134.晩餐への誘い(3)
ところで急にどうして晩餐なのかな。てっきり厄介者扱いなのかと思ったのだけれど。
何か呆気にとられていたし。大商会の誘いだからとほいほいついていくとでも思っていたのだろうな。
エーリヒ様の兄上か。ならばご挨拶せねば失礼にあたるだろう。グリューネヴァルト侯爵家にお世話になっている身としては。
ああ、それでも今は……酷く、疲れた。
ヴェローニカはユリウスに抱きしめられたまま、ぼんやりと瞼を開けて、またすぐに閉じた。
馬車が停まって、ユリウスがヴェローニカを抱き上げて座席を立つ。
いつからか、ユリウスに身を委ねるのが心地良くなってしまった。なんて甘えたがりになってしまったんだ。ユリウスなら怒らないと思っているのか。もう起きて自分で歩かなきゃいけないのに。でもなんだか本当に身体中がだるくて痛い。
もういやだ。早く帰りたい。眠りたい。
ユリウスはヴェローニカを抱き抱えたまま馬車から降りて、立派な邸宅を進んで行く。
もう日は落ちて、夜空には月が浮かんでいた。
上弦の月。相変わらず異世界でも月は綺麗だ。でもなんだか今日は夜空でひとり、心細そうに見える。
レーニか……生まれ変わってもまたつらい目にあうなんて。ソランに見初められたばかりに。ソランを愛したばかりに。
神様に嫌われちゃったら、もうどこにも逃げ場なんてない。
それでもあなたは、ソランが好きなの…?
それが本当の愛なのか。すごいな。
「ユリウス…」
「ん?起きたか?姫」
「重くはないですか?」
「ふっ。全然軽い。心配するな。…疲れたのか?先ほどから、おまえの魔素が弱々しい」
「はい。…疲れました」
「では今からでも帰ればいい」
「…………」
すると前を歩いていた人が振り返ったのが視界の端に見えた。どうやら前を行くのはクヌートのようだ。
ユリウスの発言はいつも私の中にはない選択肢を教えてくれるから新鮮だ。凝り固まった生真面目な“私”を壊して、意気地のない私に勇気をくれる。きっとユリウスなら私を否定しないのだと心の底からわかってきた。
こんな私を肯定してくれる、認めてくれる、受け容れてくれる貴重な人。
…だとしてもそのまま実行することはできないけれど。
私は胸の上の猫が落ちないようにして、ユリウスの首元に抱きついた。すると何かユリウスの身体が強張ったのがわかった。
嫌だったかな。調子に乗っちゃったかな。
そう思ってすぐにユリウスを放した。
「…どうした?…何故、離した」
「いえ…。…エーリヒ様のお兄様にはきちんとご挨拶いたしますから」
「あ、はい」
クヌートの方を見て言うと、少しほっとしたようなクヌートの声が聞こえた。
「気を遣いすぎだ。おまえがここにいるのはエーリヒの頼みなのだから、世話になっているとはいえ、やつらに気を遣う必要など本当はないのだぞ。文句があるなら王都を出ればいい。ここを出ても私がおまえを守るから、心配はいらない。王都を出れば白夜も気づいて合流してくるだろうしな」
私が心身ともに疲れているのがユリウスにはわかるのかもしれない。もう何もかも投げ出したくなるくらいに。
そうか。白夜も来てくれるのかな。
「ふふっ。…そうですね。それもいいかもしれません。……そうしましょうか」
「「ヴェローニカ様…!」」
ヘリガとリオニーとウルリカの狼狽えたような声が聞こえた。
「気にしないでください。私がいなくなっても、皆はこれからエーリヒ様のお連れになる女性に仕えるようになるのですから」
「え……エーリヒ様のお連れになる女性……ですか?」
「エーリヒ様もいずれはご結婚されるでしょう?ディーターの話からすると、今はまだお若いので選びあぐねているだけなのではないのですか?心配はいりませんよ。今は決めかねていても、エーリヒ様が最終的に選ぶ方なら、きっと素敵な方がいらっしゃいますから」
ヘリガは狼狽えながら、後ろをついてきていたディーターを睨んだようだ。ディーターが気まずい表情を見せる。
「ディーターは悪くありませんよ、ヘリガ。むしろ隠される方が私は嫌です。…そう言えば、プロイセに滞在した夜も、領主のお嬢様から迫られたとエーリヒ様からは伺いました。エーリヒ様はおモテになるのですね。あれだけ多才で見目も麗しいのですから、当然のことです」
私はヘリガを見て微笑んだ。
「え、エーリヒ様が……そのようなことを…?」
「そもそもあなた方は貴族なのです。私のような孤児に仕えること自体が間違っているのですよ。あなた方はエーリヒ様の愛する女性にお仕えすることが、本来のお仕事ですよね」
何か周りが狼狽えている気配を感じる。先ほどまであんなに侮っていたクヌートまでもが。
「エーリヒ様は婚約者はいないとおっしゃってはいましたが、恋人の存在は否定してはいませんでしたから、あなた方が知らないだけなのですよ、きっと。だから心配することはありません」
「…ヴェローニカ…」
ユリウスまで動揺しているようだ。
「…?どうしましたか?ユリウス?王都を出るのに、嬉しくはないのですか?…ユリウスは喜んでくれると思ったのですが」
「…………」
そのうちどこかの部屋の両開きの大扉の前に着いて、そこで皆が立ち止まった。
◆◆◆◆◆◆
《ユリウス・レーニシュ=プロイセ》
「ユリウス、ありがとう。下ろしてください」
「大丈夫か…?」
「はい。大丈夫ですよ」
ヴェローニカは微笑みを向ける。
魔素に動揺はない。先ほどからの彼女の言動に嘘偽りなどないことを示している。
本当に疲れているのか、彼女自身の魔素はいつもより少し弱まっているようではあるが、その代わりその周囲には、彼女を心配するように虹色の魔素が集まっている。
ユリウスにはどうにも解せなかった。
先ほどの発言。ついにエーリヒを見限ったのか。
最近ヴェローニカは自分からエーリヒの話をしなくなり、さらにはエーリヒの話題が出ても心配する素振りすら見せないことに気づいて、ユリウスはそう思っていた。
だが……これは、何かおかしい。不自然すぎる。いくらなんでもエーリヒに対して何の感情もないはずがない。必死に隠しているのだとしても、動揺がまるで魔素に表れないなんてことが、あるのか。
あの騒動があった翌朝も、そうは感じたのだが。
あの夜、ヴェローニカは平気なふりをしていた。誰かが見たら、本当に気にしていないように見えただろう。だが、ユリウスには、ヴェローニカを包む魔素が視える。ヴェローニカの気持ちの乱れは、明らかに彼女を包む魔素に表れていた。
それがどうだ。翌朝になったら、本当に、綺麗さっぱり、エーリヒのことなど忘れてしまったかのように、昨夜まであったヴェローニカを包む魔素の乱れは一切消え、落ち着きを取り戻していた。
それからはずっと見守っているが、全く異常は見られない。それは、喜ばしいことでは、あるのだが……
それはユリウスに対してもそうだった。初めの頃は不意に触れると恥じらい、緊張していたようなのに、今では何の揺らぎもない。ただ穏やかに、受け入れている。先ほど急に首元に抱きつかれた時のように、こちらの方が緊張してしまうことすらある。
信頼されているからだと感じてはいるが、まるで男と意識されてはいないとも感じる。
ユリウスは少し複雑だった。
使用人が扉を開け放ち、中に入ると、大きなテーブルに食事と酒、各席にカトラリーが並べられていた。ところどころに生花や雰囲気のある魔導灯の装飾が飾られている。給仕達がテーブルのセッティングをして動き回っている。どうやら侍女や従者達の席もあるようだ。
席に案内されるヴェローニカについていき、抱き上げて座らせた。ずっと黒猫を抱いているので、黒猫はそのまま膝の上で丸くなっている。
ユリウスはいつものようにヴェローニカの後ろに控える。
ユリウスも席を勧められたが、どうせ固形物はまだ食べられない。ならばヴェローニカの側にいたい。
魔剣も預かると言われたが、それも断った。別に無くてもいざとなれば支障はないのではあるが。これは体裁のために持っているだけだ。人間の護衛として。
上座にはまだここの主人は来ていない。
他の侍女達やディーターは勧められるまま席についた。やつらは皆、貴族だから問題はないだろう。
奥の扉が開いて、金髪碧眼の長身の男が入ってきた。高級感のある白と紺の衣装に身を包み、美しい容貌をし、優雅にマントを翻して歩くその男は、見た目は高位貴族そのものだ。翻る衣装の裏地は濃紺の生地に大振りの優雅な花柄が刺繍してある。男性としては奇抜なデザインだが、この男の美貌には嫌味なく似合う。
(これがエーリヒの兄か。まあ確かに面影はあるか。揃って美形なところが。)