161.隷属の首輪(4)
《ヒューイット・シュレーゲル》
「雷……あのときの、静電気。あれは、静電気じゃなかったのね。これに触れたからだったのね。この、黒い石に」
ヴェローニカはまた何かを呟いた。もう諦めてくれたかと思っていたが、再び彼女は首輪に触れた。
バチッバチバチッ…
今度はさっきよりも大きな光が走る。
「止めろ、ヴェローニカ。もうそれに触るな」
ユリウスがヴェローニカを止めようと腕に触れて首輪から引き離す。
「ニカ」
「ヴェローニカ」
「ヴェローニカ様!」
無謀な彼女の行動に、大人達が声をかける。近くに控えた侍女達も止めに入ろうとした。
『止めないで。……お願い』
ヴェローニカのその言葉で、駆け寄ろうとした周囲の動きがピタリと止まった。
ヒューイットも急にぴくりとも身動きがとれなくなり、一体何が起こったのかと混乱する。
(身体が動かない。どうして?)
「ヴェローニカ、もう止めるんだ。鍵を探そう。きっと見つかる。錬金術師だろうが呪術師だろうが、私が捕まえてやる。だから……これを、解いてくれ」
「ごめんね、ユリウス。止めないで。お願い。私は大丈夫だから…」
「だが……」
「神聖魔法が無理なら、より強い呪いで壊せばいいの。呪いなら、私にもできるから」
「……ヴェローニカ……」
「魔力で飽和させることができないなんて、そんなこと誰が決めたの?壊すことができないものなんて、この世にはないのよ、ユリウス。万物は流転するの」
「…………」
ヴェローニカとユリウスはしばらく見つめ合っていたが、ある時互いにふわりと微笑み合った。ユリウスの方はそれでも、眉を寄せた心配そうな表情だった。
ヒューイットにもその気持ちはわかった。彼女がやると決めたのならその時は、止めろと言って止めるような人ではないのだと。ならば、あとは見守るまで。
ヴェローニカは猫の首輪に改めて触れて、しっかりと両手で握り締め直す。するとまた雷魔法が発動した。
バチバチッ…バチバチッ…
青白い光や紫がかった白い光が彼女の手元で暴れ回り、時に弾けるように彼女と黒猫の周りを走り回り始める。
先ほどの反応から、恐らくあの弾ける光は痛いはずなのに。
『呪い。もっと、強い呪いを……』
彼女の声が変わった。その声はいつもの涼やかな声とは違って、どこか凄みのある声だった。これは先ほど聞いたあの声。ジークヴァルトが『声に魔力を乗せた』と言っていたあの声だ。
彼女の瞳も指輪の石も虹色に輝き始めたようだ。そして手元の輝きが強くなり、それとは相反して握った首輪はそこだけ底なしの闇のように真っ黒になった。
『この世に存在する全てのものに、永久不変などありはしない。《諸行無常》。それがこの世の理……それはここも変わらないはず』
『そうだな。そなたの言う通りぞ。この世は《諸行無常》だ。生じた全てのものは転変する。ならばこれも壊れることもあろうな。……普通の人間には無理だろうが』
『ツクヨミ……あなた、私の言葉がわかるの?』
『言葉か?わかるとも。異界だろうが吾には言葉の障りなどない』
『ツクヨミはすごいのね。ふふ』
手元は変わらずバチバチと雷魔法が暴れているのにも関わらず、ヴェローニカは何やら嬉しそうに見える。
『ツクヨミ。あなたにこんなものを着けた者達はきっと報いを受けますよ。《人を呪わば穴二つ》と言いますから』
『穴……?』
『墓穴のことですよ。誰かを呪えば自分の墓穴も必要になるということです』
『なんだと?……はは。なるほど呪い返しだな。上手いことを言う』
『そうでなければ私が罰を当ててやります。《善悪の報いは影の形に随うが如し》。善には善の、悪には悪の報いを。せめてこの世はそうあるべきなのです』
『ふふ。そなたは恐ろしいな。断罪に迷いがない。……それで《天網恢恢疎にして漏らさず》なのか』
『そうです。でも何故それを知っているのですか?』
『なに。そこの小僧がな……言っておったわ』
『そこの小僧?』
『ふふ。今そこで聞き耳を立てている小僧よ。……そなた、そろそろ周りの者共を離してやれ。もう邪魔はすまい』
『え?……あ。ごめんなさい。そうね』
ヴェローニカは黒猫と途中良くわからない言葉を交えていろいろ話していたようだが、黒猫に指摘されてようやく周囲の状況に気づいたようだった。
急に金縛りにあったように、それが解けるのもまた急だった。
ヒューイットはそれまで硬直していた自分の身体が自由になったことに気づいて不思議に思いつつも、そのままそこで青白い光が走り回る中心にいる彼女を見つめる。
止めようと駆け寄っていた大人達も、今はもう彼女の意思を静かに見守っていた。
『もう少し……もう少しな気がします。待ってて、ツクヨミ』
ヴェローニカが大きく息を吸った。手元が一層強く輝き出す。
だがやはり彼女が握った手の中だけは、黒というより深い闇のように漆黒だった。その漆黒の闇は彼女の細い指の間からもやもやと不気味に蠢いて、苦悶の表情を浮かべているようにも見えるし、苦痛の叫びを上げているような幻聴さえ聞こえてくる。
バチバチッ…バチッ…バチッ…
青白く、時に紫色に煌めく光が空中を生きているように舞い踊る。ヴェローニカの手元からほとばしる眩い光に視線を奪われて、ヒューイットがそれに気づいたのは今だった。いつの間にか彼女の紺色だった髪は、もとの銀色を取り戻していて、それ自体が眩く光輝を放ち、風に靡いているかのように魔力に煽られている。
「綺麗だ…」
白銀色に包まれたヴェローニカに目を奪われて、ヒューイットは呟いていた。
バチンッ!!
パキンッ!!
そんな破裂音と破壊音が重なった大きな衝撃音だった。それが部屋に響いて、それまで暴れていた青白い光は何事もなかったかのように収まった。まるで嵐のあとのようにけろりとした静けさが訪れた。
その落差に呆けていると、割れた吸魔石の中から黒いもやが上がり、窓の外にすうっと飛んで行った。
(なんだ、あれ…)
見間違えかもしれないが、そのもやは真っ黒な生き物のように蠢いて、何か怖気が走るほど嫌な気配がした。
「今のは…?」
「多分、呪い返しでしょうね。……だいたいこんな風に吸魔石が割れるなんて、僕も初めて見たんですけど。あはは。……あれが術者に返ったんだとすると、だいぶヤバそうですね。……“私が罰を当ててやる”か」
誰かの疑問にフェリクスが苦笑する。
「はぁ……外れました、ツクヨミ」
『そうだな、外れたな……はは。驚いたぞ、ヴェローニカ』
あははは。
ははは…
二人の……一人と一匹の笑い声が部屋に響いて、周囲はようやく力が抜けたようだった。
「大丈夫なのか?ヴェローニカ」
ユリウスは壊れた首輪を握ったまま笑っているヴェローニカの両手をとった。
ヒューイットも心配で近づいてみる。
開いた彼女の手のひらは傷だらけで、白かった小さな手のひらはずたずたに切り裂かれていた。白い肌が見えないほど血で塗れ、滴っている。細い腕にも血が飛び散っていた。
あんなに細い指で、下手したら切断されていたのではないかとヒューイットは怖くなり背筋がヒヤリとした。
ヒューイットの適性は氷魔法。氷魔法は水魔法にも通じ、訓練すれば水癒という多少の治癒魔法も使えるようになるという。だが、今のヒューイットにはまだ使えない。
「だ、誰か、頼む、治癒魔法を!」
「大丈夫ですよ、ユリウス。そんなに慌てないで」
滴る真っ赤な血を見て狼狽えるユリウスをよそにヴェローニカの方は、首輪が外れて嬉しくてたまらないといった様子だ。
「大丈夫なものか!血だらけだぞ!私は神聖魔法は使えないのだぞ!そう何度も言ったではないか!何故こんなに無茶をするのだ、ヴェローニカ!」
慌てて怒鳴るようなユリウスの声に、多少なりとも治癒魔法が使える者達が動き出した。
「あ、じゃあ僕がやりますよ…」
フェリクスがヴェローニカに近づこうとする。
紫眼であるフェリクスは神聖魔法と雷魔法を扱える。神殿の秘匿する魔術刻印などなくても、その治癒効果は絶大だ。
ヒューイットはまだ知らないことだが、紫眼の優れて抜きんでた点は、個人の適性にも左右されるが、それ以外の魔法も訓練により習得可能であるということだ。
フェリクスがいればこの傷もすぐ治療できると皆が安堵した。
だが、彼女の両手をいち早くとったのは、今までこの部屋にはいなかったはずの人物だった。