130.店頭販売始め〼(4)
《ディーター・ロンメル》
ヴェローニカが魔力を暴走させている。
ディーターは目の前で起きている状況を、初めは呑み込めなかった。
彼女が何か聞き取れない言葉を口にした途端、まるで金縛りにでもあったかのように、ディーターは身動きがとれなくなった。
意味がわからない言葉だった。にも関わらず、何か得体の知れない、絶対的な意志に逆らえないのだ。身体が全く言うことをきかない。
これは少し前に体験した雷魔法の一撃のように、全身の筋肉が緊張し、硬直して、一切動けない。とディーターは感じた。
『《お前ら……そこにひれ伏せ》』
またヴェローニカが怒りに満ちた低い声で何かを言った。いつもは温かな彼女の青銀の瞳が、今は怒りを宿して見開かれ、その口調のように冷ややかに魔力を帯びて輝いている。
すると突然、バルツァー商会の荒くれ者達が、一斉に自ら地面に倒れ、突っ伏して、呻き出した。
(なんだ?何が起きてる?今のは呪文か何かか?強力な上位魔法には、威力や効果を増すための呪文のようなものがあるって聞いたことはあるけど。…まさかこれがエーリヒ様が言っていた、大魔術の発動時にヴェローニカ様が言ったっていう、神の世界の言葉か?古代魔法かもしれないって。…つまりこれは、古代魔術語?)
だがどうやら怒りの対象は、地面に倒れ伏している者達に限定されたようで、ディーターの金縛りはすぐに解けた。周りを見ると、他の者達も自由を取り戻したようだ。皆一様に怯えつつも、不可解な顔をしている。
身体の硬直がとれたディーターは、ともかく空を見上げた。この王都に雷雲などやってきたら、騒ぎどころの話じゃない。
『《…頭が高い…》』
ヴェローニカは右手を前に掲げて、ゆっくりと手のひらを下に傾けた。手首を曲げて手招きするような仕草だ。中指の指輪の石が虹色に光り輝いて見える。
するとそれまで口々に悲鳴や悪態をついていた、地べたに這いつくばる男達は皆、彼女の手に無理矢理押さえつけられるように、必死に抗っていた頭を下げていく。しまいには額や頬を地面にぴたりとくっつけて、そこを舐めるほどの勢いだ。
誰もが理解できない事態だ。男達の恐怖のこもったうめき声や悲鳴が聞こえてくる。
「うああ!どうなってんだよ、これ!…苦し…重い…潰れ…る…」
「何なんだよ、これはぁ!…っ…この、化け物どもがぁ!」
『《まだ言うか……誰がバケモノだ……誰が!!》』
「ヴェ……どうしたんだ、落ち着け。言葉が……言葉が、違うだろ?ヴェローニカ。…知られたくないのだろ?」
さすがのユリウスも狼狽えている。小さな声で彼女をなんとか宥めようとしているようだ。
自分まで前に出るのは過剰戦力かと思っていたディーターは、馬車で宣言した通り、後ろで大人しく、事の成り行きを見守っていたところだったのだが。まさかこんなことになるとは。
空を見回しても、どうやら雷雲が来るような気配はない。それでも。
「おいおい…」
ヴェローニカの言っている言葉はわからないが、こうなる直前、彼女が言っていたのは、確か。
――私のユリウスを…バケモノだなんて…
怒りに滲んだ魔力混じりの言葉だった。ヴェローニカはユリウスを“バケモノ”呼ばわりされたことでここまで怒っているのだ。
「いや、でも……」
ユリウスはゴーストでマリオネットなのだから、バケモノで間違いはないでしょ、とディーターは心の中で呟いた。
だが決してそれを口にはしない。今口にすれば、我を失った怒れる彼女に、自分もあの地べたを這い回る対象にされるかもしれない。
『お前ら全員、ユリウスに詫びろ』
今の言葉はわかった。少しは冷静さを取り戻したのか。
だがヴェローニカのいつもの丁重さも折り目正しさもそこにはなく、ただ抑揚なく静かに、冷淡に言い放つ。そして変わらず魔力が乗った声も、その話し方も、普段の彼女からは想像もできないほど豹変していた。
先ほどまでは怒りで見開かれていた青銀の瞳が、まるで無価値なものでも見るような、その声と同じく氷のように温度の感じられない眼差しになっていた。
子供のする眼ではない。無意識にディーターは怖気が走る。
「ひぃー!わ、悪かった」
「重い!くそっ、潰れるだろ!頼む、助けてくれー!」
「もうここからは手を引く!だから、もう許してくれっ!」
荒くれどもは這いつくばりながら、それぞれに悲鳴や詫びを言い始める。
「姫、私なら大丈夫だ。だから落ち着け…」
ユリウスがヴェローニカを心配し、すぐ傍に跪いて、その小さな背中をさする。
『…だめだ。こういう奴らを簡単に許してはいけない。私はそれを学んでいる。慈悲は受け取る心構えなどない者に与えても意味はないんだ。それは奴らをつけあがらせ、増長させるばかりで、誰のためにもならない。…優しい者ばかりが我慢を強いられるなんて、間違っている。そうは思わないか?ユリウス。私はそんな世の中は認めない。誰が許そうとも私は許さない』
「だが…それでは、姫が……これでは騒ぎが大きくなるぞ」
『知らしめる必要があるんだ。こいつらは自分を強者だと勘違いしている。弱者は虐げていいと勘違いしている。であればこいつらの道理で、力で捻じ伏せてやれば納得するんだ。合わせてやろうじゃないか、ユリウス』
「しかし…」
『秩序を保つために、私はこの力を行使する。そして力を示す時には、徹底的にやるべきだ。話し合いなど、無意味。現に先ほど拒否されただろう?』
「…………」
『お前達は、強者の言うことならば、聞くんだろう?…なぁ?…どうなんだ』
ヴェローニカの言に黙ったユリウスから、再び男達に視線を戻した彼女は、さらに手のひらを下に押し付けるようにした。彼らは一層、地面に押し潰されていく。
「ギャア!痛い!苦しい!わかったから、もう止めてくれっ!!」
『止めろとはどういうことだ?これはお前達が望んだ結果だ。お前達の好きな、弱肉強食の世界だぞ。…強い者が!弱い者を!食い散らかす!…そんな世界を、そんな秩序を、お前らは望んでいるんだろう?だったらお前らは今、私の前では等しく弱者だ。…お前らは強者として、今までどうしてきたんだ?教えてくれないか。平和に暮らしている者達に恫喝し、人を傷つけ、物を壊して…それから?…さぁ、私にどうして欲しい?…言ってみろ』
ヴェローニカはそこで初めて微笑った。周りの者達に見せつけるように。いや、ヴェローニカの言う、“弱肉強食の世界”を彼らに見せつけようとしたのかもしれない。
大の男達が地面に這いつくばって泣き喚くのを、通りの者達は唖然とした顔で見ていた。もう金縛りからは解放されていたが、誰もそこからは一歩も動けず、言葉も発せなかった。
これを行っているのが、まさかあそこに立っている小さな女の子だとは、とても信じられなかった。だが少女の言葉が、それを真実だと物語っていた。
『何を嘆くことがある?…私は初めに言ったはずだ。話し合おうと。それを拒否したのはお前達だ…違うのか?』
あまりにも彼らの悲鳴がうるさかったからか、ヴェローニカは一旦腕を下ろして男達に尋ねた。顎に指を添え、その肘を支えて、不思議そうに首を傾げる。
穏やかなその声には、今だに魔力が乗っている。そして彼らは、まだ地べたからは這い上がれない。
その振る舞いはまさしく、弱者を支配し、統べる強者の余裕だ。
「お、俺達が悪かった!頼むから、もう止めてくれ!」
「謝るから、見逃してくれっ!」
『そうか』
「あ、ああ。…悪かったよ」
「すまねぇ。もう許してくれ」
「もう、いいだろ。謝ったじゃねぇか!」
今だ這いつくばったままで、男達はヴェローニカに愛想笑いを向ける。
時折聞こえる小さな舌打ちや、聞き取れないほどの罵倒が、所詮、子供だと腹の底では思っていることを窺わせる。
ヴェローニカは冷たい瞳で男達を見下ろしていたが、薄紅色の愛らしい唇に、再び弧を浮かべた。