世界は流転する
神聖歴990年 春 フレイヘルム公爵領フレイガルド
広い屋敷の中で白髪の老人が老骨に鞭打ち、メイド服姿の幼い少女と共に尋常でない形相で走り回っていた。
「お嬢様。ルイーゼお嬢様。どちらにおられますか。はあ。まったく」
老人は声を張り上げながら走っていたが、ついに力なく倒れ込む。
「大丈夫ですか。ホド爺」
少女が息の荒いホド老人の背中をさする。
「申し訳ありません。メリー様。わしがもっとしっかりしておれば。ルイーゼお嬢様のお転婆は本当に困ったものですな」
ホドとメリーは御年五歳の幼き主人ルイーゼを探し回っていた。
つい先ほどまでルイーゼは従者であるメリーとともに世話役であるホドの授業を受けていたのだが、ほんの少しの休憩時間に姿をくらましてしまった。
もっとも、これはいつものことで、じっとしていられないルイーゼにはホドもメリーも毎度手を焼いていた。
ホドはルイーゼが何をしでかすか、いつも気が気ではない。
「大丈夫。ホド爺が気にすることじゃありません。私一人で探してきます。今日こそはルイーゼ様に授業を受けていただかないと」
メリーはルイーゼの従者として預けられたフレイヘルム家に仕えるトート伯爵家の娘だ。
ルイーゼよりも三つ年上なだけでまだ子供だが、しっかり者でホドはいつも助けられている。
「メリー様だけでは危のうございます。わしも一緒に」
とホドは言うが、歳のせいか足腰が弱く、とてもルイーゼと鬼ごっこができる状況ではない。
が、しっかり者とはいえ、まだ子供であるメリーを一人で行かせるのが、ホドは不安でしょうがない。
「心配ご無用です。ルイーゼ様がどこにいるのかは大体わかります」
メリーはそうホドを押し切ると、トコトコと歩いていく。
「もう、ルイーゼ様はいつも抜け出してばっかり。でも今日こそは捕まえて見せますよ」
メリーは屋敷の奥、ハインリヒの寝室である部屋の付近まで来ていた。
その部屋にはフレイヘルム家に代々伝わる神器が飾られていることは屋敷にいる誰もが知っている。
ルイーゼがしきりにその神器を見たがっているということも。
娘を溺愛するハインリヒ・フォン・フレイヘルム公爵は娘のわがままを何でも聞いてしまうが、成人するまでは、とその部屋だけは絶対に立ち入らせようとしない。
そのことが余計に好奇心旺盛なルイーゼを駆り立てる。
困ったことに部屋の番人であるハインリヒは今日、屋敷を留守にしている。
「ルイーゼ様。どこですか。ルイーゼ様」
メリーは不安げな表情を浮かべながらゆっくりと歩いている。
彼女はこの場所が好きではない。子供心にその部屋には何か恐ろしいものが潜んでいるような気がしてならないからだ。
「どこだろう。もしかして、もう寝室の中に」
今までルイーゼが部屋に入る前に捕まえていたが、今日に限ってはなかなか見つからない。
後は部屋の中を調べるだけだが、入らないようにと厳命されているのでメリーは扉の前を行ったり来たりしながら入るべきか迷っていた。
「きゃあああ」
ノックして声をかけようとメリーが決意した時、大きな扉の向こうから叫び声が聞こえる。
ルイーゼの声だ。
「ルイーゼ様! 大丈夫ですか!」
メリーは主人の悲鳴に考える間もなく部屋に飛び込む。
扉を開けるとカーテンの閉められた暗い部屋にルイーゼが一人うずくまっている。
その前には神器と思わしき一本の古びた長剣。
「ルイーゼ様。お怪我はありませんか」
メリーはルイーゼに近づき声をかける。
「来るな。メリー」
ルイーゼは大汗をかいていて、真っ青な表情で、息も荒い。
尋常ではない様子だ。
「駄目ですよ。もう私は騙されません。早く授業に戻りましょう。ホド爺も待っています」
純真無垢なメリーはルイーゼのことをなんでも信じてしまう。それ故に何度も騙された。
今回もまた逃げ出すための演技か何かだろうと躊躇なくルイーゼの方に向かっていく。
「これが神器ですか。勝手に触ったら怒られますよ」
メリーはルイーゼの前に落ちている古びた長剣を拾い上げようとしゃがみ、手を伸ばす。
「そ、それに触れてはならん」
ルイーゼが叫ぶが、もう遅い。
メリーは様子がおかしいルイーゼに若干の違和感を覚えつつもその長剣に手を伸ばす。
「きゃあああ」
古びた長剣に触れるとメリーの頭の中に忌々しい未来が流れ込んでくる。
いや、何かにせき止められていた本来の記憶が、一気に溢れ出てきたような感覚だ。
恐怖、悲しみ、怒り。様々な感情が同時多発的に体中を駆け巡る。
メリーはその小さな体では受け止めきれずに床に倒れ込む。
「メリー。しっかりしろ。メリー」
ルイーゼがメリーの体を起こす。
「うう。痛い。ルイーゼ様。思い出しました」
メリーはずきずきと痛む頭をおさえる。
「メリーまで記憶が戻るとは。どこかおかしいところはないか」
ルイーゼは心配そうにおろおろとしている。
「よかった。あなたが生きていてくれて本当に良かった」
メリーはルイーゼに思わず抱き着く。
「無茶ばかりしおって。この愚か者が」
ルイーゼとメリーは涙を流しながら、お互いに抱き合い額をこすりつける。
「これは神器クロノスですか」
メリーはようやく落ち着きを取り戻し、さっき触れた長剣のことをルイーゼに問う。
この古びた長剣に触れたことによってルイーゼとメリーは十数年先の未来を見た。
いや、思い出した。
二人は未来を幻視したのではなく、世界の時間が巻き戻ったことで忘れていたすべての記憶が鮮やかにそして痛烈に蘇ったのだ。
そんな芸当ができるのは人智を超越した存在である神器だけだろう。
「間違いない。時間が巻き戻ったのだとしたらそうだろう。クロノスは時間をつかさどる神だと言われているからな」
クロノスはただの切れ味のいい剣ではない。
時を巻き戻す強力な力を持った神器ということになる。
ルイーゼは再び、古びた長剣、神器クロノスを手に取る。
すると突然、鈍い音とともに剣身に亀裂が入り、ばらばらと崩れ床に落ち、たちまち灰になってしまった。
「馬鹿な」
「不吉です」
ルイーゼもメリーも一様に驚く。
千年も前からあると言われる神器は滅多に壊れることはない。
その神器が壊れるというのは災厄の始まりを意味する。
「時間を巻き戻したのだから、力を使い果たしてもおかしくはないか」
ルイーゼは考える。
どんなに強力な魔法を用いても、一秒も時間の流れは止めることはできない。
ましてや巻き戻すことなど不可能に近いだろう。それをクロノスはやってのけた。
しかし、いくら神器の力とはいえ、世界の理を大きく歪めてしまったことには変わりない。
「大丈夫なのでしょうか」
メリーが不安げな顔をする。
利口な彼女もルイーゼの悲劇的な死を回避できてうれしい反面、大ごとになるのではないかと怖がっている。
「案ずるな。メリー。命あっての物種だ。死にさえしなければどうとでもなる。たとえどんな災厄が降りかかろうとすべて跳ねのけてしまえばよい」
ルイーゼは自信に満ち溢れた表情で震えるメリーの頭をなでる。
「ルイーゼ様は変わられました」
「私が変わった?」
「本当のルイーゼ様に初めて会った気分です」
メリーは天真爛漫のあどけない笑顔を向ける。
皇帝ルークに殺されそうになった時、不本意ながら呪縛が解け、完璧な貴族令嬢としての表情を張り付けていたルイーゼはもうどこにもいない。
今はただ生きようと懸命にあがいている。
ルイーゼはそうかもしれん、と笑う。
「本当の私をどう思う。メリー」
「とっても素敵だと思いますよ」
メリーは優しく、そして嬉しそうに微笑み返す。
二人はこれから新しい激動の人生を歩むことになる。
散々、感傷に浸った後、ルイーゼとメリーが、これからどうするべきかと思案していると
「ルイーゼお嬢様ぁ! どちらですかぁ!」
と連呼しながら血相欠いてホドが寝室に駆け込んでくる。
「あっ。すっかり忘れていました」
メリーは、はっとした表情だ。
ルイーゼを授業に連れ戻すという本来の目的をすっかり忘れていた。
ホドは老体にムチ打ち、今までずっとルイーゼを探していたのだと思うと悪いことをしたと思う。
「どうした。ホド爺。説教ならばあとで」
ルイーゼはさっきまで見たくもなかったホドの顔が、今はとても懐かしく感じる。
「御屋形様が。御屋形様が」
もう少しゆっくりしたいルイーゼだが、ホドは尋常ではない様子だ。
温厚なホドが、子供の説教ごときで取り乱すはずがない。
「父上がどうかしたのか。ゆっくり話せ」
メリーがホド爺の背中をさすって落ち着かせ、ルイーゼが問う。
ルイーゼに不安がよぎる。
五歳児であったころの記憶はあまり鮮明に覚えていない。が、父であるハインリヒになにか重大なことが起こったという覚えはないことはわかる。
そうであれば記憶に深く刻み込まれているはずだからだ。
「御屋形様がお倒れに」
予想が最悪の形で的中し、ルイーゼから血の気が引く。
「そ、そんなはずは。父上は健康なはずだ。倒れるなどということあるはずが」
ハインリヒはルイーゼの知る未来ではルークに帝都で襲われた時も存命だった。
病気一つしたことがないというのが、父の自慢だったことをルイーゼはよく覚えている。
「ルイーゼ様。とにかく急ぎましょう。今なら回復魔法も使えます」
メリーが混乱するルイーゼを諭す。
記憶と一緒に魔法の使い方も思い出している。未来ではルイーゼとメリーは当代きっての魔法の使い手だ。回復魔法であっても専業の医師に引けを取らない。
「ホド爺。父上は今どこに」
「執務室に。侍従医が処置をしております」
ルイーゼとメリーは執務室へと駆ける。
なぜルイーゼたちの知る未来と同じにならないのか原因はわからない。
単純にルイーゼたちが違った行動をとっているから変わったのか、クロノスによって世界が歪められたからなのか、それともその両方なのか。
いずれにせよ、未来を知っているということはもはや何ら役に立たない。
(だが、知識や知恵、経験を取り戻したのは大きい。魔法さえ使えれば父上も救えるはずだ)
体は成長を待たなければならないが、頭は十分すぎるほどに働くし、もう一度何かを学びなおす手間もない。
(今は集中しろ。ここで父上を失えば私もフレイヘルム家も終わりだ)
ルイーゼは全身に魔力を循環させて、身体能力を極限まで引き上げ、広く長い屋敷の廊下を駆け抜ける。幼い体には負担が大きいが、今は時間が惜しい。
(籠の中の鳥になるのは御免だ)
フレイヘルム家にはルイーゼ以外に子供はいない。
現当主であるルイーゼの父をここで失えば、何の後ろ盾もなく幼いルイーゼしかいないフレイヘルム家はすぐにほかの貴族の食い物にされてしまうだろう。
「父上!」
ルイーゼとメリーが父のいる執務室の扉を勢い良く開き、中に飛び込む。
床には血がまき散らされており、奥の机の前にはハインリヒが倒れている。苦しみもがいたのだろうか、手の形をした血痕が棚や机にべっとりとついている。
「なにを黙って突っ立っている。邪魔だ」
ルイーゼは沈痛な表情の医師と従者たちを押しのける。
「父上。父上。まだ逝ってはなりません」
懸命に呼びかけながらルイーゼは魔法陣を展開し、回復魔法をかける。
が、ハインリヒの顔は青白くなる一方だ。
「ルイーゼお嬢様。私が来た時には手の施しようがなく。御屋形様はもう」
見かねた医師が、ルイーゼを止めようとするが払いのけられてしまう。
「ルイーゼ様!」
メリーが声を張り上げ、ルイーゼの手を引く。
「わかっている。私はわかっている」
ルイーゼは自分に言い聞かせるようにそういうとまだ温かい父親の胸に顔をうずめる。
「これが代償なのか」
ルイーゼは天を仰ぐ。
世界の理を歪めた代償が、一人の死で済むなら喜ばしことなのかもしれない。
だが、今のルイーゼには大きすぎた。
これで終わりであるとも到底思えない。
ハインリヒ・フォン・フレイヘルム公爵はまだ幼い娘、ルイーゼと広すぎるフレイヘルム公爵領を残して、この世を去った。