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165.心の鍵(4)

《ヒューイット・シュレーゲル》




 ヒューイットが声をかけると、エーリヒは足を止め、軽く振り返った。

「あの…ヴェローニカは……ヴェローニカは、大丈夫なのですか?」

「……黒猫が言うにはな」

「あの……ヴェローニカは、お父様の提案に乗り気のようでした。…我が家で療養することはできませんか?…叔父上の所に帰られては、ヴェローニカの様子もわからなくて心配ですし…」

「では、意識が戻ったら連絡をする」


 素っ気なく踵を返そうとしたエーリヒに、さらにヒューイットは食い下がった。



「叔父上は、お忙しくされているとヴェローニカからは聞いています。…ですから、お忙しい叔父上の代わりに、僕がついていてあげますから!」



 今日のエーリヒはいつもの穏やかな彼ではない。だが、このままではいられないような、得体のしれない思いがヒューイットを衝き動かす。



「…………」

 エーリヒは再び立ち止まった。



「さっき……僕の勘違いかもしれないのですが、ヴェローニカが、とても寂しそうな表情かおをしたんです。…確か…お父様が僕に声をかけたのを見て…肩を抱いたのを見て……ほんの一瞬です。でも、どうしたんだろうって、僕はずっと気になってて…」


 ヒューイットは先ほどの彼女を思い出して拳を握る。


「ヴェローニカには、親がいないと聞きました。でも僕よりも賢くて、勇気があって、優しくて…でも何より人には、強かさが必要なんだって、正直なだけではダメなんだって、僕に教えてくれたんです」



「…………」

 ヒューイットの拙い訴えをエーリヒは黙って聞いてくれているようだ。



「僕にはない考え方をするんです、ヴェローニカは。だから、ヴェローニカと話していると、楽しくて。…でも、彼女はいつも笑っているんだけれど…どこか、寂しそうなんです。それは、今思うと、…だいたい僕とお父様が話している時でした。お父様が僕の頭をなでたり、僕を抱き寄せたりした時です…」




 今この部屋にいるのは地位のある貴族ばかりだ。

 伯爵に子爵、魔術師団の軍団長に、王国に数人しかいない紫眼の魔術師団員。そして複数の商会を持つ伯爵位のヴィンフリートと、貴族学院始まって以来の秀才、天才と言われ続けた騎士号を持つエーリヒ。

 そんな錚々たる者達の中で、何も持たない子供のヒューイットが発言するには、多大な勇気がいった。


(僕は子供だ。まだ何も持ってない。僕のこの身分や立場は、お父様がいてこそだ。でも僕よりも持たないヴェローニカは、あんなに堂々としていたじゃないか。)

 恥ずかしがっている場合じゃない。今言わないといけない気がする。このままヴェローニカを連れていかれてしまう前に。

 ヒューイットは固く握った拳にさらに力を込める。



「きっとヴェローニカは寂しいんだ。だから、僕なら一緒にいてあげられるから。叔父上よりも、お父様の方が、彼女と一緒にいてあげられるから…」




「……そうか。…だがそれでも、ヴェローニカは家族が怖いんだ。…戸惑うんだ。近寄りがたいんだ。どう接していいかわからないんだ。……恐らくヴェローニカは、兄上とヒューイットを見て羨ましいと思い、自分には経験がないと思い、自分には縁がないと思い、……自分は決してそこへは入れないのだと、疎外感を感じて寂しそうにしていたんだろう。だから彼女がそちらへ行くと、表面上は楽しそうでも、ますます疎外感を感じるようになると思うぞ」



 ヒューイットはエーリヒの言葉にわけのわからない苛立ちを感じた。いつもの自分ではないような気がする。



「叔父上の言ってることがよくわかりません。寂しいなら、仲良くすればいいじゃないですか。寂しくなくなるまで、ずっと、ずっとヴェローニカと一緒にいてあげればいいじゃないですか。ひとりになんてしなければいい。そうしたらきっと、寂しくなんてなくなる」



 僕らの方がきっとヴェローニカと一緒にいてあげられる。忙しくして家にも寄りつかない叔父上よりも。

 ヒューイットはそう思った。

 そうか、ヴェローニカをひとりにしているエーリヒに苛立っているのだ、自分は。



「そうだな。私にもまだよくわからないんだ。……生まれた時から家族に、環境に恵まれている私達には、ヴェローニカの寂しさは、本当の意味では理解できない。ただここにいればいいとか、ただ愛されればいいとか、欲しい物は与えるからただ安寧に日々を暮らせと言っても、彼女は罪悪感を感じてしまうんだよ」



「罪悪感…?」



「何故自分はここにいるのか?ここにいる資格はあるのか?自分には生きる価値があるのか?…という罪悪感だ」



「ここにいる資格?…生きる価値…?そんなの、あるに決まってるじゃないですか…」

(罪悪感?資格?…生きる価値?…叔父上の言っている意味が、本当によくわからない…)

 ヒューイットは混乱しながらもエーリヒの話を聞いた。それがヴェローニカを理解するためのことならば、と。



「ヒューイット。お前は産まれてこの方、肯定され続けて生きてきた人間だ。だがもしそれが否定され続けていたら、どうなっていたかを考えてみたことはあるか。裕福な家で産まれ、産まれたことを喜ばれ、親に愛され、家人達に守られ、衣食住で困ったことも死にかけたこともない。寒さで凍えたことも、ひもじくて眠れないなんてことも経験がない。理不尽に怒鳴られたことも、殴られたこともなく、仕事は全て使用人がするから自分でする必要もない。それの全て反対だ。全てが自分を否定する世界だ」



(今まで自分が生きてきた、反対の世界…?)



「親などいないし、家もない。住んでいる集落の皆が自分を厄介者だと嫌い、蔑み、遠ざける。誰も守ってくれないし、味方なんかいない。愛されようと尽くしても、時に殴られ、無視される。愛されて産まれたんじゃないから当然名前だってない。……彼女は、お前の生きてきた全てが反対なんだ。家族の優しさもぬくもりも、何もかも味わったことなどないんだ。そんなふうにずっと生きてきたのに、兄上やヒューイットのような本当の家族の触れ合いを見て、ヴェローニカは……どう感じたのだろうか…」



 エーリヒは横向きに抱いていたヴェローニカを見下ろす。そして彼女の背中を抱き寄せて自分の胸に抱え込み、しっかりとその小さな身体を抱きしめて身を寄せるようにした。

 ヒューイットの胸が締めつけられるようにざわめいた。



「私にも、まだ理解が足りなかった。……突然家族になろうと言われて、ただ傍にいればいいと言われて、それを言葉通りにそのまま受け容れることが彼女にできるのだろうか。美味しい食事、温かい寝床、綺麗なドレス、美しい宝石、豪華な邸宅に、自分を世話し心配してくれる他人。生まれた時からそれらがあった私達とは違って、急に与えられた彼女には、それが当然とはどうしても思うことができないのだ。ならば身にそぐわない恩恵に、罪悪感を感じずにいられると思うのか。どうにかして自分の価値を見出して、与えられる愛に見合った対価を支払おうとする。……それが今の彼女だ」



「…………」

 衝撃的すぎてエーリヒが何を言っているのか、もはやヒューイットにはよくわからなかった。全く身に覚えのない、想像もつかない世界だった。

(僕が…肯定され続けて生きてきた人間。ヴェローニカが生きてきたのは、全てが自分を否定する世界…。愛の、対価……?)



「さっきヴェローニカが私から離れる素振りを見せたのは、私に対する罪悪感からだ。私の邪魔にはなりたくない、迷惑をかけたくないと以前言っていた。私に対する恩の返し方が見つからないとでも思っていたのだろう。だから兄上の提案を受けようとした。それで全てが収まると思ったのだ。ならば罪悪感が強まれば、いずれお前達からも離れていく。だが……彼女の本心は、別にある……あるはずなんだ…」



 エーリヒはそこまで言うと、また出口に向かって歩き出す。


「あ…」

 侍女が出口を開けて、エーリヒはヴェローニカを抱いたまま出ていき、あとは振り返ることはなかった。




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