第4話 精霊
「はぁ…疲れたぁ。」
ジャンに紹介してもらった宿屋の部屋のベッドにごろんと横になる。
やっと解放された。そんな気分だった。
ジャンに街を色々と案内してもらって、彼が色んな人と交流をもっているのだと理解した。ただ、行くところ行くところで声をかけられては話が盛り上がって、その度に彼女か隠し子かとからかわれて、とてつもなく気疲れしたのだ。
宿屋の部屋は6畳間くらいの広さがあり、ベッドと机と椅子がそれぞれひとつずつ置いてある。ベッドはマットレスというのか、薄い敷布団が置いてあるだけの粗末なもので、水道もトイレも部屋にはない。水差しとコップは机に置いてあるが氷はない。もちろんコンロなんてなく温めることも出来ない。
―まぁ、何もないよりは良いか…
「ホント疲れた…」
「お疲れさまー。今日も一日大変だったねー。」
「うん、ありが…」
言葉の途中で奏は横たわっていたベッドから、ガバッと体を起こして声の主を探した。
奏が驚くのも当たり前だ。だって、この部屋にいるのは彼女ひとりなのだから。
「あっ!声が聞こえるようになったんだね!」
嬉しそうな声が頭上で聞こえた気がして、奏が天井を見上げる。するとそこには翼の生えた猫が浮いていた。
「ね、ねねね…」
「ね?」
「ねこおぉ!?」
驚けば宙に浮いた猫は、楽しそうな笑い声を上げる。
「ど、どどど、どういうこと!?」
「うーん、とりあえず落ち着こうか?奏。」
名前まで呼ばれて、奏は混乱するしかないが、猫の方は落ち着いた様子でニコニコと笑っている。
奏は目をパチクリさせてその猫をまじまじと見つめた。
翼は天使のようで真っ白な羽が美しく、体は白と灰色の縞模様。尻尾の猫のようですらりとした形なのだが、色や模様はアライグマのようだ。瞳はサファイアが嵌め込まれたような青色がキラキラと綺麗だった。
翼がパタパタと動いていて、空を飛んでる姿は異様なのだが、可愛いとも奏は思う。
「落ち着いたかい?僕は君の精霊だよ。」
「精霊?」
「そう。」
「私の?」
「そう。」
「それって…」
「言葉の通りだよ。」
奏には訳が分からなかった。
だってそうだろう。突然、空に浮いた猫が現れて、あなたの精霊ですって言われたって誰だって混乱する。
「だから奏がこの世界に召喚されたと同時に、僕を召喚して契約していたって訳さ。」
「じゃあなんで今現れたの?」
もっともな質問に精霊がやっと理解したように、「ああ!」と納得した様子を見せる。
「記憶がないんだね。」
「えっ?私、記憶なんてなくしてないよ?」
「あー、それはまぁいいや。さっきの答えだけど、今現れた理由は邪魔されていたからだよ。」
「邪魔?」
「うーんと、正確には僕はずっと奏のそばにいたんだよ。だけど、君に姿はおろか声すら届かなかった。」
「どうして?」
「強い魔力に阻まれていたんだ。分かりやすく言うと奏の周りに分厚い結界が張られていた感じかなぁ。」
精霊は飛ぶのに疲れたのか、ベッドの上に着地するとちょこんと座る。
「どうして?」
「それは、そういう魔法を使っている人がいたからだろうね。」
「誰がそんなこと…」
「それはいくらでもいるだろうさ。だって人間は欲深いから。」
「そんな。」
「奏は珍しいよ。欲が無さすぎる。」
「私にだって欲くらい…」
「じゃあ、奏は人を不幸にしてまで自分の望みを叶えるかい?」
「え、不幸の具合による…かな。」
そう奏が答えれば精霊は楽しそうに笑う。
「ほら、他人のことを考えてる。まぁ、だからこそ僕は奏と契約したんだけどね。」
「え?」
「まぁ、それは置いといて。…妨害していたのは愛美だよ。」
「え!?」
驚きに奏は言葉を失った。
「ま、とりあえずは奏が彼女から離れてくれたから、僕は出て来れたって訳さ。」
「…」
「ありゃりゃ、ショックが大きかったかな。」
奏が黙ってしまって、精霊は奏の目の前まで近づいて前足を膝にのせる。ふにっとした感触が優しくて、奏は思わず精霊を抱き締めた。
「にゃ!?」
精霊は驚きで悲鳴を上げたが、奏がしばらくは離してくれそうにないのを悟ると、自由が利く尻尾で奏の頭をポンポンと撫でてくれる。
「落ち着いたかい?」
「ええ、ごめんなさい。」
数分はたっぷりと抱き締めた後、奏はそれでも名残惜しそうに精霊を解放した。
すると何故か精霊は少々不満そうな顔をする。
「そういう時はありがとう。だよ。」
「え?」
「謝るのは自分を卑下してるのと同じだよ。そういうところでつけこまれるから、気を付けないと。」
「う、うん。分かった。」
「よろしい。じゃあ、奏。僕に名前をちょうだい。」
「え?」
「精霊はね。契約主に名前を付けてもらって、はじめて本当の契約が結ばれるんだ。」
「じゃあ今は?」
「分かりやすい言葉なら仮契約かな。本当はちょっと違うんだけど。」
まぁ、細かいことはどうでも良いよ。と早く名前が欲しいのか落ち着かない様子の精霊は、まるでおもちゃで遊びたくてしかたがない猫にしか見えない。
奏は再び抱き締めたい衝動に駆られるが、伸ばした手を尻尾で払われてしまい、真面目に名前を考えることにした。
そして、
「セツ…なんてどうかな?」
ぽつり、と奏が言葉をこぼすと、精霊はぱあぁっと目を輝かせて全身で嬉しさを表現した。
「セツ。良いね!僕気に入ったよ。」
「そう?」
「うん!響きが良い。ちなみに由来は?」
「私の元いた世界では、寒い時期に真っ白い雪が降るの。ここでは降ったの見たことないけど、あるのかな?」
「雪なら寒い地方に行けばあるよ。」
「でね、それを漢字で書くとセツとも読むの。あなたのその真っ白い毛が、雪みたいに見えたから。」
「灰色も混ざってるけどね。」
「まぁ、細かいことは…」
「うん、気にしなーい。とにかく僕はこの名前気に入ったよ。ありがとう、奏。それとこれからよろしくね。」
「ええ。」
奏が頷き、セツと握手を交わそうとして、大きな音が突然に響いた。
「なに!?」
「街の外からだね。壁が魔物に砕かれた音じゃないかな。」
「壁?…って、大変じゃない!」
状況がいまいち読み込めない奏だったが、セツの言う壁がこの貧民街と呼ばれる街と外を隔てる壁の事なら、それが崩れたとあっては一大事だと慌てて立ち上がる。だが、セツは何でもないことのように、耳を後ろ足で掻いていた。
「ここでは当たり前のように起こることだよ。」
「当たり前って…なんで冷静なのよっ。今までもあったみたいな言い方をして」
「だから、今までもあったことだよ。奏は気づいてなかったみたいだけどさ。」
愕然としてセツを見る奏だったが、あまりにも冷静なセツを見て考え直す。
「…いつものことなら大丈夫なの?騎士団とかが派遣されてるってこと?」
「いや、それはないよ。腕の立つ私兵くらいはいるだろうけど、どうだろうね。」
「なっ…」
バッと窓から外を見るが、もちろん肉眼で見ることは出来ない。街の外まではそれなりの距離があった。
「行ってみる?」
「え?」
「奏の考えていることなんてお見通しだよ。助けに行きたいんでしょ?」
「でも、私が行っても役立てるかな。怪我は治せるけど…魔物退治は出来ないから。」
「そんなのは魔力があるんだから、他の魔法も使えるに決まってるじゃん。」
あっさりと言われて奏は困ってしまう。
今までに回復以外の魔法など使ったことがない。使えるなんて知らなかったし、使おうと思ったことすらない。
「これくらいの距離の移動魔法だったら、奏にも使えるはずだよ。」
「ど、どうすれば良いの?」
「どうしたいか願ったら良いよ。」
「それだけ?」
「そう、それだけ。魔力は願いを形にするものなんだ。」
セツに言われるままに、魔物が攻めてきた場所へ行きたいと願う。
すると、奏の周りが淡く光だしたと思ったら目の前が真っ暗になる。グラッと足場が不安定になる感覚に怖くなって目を瞑った。
「着いたよー。」
セツの声に奏が目を開けばそこは外だった。目の前には貴族街にあった壁の半分にも満たない造りの荒い壁が、補修された後を残しつつ左右に伸びている。そして、奏から50メートルは離れた所に見える壁は、無惨にも破壊されていた。
「ひどい。」
「日常だよ。」
「そんなっ」
「今、どうしようもないことを嘆いても仕方ないんじゃない?」
セツに言われて、奏は現実に目を向ける。
今、壁の近くには魔物が数体。だがそれは見張りのようなもので、先遣隊はすでに街の中だろう。
わずかだが金属がぶつかるような音が響いている。
「ねぇ、セツ。結界を張ることは出来ないの?」
「出来ないことはないけど、奏が今維持している城と貴族街の結界を解かないといけなくなるね。」
「そ、それは」
「困るよね。だってそれを解いたら、今度は城や貴族街が魔物の標的になるもんね。」
まあ、と言いながらセツは可愛らしい肉球を自分の顔に当てて、いたずらな表情を見せる。
「滅んだところで奏には関係ないことだし、別に良いんじゃない。」
「それは嫌!」
奏が思いきり否定すると、セツはヤレヤレとため息をついた。
「奏は優しすぎだよ。ほんとに。どうせ城には騎士団や魔法師団がいるから、すぐにどうこうはならないと思うけどね。」
「それでも嫌なの。」
「……まぁ、結界を解いてここに張り直したら、居場所がバレて連れ戻されるかもしれないから、得策ではないか……なら、現場に行って加勢するのが良いんじゃない?」
「…そうね。」
奏が頷けば、セツはこっちだと魔物がいる場所まで案内してくれる。
「壁のところにいた魔物は倒さなくて良かったの?」
「ああ、あれは倒さない方が良いと思うよ。」
「どうして?」
「だって、あれを倒しちゃうと、壁の外で待機している別部隊が乗り込んでくるからね。魔物が増えるのは得策じゃないよね。」
「確かに…」
セツの言葉に納得して、奏は彼のあとを追いかける。
そして、人の悲鳴で奏はその歩みを速めた。木々の生い茂る場所に身を隠しつつ移動して、すぐ隣の道の真ん中に2つの人影を見つける。
「大丈夫ですか!?」と声をかけようとして、セツに止められた。
よく見ると目の前に見えた人影はゴブリンで、人間ではなかった。そして悲鳴を上げたであろう人間は、彼らの足元に倒れていた。
苦痛に呻く人間を足で転がしてゴブリンは笑っていた。それはまるで玩具で遊んでいるようにも見える。
これが魔物…そう思えば背中がゾッとした。これは漫画でも物語でもない現実なのだ。恐怖に足が震えだし、一刻も早く逃げ出したい気持ちに、足が勝手に下がって小枝を踏んだ。
パキッと乾いた音がして、遊んでいたゴブリンの動きが止まる。ガリガリで骨格がくっきりと見える緑の肌と眼孔に嵌め込まれた瞳の見えない目玉は異様で、奏の恐怖を煽った。
「こっちに気付いたね。」
「…っ!ど、どどうしよう」
「こんな時こそ魔法じゃない?」
慌てる奏にセツは、朝ごはんはパンじゃない?くらいのノリで返してくる。
「どうしたいか願うんだよ。」
「ひっ…む、むり!」
セツの言葉に奏はパニックを引き起こし、後退ろうとして木の根に足を取られて尻餅を着いた。
ゴブリンたちがニヤリと涎を垂らしながら向かってくるのに、奏は手をついて必死に逃げようとするがうまく行かない。
グヒヒと嫌な笑い声と共にゴブリンが目の前にまで迫り、奏の息が止まったところにセツが不満そうな声をだした。
「もー、仕方ないなぁ。」
パキッと音がしたかと思えば、パキパキパキ…と、ゴブリンの足元が凍り始める。それはあっという間にゴブリンの全身を覆って氷漬けにする。
「そのまま爆ぜちゃえ!」
楽しそうにセツが言うと、ゴブリンたちは奏の目の前で見事に粉々に砕け散った。
「…」
「ほらほら、引いてる場合じゃないよ。倒れてる人を助けないと。」
セツに言われて奏は倒れている人に駆け寄った。
「大丈夫ですか!?」
「…あ、ああ。足をやられちまってね。でもお陰で助かったよ。」
どうやらセツの事が見えていないようで、男は奏が退治したと勘違いして礼を言う。
男は私兵なのかボロボロだが鎧姿で、足は鈍器で殴られたのか、あり得ない方向に曲がっていた。
目を背けたくなるようなものだったが、何度も同じような光景を目にしていた奏はこういう時の判断は間違えない。
患部に手を当て目を閉じる。神に祈りを捧げるように願いを込めると、手元が淡く光を放つ。
ほんの一瞬だった。兵士の足は何事もなかったように戻り、男は立ち上がったのだ。
「ありがとう。君は回復魔法が使えるんだね。助かったよ。」
そう言うと男は再び武器を携えて、「この先にまだ魔物がいるんだ。」と言って走り出すので、奏たちも彼のあとをついていった。