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144.黒猫

《ユリウス・レーニシュ=プロイセ》



 ユリウスは殺気を感じて目が覚めた。

 暗闇の中、唸り声が聞こえる。ふいに身体を起こすとまだ少し魔力酔いをしていて目がくらんだが、危機を感じたユリウスは慌てて隣で眠っているヴェローニカを抱き寄せて、ベッドの上を後退った。殺気が発せられている方向から距離を置く。

(なんだ?壁の向こうか?)



 王都に魔獣でも侵入したのか?そんな馬鹿なと一瞬思ったが、周囲の把握に努めると、唸っているのは傍にいた猫だった。


 暗視効果のある視界は、黒猫がベッドの上で毛を逆立てて低く唸り続けるのを暗闇でも鮮明に捉えている。

 睨んでいるのは部屋の奥、続き部屋の扉、コネクティングドア。


「…エーリヒの、部屋か…?」



 数日前に侍女達が封鎖した扉は、開閉部分に板が無様に打ち付けられている。扉の鍵を管理している執事のコンラートから鍵をもらうことができなかったのと、それは急遽夜になされたことだったので、職人の手もなしに侍女達が無理矢理封鎖したものだった。



 次の瞬間、扉の上の方の隙間から暗闇の中に鮮烈な光が煌めいて、上から下まですうっと扉の縁を眩い光がスライドした。それはもうあっさりとブロートを切り分けるよりも滑らかに、扉の縁と一緒に打ち付けた板が焼き切れる。

 焦げついた匂いが辺りに漂って、バンッと衝撃音がするほどの勢いで扉が内側に弾けるように開き、さらに壁で跳ね返り蝶番が外れたが、一切それらの音は聞こえなかった。


 この現象にユリウスは心当たりがある。


 開かれた扉の向こうは明るくて、その逆光により真っ黒な人影が、その手に光を握りしめ扉を蹴破った姿を見て、やはりかと思う。


(つくづく面倒な男だ。)



『音を消しても殺気がダダ漏れだ、エーリヒ』



 腕の中のヴェローニカはこの殺気の中でもまだ眠っているようなので、ユリウスは起こさないよう念話でエーリヒに語りかけた。

 この殺気を感じてか、ヴェローニカを包む魔素が濃くなっている。まるで主を守るように。



『…ここで何をしている』



 エーリヒも念話を使ってくる。人間のくせに器用なやつだ。

『眠っていただけだ。お前には関係ない。ヴェローニカはまだ眠っているから部屋に戻れ』


 ちらりとヴェローニカの様子を見ると、首筋に傷跡が見えた。

 もしかしてそれでまだ眠っているのか。負担がかかったか。そう言えば最近怠そうに見えることがあった。そんな時は普段よりも彼女を包む魔素が弱まるが、それを守るように外側は濃くもなるようで、少し見分けがつきづらかった。



ウゥゥ…

 まるでヴェローニカを守るように黒猫がエーリヒの方に二、三歩進み、毛を逆立てて唸り続ける。


『猫よ、下がれ。エーリヒ相手では怪我するぞ』


 この猫は何故か人の会話を理解しているとユリウスは認識している。それ故に自然と声をかけていた。

 ヴェローニカがいつも黒猫に話しかけるように声をかけて可愛がっているから、ユリウスもついそうしてしまっただけだった。でなければこんな時に猫に声をかけようなどとは思わない。



『あな厭わしい…………殺気を収めろ、小僧が!!』



 誰かの声がした。思念の声だ。白夜のような重々しい、女性の声だった。


「…今の……お前か?」


 驚きすぎてつい声が出た。ユリウスは目の前の黒猫を凝視する。



『なんだ、その猫は…どこから連れてきた』

『いや、これは…数日前に商店街からずっとヴェローニカについてきて…ただの、黒猫かと…』

『ただの猫が話すものか。…また白夜のようなものを拾ったのか、ヴェローニカは』

 殺気を放ちながらもやや呆れ気味な声だった。


『とにかく、エーリヒ、殺気を抑えろ。ヴェローニカが目を覚ますだろ。疲れてるんだ、起こすな』

 するとエーリヒの殺気が消えた。だがその表情にはまだ十分に刺々しさがある。

『疲れさせたのは貴様じゃないのか。血を吸ったのだろ。首に傷がある』

『…………』

『その程度も治せずに何が眷属だ。何が守るだ。自分で傷つけておいてふざけるな』


 ユリウスには何も言えなかった。ただヴェローニカを抱き寄せて、首筋の傷跡を見つめる。血が滲んでいた。



『この子が望んだことだ。小僧には余計な世話よ。木偶でくもそれしきで黙るな。何とか言え』



 木偶……

 言い得て妙だ。

 ユリウスは唇を噛み締めた。



『随分と偉そうな猫だな。お前は何だ?魔獣か?また神獣とか言うのではあるまいな』

『本当に無礼な小僧だ。吾がこのような姿でなくば噛み殺してやったものを……まぁ、良い。うぬがエーリヒなのだろう?そのように取り乱すほどにはこの子が大事なようだが……哀れなものよ。ふふ…』



 黒猫はエーリヒの言葉に気分を害したようだったが、尊大な言い回しで余裕を見せて笑った。

『何のことだ』

『小僧は自業自得ぞ。ふふ…面白いから当分教えてはやらぬ。…さて、いつになったら気づくかな』

『…自業自得…?それは、ヴェローニカが言ったのか?』

『…何がだ?』

 黒猫は不可解そうな雰囲気だ。

『自業自得という言葉だ』

『ふん…言うてる意味がわからん』

 警戒を解いた黒猫はちょこんとベッドの上に座り、ペロペロと前足を舐めだした。


『そう言えばヴェローニカがそのような言葉を使っていたな。あれは……失脚した王子について語っていた時か』

 ユリウスはぼんやりと思い出す。



『《目には目を歯には歯を》という言葉を知っているか?』

『ん…?知らんな。目には目を?…何のことだ』

『言葉はわかるのだな』

『吾を誰だと思っている』

『……誰なんだ?』

『ふふ……そうよな。小僧のような卑小な身では理解の及ばぬ存在よ』

 黒猫は悠々と長いしっぽを揺らす。対照的にエーリヒは不愉快そうに眉をひそめる。



『では、《天網恢恢疎にして漏らさず》は?』

『…小僧……それは誰の言葉だ。……うぬは信心深いようには見えん』

 黒猫の雰囲気が変わった。

『ヴェローニカだ』


『…そうか。この子が。そう言えば先日もその言語を使っていたな。確か…《頭が高い。ひれ伏せ》と。ふふ…しかも魔力と重力を込めてな。面白い…《天網恢恢疎にして漏らさず》か。なるほどな。…はは。それで動いたか。あれが好きそうな言葉だものな』



『重力を…知っているのか?動いたとは何だ?お前は何を知っている?』

『ふふ…うぬのような小生意気なわっぱに教えてやる義理などないわ』

『…………』


 ユリウスはエーリヒと黒猫のやり取りを黙って見ていた。黒猫に“木偶”と呼ばれたこの身を恥じる気持ちがあった。そしてエーリヒの言う通りだった。主を傷つける眷属など……



『木偶。いつまで塞いでいる。鬱陶しいわ』



 黒猫の言葉にユリウスは確信した。これは大気に漂う魔素だけでなく、体内の感情の魔素まで識別できている、と。

 言葉を解し、あらゆる魔素が視え、さらに異界の言葉まで解するとは。やはりただの黒猫ではない。白夜と似た存在なのか。だが、それにしては白夜のような膨大な魔力が感じられないのは何故だ。


『…話せるのなら、何故今まで黙っていたのだ』

『好きで黙っていたのではないわ。話せるようになったのは、この子の傍で良質な魔素を吸ったからだ』



 やはりか。この黒猫は魔素が視えていて、その魔素が必要なためにヴェローニカを見つけ近づいたのだ。

 この魔素が薄い王都で彷徨いながら、良質な魔素を纏うヴェローニカを見つけた時の心境は如何ばかりだったか。プロイセ城でヴェローニカに出会ったユリウスのように。彼女は待ち焦がれた存在。唯一無二の人。


 ユリウスは商店街で出会ったあの日の黒猫の様子を思い出した。離れたがらない訳だ。

 つまり今、魔力が弱いのは、何かの制約がかかっている状態なのか。それは何故だ。そもそも魔素が必要なら、何故魔素が薄い王都にいる。



『とにかく今宵はもう下がれ。この子を起こすのはうぬも望まんのだろう?今は魔素が守ってくれているからちょっとやそっとじゃ起きないだろうが、この子は今は具合が悪い。だがそれは木偶の…こやつのせいではない。とりあえず寝かせてやれ』


『具合が悪いとは、何故だ?』

 エーリヒの声音が一変し、心配そうに尋ねる。

『…さぁな。人間のことはよくわからん。最近はずっと怠そうにしている。我慢しているようだな。だが身体も痛むはずだ。先日の騒ぎで顕著になった。まだ小さな身体で魔力を使ったからか…?』


『身体が痛む?黒猫よ、お前は痛みも視えるのか?』

『…当然だ。そちも魔素が視えるようだが、物質の中までは視えないようだな。それもそうか。吾は体内魔素も視える。だからこの子の身体の痛みや状態のみならず、感情やその変化もよくわかる。…そちにはあとで面白いことを教えてやろう』

 黒猫の声が何故かニヤついているように聞こえた。



『…何をだ…』

 自分を外して進む悪意を感じる会話に、エーリヒは敏感に反応したようだ。

『この子のことだ。だがうぬには教えてはやらぬと言ったであろう』

 するとまたエーリヒがわずかに殺気立った。

 どうやらエーリヒは黒猫を敵に回したようだ。



『ふふふ。仕様のないやつだ。……この子はな、ある日、《生者必滅会者定離》と言っておった。確かに人間とはその通りよ。魔法だけでなくその思想もこの子はなかなかに面白い……ふふ』


『どういう意味だ』


『知りたいのなら態度を改めろ。だが今宵はもう下がれ。……うぬも不調の自覚はあるのだろう?魔力回路の破壊と再生のバランスが崩れているぞ。そのまま無理を続けるといずれ限界がくる。……あのような殺気を振りまく無礼者のことなど、知ったことではないがな』

 黒猫の言葉にエーリヒは渋い顔をしている。



 さすが女だ。猫であろうと女性には口では勝てぬ。しかもこの黒猫はただの女性というより、老獪な感じを受けるが。

 女性に年は聞きづらいが、名前があれば何かその正体に届く手がかりがないだろうか。今までの様子を見るにヴェローニカに危害を加えるつもりは今のところはないようだが。



『黒猫には名があるのか?』

『名か…。ないこともないが……諱を明かす道理もない。それにそちに言ってもな…』


『先ほど姫がお前の名前を考えていたぞ。あるのであれば教えてやったらよいのではないか?』

『そのようだな。ようやく吾を受け入れる気になったようだ。どんな名をつけてくれるのか楽しみよ。ふふ』

 名は明かさないつもりのようだ。



 そしてしばらくまたエーリヒと黒猫がかち合っていたが、結局は黒猫に言い負かされてエーリヒは渋々自室に戻って行った。

 扉は壊れたままだったが。

 翌朝、エーリヒが登城したあとでそれを侍女達が発見することになる。




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