第2話 聖女
聖女。それは神の恩寵を受けて、奇跡を成し遂げる神性な存在。
異世界より召喚される聖女は特別な力を持ち、膨大な魔力で人々を癒すことや魔を打ち払うことが出来ると言われている。
この世界では魔物が跋扈し、人々を苦しめて来た。人間は弱い。いくら団結して魔物を払おうともそれには限度があり、さらに癒しの魔法を使える者となると、ほんの一握りで魔力量も限られてしまっている。
だからこそ異世界から聖女を召喚して、その均衡を保とうとしていた。
だが聖女もまた人間である。
生き物であれば死から逃れることはできない。
先代の聖女がこの世を去り、王はすぐに次の聖女召喚の儀式を執り行うことを決めた。
王国の最深部。厳重に保管された部屋の床に刻まれた古代の術式。それに複数の魔道師が魔力を注ぎ込んで、召喚が初めて可能になるのだ。
異世界からの召喚ともなるとその魔力量は膨大で、国内トップクラスの国直属の魔道師団が集められて執り行われる。
そして聖女は召喚された。
それが奏と愛美だった。
だがそんなことを突然言われても、もちろん当の本人たちは理解できなかった。
愛美は戻りたいと泣き出し、話すら出来ない状態で、とてもではないが国を救うことなんて無理そうだったし、比較的冷静だった奏もまた、この状況を飲み込むのに時間を要した。
この世界ではほとんどが王政国家で、貴族と庶民がいると奏は学んだ。
他にも、この世界には魔物が存在することや、冒険者などもいることを知り、日本で見てきたファンタジー世界そのものだった。
聖女は召喚された国に属して、襲ってくる魔物から民を守るのが役目とされ、その見返りとしてかなり贅沢な生活が約束されている。
2人が召喚されたナーレス国は大国で、世界でも屈指の広大な土地を有している。治安も悪くなく、魔物の侵入も巨大で頑丈な二重の城壁によって防がれている。そのためナーレス国は聖女がいない期間でも発展し、豊かな生活を人々は送っていた。
だが、それはいつまでも保てるものではない。聖女がいれば結界を張り、魔物を寄せ付けないように出来るが、聖女がいなければ騎士団が城壁を突破しようとする魔物たちを退治する必要があるのだ。
「奏様!この書類は―」
「それはあちらの棚にお願いします!」
「奏様、先日の会議報告書です。」
「ありがとうございます。あとで確認します。」
「奏様、討伐隊が戻りました!」
「分かりました。すぐには向かえないので、軽傷者には回復薬を飲ませておいてください。」
次から次へとやってくる役人たちに対応して、奏は目まぐるしい日々を送っていた。
「かなでー、これどうするんだっけ?」
「愛美またなの…」
そんな猫の手も借りたいくらい忙しい所に、場違いな緩い声が聞こえてきて、奏は大きなため息を落とした。
「奏こわーい。」
「別に怒ってないわ。忙しいから勘弁して頂戴。」
「で、でも分からなくて…」
「じゃあ、それはそこに置いといて。代わりに戻ってきた騎士団の手当てを…」
「私、治癒魔法は得意じゃないって前に言ったのに、覚えてないの?」
「もちろん覚えてるよ。魔法じゃなくたって、回復薬を配るのはできるでしょ?」
「えー、それだと聖女のくせに治癒できないのって言われるから、嫌だなー。」
「じゃあ…」
「愛美様。すみませんが、こちらを手伝っていただけませんか?」
割って入ってきたのは、壮年の白髪にグリーンの瞳をした異国感あふれるハンサムな男性だった。名前はロヴィーノ。伯爵で、聖女のサポートをする部署の長を勤めている。
「わっかりましたー。」
愛美は解放されるのが嬉しいのか、不満顔が一気に笑顔に変わった。そんな彼女を先に行かせて、ロヴィーノが奏を見る。
「人には得手不得手がございます。なんでもこなせる奏様には、分からないことかもしれませんが。」
「では、采配はお任せいたします。」
「承知いたしました。ではまた後程。」
失礼しますと言ってロヴィーノは愛美と共に部屋を出て行くのを見送って、奏は椅子に腰かけて大きなため息をつく。
いつもこれだ。と、奏は不満に思う。
ロヴィーノは得手不得手というが、怪我人に回復薬を配るだけの仕事に、支障を来す程の得手不得手はないはずなのだ。
それに奏が何よりも納得できないのは、愛美が魔法を使いたがらない理由にあった。聖女の魔法には魔力の消費量に比例して眩暈が伴うのだが、それが嫌というだけなのだ。確かに眩暈や立ち眩みは奏だって嫌だが、ハードな仕事で疲れた時だって同じ状態になるのだ。毎日の事ではないのだから、我慢すれば良いと思うし、その分、贅沢な生活を送らせてもらっているのだ。その対価だと思えば安いものだと奏は思う。
当然、愛美も奏も同じ教育と実習を受けているし、実習の時に彼女が魔法を使っているのを奏はしっかりと見ている。
さらに言えば、自分が好みの一部の人間にだけ、愛美が治癒魔法を使っていることを奏は知っていた。この世界でも愛美は変わらないことに、奏は余計に腹が立っているのだ。
奏は日付が変わる少し前に、やっと自室へと戻った。二十畳は優にありそうな広々とした部屋なのに、城には似合わないシンプルな造りをしている。家具も最低限しかなく、装飾品は一つも置かれていない。
ただその実、家具は一等品で素晴らしいものばかりが揃えられていた。
これでも奏が要求して、なんとかここまでに抑えさせたのだ。初めは目が疲れるくらい煌びやかな家具や装飾品の並んだ部屋で、奏は自室なのに落ち着けなかった。
本当なら家具も庶民が使うような普通のものが良かったのだが、それだけは譲ってはもらえず造りの良いものになっている。いくらするか想像もつかないものだったが、仕方がないと割り切って使用していた。
世界一といって差し支えないくらいふかふかしているベッドへ、奏は遠慮なく身を投げた。
「あー!もう嫌!」
ボフッと枕に顔を押し付ければ、心地が良くてすぐ眠気に誘われる。
「奏様、お行儀が悪いですよ。」
そんな眠気を妨げるように釘を刺す声に、奏が少し不満気な視線を向けると、栗色の髪をお団子にして留めた小柄な女性が、両手を腰に当てて奏を見下ろしていた。彼女は奏の世話係にと付けられた使用人で、名前をリズと言った。
リズは日本のようなフリルは付いていないが、メイド服に似たシンプルな黒いワンピースに白いエプロンを身に付けている。
「むー、良いじゃん。今くらいさぁ…もう疲れたの。」
「もう、またそうやって」
「リズ以外にいないんだから大目に見てよぉ。」
「仕方ないですね。」と、リズはため息をついてから、用意してきたお茶をカップに注いだ。
コトンとサイドテーブルにそのカップを置き、小声で「…まぁ分かっていれば構いません。言うのが仕事なので。」と、わざとらしく言いうので奏も一緒にクスッと笑ってしまう。
「今日はどうされたのですか?」
「いつもと同じよ。」
奏はベッドの上に座り直すと、カップを手にしてお茶を啜れば、香りと温かさにホッと心が落ち着く。リズのお茶を飲むと苛立った気持ちがスッと引くのだから不思議だと奏は思う。
「またですか。もう、陛下にご相談してはいかがですか。」
そう答えながらもリズはテキパキと菓子の準備をしている。
「それは無理だよ。公務で拝見はするけど、そんな話できる雰囲気じゃないし。」
「うーん、そうですか…。それにしても、なんで周りの者は何も言わないのでしょうか。本当に腹立たしいですね!」
リズが怒ってくれて、奏の気持ちは軽くなる。
お世話係という立場ではあるが、リズは友と同じように接してくれるのだ。
前の世界では愛美に奪われていた人間関係だった。
この世界に来て、愛美になにかを奪われることはなくなった。その理由は分からなかったが、現にリズは今みたいに愚痴を聞いてくれ、同調してくれる。奏にはそれだけで十分だった。
「遠征があって良かったですね。」
菓子が盛り付けられた皿をリズがサイドテーブルに置きつつそんなことを口にした。
「今回はあちらが行く番ですから、その際は顔を見なくて良くなります。」
「確かに。」
奏はヒョイと焼き菓子を手にしてパクッと口に放る。サクッと歯切れ良い食感に香ばしい香りがたまらない。幸いこちらの世界の料理は洋食と差して変わりなく、奏が口にしたのもクッキーと同じようなものだった。
それを見て満足気な様子で、リズも椅子に腰かけてお茶を口にする。これがいつもの2人のティータイムだ。
「遠征はいつからでしたか?」
「明後日よ。」
遠征とは、一月くらいかけて領土を探索して、騎士団が魔物討伐を行うことだ。
聖女はその遠征に同行し、怪我をした人達の治療や世話をする。
前回、奏が遠征に出た時には城での業務が滞り、奏が城に戻ると仕事が山のように溜まっていた。本来であれば遠征後に長い休暇を取れるはずだったが、奏は戻った日から書斎に缶詰となったのだ。
だが今回は愛美が行くのでそんなことにはならいはずだ。
あんなのは二度とごめんだと奏は思う。
さすがに前回の遠征でそんなことになったから、ロヴィーノも奏にまた遠征へ行くようには言わなかった。
「では、今日はもうお休みになられますか?」
「うーん、クリス様に会ってくる。約束してるから。」
ボソッと言ってからリズを見れば、緩む口許を手で隠して楽しそうにしている。
「仲がよろしいですね。」
「…リズ、貴女が考えているような関係じゃないよ。」
「分かっていますって、分かり合った仲ですよね。」
「リズ!」
「もう奏様ったら照れちゃって、可愛いですね。」
からかわれるのはいつものことだと奏は諦めて、カップのお茶を勢い良く飲み干して逃げるように部屋を出た。
待ち合わせしている来賓の部屋は同じ城内なのだが、奏の部屋とは反対側にある。
城が広すぎると奏はため息をつくが、それで目の前の長い廊下が縮むわけではない。奏は悪態つくのを止めて、クリストフォロが待っているはずの来賓の部屋へと急ぎ足で向かった。
数分は優に歩いてやっと辿り着いたのは、シンプルな木で造られた扉の前。いつも決まってクリストフォロはこの部屋を指定していた。理由は盗聴等できないように魔法がかけられた部屋だからというが、そんなすごそうな仕掛けがあるとは思えない。
そんな一見なんでもない扉をノックをすれば、「どうぞ」と、やわらかい声が返ってきて、ドキッとさせる。
-もう、リズのせいよ…
落ち着かない気持ちを人のせいにして、奏は深呼吸で無理やり心を落ち着けてからゆっくりと扉を開けた。
来賓室と言っても中はシンプルな作りで、長机にソファーが2脚向かい合わせに置かれているだけ。壁も床のマットも暖色系の落ち着いた色をしており、心休まるようなデザインになっている。
そんな居心地良さそうな空間を目にしても、奏の心はドキドキと煩く鳴って落ち着かなかった。それは奏に向けられた視線が原因なのだが、当の本人は気付いていないのか、にこりと微笑んで奏を迎える。
「こんばんは、奏。」
ソファに腰をかけているクリストフォロは、座ったまま奏に向かいの席を勧めてくれる。
「うん。こんばんは、クリス様」
奏がそう挨拶をすると、クリストフォロは困ったように笑って、「様はいらないって言ってるのに」と、言葉をかけてくれるが、まさかと奏は首を左右に振った。
「だって、王子様なんでしょ。ため口…こんな言葉遣いだって本当はダメなのに、呼び捨てなんてできないよ。」
「奏は真面目だね。」
「そうかな」
「そうだよ。良くも悪くもね。」
「うーん…」
「まぁ…だからこそ、私たちはこんなにも助けられてるんだけどね。いつもありがとう、奏。」
クリストフォロに微笑まれて奏の内心は気が気ではない。こんなイケメン日本ではまずいないし、いたとしても奏が話しかけるなんてことは一生かけても起こりえないことだ。
綺麗に手入れされた金糸の長い髪は、後ろで束ねられて背中まで伸びている。瞳の色はダークブルーなのだが、光の加減で美しい海のような青を見せた。
そんな眉目秀麗なクリストフォロはナーレス国の王太子でもあった。
穏やかな雰囲気は王族ぽくないようにも見えるが、心のゆとりがこの国の豊かさを現していると奏は思う。
そんなことを考えていると、神々しいクリストフォロの微笑みが一転して、申し訳なさそうな顔に変わる。
「本来なら聖女の仕事は、治癒と魔物から国を守ることだけで良いんだけど…」
「でも、人が足りてないのでしょ。なら、同じ国に住む人間としてできることをやらなきゃ。」
「奏は優しいね。」
「そ、そんなことない…自分のためだよ。」
奏の言葉にクリストフォロは苦笑する。
「自分のためって…それ以上のことやってると思うけど。」
「そうかなぁ…」
「そうだよ。」
ニコッと微笑みを見せてクリストフォロは両手を顔の前で組んだ。じっと見つめられて、奏はたじろぐ。
「それで…何か困ったことはない?」
問われて、今思っていることを言うかどうするか奏は迷って、結局カップを手にしてお茶と一緒に言葉を胃の中に流し込んだ。
クリストフォロも静かにお茶を口にする。優雅な動作に見惚れていると、彼はクスッと笑った。
「こんなに見られると、恥ずかしいものだね。」
「あ、ごめん。」
「気にしないで。王太子として人に見られることには、慣れておかなければいけないからね。まぁ、あまり得意ではないのだけれど」
「ふーん……なんだか意外ね。そう言うことに、慣れていそうだけれど。」
「そう?」
「いつも笑顔で手を振っている感じ?」
「なにそれ?」
クスクスと笑う彼は楽しそうで、見ているだけで奏は心が洗われる。
「でも本当の僕を知ったら、きっと奏はガッカリするよ。」
「えー、そうかなぁ。クリス様は素晴らしい王子様で、落胆する要素が見つからないけど。」
「ありがとう。」
ふふっと微笑むのは反則じゃないだろうかと思いつつも、奏は速くなる心臓を落ち着かせる。
「それで?愛美のことで困っているのでしょ?何かあったんじゃない?」
「ええ!?なんで、分かったの!?」
「奏は分かりやすいからね。」
クスッと笑われて奏は頬がポッとなり、それを隠すようにうつ向いた。
「奏、ちゃんと話さないと分からないよ。ほら」
「え、ええっと…実は―」
促されて最近の出来事を一通り説明すると、クリストフォロは顔を曇らせた。
「…愛美は確か治癒魔法が苦手だったよね?」
「うん、結界を張るのも嫌がるの。だからこそ、他の仕事をしてもらいたいのだけど。」
「難しそうってことだね。」
「うーん、本人のやる気なんだろうけれど。」
「はぁ…」と、奏がため息をつけばクリストフォロは目を細めた。
「奏がいてくれるから、甘えているのかもね。」
「そうは思えないけど…」
「うーん…」
「クリス様?」
「ああ、えっと、愛美のことは問題だけど、君がそんなに悩むことじゃないよ。だから無理はしないで欲しい。」
「ありがとう。」
「私からも伝えてみるよ。予算は無限ではないからね。聖女の役目を果たせないのなら、他で働いてもらわないと。」
「働かざる者食うべからずだね。」
「フフッ…また奏の母国のことわざってやつかな?」
「ええ、怠けて働こうとしない者は食べていけないって戒めのことわざだよ。」
「それは良いね。」
「でしょ。」
奏がニッと笑えば彼もまた視線を合わせて口許を綻ばせた。
奏がこちらの世界で腐らず頑張れるのは、彼とリズのお陰だった。転移して奏の人生は大きく変化した。聖女としての務めもそうだが、それよりも愛美が一緒でも自分の事をちゃんと見て評価してくれる人が出来たことが、全てを諦めていた奏の心を変化させた。
さすがに王子には色目が通用しないのか、極端に愛美の味方をする様子はないし、こうやって時々話を聞いてくれて過ごしやすくなっている。
「そうだ、はいこれ。」
「わあ…きれい」
手渡されたのはビオラの花束。
「移動中に満開なのを見つけてね。きれいだったから君にも見せたくて。」
「ありがとう。」
「今日も会議ばかりで退屈だったよ。移動も多いし。城の廊下はなんであんなにも長いんだろうね。」
「ふふ…クリス様でもそう思うのね。」
「えっ、あ、うん。これ内緒ね。」
うん、と頷けばクスッと2人して笑ってしまう。
「まぁ、お陰で花を見られたんだけど。」
「とても素敵なお庭なんでしょうね。」
「今度、見に行こうか。」
「えっ?」
「すぐには無理かもだけど、たまには気分転換しないとね。」
思ってもいなかった提案に奏は破顔する。
「うん、楽しみにしているね。」
クリストフォロは穏やかな表情で奏を見つめていたが、ちらりと時計を目にして腰を上げた。
「さて、そろそろ戻った方が良いね。明日も早いのでしょう?」
「え…」
楽しい時間はあっという間で、終わって欲しくないと思うのは我が儘なのだろうと、奏はその感情に蓋をした。
「…そうね。」
「じゃあ、もう休みなさい。いつも付き合わせてしまって、申し訳ないね。」
そう言われれば心のどこかがズキッと痛んだ。
「いえ、そんな…私が好きで来ているので。」
相手にされていない事なんて奏には分かっていた。
だがらこそ隠してきた自分の気持ちだ。
「そう言ってもらえると、嬉しいよ。」
クリストフォロは奏の近くまで来て、手を伸ばしかけたのに一瞬のその手は動きを止めた。奏はそれに気づかずに顔を上げると、彼は何事もなかったようにその手を奏の前に差し出して、部屋の外までエスコートしてくれる。
「じゃあまた。おやすみ。」
扉の前でクリストフォロに言われて、奏は恥ずかしさでうつむきつつも「おやすみなさい。」と、だけ返したのだった。