今更「許せ」と言われても
ふと思いついて書きました。
もしもし。おれだよ。そう、おれ。げんきにしてるか?こっちはうまくやってる。ぎょうせきもじゅんちょうだ。しゃいんだってみんなちゃんとはたらいてる。ぬけたのはおまえだけだ。そこでそうだんなんだが、もどってくるきはないか。きゅうりょうがふまんだったよな?5000えんあげてやる。どうせおまえのことだ、あたらしくはいったかいしゃでもうまくはたらけてないんだろう?おれだけだよ、おまえみたいなやつをはたらかせてやれるのは。ふくりこうせいもちゃんとかんがえてやろう。なに、じゅうたくてあてくらいはだしてやるよ。いまおまえがはいっているかいしゃにはおれからはなしといてやる。だからさ、もどってきてくれないか。なあ、たのむよ。
なあ。
就職浪人を一年した後、なんとか入社した会社は輸入品を取り扱う小さな会社だった。私は事務課に入ることになった。緊張している私に、先輩である髪の薄いおじさんが奇妙なことを言う。
「毎週金曜日の午前11時にかかってくる電話は、必ず僕に代わってね」
金曜日の午前11時、電話が鳴った。何も考えずに私は電話を取り、会社名を告げる。その後、聞こえてきた声を聴いて、私の背筋に冷たいものが走った。奇妙に懐かしくて、おぞましい声だった。
もしもし、えばたさんはいらっしゃいませんか。
「江端でしたら」
江端さんなら、そこで早めのお昼を食べている。確か午後から打ち合わせのはずだ。そう答えようとしたが、その声には何かためらわれるものがあった。喉が急激に乾いてカラカラだ。声が上手く出てこない。それでも答えようとした私の手から、ぱっと受話器が奪い取られた。先輩だった。
「江端でしたら、終日外出となっております」
それだけ言って彼は受話器を置き、私に優しく言った。
「次からは気を付けてね」
「はい。あの、今の電話は」
「うーん…そうだね。入社して君はまだ、一週間だったよね?」
「はい」
「三か月。三か月たったら、教えてあげるよ」
先輩はそう言って、笑った。
それから三か月たった。電話は毎週必ず金曜日の午前11時にかかってきて、私が受けることもあれば、先輩が受けることもあった。二か月もたつ頃には私はもう慣れてきて、先輩の代わりに「終日、外出となっております」と答えるようになっていた。そうすると電話は、不気味な沈黙の後に切れてしまうのだ。
金曜日の夜、先輩と社長が私をちょっといい居酒屋さんへ連れってくれた。江端さんは家に子供がいるので飲み会には来られないということだが、代わりにお祝いをくれた。歓迎会ということらしい。グラスに並々と注がれた純米大吟醸を飲みながら、私は先輩にあの電話について質問してみた。すると、先輩と社長が顔を見合わせた。
「あー、あの電話ね」
「そうです。なんなんですか、あの電話」
「あの電話はね、江端さんの前の勤め先の社長からの電話」
「それがなんでうちにかかってくるんですか。江端さんのスマホじゃなくて」
「うん。着信拒否してるんだって」
「うちもすればいいじゃないですか」
「それがね、いくら対策しても毎週必ずかかってくるんだよねえ」
「じゃあ、その社長にちゃんと抗議すればいいじゃないですか」
「それはね、無理なんだよ」
三年前に亡くなってるからね、その人。
「……え?」
茫然としている私に社長が言った。
「住んでいたタワーマンションの屋上から飛び降りたんだって」
「なんで飛び降りたんですか?」
「会社の経営がね、上手くいってなかったらしいよ。なんでも江端さんが辞めた直後に他の従業員も歯が抜けるようにぼろぼろ辞めだして、それでも経営を続けようと頑張っても上手くいかなかったらしい。最終的には会社は倒産しちゃって、遺体のポケットの中から出てきたの、数十円だけだったってさ」
「なんで死んでも江端さんに電話かけてくるんですか?」
「これは僕が、霊能力者に見てもらって聞いた話なんだけど」
社長が日本酒をあおりながら言った。
「江端さんがね、全部の原因だって考えてるらしい。江端さんが抜けたから会社が上手くいかなくなっちゃったから、江端さんに戻ってきてもらえば会社はうまくいく、何もかもすべて元通りになるって考えてるらしいよ」
「じゃ、あの電話は江端さんを呼び戻すための電話?」
「そうみたいよ。だから江端さんは出さない方が良いって言われた。引き寄せられるかもしれないからって。それでもいっぺんだけ江端さんが出ちゃったことがあってさ」
「あー、ありましたね」
先輩が相槌を打つ。
「なんか聞こえた?って聞いたら、砂嵐とかすかに悲鳴みたいなのしか聞こえなかったって言ってた」
「それ以来、うちはあの電話に『終日、外出となっております』って言うようにしてるんだ」
「お祓いとかやらなかったんですか?」
「やったんだけどね、まったく効果なかったの。毎週必ず金曜日の午前11時に電話がかかってくる」
ありとあらゆる手段を試したが、最終的に諦め、今は放置しているそうだ。まあ害はないからねえ、と社長は言って笑った。おおらかな人だ。話は自然と別の話題に移っていき、帰るころにはさっぱり忘れていた。
「この前の歓迎会に出れなくてごめんね。お昼食べに行かない?」
江端さんから声をかけられたのは、翌週の金曜日、あの電話が終わってからだった。江端さんはすらっとした黒髪の女性で、いかにもデキるキャリアウーマンといった感じの人だ。私たちは江端さんお勧めのイタリア料理店に行き、私はそこでボロネーゼパスタをご馳走になった。
「江端さんは」
「うん?」
「前の会社をどうして辞めたんですか?」
「聞きにくいこと聞くねえ。まあいいや、あの電話の対応お礼に教えてあげるね」
江端さんはグラスの水を一口飲んで言った。
「あの会社を辞めて、今の会社に入ったら、給料がボーナス込みで1.5倍になったの」
「……」
「帰社するたびにお前は役立たずだ、能無しだと罵られることもなくなったし。福利厚生もちゃんとしてもらえるようになった。残業も毎月毎日夜10時までしてたのが、毎日ほぼ定時で上がれるようになった。無茶苦茶な案件に行かせられることもなくなったし、経歴詐称だってしなくて済むようになったの。もう戻る気はないわ」
江端さんはそう言って晴れやかに笑った。
「あの会社にいたころは毎日が地獄だった。ある日、ようやく夏休みをもらって実家に帰ったら、当時93歳だったおじいちゃんがこんなことを言うのよ。私の顔を覗き込んで」
おじいちゃんはね、お国のためにたくさんひとを殺した。だから国からたくさんお金をもらえるんだよ。お前ひとりくらい養ってあげられる。戻っておいで。
「おじいちゃんに心配そうに言われてね、もう号泣した。父も母も、もうその仕事はやめろと背中を押してくれてね。それでやめる決心がついた。でもすぐにはやめられなかったなあ。労基署と弁護士事務所を巻き込んで社長と大戦争。それでなんとか辞めたのよ」
「そうしたらその途端に?」
「そうなのよ。みんなぼろぼろ辞めだしてね」
思うに皆限界だったのだろうと江端さんは言った。
「辞めたのは後悔してないわ。私の人生だもの。私が一番大切」
「そうですよね。そう、なんですよね」
そう言ってうつむく私を、江端さんが不思議そうにのぞき込んだ。
次の週、またあの電話が鳴った。私はためらうことなくその電話を取り、告げた。
もしもし、えばたさんはいらっしゃいませんか。
「お父さん?みずきだよ」
私は固唾をのんで、その電話の答えを待った。数秒後、小さな声が聞こえた。
みずきか。おまえなのか。
「そうだよ、わたし」
みずき、げんきにしてたか?むかしからおまえはきがよわいところがあったからな、しんぱいだ。しんぱいといえば、ようこはげんきにしているのか。あいつはおれがいないとだめなおんなだからな。
「お母さんは、新しいお父さんと結婚したよ。家の中を全部バリアフリーにしてくれるくらいお母さんのことを愛してるの。優しい人で、私のこともかわいがってくれてる」
そうか。ただしはげんきか?たまにはかおをみせろといってやってくれ。そういえばそろそろけっこんしてないとおかしいねんれいじゃないか、いいひとはできたのか。いないならおれがせわしてやろう。しりあいにいいむすめさんがいるんだ。きっとあいつもきにいるはずだ。
「お兄ちゃんならカナダに行ったよ。お兄ちゃんの旦那さんもとってもいい人で、二人で幸せにしてる。養子も今度取る予定なんだって」
みずき、そういうおまえはどうなんだ。いいひとできたのか。おれみたいなしっかりしたいいおとこにしろよ。おまえはあんまりかおもよくないし、べんきょうもうんどうもできない。だったらきちんとしたいいだんなさんをみつけて、やしなってもらえよ。けっこんしきするなら、ばーじんろーどはとうぜんおれとあるくよな、な?
「私だって彼氏出来たよ。お父さんとは比べ物にならないくらい誠実でやさしい人なの。ヴァージンロードは新しいお父さんと一緒に歩くことになってる」
そんな。じゃあおれはどうすればいいんだ。おれは。
「お父さんのこと、もう誰も何とも思ってない。みんなそれぞれの新しい人生を歩んで、幸せに生きてるの。だからお父さんを許してくれる人は、もういないの。誰もお父さんに関心を持ってないから」
そんな。ゆるしてくれ。たのむ、ゆるしてくれ。おれはいいちちおやで、りっぱなしゃちょうで、いいおっとだったんだ。ゆるしてくれるよな、な?たのむ。
もうとびおりたくないんだ。
電話はぷつりと切れた。私は受話器をかちんと置いて、顔をあげた。その場にいた社長と先輩と江端さんの三人が、私を茫然とした顔で見ていた。江端さんがぽつりと言う。
「小口さん、社長の娘さんだったの?」
「うちの母、杖がないと歩けないんですよ」
あの後、業務が終わってから私たちはみんなで歓迎会を開いてもらったちょっといい居酒屋さんの個室に来ていた。何か聞きたそうだが、言い出せない三人に対し、私はこう切り出した。
「なんでだかわかります?父の浮気相手が、駅のホームの階段から、母を突き落としたからですよ」
結婚をせがむ浮気相手に、父はこう言ったのだという。残念だが俺には妻がいる。彼女がいる限り、俺は君と結婚はできないんだ。もう当時ぎりぎりの年齢だった彼女は、思い余って凶行に及んだのだ。今、彼女は執行猶予の罪付きで、どこか遠くの地でひっそりと生きている。人生を台無しにしたのは父だ。
あの事件の後、母は離婚した。私が名乗っているのは、連れ子の私を養子に取ってくれた、心優しい継父の苗字だ。
「うちの兄は、ほとんど日本人の友人がいません」
父が兄の恋愛対象が、異性ではないということを周囲にばらしたからだ。なかなかの進学校にいた兄は日本での大学受験をあきらめ、逃げるようにカナダのトロントへ行った。今はあちらで医師の試験に合格し、幸せに暮らしている。だが、彼が日本へ帰ってくることはない。これまでも、これからもだ。
「私には、親友がいました」
今はもういない。年上の男性との火遊びに夢中になった彼女は、素晴らしい未来を捨て、拒食症と過食症を繰り返し、挙句の果てに命を絶った。私の手に残されたのは、とても言えない秘密と、ブランドものに見せかけた偽ブランドのバッグだけだ。そして親友の言葉。ねえ、私けっこう楽しかったよ。
ヴァージンロードは、もう歩けないけど。
「あの人が許されることは、きっとないと思います」
電話はあれ以来、来なくなった。