16.人間としての権利(2)
《マリエル・リュール》
「あの、何かお話でもありましたか?」
ふと後ろからフォルカーに声をかけられて、あの頃の絶望感に満たされていたマリエルの意識が、今歩いていた子爵邸の廊下に戻ってきた。
昨日の子供達とのやり取りを見ていたマリエルには、フォルカーが憂いの少ない幼少期を過ごしたのだろうことは容易に想像できた。
マリエルからしたら、それは天恵。天の恵みだ。
マリエルは廊下を歩いていた足を止め、フォルカーを振り返った。
「私は少し、お嬢様に不信感を与えてしまったようです」
「不信感?」
「お嬢様の出自を知りたいと焦りすぎてしまいました」
「ああ……いや、そんなことは、ないかと」
フォルカーはマリエルをフォローしようとしたのか、少し慌てた様子を見せた。
この男はこれで傭兵で、しかも王都では結構名が通っているというのだから不思議なものだとマリエルは思った。
確かに体つきは普通の平民にしては鍛えているようだ。
だが、全く荒っぽさや鋭さは感じない。
マリエルが実家で今まで見てきた傭兵や護衛という体を張る平民身分の者達は、アードラー商会に連なる者達ばかりだったので、参考にはならないのかもしれない。
「お嬢様にはお名前がないそうです」
「……え?」
フォルカーは何を言われているのかわからないというような素っ頓狂な表情だ。
「やはりご存知ではありませんでしたか。昨夜あの後、あのヴィムという少年と話す機会があったのですが、その子がそう言っていました。今朝支度のお手伝いをするときにお名前を伺おうかと思っていたので、先に知ることができて良かったです。既にハインツ様にはお話しました」
フォルカーがマリエルの言葉に唖然とした表情を見せた。
この男は二日もあの少女と一緒にいて、名前すら聞かなかったようだ。荒っぽさは感じられないが、そういったところはやはり傭兵らしい。小さい子のケアなど期待すべきではない。
だが今回は逆にそれで良かったとも言える。そのような質問によって、あの子に気まずい思いをさせなくて済んだのだから。
子供に名前をつけない親などいるだろうか。
つまり、あの子は今まで親がいない生活をしてきたのだ。初めからずっと、育ての親すらいない。名前をつけて呼んでくれるような、そんな存在すら、いない。
ふと、マリエルは昨夜少女がフォルカーの言葉に思わず吹き出したような様子を見せたことを思い出した。
売られた子達が家に帰ったらどうなると思うかと少女はフォルカーに尋ねて、普通に喜ぶはずだとフォルカーは答えた。親にも何か事情があって、好きで手放したりはしないと、フォルカーは親目線で答えた。
それを聞いた彼女はふっと吹き出したのだ。
本来ならフォルカーの答えで正解だろう。だが聞いていたマリエルも白けた気分になった。
自分の父親は、“好きで手放した”部類なのだと。“望んで売り払った”のだと。自分の子を、貴族になれる権利と引き換えに、老人に売りつけたのだ。娘がどんな目に合うのかを知っていて。自分と新しい妻子のために。
少女の言うように、子供を所有物と捉えて自分の利益のために利用する親も確実に存在する。売られたという事実は子供の心に深い傷を残すだろう。
それを知らずに、それと関わらずに生きてこれたことは幸いだ。
そしてフォルカーが、「それまで育ててやってたんだから親が売ると決めたなら、他人は文句は言えないものだ」と言った時の彼女は……
マリエルはぎゅっと胸元で手を握り締めた。
確かにその通りだ。それがこの王国の法だ。そしてこの国の大人の常識だった。
そういうものなのだ。だが、そういうものなのだと決めつけて、諦めて、いいのだろうか。自分がそんな目に合っても果たして同じことが言えるのか。
そして、彼女は、違うのだ。
それは間違っていると、言えるのだ。
大人に対して、堂々と。
子供であるのに。女であるのに。
「はっ、はは……そんなことって、ありえますかね…?」
フォルカーの表情が強張っている。
理解できない。いや、これは理解したくないのだな。
「…そうですね…」
そんなことはあって欲しくない。けれど、それは彼女を否定することにはならないだろうか。小さな彼女のこれまでの痛みを。
「しかも、そんなに大したことではないと笑っていたそうです。自由に名前をつけられると」
それなりにつらい環境だったはずのマリエルにも想像がつかなかった。
自分に名前がないことが、大したことではないなどと。そんな風に初めから笑えていたはずがない。
「一体どのような生活をしてきたのか、お嬢様はどうしてそのように考えるようになったのか、知りたくなってしまったのです。……失敗でした」
「…………」
フォルカーには発する言葉すら見つからないようである。
「ですから、あなたには今までのように普通にお嬢様に接していただきたいのです。お嬢様が心を閉ざしたりしないように」
マリエルにはフォルカーが羨ましいとさえ思った。これからもあの子に警戒されずに話ができるということを。
「えーっと……失敗ではなかったと思いますよ」
フォルカーの言葉に、またこの男はフォローをするのかと思った。少し面倒なやりとりだな、と。
事実を否定して慰めを得ることに、一体何の意味があるというのか。
マリエルは知っている。優しさを求めて現実から目を背けていたら、いつの間にか取り返しのつかないところまで来てしまっていることもあるのだと。
「さっきの、狐の話、俺には多分しませんよ」
「え?」
「昨日、あいつため息ついてたんです。俺がどうしたのか聞いても、話したくないんじゃなくて話しても仕方ないとか、だからどうしたと言われればそれまでだとか……そんなようなことを言って誤魔化されましたから。ずっと一緒にいた友達がいたとか、自分を探しているかもとは言っていたが。多分、村の友達じゃなくて狐のことを考えていたんだな、あれは。……狐のことなんて話しても、どうせ誰も取り合ってなんかくれやしないとでも思ったんだろう」
「…………」
今度はマリエルが言葉を失った。
「あいつは子供のくせに全然子供らしくないんですよ。言うことがいちいち大人びていて、しかもそれが的確で……あの見た目のくせに結構どぎつい。目覚めたばかりの時は俺を奴隷商の者だと思っていたらしくて、なかなか手厳しくて本当に笑えませんでしたよ。子供相手に何にも言い返せなかった。……だからあいつは俺じゃ話してて物足りないのかも」
ニッとフォルカーは笑った。
「ふふ。そうですか」
「ははは」
廊下の向こうから誰かがやって来る靴音が聞こえてきて、二人は振り返った。向こうはこの邸宅の入口の方向だ。そしてマリエルの向かおうとしていたこの先にはこの邸宅の主、クライスラー子爵の執務室がある。
貴族では珍しい艶やかな黒い髪、黒い服装。使用人の先導で、眼鏡を上げながら颯爽と歩く姿が見えた。ヴィクター、ヴィクトール・ギーアスター様だ。
リーデルシュタイン伯爵の補佐官で、昨夜の話し合いにも来ていた。確か、子爵家令息だったはずだ。
彼がこちらに来たとなれば、伯爵が到着したようである。
今日の茶会は庭園で行うことになっている。今頃使用人達が伯爵を案内しているだろう。
リーデルシュタイン伯爵、クライスラー子爵、それから魔術師団の方がお越しになると聞いている。おそらく伯爵の幼馴染である侯爵家のリュディガー・アイクシュテット様だろうか。
王族の血族である高位貴族に、軍の有力者、魔術師団第三軍軍団長。錚々たる顔ぶれだ。
そんな社交界の中心的な貴族達を相手に、彼女は一体どんな話をしてくれるんだろう。
昨夜の彼女を思い出して、マリエルは胸が高鳴るのを感じる。
「お待ちしておりました」
マリエルは近づいて来た伯爵の側近ヴィクトールに対し、右手を胸に当て左手でお仕着せのスカートを摘み、右足を少し後ろに引いて膝を軽く曲げる。
準男爵令嬢として培った礼儀作法を美しく相手に示してみせた。
また新たな貴族名。
ヴィクトールの家門名はギーアスター。子爵令息。
リュディガー・アイクシュテットは侯爵令息。ジークヴァルトの幼馴染で同じ年です。
家門名は忘れても大丈夫です。そんなにわかりにくくならないように努めます。
あ、マリエルさんもいました。リュール家はマリエルを逃しちゃったので、今だに平民身分だと思います。