132.晩餐への誘い(1)
《クヌート》
「はじめまして。ヴェローニカお嬢様。私はグリーベル商会王都本部長のクヌートと申します」
クヌートは丁寧に目の前の小さな子供に貴族風の作法で挨拶をした。
この忙しい中、グリューネヴァルト侯爵家の末子の執事に呼ばれて、庶民区画の商店街のとある調味料などを取り扱う店の奥の部屋に行くと、ソファーには黒っぽい髪の少女が座っていた。
(これが噂の…)
それはまだ幼い十歳未満の女の子だったが、見たこともないほどの美貌を持ち合わせていた。これがついこないだまで奴隷落ちしていた平民孤児だとはとても思えない。
だがこれだけの容貌を持つのだとしても、ただの平民孤児がこのように丁重に扱われているとは。
(いいご身分だ。)
ここまで案内してくれた侍女達は皆、紺色の髪をしているがそれぞれの瞳は見慣れた平民のものとは違い、色鮮やかだった。
瞳の色は魔法の適性を表す。クヌートはこれが貴族の偽装の魔術具によるものだということを知っている。つまりこの少女が伴っている全ての従者が貴族なのだ。
しかも通された部屋内にも、紺色の髪の男性従者が二人もいる。少女の隣にいるのは紫の瞳の、これまた美しい男だった。紫眼とはとても希少な才能を持つと聞いたことがある。
そして隣のソファーにも、夕日に照らされた赤みの強いオレンジの瞳を持つ若い男。
二人とも腰には立派な魔剣を帯剣している。このような幼い平民の子供に、これだけの人数の貴族の従者をつけるとは。
(弟君はよほどこの少女を気に入っているようだ。)
「よろしくお願いします、クヌート。…トーマスとアルノーは私をニカと認識していますので、クヌートもここではそのように呼んでいただけますか」
口調がとても丁寧だった。まるで平民とは思えない話し方だが、王都に来てから貴族マナーを学んでいるのだろう。それでも貴族は平民に対し、敬語などは使わないものだ。
だとしても……話し方にたどたどしさなどは感じられない。
クヌートは少し不思議に思った。
「はい。ニカお嬢様。バルツァー商会の方はすでに私どものほうで収めておきましたので、ご安心ください」
「そうですか。手間をかけましたね。ありがとうございます」
「いえ。とんでもございません。こちらもニカお嬢様が庶民街までお越しになることを存じ上げませんでしたので。…事前に教えていただいておりましたら、バルツァー商会のことも対処しておきましたのに…」
そう言ってクヌートは、いつもの営業スマイルをしてみせた。
シュタールの事件のお陰で、あのアードラー商会が今や虫の息だ。
あそこは高位貴族の後ろ盾があるため、どんなに汚くあこぎな商売をしていても、揺らぐことはないと思われていた。あまりの横暴ぶりに、その裏にはさらに王太子の庇護もあると噂されていた。
だがそんな大商会が今やその腸を食い破られ、他の中規模の商会、商団が一斉にその市場を荒らし始め、今や販路を巡っての勢力争いに発展した。そんな中、グリーベル商会も気を抜くことはできない。
(こんな忙しい時期に子守とは……面倒な。)
事前に商店街に来ることを教えておいてくれればいいものを…と思いながら、クヌートは暗い錆色の瞳を少女に向ける。
「グリーベル商会はそのような調停もするのですか?」
(調停。子供の割に難しい言葉を知っている。)
「いえ普段からは。…お嬢様はグリューネヴァルト侯爵家の、…大事なお方と聞き及んでおりますので」
クヌートは笑みを浮かべつつも、少女の値踏みを続ける。
「そうですか。…あの者達はいつもこの商店街であのような行為に及んでいるようなのですが。今日は侯爵家からの要請があったため、あなた方が特別に介入してくれたということですね」
「…そうですね」
「本来であれば役所がその取締りを行うべきだと思うのですが、その辺りはどのようになっているのでしょうか?今日も役人が来ていたのでしょう?」
「…お嬢様。そういった部署は全て、どこかの息がかかっているものですよ」
クヌートは首を振った。
(やれやれ。侯爵家である程度礼儀作法を学んだようだが、やはり世間知らずな子供だな。無理もないか。出身は辺境の小さな山村だと言うしな。だが……やけに落ち着いているな。言葉づかいも貴族令嬢と言われても申し分ない。それどころか子供らしくないくらいだ。瞳は……何色なんだ?部屋が薄暗くてよくわからないな。)
ちょうど少女の隣に座る従者に夕日を遮られて、少女はその影にすっぽりと隠れていた。それ故に判断を誤った。少女のその髪も瞳も暗く見えて、はっきりとした色合いがクヌートには判別がつかなかったのだ。
◆◆◆◆◆◆
騒ぎが収まったと侍女達から報告を受け、一緒に訪れたクヌートと名乗る中年男性が貴族風の挨拶をした。
髪と瞳は茶色なので、彼は平民なのだろう。それがこのように身なりもよく、貴族の礼儀作法や言葉遣いをマスターしているのなら、それだけグリーベル商会とは貴族とのつきあいが深いのだとわかる。
だが錆色の瞳が笑っていない。「面倒を起こしやがって」と言っているようだ。
私のせいで呼び出されたのだから、仕方ないけれど。
ヴェローニカは先ほどから、少し気分が落ち込んでいた。そして怒りに意識を奪われそうになったからなのか、身体中がだるく感じる。不躾な視線も見ないふりをしたくなるほど。いや、見たくないほどに。
できれば今は何も考えたくはないのだが、ぼうっとしているとまた先刻のような状態になりそうで、理性を保とうと意識を向けていた。例えるならば必死に眠気を堪えるような、本当ならそのまま意識を手放してしまいたいような、そんな感覚だった。
霞む意識を正面の男に向けると、クヌートは笑みを浮かべつつも、終始品定めをするような目つきをしているように感じられた。
商人とはたくましいものだな。
「本来であれば役所がその取締りを行うべきだと思うのですが、その辺りはどのようになっているのでしょうか?今日も役人が来ていたのでしょう?」
「…お嬢様。そういった部署は全て、どこかの息がかかっているものですよ」
クヌートは首を振った。やれやれと。
そうか。ここはことごとく腐っているのね。もうどこから取り除いたらいいのかわからないわ。一匹見つけたら……というやつだな。
ヴェローニカは目の前の笑顔の、笑顔風のクヌートを眺めた。
子供だと思って気づかないと思っているのか。
子供だって悪意には敏感だ。意外に大人達の話を聞いているし、顔色を窺っているものだ。ましてや私は子供ではない。
要するに、「あなたが来るのを知ってたら、こんなことは起きなかったんだ。先に教えといてよ」と彼は言っている。そして私が来なかったら、この騒動には彼らは関与していないと。
そういう商売人的な利益重視の考え方もわかるけれど。
私が来なかったら、今日のようにバルツァー商会のような狼藉者がこの商店街を荒らしても、見て見ぬふりだったってことでしょ?それを治めることができる立場にいるのに。
でも確かに彼らは、商人であって役人ではない。でも役人は役人のくせに役には立たない。
じゃあ、理不尽は誰に訴えればいいの?弱者は誰に助けを求めればいいの?弱いのが悪いのだから、それに甘んじて生きろとでも?強い者が横暴を働くのは許容するの?
ああ……腹が立つ…
全部ぶち壊してやりたい。
世界の美しさや優しさよりも、人間の愚かさや醜さに、より感化され始めたヴェローニカの中で、まだ辛うじてあった世界への愛しさを切り離したあのときから、自我が乖離し始め、旧き時代よりいた奥に潜むものに呑まれそうになっていることに、本人はまだ気づいてはいない。