104.孤児院訪問(1)
翌日、午後から外出すると言うと、ヘリガとリオニー、ウルリカもついていくという。これから向かうのは孤児院だから、危険もないだろうしユリウスだけで大丈夫だと言ったのだけれど。そして本当はユリウスと二人で行こうと思っていたのだ。
ヘリガ達三人は、私が奴隷として売られるところだったなどとは知らないだろう。だから留守番をしていて欲しかったのだ。
だが今目の前に用意されたのは、家紋はないが立派な大きめの馬車。やはり三人も行くらしい。
「…………」
「どうした?姫。何か緊張しているようだが」
馬車に乗り込む前に立ち止まっていた私に、ユリウスが声をかけた。彼を見上げると、今日は体調が良さそう。昨日は血を飲んだあとはものすごく眠そうだったけれど、今は落ち着いている。
「皆に会うのが、少し怖くて」
「ん?何故だ?」
「皆は今、孤児院にいるしかないのに、私だけこんな所でこんな格好をしているから。…きっとヴィムに詰られるわ」
そう言って笑うと、ユリウスは少し考えて、「だったら行かなくてもいいんじゃないのか?」と言った。
馬車に乗らずに話している私達を、コンラートと侍女達が見ている。侍女達は何の話をしているのだろうという表情だったが、コンラートはハインツと連絡を取ったときに事情を聞いているのかもしれない。だが彼は優秀な執事だからか、いつも動揺はあまり顔に出さない。
「きっとその方が傷つかないわ。でも、ちゃんと施設を見ておきたいの」
「孤児院を?どうしてだ?」
「しっかり運営されているところなのかどうかを知りたいの。自分の目で見て」
「ヴェローニカ様」
コンラートが後ろから話しかけてきたので振り返った。
「本日訪問予定の孤児院はクライスラー卿が支援している教会附属の孤児院と聞いております。きちんと施設内は支援金で整えられているはずですよ。ご心配には及ばないかと」
「そうなの。それならば安心ですね」
私の笑顔にコンラートも微笑んだ。
「ではヴェローニカ様、今日はこの間行けなかったドレスや宝石を見に行きませんか?」
嬉しそうにリオニーが言う。
「いいえ。孤児院に行きますよ、リオニー」
「そんな…」
期待を裏切られ、またショックを受けたようだ。
「何故ですか?ヴェローニカ様。視察などはクライスラー卿の方でもされているはずですよ。確認もせずに支援金を出すはずがありませんから」
ヘリガも疑問に思っているようだ。
「私は…、世界が優しいとは、思っていないのです」
心配させまいと笑って答えたけれど、うまく笑えなかった気がする。
「どういう、意味でしょうか…?」
「まずは馬車に乗りましょうか」
御者がずっと待っている。ユリウスを見上げると、彼の紫水晶の瞳は柔らかく微笑んで馬車にエスコートしてくれた。
掴んでくれたユリウスの手が温かくて、また彼の進化を思い出す。まるで我が子が成長したことを実感するようで嬉しくなった。
「あの、先ほどのお話なのですが…」
馬車に乗り走り出すと、早速ヘリガが向かいの席から話しかけてくる。
忘れてくれていなかったようだ。あまり私の考えを話すと、また心配させてしまいそう。
「あまり心配しないで聞いてくださいね。ただの私見ですから」
私はそう前置きしてから話しだした。
「いざとなったとき、悪人と善人はどちらが強いと思いますか?」
「それはもちろん強い方だ。悪人だろうと善人だろうと関係ない。つまり、私のような強者だな」
ユリウスはヘリガやウルリカを見た。いつもヘリガとウルリカはユリウスとの剣術、体術試合に全く勝てない。
二人はぐぬぬとでも言いそうな顔をしている。
「ふふ。ユリウスは強いですからね。でも、一般市民のお話です。皆が皆、グリューネヴァルト邸の皆さんのように鍛えているわけではありませんからね」
「では、腕っぷしの強い方だろう」
ウルリカが言う。
「ふふ。ウルリカなら勝てるでしょうけど。…私は悪人だと思っています」
「それはどうしてですか?」
ヘリガがこちらを見つめる。
「覚悟が違うからですよ」
「悪人に、覚悟など…」
ユリウスがぼやく。
「人を傷つける、人から奪う、人を殺す、そういった狂気じみた覚悟です。普通の一般市民にはそれはありません。ただ今を平穏に暮らしたいと思って生きていますから」
「なるほど。それもそうか」
ユリウスが少し不服げな表情で腕組みした。
「それと先ほどの、世界は優しくないというのは…?」
ヘリガが質問をする隣で、リオニーとウルリカはただじっと黙って話を聞いている。
「悪いことをしようとしている人には、善人のままでは勝てないと私は思うのです。悪人がどういう手段でどういう覚悟を持って、それを行うのかなど想像もつかないのです。人を陥れようなどとは考えた事もないのですから。つまり善人のままではただ悪人に搾取され、傷つけられるままだということです。中には善人すぎて悪人でも許してしまう人もいます。それに謝罪や反省が上辺だけだとしても見抜けない。人は善だと信じたいから」
「善だと信じたい……それはありますね」
ヘリガは神妙に繰り返す。
「信じるとは美しい言葉です。そしてとても尊いことだと言われます。でも盲信してはいけないと思うのです。…疑うというのはいけないことのように聞こえるけれど、一人ひとりが考えることを放棄してはいけないと思うのです。思考を他人に委ねてはいけないの。いくら人に合わせるのが生きる処世術なのだとしても、考えることを止めたら、それはもう自分ではないわ。ほんの少しの違和感を見逃して、その追及を面倒がって、どうせ誰かがやってくれると、そうやって自分が楽をしたことで、どこかの誰かが傷つくかもしれないわ。それが自分の大切な人ではなくても、名も知らない誰かなのだとしても、彼は、彼女は、誰かの大切な誰かなのだから」
「…………」
こんなことを話すのは少し躊躇いがあるけれど、侍女達はずっと側で支えてくれる人達だから、私の考えを知っていてもらいたい。これが私という人間なのだと。
私は目の前に座る三人を見つめた。
「だから悲しいけれど、そんな悪人に勝つには、自分も悪人の目線になったり、時には悪人の手段を取らざるを得ないと私は思ってる。清いままでは勝てないの。だから、そんな世界は優しくない」
馬車内が沈黙し、ガタガタと車輪が回る音が響いた。
「ヴェローニカ様は、すごいことをお考えなんですね」
感心したようなリオニーの声がその沈黙を破る。
「ただの、言葉遊びです。…優しくあって欲しいとは思います。でもそうやって事なかれ主義でいると、いつの間にか悪人に足元をすくわれかねないでしょ?だからその孤児院が安全だと言われても、自分の目で見てみないと、ちゃんと確認しないと、私が納得できないのです。何か見落としがあるかもしれない。大切ならなおさら、自分で守らなければならない。…ごめんなさいね、リオニー」
「い、いいえ。…でもヴェローニカ様はどこからそのような難しい言葉や考え方を知るのですか?」
リオニーは首を傾げている。それを見て一緒に首を傾げた。
「……おかしいでしょうか」
「おかしいというより…すごいというか」
ヘリガも呆気にとられていた。
そうしているうちに、目的地の孤児院に到着した。
教会附属の孤児院だと聞いたが、あの吸魔石があるところではないようだ。
あれは貴族街にある王都神殿で、ここは王都門よりの平民区画の教会だ。昨日吸血して魔力を補充したユリウスならば大丈夫だろうが、あそこに近づくのは用心するに越したことはない。
外出時には銀髪は隠すようにとコンラートから言われているので、今日も魔術具はちゃんと着けている。
だがそれは今日は私とユリウスだけだ。侍女達はそのままである。ヘリガの平民よりも明るい琥珀色の髪やリオニーとウルリカの可愛らしいピンクや水色の髪は貴族特有のものなので、それだけで平民達には無言の圧力となる。その方が孤児院での待遇に配慮があるだろうとのこと。
安全確認をしたい私には、ある程度融通が利きやすい方がいい。
今日はハインツの身内という体裁なので、身なりはやつしてはいない。
だがユリウスの紫髪は私の銀髪に並んで珍しいので、隠蔽することにした。瞳は隠せないが。
どうやら瞳には純度の高い魔力が宿るので、通常の魔術具では変えられないらしい。それさえも変色する魔術具は素材も技術もかなり貴重な一品で、数が少なく入手するのは困難なようだ。
訪問はハインツからの要請での、支援者としての視察が目的ということになっているらしい。それだと体裁を整えられていて、あらを探しにくいけれど仕方ない。子供であると油断してもらうことを願おう。
「これはこれは、ようこそおいでくださいました。クライスラー卿から視察訪問だとお伺いしております」
馬車から降りると、建物の中から代表らしき人達がやってきた。
今日の主な受け答えはヘリガに任せてある。私はあまり表に出ないようにと言われていた。名前も名乗る気はない。
「これは、可愛らしいお嬢様ですね」
孤児院の院長と名乗った小太りの初老の男性が優しげに声をかけてくる。その声に何故か肌がざわりとした。
まだ声と目の印象だけだが、経験則からは私の嫌いな人種だ。
一見すると大らかそうで少しふくよか体型の人の良さそうなおじさんだ。だが前世の記憶が忌避感を表している。
気安い良い人を装っているが、周囲の目がなくなり二人になると、息をするように悪びれもせずに下ネタ話を振ってくるのだ。その度に裏切られた気持ちになる。
もちろん、それはただの偏見だ。わかっている。邪推し過ぎだということは。でも博愛的な考え方で人を見ると何かを見落としてしまうかもしれない。
それだけは絶対に嫌なのだ。
孤児院の院長、子供の父親、世帯主。
成人男性、さらに家庭を持った男性ならそれだけで社会の信用度が上がる。世間が耳を傾けるのはいつだって、一人の子供や女の声よりも、社会的立場のある大人の男の声だ。
だがその実が、どんなものなのかを知るのは、そこに囲われている者だけなのだ。どんな肩書きかは関係ない。