152.仕掛けられた罠(2)
《諜報部隊オイレ 第二班班長 アーダルベルト》
突如、ピュイィーと高い音が辺りに響き渡り、暗闇に飛ぶ奇妙な音の鳴る武器を皆が耳を澄ませて目で追う。レッドベアも例外なくそれに気を取られた隙に、ディーターが電光石火の勢いで突進していく。何やら彼の周りは霧で霞んでいて、フォレストスネークも接近には気づいてはいない。
(霧で覆って体温を隠蔽しているのか。じゃあ本当に熱で感知を?暗視能力でも魔力感知でもなく?そんな情報をエーリヒ卿はどこから…)
瞬く間にディーターの双剣がレッドベアの太い腕を駆け上がって硬い毛皮を斬り裂き、血を撒き散らしながら進み、右の頭の右目に刃を突き立てた。
ギャアオオォ!!グオオォ!
吼えた口の中で魔法陣が光り、真っ赤な炎が沸き起こるのが見えて、ディーターは魔剣を突き立てたまま身体を器用にひねって跳躍。赤い鶏冠のような毛並みの後頭部に回り、左手に握った刃も左目の眼孔深くに突き刺す。そのまま馬の手綱でも握るようにぐいとレッドベアの頭を上向けて、炎のブレスを暴れ馬の如く御する。
闇夜の深淵をも慄き震わす猛獣の咆哮とともに、漆黒の夜空に紅蓮の炎の柱が鮮やかに色づいた。
どうやらあの炎のブレスは魔獣の舌に施された魔術刻印によるもののようだ。
ディーターのアクロバティックな動きによってぐるりと右目を抉られたレッドベアは苦痛の叫び声をあげて地団駄を踏むように悶えるが、その間もフォレストスネークの二本の尾と剛腕が容赦なく彼を襲う。だがその急襲はエーリヒの展開したシールドによって防がれる。すぐさまシールド外の別方向からディーターを襲うが、そちらもまた阻まれた。それらが目にも止まらぬ早業で繰り広げられている。
エーリヒを振り返るとディーターの様子は一切見ていない。ノインの治療に専念しているようだ。
どうやってあのシールドを展開しているのか。まさか視界で捉えずに探知魔法で全ての攻撃を防いでいるのか。であれば確かに目で見るよりも即応できて精確だ。だがそれは魔法を確実に制御できればの話。
一体何種類の魔法を同時に使うつもりなのか。しかもあんなに距離があるのに。あんなに的確に。
「オラオラオラオラァァー!!」
グオオォ!!
グアアアァ!!
シャアアァァ!!
ディーターの煽り声と魔獣の絶叫が辺りに響いて、レッドベアの両目に深く刺した二本の魔剣から火魔法の爆発が連発される。無防備なディーターの周囲には、次々にシールドが方々に展開され、フォレストスネークの二尾の毒牙と剛腕からの爪撃の怒涛の乱打はことごとく阻まれている。
それは見るも見事で美しい攻防だった。
(なんて的確で素早いシールド展開だ。だが…あれだけ炎弾を食らってもまだ倒れないのか?)
時折、先ほど聞こえた鏑の武器が飛ぶ音が鳴り、つい反射的にそれに向かって手を出したりすると、隊員達の魔法攻撃への対処が甘くなって胴体や足元に集中して被弾する。かといって今度は鏑を無視すると、同時に風魔法の制御を受けた武器が飛んできて、硬いはずの毛皮でさえもドリルのように武器を回転させて突き破り、肉を抉り出す。
エリアスの暗器操作を見て、他の風魔術師達も暗器で応戦を始めたり、魔法を複合させて威力を上げることで徐々にレッドベアへのダメージは蓄積されていく。はずだった。それでも巨体はまだ立ちはだかったまま、倒れる気配はない。
あまりにもその体格は普段戦う魔獣よりも強大であり、屈強だった。
「ディーター。そいつの頭は二つあるんだぞ。しかも蛇の尾も二つ。ならば脳はいくつあるんだ?」
『え?…あ、そっか。だからこれでも死なないのか…おかしいと思ったんだよなぁ…』
ディーターが双剣を引き抜いて血飛沫が上がり、それを避けるようにヒョイと隣の頭に飛び移る。
「アーダルベルト。いい加減あれが鬱陶しいからそろそろしっぽを斬ってこい。お前なら斬れるだろ?」
エーリヒにそう声をかけられて我に返ると、すでにノインの引き千切れそうだった左腕は繋がり、抉れた胸も治りつつある。それを隣で跪いたままのゼクスは涙目で見つめていた。
(ノインはもう大丈夫だ…)
それまでアーダルベルトを締めつけていた恐怖にも似た見えない呪縛は解けて、呼吸が楽になったように心からの安堵の息をつく。
(ならば……)
アーダルベルトはエーリヒの下知に、優々とそして慇懃にその御前に跪いて最敬礼をする。
「お任せを。…エーリヒ卿に勝利を…」
伏せていた視線を再び上げた時、翡翠色の瞳は冷徹に魔力の光を灯していた。次の刹那、ふっとその姿はかき消えて、闇に翡翠色の残像が尾を引いた。
脚に身体強化をかけて素早くレッドベアまでの距離を詰め、両腕に身体強化と魔剣に風魔法を込めて、怒り狂ったように乱撃してディーターに気を取られているフォレストスネークの太い胴体に振り下ろす。
その達人の域にも達する見事な一振りは、金剛石のように硬く刃を滑らせるフォレストスネークの鱗をスパリと軽やかに斬り落とし、蛇の頭が斬り離されて地面にドスンと転がった。
ギャァァァ!!
双頭の重なった絶叫とともにもう一本の尾が飛ぶように襲いかかってくる。返す刀は抜かりなく準備していたが、そこへ隊員達が一斉に攻撃を放った。
「班長!」
「させるかぁ!」
残り一本となった蛇に飛びかかった部下達の複数の魔剣が振り下ろされ、衝撃にバランスを崩したレッドベアの巨体がよろめいて地面に倒れると、その巨体に違わぬ振動と地響きが起こり、砂塵がもうもうと舞い上がる。
このような粉塵は負傷者には良くない。
咄嗟にアーダルベルトはノインを振り返る。
すでにシールドを消したエーリヒ達の方に砂塵は流れていくが、それは不自然なほど綺麗に彼らを避けていく。
風魔法で遮断しているのか。
(つくづく周到かつ万能だな、エーリヒ卿は。)
その頃ディーターは先刻もう片方の左頭の両目にも魔剣を突き刺して炎弾乱射をお見舞いしていて、レッドベアが倒れる要因を作っており、そのタイミングで華麗に飛び離れていた。
もう一本の蛇の尾は他の隊員達が仕留め、ようやく熊と蛇の魔獣のキメラは事切れた。
周囲には隊員達の歓びの勝鬨が揚がり、束の間戦闘終了の余韻に浸った。
その後、魔力反応などなかったはずの奥の部屋に巨大なキメラが現れたことからその部屋を調べると、荒れた部屋の床に大きな魔法陣が描いてあった。
これはエーリヒによると古代魔法で知られる転移の魔法陣だという。双方の魔法陣が魔力で満たされて発動するもので、この魔法陣に触れると転移に必要な魔力を強制的に吸い取られ、転送される仕組みだ。
この魔法陣は一方通行のものらしく、恐らく向こう側は魔獣のキメラがいる檻にでも繋がっていて、こちらで誰かが魔法陣を踏んだりすることで魔力を吸い取り、隠蔽されていた魔法陣が可視化して、すでに魔力が満たされている転送元魔法陣の上にいる魔獣が転送される。
この魔法陣の詳細については王立図書館の禁書扱いになっており、使用権限と魔法陣に必要な魔術素材は王家によって厳しく管理されている。
つまりはこの研究施設や実験には、やはり王家も関与しているという証左だった。
隊員の話によると部屋に入った途端に魔力が吸われて床の魔法陣が光り出し、巨大なレッドベアが現れた。そしてその後も魔法陣の上にいたために間髪を入れずにまた光り出したと言うので、他にも魔獣のキメラをこちらに転送しようとしていたようだ。しかし現れたレッドベアが暴れ出して部屋を破壊し、魔法陣の光が消えた。
察するに描いておいた転送先魔法陣がレッドベアによって壊れてしまい、効力を失ったのだろう。
他の部屋も調べたところ、あと二つ魔法陣が輝き出した部屋があり、魔力が陣に満ちる前にすぐさま破棄したのでそれ以上の被害はなかった。
「トラップを仕掛けていたということか。そのために施設の移動はしたものの、不審がられないようある程度は残していたんだな。卑怯な手を…」
(だがこれが全て作動して、複数のキメラに強襲されていたらと思うと恐ろしいな……情報を共有して、今後はより慎重を期さなければ。)
「今回の押収資料はあまり期待はできないな」
「そうなるのでしょうね…」
先に捕らえていた研究員達も、偽装した偽物だったらしい。空の牢屋に何がいたかなど知らないどころか、この研究所についても何も知らないという。
エーリヒの言葉に、アーダルベルトは口惜しそうに唇を噛む。してやられた、と。
だがその前に……
「ですが、エーリヒ卿。ノインを救ってくださり…ありがとうございました」
「ありがとうございました、グリューネヴァルト卿」
アーダルベルトが改めて敬意を払って礼をすると、傍にいたゼクスも畏まって敬礼した。
周囲にいた部下達も皆が一様に神妙にし、それに倣う。
それは胸に迫る情景だった。
「ああ。間に合って良かったな」
心からの思いが滲み出たような声でエーリヒが相好を崩して、それがいつもの笑顔とは違う気がして目を奪われる。あたかも心が洗われるようなそんな気持ちになった。
「エーリヒ様!任務完了ですか?じゃあ早く撤退しましょ!俺、早く侯爵邸に戻ってハンバーグが食べたいです!」
出し抜けにディーターがエーリヒにかけた言葉にオイレ隊員達は面食らう。そしてそれを咎めもせずに平然と受け答えるエーリヒにも。
「なんだ?ハンバーグとは」
「ええ?エーリヒ様、もしかしてあれから侯爵邸に帰ってないんですか?嘘でしょ?」
「いや何度か帰ったが…夕食を食べる時間には帰れなくてな」
「そっか、そうだった。はっきり言ってエーリヒ様は働きすぎですよ、もう。ヴェローニカ様も頑張ってるんですよ?こうしている間にもどんどん新しいメニューは増えていってるんですから。たまには早く帰ってヴェローニカ様の愛らしい笑顔を見ながら食事しないと。労ってあげるときっとヴェローニカ様も喜びますよ」
「おい、ディーター。今はまだ控えろ…」
「ヴェローニカが?…リーンハルトが以前に言っていた、ヴェローニカの考案した料理か?」
「ああ……そうですね。ハンバーグはその一つでして。肉を細かく切ってから、また丸く固めて焼いたものなんですけど…」
「どうせまた固めて焼くのに何故一度細かくする必要があるんだ?面倒ではないか」
「ああ……そう言われれば、なんででしょうね…」
「うっわ、ほんとだわ。やっぱヴェローニカ様って謎だわ。あははっ!」
「ですがエーリヒ様。私も食べましたが、本当に美味しかったです。あのハンバーグとやらは。それにカレーとやらもなかなか。ああ、あとオムライスも私は好きですね…あれは秀逸です。あの穀物を今まで家畜に与えていたとは…本当に衝撃でした。どれも今までになく斬新であり何より美味。ヴェローニカ様は多才であられる」
「エリアスも食べたのか……そんなにあるのか……ヴェローニカの料理とは…」
「うっは。もうやめてやって、エリー。エーリヒ様ショック受けてるから。わははっ!」
仕えている主を囲んで和気藹々とその護衛騎士達が気安く騒ぎ出す。その光景をオイレ隊員達は後ろから、唖然として眺める。
人を寄せ付けないような隙のない笑顔を絶やさなかった今までのエーリヒとはまるで印象が違って、どうにも困惑を隠せない。それにそのエーリヒの口から特定の女性の名前が出るのも新鮮だった。
「…そろそろ休みをもらうか…」
「あははっ!そうですよ。エーリヒ様は働きすぎです。もし断られたら俺も一緒にジークヴァルト様にお願いしますよ?」
「おい、ディーター……さすがにそれはまずいだろ…」
「だがリーンハルト。今回のディーターの言には一理あるぞ。私もエーリヒ様は最近働きすぎだと思います」
「ええ……エリアスまで」
急ぎ撤収準備をしながらも、成果に反して何故かアーダルベルトは、彼らのやりとりを見ていると込み上げる笑いが抑えられなかった。それは他の隊員達も同様だ。
今回押収した証拠品の数々は、襲撃者を罠にはめるための餌であり、重要度の低いものだったのだろうから、本来この任務は失敗に等しい。だがそれでも王家の関与は確信できた。
そしてしばらく任務を共にして、今まで知らなかったエーリヒ達の一面を見たことに加え、一度は諦めかけた仲間の命が助かったという安堵感で、皆胸がいっぱいだったのかもしれない。
諜報部隊の一隊を預かる長として反省すべき点はあるが、アーダルベルトは素直に表情を緩めた。