101.暗示(1)
夜中にふと目が覚めた。
近くで誰かの寝息が聞こえる。これはこの愛しい黒猫の生きている音だ。
懐かしい…
眠る前、寝支度を整えてもう眠ろうとしても、ユリウスが心配して部屋に留まっていた。何も心配することはないと言っても聞いてはくれなくて、今日はここで眠ると言い張って。
本当に心配性な人ね。
でも本当はすごく、嬉しかった。
ユリウスは私を甘やかしてくれる。それはとても居心地が良くて。嬉しくて。ずっと甘えていたくなる。だから注意しなければ。
ユリウスの前で取り乱したくはない。情けない姿は見せたくないから。
ユリウスがあまりに心配するから、この子を抱いて眠るから大丈夫だと説得していたら、ヘリガ達が部屋に現れた。
そして今度はヘリガ達に心配されて、エーリヒに対して怒りながら、皆で隣部屋への扉を塞いでいった。その道具類を用意するのに時間がかかっていたんだって。
私はそれを見て、なんだかおかしくて。
笑顔で見ていたのに、やっぱりユリウスは心配そうに私を見ていた。
こんなことには慣れている。だから本当に大丈夫なのに。また、心配をかけてしまっている。
それでも今の私の周りには、こんなに心配してくれる人達がいることが嬉しくて。戸惑うことばかりだけれど、幸せだと思った。
私より、ユリウスの方が心配になる。血を飲まなくて、本当に大丈夫なのだろうか。そう聞きたかったけれど、ユリウスはヘリガ達に部屋を追い出されてしまった。
明日、起きたら言ってみよう。
私の血なんていくらでもあげる。
もうあの頃とは違って栄養のある食事を食べさせてもらっているもの。大丈夫なはず。
そう決めたら少しすっきりして、ようやくまた眠りについた。
その日は昔の夢を見た。
私が仲良くなる男の子を、いつも奪っていく同じクラスの女の子がいた。
彼女はとても可愛い子だった。仲良くしていた友達も、いつの間にか私よりも彼女が好き。私から離れてその子といるようになった。
だって、ほんとに彼女は可愛いもの。
私はただ、席が隣のその男の子と話す時間が楽しくて大切だっただけなのに、しばらくすると彼は彼女と仲良くなっていて、私に向けられていた笑顔は、彼女のものになっていた。
あんなに可愛い子だもの、好きになったのね。残念には思ったけれど、私はそう思って諦めた。
そのうち違う男の子と仲良くなった。でも今度はその彼の隣にまたいつの間にか彼女がいて、彼は彼女を好きになってる。
目を見れば、わかるの。
それまで彼女と仲良くしていたあの子が、離れていった彼女を見る目が切ないのが、私にだけはわかる。
あの子と、つきあってたんだよね?どうして今度はその子なの?その子と仲良くしていたのは私なのに。
どうしていつも、私と仲の良い人を奪っていくの?いつもいつも、わざとやってるの?
どうせまたこの子に奪われるのなら、もう誰とも仲良くなんてならない。
朝起きたら、「あはは」って乾いた声が漏れた。
昔あんなに思い知ったのに、大人になっても懲りずに人を好きになって、そのうちその人もどこかの誰かに奪われたの。
私はいつでも誰かのいちばん愛する人になれたことがない。一度だって。
口説く時には散々甘く囁くくせに、自分の辛さをわかってくれって私の愛と献身を求めるくせに、私が辛いときにはいつも、誰も傍にいてはくれなかった。
それで自分の価値がわかるの。
誰も本当には愛してくれなかった。
私よりも優先させることがあるから。
私よりも自分が大事だから。
私よりも大事な人がいるから。
普通の人達が、誰かと出会って愛し合って、結婚して子供を産んで、そんな長い時を家族と過ごす。
人間の一生という長い年月の中で、誰にだって一度はあることが、今までに一度だって私にはないのに……
これからどうしてあると思えるの。
そしてどこかでそれを努力していなかった。
なりふりかまわず誰かと愛を争って、貶めてまで欲することは醜いと思っていた。
そこまでしないと手に入らないのが愛ならば、なんて醜いと。
でも私の彼を奪っていく人達は、そうじゃなかったの。
醜い、浅ましいと思ったけれど…、きっと皆必死だったのかもしれない。
私だって傍にいて欲しかった。
奪われたくなんてなかった。
でも…、それでも離れていくのなら、私にはその価値がないからなんだと……
もしかしたら私も、強く望めば手に入ったのかもしれない。そう思うことはあった。
だから本当は、私はそこまで愛を望んでいないのかもしれないと。
愛を知らずに生まれたからこそ、愛は本来美しいものだと、誰よりも夢想しているのかもしれない。
そうでなくてはならないと。
それ以外は認められないと。
愛を渇望しているのか、嫌悪しているのか。
よく、わからない。
それなのに、どうしてまた誰かを好きになるの。
どうしてこんなに愛しく思ってしまうの。
どうしてこんなにあなたに触れたくなるの。
今頃…、私の好きなあの蜂蜜色の瞳が、どこかの美しい誰かを愛おしそうに見つめているんだ。
何度も優しく抱きしめてくれたあなたの腕が、気づかうように頬に触れてくれた指先が、私の知らない美しい誰かの肌に触れて、今この時に抱きしめ合って微睡んでいるのかと思うと……
苦しくて、苦しくて……
いつの間に…、私は、こんな……
本当に、度し難いわ。
わかってた。
大切な人ができると、いつかはこんなふうに苦しむ日がくるって。
でもそんなの、生きることすら困難な今生では、望むべくもないだろうと思ってた。
どう考えても釣り合わないのに。
あの人は大人で、私は子供。
そしてあの人は貴族で、私は孤児。
この想いを肯定することすら、できない。
私には初めから、ここに居場所なんてない。
ただ彼の優しさに縋っているだけ。
ただそれだけなのに。
何の価値もないのに。
どうして私は今、こんなところにいるんだろう。
こんな醜い想いは苦しくて、今すぐにでも消し去りたい。
きっと好きが悪いんじゃないの。
好きまでなくなったら、何も大事にできないもの。
特別が、執着が、愛が、私には必要のないものなの。
このまま彼の傍にいたら、見たくないものを見ることになる。知りたくないことを知ってしまう。
きっと耐えるだけならできるだろう。
想いは伝えず、あなたの幸せを願って、ただあなたを見つめるだけなら。
今までだって、してきたことだから。
欲するなんて烏滸がましいことだから。
でもそれを微塵も顔に出さずに一緒に過ごすなんて、多分できない。
これから、きっともっと苦しんで、もっともっと醜くなるのはわかってるから。
そうなったらどんなに隠しても誤魔化しきれない。
いつかこの想いを知られてしまう前に。
また心が病んでしまう前に。
もう、二度と。
この乱れる心を、殺すの。
そうしたらきっと、穏やかな世界にいられるのだから。
何度生まれ変わっても手に入らないものならば、もう愛なんて、求めない。
求めなければ、必要もないのだ。
不浄なものは、捨てるべき。
『《生者必滅会者定離。…だから、エーリヒさま……さよなら》』
◆◆◆◆◆◆
《ユリウス・レーニシュ=プロイセ》
「ユリウス、私の血をあげる」
突然ヴェローニカが、そう言った。
朝の支度が終わって、侍女達を下がらせたと思ったら、いきなりだ。
しかも、穏やかな顔で微笑んでいる。何かが変だと、ユリウスは思った。
泣くでもない、怒るでもない。気負うようでもない。諦め、とも違う。ただ、穏やかに。優しく。
ヴェローニカは隣国のエルーシアでは聖女と呼ばれる存在らしい。
ユリウスにはよくわからないが、エルーシアでは銀髪に産まれた子供はエルーシアで信仰する女神に愛された証であり、様々な奇跡が行えるのだという。
確かにヴェローニカは奇跡の存在だ。このような人が凡人であるはずがない。
短い期間ではあるが、ユリウスはヴェローニカの傍にいて、普通とは違う彼女の力を目の当たりにしてきた。だが。
世間一般にある“聖女”のイメージ。“聖なる女性”。これが、聖女ということなのか。
傷つけられても許さなければならないのか。
それが慈悲深いという意味か。
それが、清く美しいと。
そんなもの……ただ自分を犠牲にしているだけではないか。
なんでもっと自分のために生きようとしない。
「やめろ、ヴェローニカ。そんな風に笑うな」
ユリウスは苦い気持ちでそう言っていた。
すると彼女は目をぱちぱちと瞬かせた。本当に心当たりがないというように。
「ヴェローニカ。泣きたいなら泣けばいい。悲しいなら悲しいと言え。怒りたいなら喚けばいい。そなたをここに連れてきたのはあいつだ。そなたにはその権利があるぞ」
するときょとんと首を傾げて言った。
「何の話?今は血の話をしているのに」
「……知らないふりをするのはやめろ。そんなおまえは見たくない」
ユリウスがヴェローニカにそう言うと、しばらくきょとんとしていたが、ユリウスを見て微笑んで「そう」とだけ小さな声で言って、ヴェローニカは立ち上がり、部屋の出口へ歩いて行った。
「おい、ヴェローニカ?」
扉を開けたヴェローニカは一度足を止めて言った。
「《見たくないんでしょ?》」
何かわからない言葉で。これは前世の言葉か。
「待て、今なんて言った?」
「食堂に行きましょう、ユリウス。それともユリウスは終わるまでここで待ってる?」
振り向いたヴェローニカは笑っていた。そこには、何の怒りも憂いも視えなかった。