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102.暗示(2)

《ユリウス・レーニシュ=プロイセ》




 ヴェローニカが午前の授業を受けたあと昼食をとるのを見守っていたユリウスは、ようやく二人で落ち着いて話す時間がきたと思った。席を立ったヴェローニカの腕を掴む。


「ヴェローニカ、話がある」

「欲しいの?いいよ?」

「違う!」

 思わず声を荒げてしまって、侍女達とコンラートが不審そうにこちらを見ている。

 するとヴェローニカがユリウスの顔の方に手を伸ばしてきた。それに気づいて、小さなヴェローニカに届くように屈むと、彼女はいつものように優しく微笑んで、慈しむような手付きでユリウスの頬に触れる。そしてヴェローニカはゆっくりと耳元に顔を近づけてきた。



『そんなに気が立つのは、きっと血が足りないからよ?』



 耳元で囁かれた。

 急に胸がざわざわし、頭にもやがかかったように思考がぼやけだす。

「違う……そんなんじゃない…」

 そう言うので精一杯だった。思考が鈍る。意識が遠のく。

 ユリウスは瞼をぎゅっと閉じて、再び目を開けた。

 何かおかしい。

『ほんとに?遠慮しなくていいのよ、ユリウス?』

 ヴェローニカがまた小声で囁く。


 動悸がする。息がきれる。こんな人間的な身体的症状はあり得ない。そう、頭ではわかっているのに。

 なんだ、これ。

 意識の問題なのか。生前の体に対する幻覚?

 やたらと喉が渇くような気分だ。いや、これは…

 血が欲しい。ヴェローニカの、血が…



「部屋に行きますね」

 ヴェローニカがコンラートと何か話している。だがよく聞き取れない。

 手を引かれるままにユリウスはついていく。

「ユリウス様?…大丈夫ですか?」

 何か声をかけられたが、返すことができない。とにかく、息が苦しい。視界が狭窄する。

 ユリウスはそのままヴェローニカについていった。




 やっと彼女の部屋に着いた。そう思った途端ユリウスは、引かれていた手を引き寄せて跪き、ヴェローニカを掻き抱くように抱きしめていた。


すぅ……はぁぁ……

 ゆっくりと、ないはずの肺を満たすように深呼吸をした。

 少し呼吸が楽になる。魔素がこの傀儡の体に補給されたからか。

 ヴェローニカを常に守るように包んでいる淡い魔素のお陰で、魔力不足と血への渇望が少し和らいだ気がする。


 しかし呼吸はわずかに楽にはなったが、肌が近づいたせいで漂う彼女の甘い香りが強くなり、今度は酩酊する。

 彼女のこの香りは普段から感じていた。体内魔力から香るのかよくわからないが、とにかく誰よりも甘く芳しい香りで、いつもならそれがとても穏やかで幸せな気分になれるのに。

 血への渇きに飢える今、この香りは……気が遠くなりそうだ。



「大丈夫?待って、ユリウス。ソファーに行きましょ?」

 気遣うようにヴェローニカが背中を優しくさすってくれる。それがとても心地良い。

「…っ…」

 勝手に喉が鳴る。体が血に期待しているのか。

 離したくはなかったが、彼女に従った。


 そしてソファーに座って向かい合うと、真っ先に彼女の白く細い首筋が目に入る。

(だめだ、待て。このまま噛んだらまずい気がする。)

 ユリウスは荒い息をつきながら、拳を握り、必死に理性を取り戻そうとする。

 紫水晶の瞳が赤く光を灯す。



「ユリウス?」

 心配そうに覗き込まれて、頬に触れられた。

 ユリウスはその小さな白い手に触れて、吸い寄せられるように手のひらに唇を当てた。それは懇願するような口づけだった。そしてそのまま目を閉じ、ため息まじりにすりっと頬ずりをする。

 彼女の身体のどこもかしこも甘い香りがする。たまらない。

 自然と吐息が漏れる。


「すまない、もう……耐えられない…」

「うん。大丈夫。謝らないで。ユリウスが苦しいのは私のせいなの」

「ヴェローニカの、せい?」

「私があなたを私の眷属にしたから。ちゃんと責任はとると言ったでしょ?」



 違うと言いたかった。そうじゃないと。けれど、もう何も考えられなかった。

 ユリウスが頬ずりをしていない方の手も伸ばして、ヴェローニカは両手でユリウスの頬を包み込んだ。


『これからはちゃんと定期的に血をあげる。これはあなたの主としての責務なの。だから、もう我慢はしないで。…これは命令よ、ユリウス。早く進化して。私と、あなたのために』


(命、令…)

 くらくらする意識の中、彼女に頭を引き寄せられ。気づいたら、その甘く香る柔らかな首筋に、噛みついていた。



 久しぶりだ。久しぶりの……口中に広がる、この甘く芳醇な彼女の血の味。

 体中に満たされる快感と充足感と……多幸感。

 何ものにも代えがたい、至福のとき。

 この魔素の薄い王都で、ずっと感じていた飢えと渇き、そして耐え難い苛立ち。いつもどこか拭いきれなかった虚無感、寂寥感。

 そんな、自分に欠けていたものが今、この傀儡の体にじわじわと染み渡って、全てが満たされていく…




◆◆◆◆◆◆


《ユリウス・レーニシュ=プロイセ》




「ユリウス?起きた?」


 可愛らしい声だ。

 ユリウスがゆっくりと瞼を開けると、ヴェローニカが覗いているのが見えた。

 まだ幼くあどけない彼女の容貌は、自分を心配げに見つめている。

 何度も瞬く。目を開けていられない。頭がぼうっとする。熱くて喉が渇く。でもまだ動けない。動きたくない。


「大丈夫?まだ眠い?」

「…ん……眠…い…」

「じゃあまだ寝てて」

 彼女はそう言って、目元に軽く触れて目を閉じさせ、頭を優しくなでてくれる。膝枕をされているのか。

 瞼が重い。もう少し、眠りたい。

 久しぶりの血に、酔ったのか。魔素が薄すぎて、限界だったのかもしれない。



 再び眠りに落ちようとしたその時、胸の上に何かが跳び乗ってきた。

「ぐあっ!」

「あ、だめだよ。ユリウスに乗ったら」

 衝撃に目を開けると、胸の上には黒猫がいた。細長いしっぽをゆらゆらとさせてこちらを見下ろしている。

 何か……不機嫌そうに見えるような。



「にあっ、にあっ」

 前から思っていたが、変な声で鳴く猫だ。猫はにゃーと鳴くものではないのか。と笑いが漏れた。

(ああ。膝の上を取られて怒っているのか。やはりこいつとは気が合うな。)



 ノック音が聞こえた。誰かが来たか。だがまだ起き上がるにはだるい。

「誰?」

「ヴェローニカ様、コンラートです。入ってよろしいでしょうか」

「何か用?コンラート」

「…入っては、いけませんか?」

 ヴェローニカは困った顔でユリウスを見下ろした。

「コンラートだけですか?」

「はい」

「ではどうぞ」


 部屋に入ってきたコンラートは少し戸惑うような目をしたが、それは一瞬だった。

「ユリウス様、どうかなさいましたか?」

「ユリウスは今、貧血のような状態なの。答えるのもままならないから、もう少し寝かせてあげて」


 正確には貧血ではなくてその逆で、空きっ腹に酒精の強い酒でもかっ喰らったかのように、急激に酔っているような状態だった。

 貧血のように身体がつらいのではない。大いに満ち足りていて、満腹のように眠いのだ。魔素金属が進化中なのかもしれない。


(今は最高に気分がいい……姫との時間を、邪魔するな…)



「…まさか、血を?」

「…ええ」

「ヴェローニカ様は大丈夫なのですか?」

「大丈夫よ。ここに来てからずっと栄養のあるものをいただいていたから。ロータルには感謝しないと」

「…………」

 コンラートがわずかに眉をしかめている。ヴェローニカを心配しているのだろう。


「ヘリガ達にユリウスのことを話すのは、だめかしら?コンラートはどう思う?」

「…以前よりは大丈夫かとは思いますが。いえ、やはりヴェローニカ様への心配が上回ってしまうかも、しれませんね」

「そう…」


 ヴェローニカはユリウスの頭をなで続けている。まるで子供扱いだが、心地良いので何も言えない。

 こいつの気持ちがわかる……と、ユリウスは胸の上に座った黒猫をぼんやりと見た。



「私がユリウスをこんな体にしたの。だから責任は私にあるの。ユリウスのせいじゃないのよ、コンラート。ユリウスは食事もしないでしょ?その分ユリウスには私の血が必要なの。だから変に思わないでね」

「…だから、違うと……言ってるのに。姫は、強情だ…」

「うん。強情なの」

 言ったでしょ?と、ふふっと微笑んだ。

 この笑顔を見ると、全て許してしまいたくなる。


「ほんとはずっと我慢していたのよね。ここは魔素が薄いから。…ごめんなさい、ユリウス。あなたには酷な場所だわ…」

 ヴェローニカに優しく声をかけられ、なでられ、瞼がまた重くなる。

 だめだ、抗えない。



「ユリウス様、エーリヒ様のことはお話になりましたか?」

「…エーリヒの…こと…?」

 ユリウスの声が自然と低くなった。

 今はその名前をヴェローニカに聞かせたくはないのに。

「エーリヒ様はしばらく出張となりましたので、お帰りは未定です、ヴェローニカ様」

「そう。ありがとう」



 ヴェローニカはエーリヒの名前を聞いても、取り乱しもせずに穏やかに話す。

 ユリウスが気を遣い過ぎているのか?

 いや、やはり違う。いつものヴェローニカなら、何故帰れないのか?元気にしているのか?などの心配をするはずだ。だが、エーリヒについて何も聞かないでいる。不自然なくらいに柔らかな表情で。

 それなのに、彼女を包む魔素は本当に落ち着いていて、昨夜のざわめきは露ほども見当たらない。それを不可解には思うが、エーリヒのことで心を痛めるヴェローニカを見たくなかったユリウスは、その違和感に目をつむった。


(馬鹿なやつだ。ついにヴェローニカに見放されたぞ、エーリヒ。お前が素直じゃないからだ。…大丈夫だ、ヴェローニカ。私がずっとそなたの……おまえの傍にいるから。)


 そしてユリウスは軽く目を閉じ、気持ちを落ち着かせるかのように息をついた。

 本当に眠くて仕方がない。




 昨夜遅くに、コンラートからエーリヒからの伝言を受けた。プロイセ城近くにあった旧市街地についての話だった。そこもユリウスのテリトリーだったのかとただそれだけだ。

 だからユリウスは、そうだと答えただけだ。

 そしてその時にエーリヒがしばらくここには戻らないと聞いた。

 ヴェローニカにエーリヒのことを思い出させたくなかったユリウスは、ちょうどよいと思った。



 あいつはあいつで自分の中に芽生える制御不能な想いに、何かもがいているのかもしれないが…

 ヴェローニカを傍に置きたいと言いながら、ヴェローニカの自由を奪っておきながら、その感情を素直に受け入れずにいるあいつが、その反動からなのか、否定したいからなのかは知らないが…


(あいつがとち狂って他の女を抱こうが抱くまいが、知ったこっちゃあない。勝手にすればいいさ。そしていつか後悔するがいい。その感情を素直に認めなかった自分を。)


 そして、強く思う。

 ただ……ヴェローニカを傷つけるのは、許さない。と。



 温度のないはずの金属の体が、身内をくすぶる怒りか何かで熱くなるのを感じて、ユリウスが再び瞼を上げた時、彼の瞳は紫から紅色に変わっていた。




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