106.孤児院訪問(3)
「ニカか…?」
聞き覚えのある声がした。
「案内ありがとうございました。もうお仕事にお戻りください。お忙しいでしょうから。これ以上煩わせるのは、私も心苦しいのです。しばらくしたら、そちらへ向かいますから」
私は振り返って案内人に微笑んだ。有無を言わせぬような思いを込めてみた。お手本はエーリヒだ。
「そ、そうですか。わかりました。では、エマ先生、大事なお客様なので、よろしくお願いしますね」
「はい。わかりました。お任せください」
案内人が部屋を出ていくのを見届けてから、部屋の中を振り返った。
「久しぶり、ヴィム。元気だった?」
「や、やっぱりニカなのか?な、なんだよ、その髪、お前なんでそんな髪なんだ?それに、その格好…」
「ヴィム?」
「ん?なんだ?」
「空気はね、吸うだけじゃ大人にはなれないの」
「な、なんだ?それ」
ヴィムは意味がわからないというふうにきょとんとした目をしている。
「ふふっ。ロッテちゃんは?」
「ん?ああ、いるぞ」
「ニカお姉ちゃん?」
わぁ。やっぱり可愛いロッテちゃん。テオと一緒に私の服を掴んでいる。
その指先には赤みがある。あかぎれだろうか。
「あら、お知り合いなの?」
「うん。ニカお姉ちゃんはね、すごいの」
「まあ、そうなのね」
ヴィムとロッテの周りに見覚えのある子供達が数人いる。きっとあのときの子供達だな。
「ここの生活はどう?ヴィム」
「あ?んー…家よりはマシだ」
エマがいると話しづらいだろうか。私はエマを見る。優しそうでおしゃれな女性だ。チラリチラリとユリウスを盗み見ている。
「それよりお前、なんでここに?家に帰ったんじゃなかったのか?」
「それはちょっと色々あったんだけど、早く言うと、ヴィム達がちゃんと暮らしてるかなって様子を見に来たんだよ。いじめられてないかなって」
「いじめ?…俺がいじめられるわけ、ねぇだろ」
ちょっと恥ずかしそうにヴィムはそっぽを向いた。
「そうなの?なんでも言っていいんだよ?言いづらいなら場所を移そうか?はい、行こー」
「え?おい、ちょっ」
私はヴィムをどんどん奥に押し出した。そのまま階段を上ろうとすると、気を取られていたエマが慌てる。
「え?ちょっと、そこは…」
「ちょっと話をするだけです。久しぶりに会ったので。いいですよね?エマ先生」
私は振り返ってエマに笑顔で押し通した。
「え?でも…だったらここでも大丈夫で――」
「ユリウス、私が戻るまでエマ先生のお相手をお願いね」
「ん?…エマ?」
「え……?」
不思議そうにしたユリウスとは対照的に、エマはユリウスを見てぽうっとし、頬を赤らめている。
その隙に階段を上っていくと、子供達が眠る部屋があった。大きな部屋だが何もない。あるのは散らかった寝具。布団部屋だ。
床に敷きっぱなしか。ベッドも小上がりもない。だったら靴は階段下で脱がなきゃいけないのでは?床も汚れている。
敷きっぱなしの布団をめくると、裏には汚れと相まって真っ黒にカビが生えていた。あまり良くない環境だ。
「ヴィム、あのエマって人は信用できるの?」
「ああ…エマ先生?…ちびには優しいけど…」
「けど、何?」
「うーん。なんていうか…俺らとはあんまり話さないし…」
話さないのか。ヴィムの関心はロッテのみなのかもしれないな。やはり他の子達も連れて来るべきだったか。
ヴィムにここでの生活を聞いていると、何やら階下が騒がしい。ユリウス達も上ってこようとしているようだ。さすがに成人貴族男性をこんなところには上げられないとエマが引き留めようとしているっぽい。
というか、かなりエマはユリウスに見惚れていたようだったから、ここを見られるのが恥ずかしいのかも。
戻るまでエマをお願いねって言ったのにな。あまり女性の機嫌取りは気乗りしなかったのかも。
「あれ、ニカのなんだ?」
「ユリウスは私の大切な人だよ。ヴィムにとってのロッテちゃんみたいな」
「…そうか。…お前、貴族だったのか?あいつら、平民には見えないし」
「…私もよくはわからないんだけど、皆が平民じゃないって言うの。金髪とか銀髪とかは、なんだか魔力が高いみたい」
とりあえずよくはわからないけど、皆がそう言うし、そういうことにしておこう。
「そうか…」
「私の髪のことは内緒にしてね。珍しい髪色なんだって。見せたら危ないから、外出のときは髪色を変えるように言われてるの」
「それでそんな髪なのか」
「うん」
誰かが階段を上ってくる。現れたのはヘリガだった。そして部屋を見るなり、彼女は大いに顔をしかめた。
「これは…こんな所にお嬢様を。なんてこと…」
「ヘリガはどう思う?」
「え?」
「クライスラー卿が支援してるのに、綺麗で豪華なのは大人達の居住空間だけ。子供達の布団はカビだらけ。干しもしない。こんなんじゃ病気になるわ」
私はヘリガに向けて布団をめくって見せた。するとヘリガは「キャア!」と悲鳴を上げた。
「ヘリガ、しっ!」
まさか悲鳴を上げるとは思わなかった私は、ヘリガに向けて口元に人差し指を立てて見せると、ヘリガは慌てて自分の口を塞いだ。
「なんだ?どうした!」
ユリウスが心配して勢いよく駆け込んできた。腰の剣の柄を握って。
「これは…」
遅れてリオニーとウルリカ、そしてエマが上がってきた。布団が所狭しと乱雑に敷かれ、捲られた布団の裏の真っ黒な様を見て貴族達は絶句している。このような生活空間を見たのは初めてだったのだろう。
あ、…これ、どうしよう。
「ご、ごめんなさい、ここまで手が回らなくて。本当はお布団も綺麗に洗ったりしたいんですけど、子供達の面倒を見るので私も手一杯なんです…だから…」
最後に二階に上がってきたエマは、部屋の様子と真っ黒な布団の裏を見て顔をしかめているユリウスを見て泣き出してしまった。
「エマせんせー。泣いちゃった…うえーん…」
「…………」
ああ…。困ったな。まだ調べたいことや聞きたいことがあったのに。こんな雰囲気じゃ…
エマを慕う小さな子供達も泣き始め、そのままなんとなく階下に下りることになってしまった。
「エマせんせー…」
元の広間に戻るとテオや小さい子供達が集まって、泣いているエマを心配している。
…だが正直、この状況が私には理解できない。私が冷たいのだろうか。
エマが泣いてる姿に苛立ちすら感じながら、うんざりした気持ちで特に声もかけずに開いていたドアから外に出た。
この広間から裏庭に出られるようだ。あとからユリウス達がついてくる。
外の空気を吸って考えを改める。
ああ。この状況に苛立っている場合ではない。なんとかしなければならないのだから。
この苛立ちのもとはあれなのだ。私はさっきからあれが気になるのだ。
そうでなければいいと思いながら。
…私が悪いわ。私は主だと言われていたのに、自覚が足りなかった。立場があるなら遠慮してはいけなかった。私が彼らの主ならば、ちゃんと皆に指示をしなかった私が悪いんだわ。
私が孤児とか相手が貴族とか、もう関係ない。これは皆の安全がかかっている。だったら私はやりたいようにやるわ。
気合を入れ直そう。
「ウルリカ」
「はい」
「ここへ来る前に見た廊下の向こう側にいくつか部屋があったの、覚えてる?」
「はい」
「人目を避けて、あの部屋を見てきてくれないかしら。どんな部屋なのか。見つからないようにね」
「…はい」
ウルリカに小さな声で指示を出すと、彼女は少し疑問には思ったようだが、口にはせずに返事をしてくれた。
ウルリカはこういう性格なのね。軍人のようだわ。
「リオニーはエマにつき添っていてくれる?ウルリカの方に関心を向けさせないように」
「はい」
リオニーなら平民のエマの気持ちに合わせて寄り添うこともさほど苦ではないだろう。
指示された二人は私から離れていく。
「お嬢様、私は…」
「ヘリガは私といて」
「お嬢様……申し訳ございません」
ヘリガが狼狽えながら胸に手を当てて跪こうとする。
ヘリガにだけ指示を出さなかったことを余計に気に病んだのだろうか。これはただの適材適所だ。ヘリガはまだ先ほどのことで動揺しているようだから。
「違うわ。ごめんなさい。私が悪かったの。あなた達は貴族として育ったんだもの。あんなの、見慣れなくて当然だったわ。私が勝手に動き過ぎたの、ごめんなさい、ヘリガ」
「お嬢様…」
私は指を口元に当てながら考えをまとめる。
泣いてるエマを私が慰めたってどうにもならないし、そもそもエマに責任感が本当にあるのなら、私には泣いている意味が全くわからない。泣く暇があったら他にやることがあるはずだ。手が回らないと言うのなら、他の職員に子守でも洗濯でも掃除でも手伝ってもらえばいい。
だからこんなにも苛立つのだ。
それともエマにはそんな権限もないのか。だからどうしようもなくて泣いているのか。
さっきの案内人の態度では、彼女が蔑ろにされているようなそんな印象は受けなかった。
というより、あの態度にはエマに対する優遇と下心さえ感じた。だがそれに反して、子供達には日頃から冷たい態度を取っているのも窺えた。
であればだ。泣き縋れば飛んでくるであろう他の職員にも未だに縋らずに、ああやってあそこでひとり泣いているのは、一体誰に訴えたいのか。
他の職員を呼ばないのは、話を大きくしたくないからだと考えると納得がいく。
泣き止まないのは、可愛がっている子供達を味方につけて、私を悪者にしようとしているからだ。そして私に謝らせて、もしくは罪悪感を煽って私から許しを得ることで、事態をこのまま有耶無耶にしようとしている。
それはひとえにさっきの出来事を大事にしたくないからだ。私が出資者側の人間だと思っているから、あれを問題視されることでハインツからの出資や寄付が滞っては困ると考えている。大事にされて、支援金打ち止めなんて事態にされたくないから。
きっと彼女はちょっと泣いて、「大丈夫?ごめんなさいね」くらいで済むと思ったのだろう。それなのにいつまで経っても私が彼女に何も声をかけずにいるから、今頃泣きながらも戸惑っていることだろうな。
そんな彼女が子供達の環境を改善したいと本気で思っているとは思えない。
彼女は優しいと子供達は言うけれど……どうしても、そうとしか思えない。
はぁとヴェローニカは小さくため息をつく。
そもそもあんなに職員室や応接室を豪勢にできるくらいならば、新しい布団でも買えばいい。もうカビを生やしたくないのなら、すのこベッドでも作ればいい。
この施設は、一見綺麗に整えられている。だが裏を捲れば真っ黒だ。あの布団の裏に生えたカビのように。