いつかの氷の花
暑い夏の日だった。
既に何百何十年も生きているのに歳をとらない美しい顔。白く透き通る肌に瑞々しく控えめな赤い唇。腰をゆうに超える長さの髪は雪の結晶のように銀色でキラキラと輝いている。
そんな私は雪女である。
雪女だからと言って、暑さで溶けてしまうという事はない。
私はただ、数年だか数十年前だかに雪山で遭難していた男が、私のことを口にしたから。
「決して誰にも私の事は言ってはいけない」という約束を違えたと直感的に感じたから、わざわざこんな暑い日の虫の声が耳障りな田舎の家まで出向いてやったのだ。
街灯も少ない田舎の片隅に暮らす男の家の周りには木や田んぼばかり。隣の家を訪ねるにも家の前から見える範囲に他の家など見えないから、余程離れているのだろう。
だから、この家で何かが起こっても誰も気づかない。
刀を持って出歩く人間が減った昨今、賊が武器を手放す理由など無かった。
屋内に足を踏み入れれば、錆臭い匂いが鼻に付く。
一人暮らしだろう家屋で家主を片付けた男たちは、場違いな私の登場に呆けた顔をして固まっている。
人間の事情になんか興味はない。
奥で壁を背にして座る男に近寄れば、以前見た時よりも髪は痛み、体も青年だったそれより成熟した壮年の男の体になっていた。
肥えているわけでなし、不細工というより整った顔のこの男が独り身であったか。
腹部に刀を刺され、致命傷を受けただろう場所に手をかざす。
一時的に凍らせて出血を止めただけだ。人間の脆さで考えれば助からないのは目に見えて明らかだった。
私の行動を見てやっと人ならざるものだと気づいた男たちは、音を立てながら逃げ出そうとするが、軒先を出た時点で全員が地面から突き出た氷柱に貫かれる。
後ろを振り返る事もなく、ただ細く息をする目の前の男を複雑な気持ちで見下ろした。
「話せるのか」
端的に問えば途切れ途切れに「……少し、なら」と返ってくる。
「私の話を、しましたね。私が来るとわかっているなら、賊に押入られた時点で口にすれば、自分の寿命が少し延びるとは考えなかったのですか」
表情もなく見つめて問えば、男はぎこちなく、動かない体をどうにか横たえ、私を見上げて笑った。
「そんな手が、ありましたか……。気づきませんで、……ゲホッ」
人好きのしそうな笑みに不可解さに理解が出来ない。
なぜ笑う?なぜ呼んだ?
私の不可解さを滲ませた表情を見て男はヒューヒューと呼吸をして穏やかに話す。
「きっと貴女には、わかりません。若かりし頃に雪山で遭難した私を気まぐれに助けただけの、貴女には」
続きを促すようにじっと見つめると、男は血濡れの手を挙げ、私に触れようとした。
しかし、己の手が汚れていることに気付き、手はノロノロと降ろされる。
なんとなく面白くなくて、その手を私の手で握れば、やはりまだ生きている男の手は十分に私よりも暖かかった。
「ずっと、お慕いしておりました……こうして最後の時に、一目会いたいと、貴女との約束を違えてしまい、もうし、わけ……」
握る手から体温が抜けていく。男の目から光が落ちていく。
それをただただ見つめながら、人間の愚かしさに何も言えない。
たまたま見つけた軟弱な生き物を、なんとなく手当して、世話をしただけだ。
長い時を生きている間の暇つぶしとして、ただそれだけだったのに。
「馬鹿なひと」
そっと男の目を閉じさせてやる。
そのままというのも憚られ、雪の花を手向けた。
きっと私のこの胸の痛さも、いつか溶けて私の一部となって消えるのだろう。
人と関わるとろくなことにならない。
気持ちに蓋をするように、私は今までよりも雪深い山奥へと、帰った。
あれかや早幾年。
人は学ばないものとは聞いていたが、まさか妖たる自分まで当てはまるとは思わなんだ。
人間の科学やら技術というものの進歩が災いし、今や人間が足を踏み入れていない場所を探す方が難しい。
一人で過ごせる場所がないようなものだ。
まぁ人間が私が住んでいるような雪山の奥深くに来ることなど多いことではないが。
それにしても厄介な事というのは忘れた頃に戻ってくる。
雪山深くの何もない洞穴に赤子を捨てて行った夫婦らしき人間が雪崩に巻き込まれて死んだ。
雪崩に巻き込まれて人間が死ぬ事自体珍しいことではないのでなんとも思わないが、捨てられた赤子がまだ生きていた事の方が興味が湧いた。よくもまぁ脆弱なのにここまで来れた事。
放って置けば野生の動物に食べられて終わりだろうが、滅多に見ない赤子だ。
いつかの気まぐれのように持って帰ってしまった。
その赤子はあまり泣くこともなく、妖にしては気が長い私だからこそ無事に育ち、義務教育なぞが必要だと旧友たちが首を挟んできたものだから。
仕方がなく人間を装い小学校とやらを卒業するまでは養った。
中学生になる頃には男子たる我が子は見た目にはもう子供らしくもなく。
幾人かの知人に後見を依頼し、私自身は煩わしい俗世から切り離された我が家へ帰る事とした。
「母さん、もうこの家には帰ってこないのか?」
人ならざるものに育てられたにしては物分かりも良く、聡明でいて大人しい。雪女に育てられた自分の異常性も早くからわかっていたようだ。表情に関してはあまり豊かとは言い難い上に、話し方には棘もあるが、見た目が悪くないので問題はないらしい。
そんな我が子が珍しく悲しみを瞳に移しながら問うものだから、思わず私よりもずっと温かいその手を握り、安心させるように微笑んでやる。
「八重、二度と会えない訳ではないよ。忘れない頃には見に来る」
我が子の名前を呼びつつ、目線を合わせた。
「八重、わかっているとは思うけれど、私が雪女だという話は誰にもしてはいけないよ。もし話してしまったら」
「母さんが俺を殺す。わかってるよ」
八重はため息をつきつつ手を握る力が強くなる。
私はもう片方の手で頭を撫でてやった。
「良い子だね。ねぇ八重、お前は私の子だ。もし命が関わるようなことがあれば、一度はお前を助けてやろう。良く考えて、私をお呼び」
頷く息子を満足気に見下ろしてから、私は姿を消した。
あの約束からどのくらい経ったのだろう。
まだ昨日かと思うくらい最近な気もしたが、以前よりも身体が出来上がった息子の姿を見るに、数年の時は過ぎていると思われる。
息子が一度だけと約束した呼び出しを、まさかこのタイミングで使うとは。
「八重、どうして今呼んだの?」
呼び出され急いで現れた場所は息子の私室。
以前と内装はそんなに変わらないこの部屋を、異常な文様が壁や地面を埋め尽くす。
私でさえわからない力は部屋全体を包み、室内にいる息子と急に現れた私までも包み込もうとする。
生命の危険がないとは言い切れないが、宜しくはないものだろう。
氷で部屋を凍らせようとすればその不可解な力で抑えられてしまうのだから。
何かしても無駄かと諦め、早々に息子の意図を確かめる。
「今呼ばないと、二度と会えない気がしたから」
平然と告げる息子の親離れできていなささを嘆く間も無く、私たちは世界から消えた。
気がつけば左手が息子の手と繋がれていた。
いやその事よりも、世界が違う事に着目すべきか。
広い部屋に数十名の人間がいて、その人間達に円形に囲まれている。
人間の見た目は私達が住んでいた日本とは少し違うようだ。毛色が違うし顔立ちも違う。
空気に関して言えば、全く別物。
私が自然や空気から得ていた食事代わりとなる力が、密度や中身を変えて凝縮されているような、不自然な空気感。こんなもの元いた場所にいれば耳に入った筈だ。
食事の質が違うが、摂取出来なくはない。力は今まで通り使えるだろうか。
試しがてら囲む人間との間に氷の壁を作って見たが、全く問題はなかった。
「……状況を考えて」
ポツリと呟かれた言葉とため息は八重のものである。
「八重、ここは世界が違うようだけど、お前のせい? 」
無言で首を振っている。よくもまぁ第六感で私を呼び出せたものだ。
氷の壁を見て「魔法だ」だの「こんな力が異世界に」などと言っていた周囲が静かになった。
数人が同時に何事かを唱え、一部の壁が溶けていく。
目をすがめて見つめる。人が五人は並べるくらいに溶かされた其処から、壮年の男が護衛らしきものを従え立っていた。
「突然の状況、大変驚かれていることと思います。まずはお詫びを。貴女達を許可なく我々の世界に召喚したこと、申し訳ありません。私はこの国にて宰相を務めておりますリマです。
僭越ながら私が状況を説明させていただきます」
はたして聞く必要などあるのだろうか。
どちらでも構わないので八重に任せようと目線で問えば、八重は無言で頷くと、一歩前に出た。
「聞かせてください」
簡単にまとめればここは魔法が使える異世界である。
この世界には魔王とやらがいて、人間との間に長く続く諍いがあった。その魔王が総ている領土との和平交渉が持ちかけられ、半年後に行われる次第になったが、和平を平等な条件で結ぶためには人間側もそれなりの力を持っている事を誇示しなければならないと。
力が無ければ従属国となるのは元の世界とてあった事だ。しかし異世界から力があるものを呼び出してどうにかすると言うのは無理があると思うが。
どうやら今の魔王は穏健派らしく、一度和平を結べばしばらくは平穏を保てると踏んでの事らしい。
呼び出された八重はこの世界で言う魔力が桁違いに多いらしく、その気になれば魔王と肩を並べられるということだったが、もちろん本人に戦う意思などない。
魔法を学び使えるようになり次第、和平の交渉の場に付き添う事を頼まれていた。
今はこの世界にあった服に着替えさせられているらしいが、私には関係ないだろう。
着替えを勧められたが私はこの白い着物が気に入っている。断った。
八重も断ろうとしていたが、休憩がてら着替えてからその後の話をと言われ渋々ついていった。
この世界は妖怪の類はいないのだろうか。
宰相の話では魔物と呼ばれる生物がいるそうだが、私の同胞ではなさそうだ。
少し見て回ってみるのも面白いかもしれない。
最初に氷を出したせいか私の近くに人間はいない。
通された個室のドア付近に侍女は数名いるが、緊張して固まっている。
そのドアを気まぐれに凍らせれば悲鳴が上がった。
「母さん、悪趣味だよ」
言葉が聞こえ次いでドアが開く。
こちらの世界、以前見聞きした少し前の西洋人の物に似ている服は八重に似合っている。
「馬子にも衣装だねぇ」
異常な状況というのに少し浮かれているせいか気分は悪くない。
八重は「二十歳の息子に言う台詞じゃないと思うけど」とごちながら私の隣に座った。
「お前、もう二十歳になったの」
「……おかげさまで」
ムッとしている八重は機嫌が良くはなさそうだ。
最後に会ったのが八年前。八年と言えば人間で言うと長いのだろうか。
八重がこの状況だけではなく私に対しても面白くなさそうではあるが、そこまで怒っているわけではないのだろう。
八重は私の性格をわかっているのか話題を変えた。
「一応、元の世界に戻る方法はあるらしい。でも、信用はできないね」
確かに、前置きなく呼び出され、無事に返してやると言われても信用はできない。
この世界について無知なようなものだ。見知らぬ人間の言ったものを全て鵜呑みにすべきではない。
それで、と先を促せば八重は続けた。
「今までの歴史上数名、召喚されている。その数名のうちの一人が帰ったらしいけど、無事帰れたかの確証はない」
この話が正しければと前置いた上で八重は私を見る。
「俺が帰還の魔法を覚えたら、数度の実験の後俺が帰って、母さんを呼ぶ」
二人同時の帰還は危険を伴うという判断。
私ならばまぁ、八重が呼べば世界を渡れるような気もする。私は話をされればその者の場所に移動できる。そういう生き物だから。
賛同する意味を込めて頷けば八重は安心したような息を吐き、椅子に背中を預けた。
「ところで、私を不躾に見つめる輩は処分してもいいのかしら?」
開いたドアの向こうに八重と変わらない年に見える男女が立っていた。
顔立ちの似ていることから双子か兄妹だろう事はわかる。
護衛も付いているし、服装も華美なものだから身分も高いのだろう。
私を見つめる青年と、八重に見とれる少女は私の発言で護衛が立ちはだかり見えなくなった。
護衛の中心にたつ男が警戒を顕に口を開く。
「勇者殿のご家族であれ、王族への過度な発言はお控えください」
勇者。八重は大層な役職を頂戴したようだ。認めてはいないみたいだが。
護衛の後ろから下がれと声がする。
渋っていた護衛も強くは出れぬのか、道を開けた。
出てきたのは先程の青年と少女。私の発言か状況から気持ちを切り替えたのか、二人とも先程よりも引き締めた表情をしている。
「勇者殿の母君にたいし、不躾に見てしまい非があるのはこちらだ」
青年はこの国の第三王子だと名乗ると私の前に膝をついた。
どよめく周りを気にもせず続ける。
「余りにも貴女が美しいもので。花に気を取られた私をお許しいただけませんでしょうか?」
甘い顔が切なそうにして私の手を取ろうとした。
しかしその手は叩き落される。
私の息子によって。
「失礼。母は大変な対人恐怖症なもので。触れると混乱して王子様に怪我をさせてしまうかもしれません」
呆れながら八重を見やるも息子は王子と見つめ合い気づかない。
どうでもいいかと頬杖をつけば、王子に隠れていた少女が出てきて八重の手を両手で握った。
「お母様と兄を助けていただいたんですね。ありがとうございます。私はマリーベル、この国の第二王女にしてこちらの愚兄の妹でございます。是非私のことはマリーと」
「私は潔癖症なので触らないでください」
不快感を前面に出し八重は王女の手を剥がすが、王女の目はキラキラと輝いている。
妹への対応に王子との間にはさらに火種が増したようだ。
ここに居るのも飽きたので八重に声をかける。
「八重、半年後にここに戻るから良い子にしているんだよ」
私の発言に八重以外はギョッとしていたが気にせず席を立つ。
「よく知りもしない場所に女性が一人で出歩く物ではありません!」
叫ぶようにして言う王子は気にせず、八重は半目になりながら大丈夫なのかとだけ聞く。
「知らないが、大丈夫だろう。私でさえどうにもならないのが居れば、近づかなければ良い話よ」
「気をつけて」
にこりと笑いかけて姿を消した。
妖怪と言えばあちらの世界では直ぐに恐れられたものだが、妖怪という存在がないこちら側では姿を見ただけでは怯えられることもない。
人間の味を好むとある妖怪のように見た目が異形であれば話は変わっていただろうか。
驚かせ、怯えさせるのが娯楽のようなものだ。美しいとされる自分の姿を嘆く日が来るとは思わなんだ。
気まぐれに力を使い、気まぐれに世界を歩く。
私の話をした者のところへ移動できるのか、こちらでも試したいところではあるがその為には「雪女」なるものの説明もいるのだろうか。
今まで考えたようなこともない事だ。
移動すれば空気中の力が様々な変化を見せ、味は楽しめるが、雪女とはそういうものだと一言で説明できる分、あちらの世界の方がいいな。
ふらりふらりと彷徨いつつ、もうじき八重との約束かと思った頃。
呼ばれた。
八重ではない、何者かが「私」の話をしている。
本能的にわかる大体の方角からして、八重やあの城の人間ではないだろう。
魔王とやらが統べる国の方角。
自分の力を試すにはちょうどいいと思い、そのまま移動した。
私が来た場所は八重がいる城とそう変わらない絢爛さのある部屋だ。
文化の違いか少し趣は違うようだが、作り自体は似たような物に見える。
私が現れた事に驚く男女が一人ずつ。
男は髪も肌も黒く、目だけが赤い。髪の長さは後ろが首元を隠す程度で、前髪はそれほど長くはないので整った顔がわかる。服で見えないが首元から頬にかけて模様のようなものが見えるし、耳が人よりも尖っているようだ。
女は赤く長い髪を後頭部の高い位置に一つにまとめている。こちらも肌は黒く、頬に模様がある。こちらは黒い尻尾のような物まで付いているらしい。猫のように尻尾はピンと伸びて驚愕具合が見てとれた。
これが、魔族。
世界は違えど人間の味は変わらず、私の好みではないが、似て非なる魔族がどんな味がするのか興味がなくもない。
突然の侵入者に呆気にとられていた二人だが、女の方が正気に戻るのが早かった。椅子に座っている男は未だ書類の乗った机に手をつき固まっているが、その男の襟元を掴み怒鳴る。
「アイラト!幻覚か何かで誤魔化す気か?!いい加減国の代表としてだなぁ! 」
「……雪女? 」
女の声も聞こえているのかいないのか。
呆然と呟いた男は目の前の現実が夢であるかのような表情だ。
男の様子に女は不審そうな顔をした。
「ゆきおんなぁ?それさっきあんたが言ってた生まれる前云々の世迷言でしょう?」
怒り収まらぬ顔で男の襟元を離し、私を指差す。
「この、厳正な入城審査のある、厳重な魔王城に、この国たっての力を持つあんたの執務室に!どうやって侵入するってのよ?! 」
「……知らん」
「はぁあああ?!」
どうやら私を呼んだのは男のようである。
男に見覚えはない。しかし言葉を聞くに今の男と約束を交わした訳ではないようだ。
男達から理解できないなんらかの力は感じられるが、食べられるだろうか。
力を打ち交わせば試食くらいはできるかもしれない。
八重に約束した手前無茶はできないが、遊んでみるくらいはいいだろう。
未だ喚く女と正気かわからない男に手を向けた。
空気中に現れた氷柱は二十と少し。
細く長く鋭利なように作り、全てを二人に向けて放つ。
男が一瞬にして攻撃された事に瞬いた次の瞬間には見えなくなった。
見えない壁にぶつかった氷が粉々になり崩れていく。
冷気で微かに空気が白くなったが、直ぐに視界は晴れた。
男は片手を前に翳し細身の刀を持ち、女もこちらを向き男の物よりも大振りな剣を構えている。
「ガリーナ、俺はまだ信じられない」
「アイラト、私にわかる事は二つだよ」
言うが早いか女はこちらに斬りかかってきた。
氷の壁に阻まれ剣はこちらまで届かない。しかし切り口から氷が蒸発したような音と湯気が出ている。
「この女は人間でも魔族でもない! 」
剣の熱が上がり氷の壁が破壊される。
剣と女の持ち手から炎が上がる。
「魔王であるあんたを襲った、敵だ! 」
面白い。
私に攻撃する際にほんの僅か、剣の周りの空気が女の力の味になった。
炎を操る女の力は私から見れば美味くはないが、興味深い。
襲い来る刃を直に触れる。
触れた場所から凍りつく剣は掴んでいれば女の手も飲み込んでいく類だ。
驚愕に目を見開く女は直ぐに剣を離し距離を取った。
いくつも作られた火の玉は、私に触れる前に霧散する。
少々煩わしく感じて女に氷の粒手を纏わせれば、女は姿を消した。
「っ!アイラト!そいつは危険だ!一旦退け! 」
男の後ろに移動した女を見るに今の移動は男によるものだろう。
男は女を一瞬見たが、直ぐに視線をこちらに向けた。
「……まるで夢でも見ているようです」
私から放たれる氷柱は男の手前で消える。
男は何事もないかのように私の氷を消してはいるが、私に何かするつもりはないようだ。
繰り返しても無意味。
そう判断して攻撃の手を止めれば、男は目元を緩ませた。
「俺には過去に生きた記憶があります。そこで、貴女と会ったのです」
「アイラト?! 状況わかってるんでしょうね?! 」
後ろから吠える女に男は「とりあえずまた後で」と言って強制的に移動させたようだ。
この騒ぎで誰も駆けつけてこないのだから女も男がなにかをするまでこの部屋には近付けない。
荒らされた部屋に奇跡的に残ったソファを勧められたので、ひとまず座ってみる。
この男、何がしたいのだろう。
男は執務机の椅子ではなく私の側の床に膝をついた。
「生まれ変わってなお、貴女をお慕い申し上げます。……桜さん」
最後に付け足された名前を聞いて私の記憶が巻き戻される。
いつか私の気まぐれで拾った人間。
怪我をしていて、完治するのに時間がかかり、共に過ごす上で名前が無ければ不便とのたまり、勝手に私に名付けた青年がいた。
勝手に名付けておきながら、死に間際には名付けた名を呼ばずに一人でに散っていった、愚かで馬鹿な男。
もう何百年も昔だが、私をその名で呼ぶのは一人しかいないのだから間違いはないんだろう。
名は、たしか。
「……いや、興味ないな」
私の呟きを拾って苦笑する笑顔は初めて見る顔だ。
なのに何処か面影を拾うのは私が思い出したから、重ねてしまうのか。
「俺を覚えていないのは承知の上です。ただ、貴女に伝えたい自分の我儘でして」
ところでと前置かれ、現況を聞かれたが、面倒だから八重の元へ戻った。
もう会うこともないかと思われた男とは、意外にも直ぐに相対することとなった。
八重に付き添い向かった魔王領との和平交渉。
両国の中間にほど近い人間側の領土で行われたこの場には人間の兵士がひしめいている。
中央に張られたテントの中にいるのは限られた者たち。
王族の代表として第三王子、横には八重を見つめるいつしかの第二王女もいる。
宰相や騎士団長など重役につく人間数名に対し、魔王側は三人。
以前味見した赤毛の女といつかの馬鹿な男。加えてもう一人、眼鏡をかけた男も加わっていた。
二組が揃い最初に発言したのは私に懸想している男だった。
「お久しぶりです。お変わりありませんか?」
私を見て話しかけるこの男が、魔王とは。
私が何か言う前に八重が奴との間に割って入る。
「母に、気安く話しかけないでいただきたい」
八重はこの場につく前から不機嫌だ。
何故ならこの魔王たる男が私が八重のいる城に帰った後に、恋文なるものを送ってきていたからだと思われる。
私に恋文なるものをわざわざ送ってくるほど懸想している城外の人物など、心当たりは一つしかない。
雪女である桜様へと日本語で書かれたそれはここでは私か八重しか読めないことも後押しする。
ご丁寧に日本語の下に見知らぬ言語で翻訳された手紙。
人間により害がないと判断された後に届いた手紙はしかし、何かの魔術がかかっているのか、私しか処分出来ないようになっていた。
初めて届いた手紙を見た八重が破き、燃やし、消し炭にした際も元に戻っていた。
正直私も一々処分が面倒であった。
敵意を隠さない八重に対し魔王は好意的だ。
「息子?見たところ人間のようだけど、養子か何かかな?」
「答える義理はない」
無愛想に答える八重を見て反応したのは赤毛の女だ。やはり短気なのだろう。
「我らが王に対して何という無礼!正体不明な者を連れてきた挙句暴言など!脆弱なお前らと対等な条約を結んでやっていいとおっしゃって」
怒鳴る女を眼鏡をかけた男が口を押さえて留める。
「アイラト、まずは条約を結んでからにして下さい。話が進まない」
そこでようやく人間達との話は始まった。
結果的には魔王たちは最初から対等な条約を結ぶつもりだったらしく、何事もなく終わった。
正直八重は喚ばれなくとも問題無かったんだろう。
人間側からは第二王女を魔王の妃にという話も出ていたが、魔王に断られていた。
代わりに勇者との交流をと言う奴の気が知れない。
人間の城に帰る道中、不機嫌だった八重は私の隣にいる。
「母さん、まだ還りたいと思ってる?」
馬車の中は私と八重しかいない。
どういうつもりで聞いているかはわからないが、率直に言う。
「どちらでも構わないよ。生きてはいけるからね」
私の答えを聞いて相槌をうち、八重は外を眺めてしまう。
何か考えたいのだろう。
私は息子の頭を一度撫で、今後はどうするか考える。
面倒な男に想われ、多少の面倒はあるけれど。
とりあえず広い範囲を彷徨ってみるのもいいかもしれない。
私は雪女。
誰かに縛られるものではない。
「……ばかなひと」
生まれ変わってなお妖怪を想い続ける人間がいるとは。
どんな末路になるか、少し観察するのも悪くない。
私のつぶやきを拾い不貞腐れる息子を宥めながら、いつかの名前を心で呟く。
喋るなという約束や自分の命さえも守れず朽ち果てたいつかの馬鹿な男。
護という名前を覚えていた私も大概である。
言うとややこしいだろう事は分かっているから、知っているのはまたあの男が果てる時に言ってやろう。
今度もまた、氷の花を添えて。