117.湖畔の廃教会(6)
《ディーター・ロンメル》
「バカにバカって言って、何が悪いんだよ……本当の天才ってのは、ちゃんと他にいるわけ」
ディーターは情けなく震える自らの手のひらを見下ろす。
(ああ、いってぇ。くそ。力、入んねーし。…この氷、邪魔だな。)
痛みを堪えて手を握り、握力を確かめると、双剣の柄に手をかけてそれを抜き取った。
(神聖魔法に雷魔法に氷魔法?マジでふざけたスペックだな。ぶっ壊れてんだろ、そんなの……ったく。羨ましいったらないわぁ…)
はぁ、はぁと息を切らしながら双剣に魔力を流すと、魔剣は炎の魔力を帯びて赤熱した。腹に刺さった氷に慎重に魔剣を当てて、邪魔な部分を斬り落とす。
「…ぐっ」
氷が腹を抉る激痛が走る。意識を持っていかれそうだ。だがこのままじゃ動けもしないし、これを抜いたら血が吹き出る。失血死までのカウントダウンだ。
まだ貫通していなくて良かったと思うべきか。鍛えた腹筋のお陰で、最悪の事態は免れたようだ。
「くそ!しぶとい奴だ!だがこいつの魔石はお前が戻るまでに満タンにしておいたから、いくらでも上位魔法を撃てるんだぞ。残念だったな。…おい、早くやれ!あいつを殺せ!」
子供は虚ろな瞳で、両手にまた魔力を練り始める。
前方にかざした手のひらには、魔術刻印がはっきりと刻まれているのが見えた。その突き出した両腕にも、たくさんの魔術刻印が刻まれている。
(あいつの命令を聞くのか?あの子も隷属されてんのか。目がいっちゃってんもんな。…可哀想に…)
埋められていた子供の遺体の舌に、隷属刻印が刻まれていたのをディーターは思い出した。
腹の底で燻る怒りを感じながら、脚に身体強化をかけてゆらりと立ち上がると、すぐ横の扉を蹴り破った。蹴られた扉は蝶番がひしゃげて外れ、廊下の向こうの壁まで吹き飛んでいった。
これだけの騒ぎでも誰も来ないってことは、さっき潜入時に仕掛けておいた遮音の魔導具が、やはりまだこの部屋で作動しているということだ。廊下を警戒していたエリアスも、奥の部屋に行っているはず。だが今、この部屋の扉が廊下まで吹き飛んだ。それで異変に気づいてくれるはず。それまでもたせればいいだけだ。
無茶をするにも、任務を成功させてこそ。
(このまま這いずって逃げたっていい。けど……そんなの、カッコ悪いだろ。)
「な?逃げる気か?おい!早く殺せ!」
子供の両腕が光る。次の魔法を繰り出してくる。
腹に一撃を食らっていなかったら、今の間に接近すれば制圧できるだろう。たがこの広い部屋の奥にいる奴らの所まで、たどり着ける自信がない。本当は、立ち上がって双剣を構えるのでさえ、やっとなのだ。
そして次の攻撃がもし雷なら、硬直して終わり。
ディーターは呼吸を整えながら、なんとか痛みを意識から散らし、両手にある炎の双剣に魔力を通して構えをとる。魔剣の刃が赤々と熱を帯びた。
震える腕でやっと構えたと同時に飛んできたのは、氷。この腹に風穴を開けたアイススピアだ。
奴の命令が、「殺せ」だったからかもしれない。
「…っしゃあ!」
ディーターは痛みで震える身体に強化をかけてその場に踏ん張り、飛んできた複数のアイススピアを炎の双剣で素早く斬り払う。
氷と炎がぶつかり合い、弾けて、その衝撃音とともに氷片が飛散し、ジュッ、ジュッと熱気で水蒸気が上がる。
合間に魔剣から小炎弾を飛ばして、子供の後ろに隠れている貴族を攻撃してやろうと試みるが、向こうは上位魔法持ち。障壁魔法を展開されて、魔力の低い炎弾は容易に防がれてしまった。
どうやら後ろの貴族が子供に命令をし、魔法を操っているようだ。
あれじゃ本当にただの魔導具だ。虚ろな瞳に自分の意志なんてない。
剣を振り抜く度に、痛みは確実に全身に走り、攻撃を防ぐのでやっとのディーターの腹部からは、動く度にダラダラと血が失われていく。
まさか痛みがこんなに厄介だなんて、想定外だ。
(くそ!痛覚遮断したい!こんなに動けないのかよぉ…)
血液とは魔術師にとって、“魔力結晶”。濃縮した魔力だ。血液は酸素と栄養を全身に運び、魔力を運ぶ。それが刻一刻と失われていく。
思ったよりも身体が動いてくれない。このままでは非常にまずい。ジリ貧だ。
ディーターは歯を食いしばって魔力を練り上げ、魔剣の出力を上げる。隙を見て、振り抜きざまに隠れている貴族に向けて炎弾を飛ばすが、アイススピアで相殺された。
騒動に気づいたリーンハルトが駆けつけて、ようやく部屋の入口に現れた。
恐らく扉を蹴り破ってから然程も経っていないはずなのだが、ディーターにはもどかしいほどにとても長く感じられた。
「ディーター!」
(リーン、だめでしょ。作戦中に名前呼んじゃ…)
部屋内の状況をひと目見たリーンハルトは、腰のロングソードを抜いてディーターの前に立ちはだかった。すかさず魔力を溜めた魔剣を一閃すると、飛んできた複数のアイススピアが放たれた大きな水刃で砕け、床にバラバラと散らばった。
容易に迎撃したように見えるが、これは魔力を溜めての大振りの一撃だ。相手よりも魔力で劣り、ディーターよりも手数もないリーンハルトには全ては防げない。それが上位属性魔術師との明確な魔力差だった。
リーンハルトは深手を負っているディーターを庇うようにして立ち塞がり、次弾に備えて魔剣のグリップを握りしめる。そして左手を手前に掲げた。
一方ディーターは、もう立っているだけで限界だった。はぁ、はぁと息を切らせて、リーンハルトの背中を霞む意識の中で見つめる。
(やばい、このままじゃ、…リーンがやられる…)
ディーターはリーンハルトの背中に震える手を伸ばす。リーンハルトをどかせればいいと。
「…どいて…」
剣を持ったままのディーターの手が、やっとリーンハルトの腕に届いたが、力は入らず、少し身体を横にずらしただけになった。
(ああ、くそ…なんだよもう…)
「…俺は、庇わなくて…いいから…」
エーリヒはまだか。リーンハルトが一人でここに来たということは、今は一番奥の部屋で生き残った平民を回復させているのか?
(俺がやりすぎたからか。なんだよ、自分のせいじゃん。…なおさらリーンを巻き込めないだろが。)
もうだめだと思ったが、何故か次弾のアイススピアはなかなかこない。
そう言えばさっきから、「おい!何をしている!早く次を撃て!」だのと、男の怒鳴り声が聞こえる。キーンという耳鳴りと自分の荒い呼吸音で、あまりよく聞きとれないのだが。
やっとの思いでリーンハルトの肩を掴んで、ほんの少し押し退けたことで前方が見えた。ディーターの霞む視界には、さらに濃い霧が映っていた。しかしこれは自分の体調によるものではない。
よく見ると前方も薄く霞んではいるが、子供の顔周りが特に濃い霧に包まれていて、それを振り払おうと混乱気味に両手をバタつかせている。
戦闘経験の少なさから、自分の身に何が起きているのかわかっていないのだろう。視界を確保しようと抗っているようだ。
そして貴族はその後ろに立ち、盾にしているため、子供が霧に包まれて視界を奪われたことに気づいていない。
ディーターの炎の魔剣とアイススピアの打ち合いで、この部屋は水蒸気が濃くなっていた。ほんの僅かな魔力でも、リーンハルトの水霧がかけやすい状態だったのだ。
(そうか、リーンが。…そりゃそうだ。相手はただの平民の子供だった。)
――魔法は威力が高ければいいということではない。要は出力は小さくても有効打であれば良いのだ。何も一撃必殺にこだわらずとも、敵の動きを妨害して他の者をアシストすれば良い。自分がやられたら嫌だと思う所を狙ってやってやれ。リーンハルトは器用だからできるはずだ。
エーリヒがリーンハルトに言っていた言葉をディーターは思い出した。
次にディーターの視界に入ったのは、一筋の眩しい光線。視界の脇から、音もなく光が飛んでいく。
その光は細く、鋭く、放たれたと同時に子供の太ももをすでに貫いていた。それは瞬く間の、ほんの一瞬のこと。光線が消えて寸刻後、「ゔあぁ!」と突然叫んだ子供の身体がグラリと揺らいで、その場に倒れ込んだ。
「良くやった」
エーリヒの声が聞こえた。
あの程度の水霧では、冷静になればすぐにまた攻撃してこられるはずの、ほんの少しの嫌がらせ程度の妨害だった。でもリーンハルトにはそれで十分だったのだ。何故ならここには、エーリヒがいるのだから。
(なんだかんだ落ち込んでた割に、言われてすぐに実行できるところがリーンだよね。エーリヒ様が器用だと言うはずだ。)
「な、なんだ今のは…?」
倒れた子供を見下ろして、貴族が狼狽えている。
「お前も味わってみるか?」
エーリヒに魔剣の先端を向けられて、貴族は先ほど腕を斬り落とされた恐怖まで思い出したのか。「ひいぃっ!」と引きつった顔で、腰を抜かしたようにドンと尻もちをついた。
エーリヒの光の攻撃は、その男も見たことがないものだったらしい。かく言うディーターやリーンハルトも、光の魔剣にこのような使い方があるなんて知らなかったが。
(すげーな、エーリヒ様。あの威力で遠距離攻撃もできるなんて、何でもありじゃん…)
「枷をかけろ。寝ている子供も全てだ」
「は」
魔剣の切っ先を向けていたエーリヒは、その照準を保ったままリーンハルトに命じた。
リーンハルトは倒れた子供と腰を抜かした貴族のもとに駆け寄って、手枷をはめる。その後はエーリヒに命じられたように、ベッドで寝ている子供達にも。
それを見たディーターは安堵し、その場に崩れるように座り込む。荒い息をついていると、エーリヒが魔剣を納めて歩み寄ってきた。
「馬鹿め」
「ひ、ひど…」
無情なその一言に、苦しいはずなのに思わず笑いが漏れてしまう。
吐いた血が、笑ったディーターの口の周りを真っ赤に染めていた。
顔色の悪いディーターのぎこちない笑顔に、わずかに眉をひそめたエーリヒは、無言でディーターの腹に手をかざす。それを見守っていると、温かい光が放たれて、氷が溶け、血が止まり、痛みが薄れていくのがわかった。
「はぁ…めちゃくちゃ…はぁ…痛かったのに…」
「当然だ。内臓までいっているぞ。動きすぎだ、馬鹿者」
しれっとした声だ。死ぬかと思うようなこれほどの重傷を、「何ということはない。大したことではない」そう言っているようだ。
(ああ、あったか……なにこのすげー安心感。)
エーリヒの手元をぼんやりと見ていると、もう氷は溶けて無くなり、抉れた肉や損傷した内臓が盛り上がってくるのがよく見えた。
「うぇ…」
傷を塞ぐどころではない。これはもう、欠損を補っている。
ここまでの治癒が可能なのを見ると、明らかに水魔法の派生である水癒などではない。神聖魔法でも上位のはずだ。
(まじで属性めちゃくちゃじゃん……どんだけなの、エーリヒ様…)
「大丈夫か?ディーター」
枷をかけ終えて駆け寄ってきたリーンハルトは、エーリヒとは違い、心配げに優しい声をかけてくれる。
もしもエーリヒがリーンハルトのように狼狽えながら駆け寄ってきて、優しく接してくれていたら、「ああ、俺はもうおしまいだ、死ぬ…」と思っていたことだろう。
それを考えると、あまりに普段通りすぎるエーリヒの様子が頼もしすぎて、なんだかディーターは重傷のはずなのに、やはり笑いが漏れてしまう。
「ははっ…」
「どうした?大丈夫か?」
エリアスも廊下からやってきた。一番奥の部屋で檻の中の子供達の様子を確認していたのだろう。
部屋の奥を見ると、子供はすでに手枷を着けられていて、もう魔法が使えないようだ。
あれだけ魔術刻印を身体中に刻まれているのであれば、それを抑制できる手枷をはめられた今は、もう何もできない。しかもリーンハルトは、足にまで枷をはめたようだ。
貴族は貴族で顔面蒼白で床に蹲り、もう動く気力もなさそうだった。
(はあ……助かった…)
そう思った瞬間、身体中の力が抜けてくる。
(うぅ。急に、ものすごく、眠い……仮眠、ちゃんと取れば良かった…)
ディーターは暖かい治癒の光を浴びながら、そのまま眠るように気を失った。