15.人間としての権利(1)
《マリエル・リュール》
――親は子供を産んだかもしれませんが、子供は親の所有物ではないのですよ。大人だろうが子供だろうが、一人ひとりに意思があるのですから、人権があって然るべきです。
珍しくも美しい銀髪の愛らしい小さな女の子は、優雅にティーカップを口に運んだ。青銀の瞳を伏せる様子が憂いげに見える。
その発言が余りにも衝撃的過ぎて、マリエルは給仕をしながらただただその少女を見入ってしまっていた。
“人権”
そんな言葉をこんな幼い少女が発したことに驚いた。
あのような発言を公の場でしたら、すぐさま大人達の非難を浴びるだろう。
この王国では身分の上下はもちろんで、年齢の上下も覆せない。子が親に逆らうなど以ての外なのだ。
“人権”なんてそんなもの、女や子供にはないに等しい。生まれた家の家長である父親に従うのは当然のこと。
何故ならそれは……
――自分の力では生きてはいけないのだから言うことを聞けと?売られても文句を言うなと?……誰が食わせてやっているのかと言いたい訳だ……へぇ……相変わらず。どこの世界も勝手に産んでおいて恩着せがましいことだ……狭量な事この上ない…
――そもそも子供というのは、小さくか弱いから大人が自由にしてもいいのではなくて、小さくか弱いからこそ庇護されるべき存在なのですよ。そしてただ食事を与えていればいいという訳でもなく、自立できるように教え導くのが大人の役目です。愛情と手間をかければかけるだけ、大人になった時に応えてくれるのですから。そんなこともできない、やりたくないと言うのなら……無責任に産むなよ……って話ですよ
そんな事を父に言ったら卒倒するかもしれない。怒りのあまりに。
だが……あの時、この思いを、秘めてきた苛立ちを見透かされたのかと思った。
マリエル・リュールは新興貴族と言われる準男爵家の嫡女だった。
準男爵とは厳密には平民であり、貴族からはそのまま平民扱いだが、平民からは貴族扱いされる。
祖父が一代で築いた商売が成功し、金の力で爵位を手に入れたのだ。所謂成り上がり貴族である。
そのように揶揄されるような言葉は子供の頃からマリエルの耳にも聞こえていたが、所詮金がない者達の僻みだと祖父は常日頃憚らずに口にしていたし、マリエル自身その通りだとも思っていた。
そんな祖父は一族の中では絶対的な存在で、跡目を継ぎ新準男爵となった父も祖父を目指し、初めは認められようと努力をしていたようだが、祖父のような秀でた商才はなかったようだ。
挫折を味わった父は手段を変えた。金の力で手に入れた準男爵家を不動のものにするために、更に金の力を求めた。アードラー商会の親族の娘を第二夫人として迎えたのだ。
アードラー商会は当時力を持ち始めた商会で、良からぬ噂もあったため祖父は反対したが、その頃の祖父は若い頃に身体を酷使して働いたことで病気を患っており、リュール家では父を支える側近と古参の祖父の側近との世代交代が始まろうとしていた。
マリエルが十歳、弟のオスカーが六歳の頃だった。
第二夫人となったイルゼは初めは不安視されていたものの波風を立てずに、実家の資金力で使用人達を優遇して仲良く過ごしていたように思われたが、妊娠が発覚してからというもの、徐々にその本性を表していった。
その頃から正妻である母が床に臥せるようになり、イルゼがリュール家での内務を母に代わって取り仕切るようになった。それは女主人としての実権を握ったことになる。
イルゼとの結婚当初は第一夫人である母に対しての配慮も見られた父もまた、その態度を変えていった。病床にある母を全く見舞わず、イルゼの住む離れに入り浸り、それに伴って使用人達の出入りや邸宅の管理も変わり、いつの間にか母屋よりも離れの方が賑わいを見せるようになっていく。
本館には病人である先代の祖父と、同じく病床にある第一夫人の母。そしてその子供であるマリエルとオスカー。それを世話する古参の使用人のみになった。
他の使用人達はイルゼの実家から届く金品のおこぼれにあずかるために離れに群がる。
祖父が何度戒めようとも当主である父は本館には寄りつかない。
父は祖父の言葉を煙たがり、わざと避けているのがマリエルにはわかっていた。父は祖父に対して劣等感を抱いているのだと。そして母に対して罪悪感を感じているのだと。きっとその子供であるマリエルやオスカーにも。
そしてイルゼの第一子であるニクラスが産まれたのち、すぐに母が、そしてまたすぐに祖父が亡くなった。
そこからマリエルの本当の辛い日々が始まったのである。
祖父を失って失墜するかと思われたリュール準男爵家だったが、アードラー商会の支援を受けて更に隆盛を誇り、アードラー商会もまたリュール準男爵家から貴族の伝手や既存の販路を手に入れて勢力を広めていった。
家中ではイルゼやニクラスの立場が上がり、正妻の子であるマリエルとオスカーは、父は勿論使用人達からの扱いも変わっていった。
それまで裕福な商家上がりの準男爵家の嫡女、嫡男として大切に育てられていたマリエルとオスカーは継母やその侍女達が自分達を蔑ろに扱うようになり、父や執事、使用人達に現状を訴えるも、告げ口など淑女らしからぬ行為だと逆にそしられることになった。
その罰だと言わんばかりにマリエルとオスカーの二人は本館から追いやられ、それと入れ替わるようにイルゼとニクラス、そして父は本館へと住まいを移す。
母と祖父を失い、祖父の側近達もリュール家を追われたことで味方もなく、すでにイルゼの勢いに抗う術もなく、嫡女とはいえまだ子供だったマリエルは、ただ戸惑うしかなかった。
一方でイルゼは第二子ソフィアを産み、名実ともに本館の女主人となってまさに飛ぶ鳥を落とす勢いであった。
在りし日を思えばわびしくとも、目立たなければ被害を被ることはない。離れでオスカーと二人、ひっそりと慎ましやかに暮らしながらも漠然とした不安を感じていたマリエルにさらなる凶報が届いたのは十四歳の時。
父は金の力の次は血筋や格式を手に入れようと、マリエルに伯爵家との婚姻を命じた。
格上の貴族との急な婚姻にマリエルは喜びよりもまず戸惑った。
本来であれば平民身分である準男爵家の娘と伯爵家門が姻戚になるなどあり得ない。その上通常、婚約式を執り行い十分な婚約期間を経て、成人後に婚姻となるはずが、成人も待たず、さらに顔合わせもせずに伯爵家にそのまま預けられる手筈となるようだった。
その理由はすぐに明らかとなった。マリエルが伯爵家に嫁ぐことで、リュール家は家格を合わせるために準男爵から男爵への陞爵が執り成しされると家人達が噂し、皆が浮足立っていたのだ。
男爵ともなれば、商家上がりの成金平民と揶揄され続けたリュール家が正真正銘の貴族の仲間入りである。弟達は晴れて貴族学院にも入学できるようになるのだ。
だがマリエルが嫁がされる伯爵家の当主についても家人達は噂していた。
マリエルの婚姻相手は伯爵の子息でもその孫でもなく、五十もゆうに過ぎた伯爵自身で、マリエルはその側妻となるのだと。
その噂を聞いてゾッとした。そこでやっとマリエルは父に、リュール家に、自分と弟の未来に絶望を感じた。
このままでは幼女趣味で加虐性向があると家人達に面白可笑しく噂される、変態で中年太りの醜悪な伯爵に嫁がされてしまう。
そして自分がこのままリュール家を去れば弟のオスカーは一人になり、今までの扱いを鑑みれば嫡男であっても後継者の地位を継ぐのは当然の如くニクラスとなることだろう。オスカーは近い将来、味方が一人もいないこの家で廃嫡されることになる。
このような家のために自分が犠牲になど、なってやるものか。
マリエルさん。がんばれ。