149.コンラートの鬼胎(2)
《コンラート・ネーフェ》
『面白い話をしているな』
どこからともなく貫禄のある女性の声が聞こえてきて、我に返ったコンラートや侍女達が辺りを見回した。全く気配はなかったがいつの間にか執務室の扉は開いていて、その扉の下には一匹の黒猫がちょこんと佇み、ゆるゆると前足で顔を拭いている。その不調和さに一瞬面食らった。
「黒猫…」
『ツクヨミぞ。せっかくあの子がそうつけてくれたのだから、そう呼べ。…許すぞ』
顔を拭き終わった黒猫はとことことコンラート達が座っているソファーセットを素通りし、執務机の上にひょいと飛び乗った。
皆の視線は黒猫ツクヨミへと集まる。
『ツクヨミとはいずこかの神の一柱のようだな。あの子にとって吾は神か。…悪くない』
黒猫はゆるりゆるりと長い尾を揺らす。見た目に背いて、話し方やその声からは何やら威厳のようなものを感じさせた。
「あの……あなたは…何なのですか?魔獣、ですか?それとも…」
『それともの方だな。まあ、人間からすれば超常のものは皆、神や神霊の類だ。見方によっては悪魔や魔物でもある』
コンラートの質問にツクヨミは淡々と答えた。
「それでは答えにはなっていませんが…」
すると黒猫はペロペロと前足を舐めていた動作を止めて、ひたとコンラートを見つめた。縦に切れた鋭い黄色い瞳がじっと見つめている。
『うぬが知りたいのは吾の正体か?それとも吾が善か悪かが知りたいか?うぬらに危害を加えるのかどうかか?』
コンラートはごくりと息を呑んだ。何か緊張する雰囲気を感じる。
『神などうぬらが思うより気まぐれなものよ。目に留まれば時に殺し、気が向けば時に救う。だがほとんどの場合、放っておく。然程気にもならぬし、動く心すら持たぬ者もいる。そもそも人間の悲哀など吾らが知った事ではない。うぬらの言う善悪など、所詮人それぞれの勝手な主観。…吾を人間の尺度で計ろうとするでないわ』
「……ですが、それではヴェローニカ様のお傍にいられては困ります」
『なるほど。あの子をダシに使うか』
そしてしばらく見つめ合ったあと、ツクヨミは後ろ足で耳を掻き、ふるふると頭を振った。
『木偶が化け物と呼ばれてあの子は怒ったろう?人間は未知を恐れ、力あるもの、理解の及ばないものを畏怖する。同じ超常でも人間に益あるもの、美しいものが神で、害あるもの、歪なものが化け物なのだろう。実に都合の良いことだ。吾らからすれば、そんなものは気分次第でいつでもひっくり返せるものよ』
黒猫はまた前足で顔を拭くような仕草をする。
語る内容とは別に行動そのものは猫のそれで、コンラートは何やら混乱してくる。
『超常とは人の身では抗えぬからこそ超常なのだぞ?それが神だとして斎くのは勝手だが、何故それが人を考慮して動くと思うのだ。人こそ自分らに都合よく考えすぎではないのか。うぬらは地面を蠢く小虫をいちいち避けて歩いたりしているのか。それが善と悪とを決めることなのか』
そう言われてしまえばツクヨミの考え方も理解できてしまうのかもしれない。それほどの力の差があれば、我ら人間など地を這う虫と同じで気にも留めず歯牙にもかけない存在だと言うことか。
『それに神だとて怒りを買えばいくらでも人など殺すぞ。……それこそ悪などと言われているものよりも多くをな』
「…………」
不気味に愉悦を含んだツクヨミの声に、我知らず怯む。
コンラート達は人間を超越した存在を改めて想像した。その心を推し量ることなど、ちっぽけな人間にはできないのかもしれない。
『まあ良い。あの子の望まぬことはせぬと約束してやろう。あの子の傍は心地良いからな』
「……そうですか」
ふぅとコンラートはひと息ついた。
『うぬらもわかっておろうな。吾はただの黒猫だ。良いな』
「あの、何故ヴェローニカ様には話せると知られたくないのですか?」
恐る恐るヘリガは尋ねてみる。
『…ただ単に猫だと思われていたいだけだ。うぬらも知らなかったから吾に触ろうとしたのであろう?』
「はぁ、確かに」
『あの子は吾が普通の黒猫ではないと知っても、態度が変わるとは思わんが……いや。だからこそか。あの子は…信心があるようなのでな。今の吾をどう思うか…』
「それはどういう…」
コンラートの問いにツクヨミはまた、ひたとコンラートを見つめた。
『うぬらはあの小僧の部下なのだろう?ならば話す謂れもない。吾に仇なす可能性があるからな』
「…………」
(小僧とは…やはりエーリヒ様はこの黒猫に警戒されているのか。)
『話の腰を折ってしまったな。あの子は誰と共にいれば幸せかの話をしていたのだったな』
「…………」
(そう言えばそうだった。特に振り返らなくてもいい話題だったのだが。)
正直、コンラートは少しうんざり気味だった。
コンラートにだってわかっている。エーリヒがヴェローニカを特別に思っていることくらいは。
だが……それを認めてもよいものなのか。
『今のままだとあの小僧、フラれるぞ』
「「え?」」
『あの子は心を殺したのだ。今までのあの子と思い、安易に近寄れば小僧は拒絶されるだろう。ふふ…早く小僧の泣きっ面が見たいものよ。まあ、あちらの屋敷でもあの子は大事に扱われそうだから、吾は小僧の顔を見ないで済む分、あちらに世話になりたいところだな』
そこまで言うとツクヨミは、とたんと机から飛び下りた。
「え…あの…」
コンラートの戸惑いをよそに、とことこと執務室の出口に向かっていく。
「ま、待ってください!」
だがコンラートの呼び止めも無視して、ツクヨミは扉の隙間に入ろうとした。
「お待ちください、ツクヨミ様!」
『む?…なんだ?』
面倒臭そうにツクヨミが振り返る。
『吾に媚びてもこれ以上は教えぬぞ。そもそもあの小僧が悪いのだ。昨夜も小僧には教えてはやらぬと言ったところであったし。うぬらだから教えてやったのだ。あの子を案じているようだったからな』
「エーリヒ様が悪いとはどういう意味ですか?」
『……別に、厳密に言えば小僧が悪い訳ではない。あれが小憎らしいのは事実だが、もとより何をするも小僧の自由だ。吾が言いたいのはそれが小僧の行動の結果だということよ。“因”があり“果”がある。世界は“因果律”に則して廻るのだ。ならばあの子だとて、どうしようともあの子の自由。あのままではあの子の心は乱れたままだった。皆には笑って見せているが、吾には体内魔素が視えるからな。あの子の苦しみ、悲しみ、痛みまでが良く視える。だが今は……あの子の心は穏やかさを取り戻した。これ以上波立たせてやるな』
「し、しかし、その…フラれるというのは…」
『なんだ』
「…エーリヒ様は二十二歳です。ヴェローニカ様は、八歳なのです。その、男女の情を意味する訳では、ありませんよね。親愛の情…とか、そういう…」
『くだらんな』
「え?」
『だからあれも素直になれんのだ。…まあそれが今回の障害なのだろう…』
「…………」
(障害……?年の差の事か。…今回とは、何のことだ。)
『吾には体内魔素が視えるのだと言ったばかりであろうが。吾を欺くことなどできぬ』
「え……っ、あの……それは……」
コンラートは狼狽える。コンラートが密かに恐れていたこと。
それは、つまり……
『人とはくだらぬ……憐れな生き物よな。短い生を己を偽って生きる。容易に過ち、そして後悔し、もがいて死ぬ。まだ木偶の方が素直だ。…ああ、あれは人とは言わぬのか。なるほどな。人が成長するには一生では足りぬのかもしれん』
ツクヨミはその場にいる者達を見回した。
『そなたらはまだ若いな。歳ではない。魂が若い。それに引き換え、木偶は死んだ後も長い間苦しんだのだろう。それがよく視える。小僧も小僧なりの苦しみや秘密を抱えているようだ。捻くれていてわかりにくいがな。だがな、あの子の苦しみは……あの子の魂は……そなたらが思うほど生易しいものではないのだ。そなたらには想像もつかんだろうな。あの子の……いや、あの魂の苦しみの年月を……』
「…………」
ツクヨミの語る話はコンラートらには見当もつかずに困惑する。
ユリウスの死後の苦しみについては、彼がプロイセ城主の弟だったと知った今ではその苦悶の年月は想像を絶するのだろう。だがエーリヒの秘密とは、ヴェローニカの苦しみ、それも魂の苦しみとは一体何のことなのだろうか。
『だからだな。あの子は守護すべきと思えば自分を犠牲にするほど優しいが、敵と認識すれば躊躇なく呪い殺せるほどに苛烈なのだ。それは人の常識を逸脱している。ゆえに人には理解はされまい。ある意味、荒神のようなものだな。…それでは人の世は生きづらかろう……本当に、酷なことをするものよ……』
そしてツクヨミは長い尻尾をふわりふわりと重い空気を払うように揺らしたあと、ふいと振り返って再び歩き出し、扉の隙間へと消えていった。