163.心の鍵(2)
《ヒューイット・シュレーゲル》
「違うと言うなら、まあいい。その方が私には好都合だ。…とにかく、商人とは商機を逃さないものなんだ。相手に時機を委ねるのは下策。餌を撒けば思うように相手は動いてくれるのだから、こちらはそれを管理すればいい。…その点はお前よりもヴェローニカの方が理解してもらえそうだな」
「…つまりヴェローニカにも相談していないということではないですか」
「そうだね。事後報告になるね。…お前が来て騒いだお陰で変な暴露の仕方になってしまったが。ちゃんと帰って説明するつもりだったよ。その意図も、危険性もね。もちろんフォローもする。すでに配備済みだ。閣下もご協力くださっているよ。少しは安心したか?エーリヒ」
「…………」
「…あの、今されているお話は、先ほどの会議について、でしょうか…?」
険悪な雰囲気の中、鈴を転がすように澄んだ声がその空気を一新させた。
「ヴェローニカは賢いね。そうだよ。今日はハインツ卿との話し合いだと思って来たはずなのに、客が大勢いて驚いただろう?すまなかったね」
「…はい。驚きました。…ですが、すでに…というか、初めから経営後任者が決まっているとは知りませんでした。私は名乗りを挙げた者の中から競売でもするのかと思っていましたから。あのような慣習があるとは知りませんでしたし、あの執着の度合いでは、知らずに孤児院を経営できていたとしても、結局私は恨みの対象となったことでしょう。おおもととなった孤児院の不正を暴いたこともいずれは知られたでしょうし。そうなれば、いずれ第二王子側にも恨まれる」
「そうなるだろうね。じゃあ君が孤児院経営なんて言い出さなければ良かったかい?不正も暴かなければ良かった?…ならばこの会議に出ることもなかった。怖い大人達に目をつけられることなど、なかったね」
「…………」
ヴェローニカは後悔したのか、少し表情を強張らせた。
「君は先ほどあの腹黒い大人達の前であれだけ見事に啖呵を切って見せたのに、今はそうやって躊躇している。…君が今、何に躊躇しているのかを当てようか?」
「え?」
「君は今、周りの人間の心配をしたんだろう。自分が動かなければ君の周りの人間を危険に巻き込まずに済んだ。迷惑をかけずに済んだ。…だがそうしなければ、孤児院の子供達はどうなるんだろうか?誰が助けてくれるのだろうか?…君は自分の心配はいつだって二の次だ」
ヴェローニカは目を見張ってぱちぱちとその大きな青銀の瞳を瞬いた。
どうやら正解のようだ。
(自分の危険よりも、子供達や周りの人の心配を?…自分が狙われることによって自分に仕えるユリウス卿や侍女達のことを心配したってこと?)
「ふふ。ここ最近はずっと君といるからね。君のことは大体把握できる。でも、そこは自分の心配もして欲しいところだね。どうにも君は子供らしくない」
ヴィンフリートは軽く笑って、ジークヴァルトやその隣に座るリュディガー達を流し見た。
ヒューイットもそちらに視線を向けると皆少し呆れたような優しい瞳で見守っていて、口元には笑みがあった。
「だからエーリヒは君を過剰に心配するんだ。もう少し自分のことも労ってあげないとね」
ヴェローニカがエーリヒを見つめる。
目の前で跪いたままのエーリヒはヴェローニカを見つめ返した。その表情は読み取れない。
「とにかく、いつ君のことがバレるかとヒヤヒヤしながらやりたいこともやらせずにいるよりは、今回の会議に来た者らに人をつけて、動きを把握していた方が対処がしやすい。君に煽られて尻尾を出したら即捕まえられるという訳だ。わかったかな?こんなに商売上手な君を閉じ込めておくだけなんて、下策も下策。商人としては大損だよ」
ヴィンフリートが手を広げて肩をすくめ、おどけたジェスチャーをしながら話すと、ふふっと笑いを漏らしたのはヴェローニカに商才があると知っている者達ばかりのようだ。主にヴィンフリートの側近達だが。
その中でエーリヒは無表情のままだ。むしろ不機嫌だと言ってもいい。
「でもまあ……いくらなんでもあそこまで君があの者らを煽るとは…思わなかったけれどね」
やれやれとヴィンフリートは首を軽く振った。
「ふふ。それは申し訳ございませんでした。…わかりました。ヴィンフリート様。騙し討ちではありますが、今回は許してさしあげます。…ですが、今後は事前にご相談くださいね」
ヴェローニカがいたずらっぽく笑って首を傾げると、ヴィンフリートも微笑んだ。二人はとても息が合っているように見える。
「そうはしたいところだが、約束はできるかな…?君の周りは過保護が多くてね」
ヴィンフリートはヴェローニカの側に控える従者達を眺めた。そして今もヴェローニカの前に跪くエーリヒを見つめる。
「…………」
ヴィンフリートは微笑み、エーリヒは無表情のまま、二人が無言で見つめ合っていると、ヴェローニカの華やかな声がまたその重い空気を綻ばせた。
「ああ…。だからあのようなことを皆様の前で仰ったのですね」
「ん?…何だったかな?」
「あの方達の前で私を娘だと仰ったので、少々驚きましたが、あれはヴィンフリート様なりの償いの牽制だったのですね」
それまで読み取るのが難しかったエーリヒの顔が明らかに強張ったのがわかった。
「償いか……いや、本当の気持ちだよ。君には私の娘になってもらいたい。前にも言っただろう?…ゆくゆくはヒューイットの嫁として私の義娘になってくれると嬉しいのだが。無理強いはしないが、息子の方はまんざらでもなさそうだから、どうかよろしく頼むよ、ヴェローニカ」
皆の視線がヒューイットに集まった。
先ほど同じことを言われた時は驚いてしまって父親を止めようと思ったが、今この恥ずかしさは呑み込むべきとヒューイットは思った。
ぐっと拳を握る。
「ぼ、僕は…」
(えーと…なんて、言えば…)
「僕は、ヴェローニカを尊敬している。ヴェローニカともっと話したい。だから……ずっと一緒にいたいと思っているよ、ヴェローニカ」
「…………」
するとまたヴェローニカが大きな瞳をぱちくりとさせてこちらをじっと見つめている。しばらくして彼女は柔らかく微笑んだ。
「ふふ…。光栄です。ヒューイット様」
(可愛い…)
ずっとこんな彼女の微笑みを見ていたいと思った。一番、近くで。
「ならば、婚約を進めておこうか」
(え?婚約…?ヴェローニカと僕が、婚約…)
ヒューイットはヴィンフリートを驚いて見たあと、すぐにヴェローニカを見た。彼女も喜んでくれていると嬉しいと思って。だが彼女はそうじゃなかった。一見してすぐにわかるほど困惑している。
「あ、あの、ヴィンフリート様、それは…」
「なるほど。これが“商機を逃さない”ということか。父子共に商人とは抜け目がないな、ハインツ」
「全くです、閣下」
「それは褒め言葉として受け取っておきますよ、閣下」
ヴィンフリートが少しおどけたように言って、ヒューイットを見て微笑んだ。
「それはまだ気が早いかと、兄上」
「む…」
「ヴェローニカは私が保護しているのです。勝手な真似はやめていただきたい」
「大丈夫だよ、エーリヒ。今後は私が預かるさ。その方が彼女も……そしてお前も自由に生きられる。…今まで通りね…」
ヴィンフリートは含みがあるような言い回しでエーリヒを見つめた。その瑠璃色の瞳は意外なことに挑発的などではなく、慈しむように優しく細められていた。
「彼女に会いたいならばいつでも会える。お前がうちに会いに来ればいい。歓迎するよ。私達は家族なんだ、エーリヒ。…そうだ。君に商会を一つ与えてもいいな。君はいろいろなアイディアを持っている。今からでもきっと楽しんでやり繰りできるだろう。もちろん私が見守っていてあげるから、心配はないよ、ヴェローニカ。私はあれをするな、これをするな、…とは言わない方針だ」
(お父様が叔父上を畳み掛けにきている…)
ヒューイットはただ呆然と自分の父親の話術を聞いていた。いつからか、もうすっかりヴィンフリートのペースだった。
「安心していい。商会を与えることとヒューイットとの婚約はセットではない。君はしたいようにしたいことをすればいい。嫌なことなど何一つ強制はしない。私達の養子縁組とはそういうことだ。君が楽しんで利益を生み出してくれるのなら、私も君を守り、必要なものは与えよう。これは一方的な搾取でも施しでもない。私達は対等な関係として養子縁組という名の契約を結ぶだけ。…これなら、どうだい?こういう親子関係があってもいいとは思わないか?」
ヴィンフリートはヴェローニカを優しい瞳で見つめる。先ほどエーリヒを見つめていたように。