145.リオニーのとある一日(1)
《リオニー・エッケナー》
「これは……どういうことですか?コンラート」
その光景を目にしたヘリガが目を見張ってコンラートを振り返った。
「本当にこれを……エーリヒ様が…?」
「そのようだ。今朝の支度の時に、直しておけと言われた」
(エーリヒ様ってそんなに情熱的だったかしら?)
リオニーは頬に手を当て首を傾げながら、ソファーに座るヴェローニカとユリウスの二人を見た。
ヴェローニカはまだ寝衣を着たまま、ユリウスの体調の心配をしているようだ。
どうやら昨夜はユリウスに血を与えたらしく、ユリウスは魔力酔いでそのままヴェローニカのベッドで眠ってしまったらしい。そこへエーリヒが遅くに帰り……
そして朝の支度に訪れた侍女達とコンラートの目の前には、塞いでいた板を見事に焼き切られ、蝶番も破壊されたコネクティングドアが扉横の壁に立て掛けられていた。
「エーリヒ様が魔剣で斬って蹴り破ったのだろうな。見ろ、扉も枠も綺麗に焼き切れている。蹴った跡もあるな。だがこの程度で済んだのなら手加減したのだろう」
ウルリカが壊れた扉を検分しながら感心するように言った。
「だがここまで荒れていて、何故ユリウス様は無事なんだ?」
ウルリカがユリウスに尋ねると、
「ああ…それは…。…エーリヒが音を消していてヴェローニカはまだ寝ていたからな。起こさないよう気を遣ったのだろう」
目を逸らし、何か歯切れの悪い受け答えだ。
「ここまでしたのに、か?」
「にあ、にあ」
黒猫がヴェローニカの膝の上で鳴いている。それを宥めるように笑顔で毛並みをなで、愛しそうに抱きあげて小さな黒い頭にキスをする。
今までも黒猫を可愛がってはいたが、以前はもっとあっさりとしていたはず。そろそろ名前を考えると聞いている。いずれ飼い主のもとへ帰ると思い、わざと距離をとっていたということか。やはり子供らしからぬ行動だ。
「ユリウス様…その…黒猫は…」
「ああ…コンラートは、聞いたのか…」
「ええ。…まあ」
「…………」
コンラートとユリウスが何かこそこそと話している。ヴェローニカに聞かせたくない話のようで、彼女が黒猫をなでている間にコンラートに念話で話しているようだ。コンラートが無言で頷いている。詳細はあとでコンラートに教えてもらえるだろうか。
「とりあえず修理は依頼したので、今はこのまま朝の支度をしてください。…ヴェローニカ様、申し訳ありません」
「いいえ。そんなことないわ、コンラート。エーリヒ様が心配性なだけです。ユリウスは私の眷属なのですから、危害を加えるはずはないのに。おかしいですね」
「…………」
愛らしく首を傾げるヴェローニカに、コンラートはぎこちない作り笑いをしている。
ヴェローニカが妙齢の女性であれば、これは間違いなくエーリヒの嫉妬だ。
仕事に疲れて遅くに帰ったら、続き部屋で眠る自分の女のベッドに別の男が眠っていたならブチ切れて当然なのだ。それが一番わかりやすい解釈だ。だが…ヴェローニカはまだ幼い少女。そしてユリウスはヴェローニカの眷属であり、しかも、傀儡人形なのだ。何をするでもない。
これは義父のような保護者の立場としての父性愛の目覚めからなるものなのだろうか。ヴェローニカに対する独占欲が強いだけなのか。それとも。
「ヴェローニカ様。傷の治療は必要ですか?」
リオニーが側に近づいてヴェローニカの首筋を見る。
「それはエーリヒがしてくれた。…いつもすまないな、リオニー」
いつもなら自信満々で強い光を帯びたユリウスの紫色の瞳が、今日はなんとなく覇気がないことにリオニーは少し不思議に思った。昨晩エーリヒに何か凹まされたのだろうか。
ふとヴェローニカがユリウスを見上げる。彼女も違和感を感じたようだ。
「ユリウス。気に病まなくていいのですよ。私は本当になんともありません。ユリウスには必要なことなのですから。それに言ったでしょ?私はユリウスの成長が楽しみなのです」
(そうか。血を吸うことに罪悪感があるからなのね…)
本当にこの二人の主従は互いを思いやっている。先日の商店街での騒動も、互いを侮辱されて腹を立て、ああなった。
可憐な姫君と姫君を守りたいのに傷つけてしまうことに思い悩む忠義な従者。
(尊い…)
二人を見てヤキモチをやいてしまう気持ちはリオニーにも少しわかる。
「ヴェローニカ様。エーリヒ様から伺いましたが、体調が悪いのでしょうか?今日は午前の授業を休みにして医者を呼んでおりますので。…ただ、今日は修理の職人も来ますので、客室に移動していただきます。よろしいでしょうか」
「そうなのね。わざわざありがとう、コンラート。どうしてわかったのかしら…?実は最近少し身体が怠かったの」
「そういう時は我慢せずに早く言わないとダメだぞ、ヴェローニカ」
「…うん。…ごめんなさい。でも、大丈夫だと思ったの」
「謝る必要はないが……授業がないのであれば着替えずにこのまま部屋を移動しても大丈夫か?コンラート」
「はい。部屋の準備はしてあります」
「では、行こう、姫」
ユリウスがヴェローニカを抱き上げる。
「ちゃんと歩けますよ、ユリウス」
「いいや、だめだ」
二人は言い合いをしながら出口に向かい、その後ろをとことことついていく黒猫。
(なんて可愛らしい…萌えます。)
リオニーも二人と一匹のあとについていった。
客室に移動してベッドに入っても、ヴェローニカは全く横になる気配はなく、部屋での朝食のあとは通信魔術具でグリーベル商会のシアナに連絡を取った。
孤児院の買収について相談をしているらしい。
(本当に呆れるほど真面目な天使…いえ、聖女様だわ。もう少し子供らしく遊んだり甘えたり…いいえ。それは私達がそうできるようにしてあげないといけないのね。)
ソファーにかけているユリウスにリオニーが目をやると、彼もヴェローニカを心配そうに見守っていた。
思えばここに来た当初からユリウスはヴェローニカから離れない。たまに地下鍛練場で皆の相手をすることもあるが、ほとんどの時間をユリウスはヴェローニカの傍で過ごしている。
ヘリガなどはそれが気に食わなかったようだが、肝心のヴェローニカがこのような感じでは心配で過保護にもなる。
ユリウスはマリオネットで魔素吸収のためにヴェローニカの傍にいるのだとは知っているが、彼らを見ていると、それだけではないのだとよくわかる。今ではリオニーにも、ユリウスの気持ちはよくわかるのだ。
(きっとエーリヒ様も自分以外のことにひたむき過ぎるヴェローニカ様が心配なのね。)
「ヴェローニカ様。医者が参りました」
コンラートがグリューネヴァルト家お抱えの医者を伴って部屋にやってきた。
医者がヴェローニカの手に触れて身体スキャンを始めると、動揺を見せた。
(まずいわね。何か特殊な体質なのがバレたのかしら。私がスキャンできれば良かったのだけど。)
「どうしましたか?」
コンラートもすぐ側で見守っていたので医者の異変に気づいたようだ。
「い、いえ…あの。…お嬢様のお年は…?」
「八歳です」
「…八歳…」
「何か問題が?」
「…いえ。…八歳にしては身体が少し…小さいようですね。うーむ…栄養状態は十分だったのでしょうか?」
「…こちらにいらっしゃるまでは十分ではなかったようです」
「なるほど」
医者が言うには、ヴェローニカは今までの食生活から一変して栄養状態が良くなったので、身体が急激に成長し始めているのではないかということだった。それに加えて身体が小さい割に体内魔力が活性化していると。
「成長痛ということかしら?」
「成長痛…そうですね。そのように考えてよろしいと思います」
ヴェローニカに問われた医者はわずかに目を見張ったあと、にこやかに答えた。
(わかるわ。ヴェローニカ様に話しかけられたら笑顔になってしまうのよね。うんうん。)
「コンラート様、少しよろしいですか?」
「はい、何でしょう」
医者がコンラートに近づいて何か話し始めた。
「ヴェローニカ様?成長痛ということは、これから成長するということですよね?もっと身長が伸びたり…きっと美しく成長なさるのでしょうね。楽しみですね」
ヘリガが嬉しそうにヴェローニカに話しかける。
「ふふ。早く大きくなりたいです」
「何故ですか?」
「今のままではすぐユリウスに抱き上げられてしまいます。私はちゃんと一人で馬車も乗り降りできるのですよ」
「ふ。大きくなっても私は姫を抱き上げるぞ」
「それはやめてください、ユリウス。恥ずかしいです」
病気や深刻な状態ではなかったので、皆和やかに話しているようだ。
「これから急激に大きくなるということは、ドレスも合わなくなりますね。新しく揃えなければなりません」
(服飾師を呼ばなくては。)
「まだ気が早いです、リオニー」
ヴェローニカがリオニーを見て笑った。
(ああ、なんて愛らしい…)
「ヴェローニカ様、成長痛とは毎日身体が痛むのか?」
「そうですね…少し怠くて…少し痛みもあります。主に脚…でしょうか。きっと骨が伸びようとしているのでしょう。でも、心配はいりませんよ、ウルリカ。病気や怪我ではないのですから」
「リオニー、少しいいか」
ヴェローニカを囲んで会話するのをリオニーが密かに萌えながら見守っていると、コンラートに声をかけられてそちらに向かう。
「痛みが酷い時にはお前が治癒魔法をかけてくれ。薬も服用してもらうから管理を頼むぞ」
「はい、コンラート」
「それから…ヴェローニカ様は魔力が多いようだ。魔石に魔力供給するような程度でも魔力を定期的に消費したほうがいいらしい」
「それほどなのですか?」
「はい。…私もスキャンして驚いたのですが、あのように小さな身体で魔力が漲り過ぎているようです。それで怠さや痛みなどの身体の不調に繋がりやすいのかもしれません。魔力量に応じて相応の魔力回路を形成するためには必要なプロセスなのですが、魔力の器としての身体が小さすぎるのです。体内魔力が飽和しないように気をつけたほうがよろしいかと」
「なるほど、そうなのですね。わかりました。気をつけます」
リオニーは医者の指示に頷いた。