていく。
「あ、あの、ツクヨミ様、お部屋へは入れません。鍵をかけていますし…エーリヒ様もお許しにはならないかと」
階下のエントランスホールからコンラートが声をかけると、ツクヨミはぴたと階段の途中で立ち止まり、上階を見上げながら長い尻尾をゆらりゆらりと揺らした。
『……あの子は小僧の部屋か。ではバルコニーから入るか』
「え?」
『バルコニーは開いてるだろ』
するとそのまままた階段をとんとんと軽快に駆け上がっていく。
「ツクヨミよ、私も行く」
ユリウスもツクヨミを追ってサーキュラー式の階段を上がっていく。
「あの、ユリウス様!お待ち下さい!エーリヒ様がお怒りになりますよ!」
『そちは来るな。話がややこしくなるだろう』
「何がややこしくなるのだ」
『小僧を刺激する。あれは気性が激しい。それに今は動揺もしているだろう。そちがいると相手が面倒だ。進む話も進まぬ』
「なんでだ」
『…全く…うぬらは…』
コンラートの注意の声など二人の耳には届かないようだ。何やら揉めながら二人で競うように階段を上がっていき、三階に通じる二階の踊り場の奥へと消えていった。
「ああ…人払い、とは…??」
コンラートは二人が消えていった踊り場を見上げながら頭を抱える。
「はは、コンラート…大変だな」
リーンハルトが労るようにコンラートの肩に手を乗せた。
「リーンハルトは事情はわかるか?…エーリヒ様はあとから来る者達から聞けと言って自室に閉じ込もられてしまったんだ。ヴェローニカ様を抱いて」
「ああ、まぁ…だいたいな。俺達はエーリヒ様を追いかけて王城から子爵邸に後から着いたんで、その前のことはヘリガ達に聞いてくれ。俺達も知りたいし」
そしてコンラートは場所を移して、ヴェローニカについていた侍女達と、エーリヒについていた護衛騎士達から、ここに至るまでの話を聞いた。