146.リオニーのとある一日(2)
《リオニー・エッケナー》
その日の午後は、またヴィンフリートの屋敷に向かいたいとヴェローニカは言い出したが、それを皆で止めた。
病気でもないのだし、いつ怠さや痛みがなくなるのかもわからないのだから、とりあえず孤児院の相談に商会の者達と話したいと言うヴェローニカに、せめて今日は大人しくしているようにと皆で言い聞かせた。
最近ヴェローニカの外出について回っていたディーターも、午後の外出がないと知ると王城に向かい、退屈そうに本を読むヴェローニカを見かねて、ユリウスが地下鍛練場に見学に誘った。そしてそれには当然のように黒猫もついてくる。
今となっては、食事をしないユリウスがマリオネットだとこの邸宅の者達も知ることとなったので、今日は少し自分の体の機能を試したいらしい。
ユリウスが上着を脱ぐと、それをヴェローニカが預かった。その行動にユリウスは少し驚いていたが、彼女がまるで気にせずににこやかにしているのを見て、彼もまたふわっと微笑った。
普段の振る舞いから忘れてしまいがちだが、彼女は貴族として初めから育った訳ではない。細かいことではあるが、すでにヘリガとウルリカは鍛練場に出ていたのでリオニーがこそっと声をかけることにした。
「ヴェローニカ様。そういったことは侍女やメイドがするものなのですよ」
「そうですか……では持っていてはだめでしょうか?」
リオニーの言葉に驚いて、残念そうにしている。
「そうですね。…いいですよと言いたいところなのですが……やはり主がそれをすれば軽んじられると思います。外ではお勧めしませんね」
(夫婦のプライベート空間ならありだけど…)
「そうですか…」
少ししゅんとしてユリウスの上着をリオニーに預けてきた。
そんなにこれを持っていたかったのだろうか。ヴェローニカはユリウスのことをどのように思っているのだろう。
「前に見せたような仕込み武器のカラクリがあるのはわかっていたが、今回の進化でできることが増えたようなんだ。私もまだあまり把握していないから、これはいい機会だろ?」
ユリウスはそう言いながら右手を上げると、指の爪が鋭く伸びた。それを見た周囲はぎょっとしていたが、彼はその爪を納めて拳を握ると、今度は拳の先から刃が伸びた。軽く拳を突き出したり、振るったりして具合を確かめる。
「ふむ…手の刃は調節可能か。ま、確かに全体的に魔素金属だからな。…となると…」
ユリウスが何やら呟きながら手のひらを手刀の形にすると、その手は刃のように形態変化した。
「これは便利だな」
楽しそうに笑うユリウスをよそにヘリガは少し引き気味に、ウルリカは目を見張ってその様子を見ている。
ユリウスが空を切り裂くように手刀を振るい、シャドーボクシングをするように驚く速さで数度腕を繰り出す。そこに蹴りも加わり、風を切る音がさらに上がった。
その驚くべき身体能力に見物人達は舌を巻く。いつもの対戦試合でもユリウスに勝てる者などいやしなかったのだが、あれでもまだ手加減していたのだと思い知った。
そこでユリウスの動きがピタリと止まった。蹴り上げた脚を空中で静止させたその足先からは、いつの間にか刃が伸びていて鍛練場の灯りを反射している。
その鋭利な刃は、油膜が張ったような魔力が宿った煌めきをしていた。
あれは並の魔剣よりも切れ味が良さそうだ。何せ全身が入手も困難な魔素金属だというのだから。
良質な魔素鉱石は各国で産出量が少ない。鉱物が魔素溜まりの魔素を吸って成長するのには長い年月を要するからだ。
そして魔素溜まりは人体に影響を及ぼす程に魔素が濃い場所や不浄な瘴気となっている所もあり、強い魔獣も棲息する危険な場所である場合が多く、採掘も難しい。
「なかなか面白いな」
ユリウスは満足げである。
今度は狙撃用の的の方向に手を伸ばした。するとその指先から複数の何かが発射する。それらは見事に全て的に当たるが、何やら糸のようなものが束になって指先に繋がっている。あれも魔素金属なのだろう。
皆が唖然としてそれを見ていると、ユリウスは手をぴくりと動かした。よく見るとその手には指先がない。飛んでいったのはどうやら指先だったようだ。
手から繋がっている糸が赤い光を放って一瞬で的まで光が到達し、指先が刺さっていた的がバァンッ!と爆発した。
「うわぁ!」
周りで見ていた者達も突然の爆発に驚き身構える。その間にユリウスは発射させていた指先を回収したようだ。伸びた糸束が手のひらの方へ引き寄せられて短くなっていったのが見えた。
「なるほど。これはいい。指先で魔力の放出と吸収ができるのか。…魔獣退治に行きたくなるな。少し実戦でならしたい。これで魔力の補充もできそうだし」
「すごいな、ユリウス様。さすがにそこまでされるともう太刀打ちできそうにない」
「心配するな。試合ではやらない。今までどおり体術か剣術だけにする。しかも人間が可能な動きに留めておいてやろう。じゃないとこんなことにも対応しないといけなくなるからな」
そう言ってユリウスがウルリカに手を掲げて見せたあと、指の関節や肘関節があり得ない方向に曲がりだした。
ヘリガは「ひっ」とかすかに悲鳴をあげたが、ウルリカの方は驚いたあとに吹き出している。
(いや、ちょっともうヤバくない?ユリウス様と対戦とか、絶対ムリ。)
リオニーはどちらかというと回復や補助専門なので、ある程度は戦えるが本格戦闘はウルリカとヘリガに任せている。
神聖魔術師は貴重でほとんどが神殿にスカウトされ、神官や巫女になる。しかしリオニーは年中神官服や巫女服など着ていられない。自由な服装、自由な髪型、おしゃれができないなど想像しただけで我慢ができなかった。
だが実のところ神殿は、強引な手段で神聖魔術師を集めている。家門に金を積んで、まるで奴隷のように神聖魔法が使える貴族を買い取るのだ。
弱い家門には圧力をかける。脅し、襲撃をかける。そして奪い取る。それがまかり通るのが今の神殿勢力だ。
そこまでして集め、育てた神聖魔術師は、神官、巫女として治癒魔法が必要な貴族や富豪達に派遣し、高額なお布施をとる。そして神殿の資金は潤沢となり、その資金力をもってまた神聖魔術師を集める。
その上神聖魔法の魔力操作方法も魔術刻印も秘匿しているため、上位の治癒魔法は神殿の者にしか使えない。
リオニーも訓練をしたり、刻印を施せば上位の治癒魔法が使えるようになる可能性はあった。それさえできれば、もっと役に立てるはずなのに。
だが一度神殿に入れば還俗するのに高額な金がかかる。それが支払えないと一生神殿で奉仕するしかない。
高位貴族の場合はそれを支払い還俗して、婚姻するのだ。嫁ぎ先では嫁が神聖魔法が使えることを重視して、還俗するためのお金を支度金として用意する。そのため高位貴族の良い縁談先を見つけるために進んで神殿に入って巫女や神官になる貴族令嬢もいる。
リオニーの実家、エッケナー家にも神殿関係者が来たが、強引な方法を取られる前にグリューネヴァルト侯爵家が守ってくれたのだ。その恩を返したいとリオニーは思っている。
「ユリウス、すごいですね。…私も訓練すれば強くなれるのでしょうか」
見学していたヴェローニカがとんでもないことを言い出した。
「なんだと?」
「ヴェローニカ様は私達がお守りするので、訓練など必要ありません」
「そのとおりだ、ヴェローニカ様。私達の仕事がなくなるぞ」
ユリウスとヘリガ、ウルリカが慌ててヴェローニカを止めている。
「でもいざという時に誰もいないこともあるかもしれません。自分の身は守れるくらいの力は欲しいです」
「いつも私が側にいる。…とは思っているが…確かに何が起こるかはわからないからな」
「では護身術程度なら習えますか?」
「だが今は不調なのだからダメだぞ」
「そうです。いけません」
「うーん…、一理あるか…?」
「そうですよね?ウルリカ?必要なことだとは思いませんか?」
即答せずに一人返事に窮したウルリカに縋る作戦に出たようである。見ていると本当に可愛い生き物だ。
(あれは人間ではありませんね。天使です。…あ、聖女でしたね。)
そうして今日もヴェローニカを見守り、リオニーの一日が終わる。