音楽の骨
2 音楽の骨
ぼくには神さまの友達がいる。彼女の名前はテレプシコーラ。ぼくが勝手にそう呼んでいる。ぼくの名前はアウトサイダー。彼女が勝手にそう呼んでいる。いつ寝て、いつ起きて、どう過ごしているかもばらばらなのだろうぼくたちは、だけど、それで構わない。ぼくたちはお互いの好物を、ある程度だけど知っている。甘いお菓子に、美味しいお茶。必要なのは、それだけだ。
おもちゃめいた家々や謎の店、そんなもの達がひしめき合う道のいっとう奥まった場所にある漆喰の壁のアパートの最上階のかど部屋。テレプシコーラの巣。いつものようにこんこんこんとそこの変な型のドアノッカーを叩いてから、扉を開ける。
「入るよ、テレプシ、コー、ラ……?」
扉の向こうのテレプシコーラは、銀と緑と赤褐色のまだら模様が浮かぶ、何か、ごつごつした棒、のようなものを、マーチングバンドのバトンよろしくくるくると弄んでいた。こちらに気づくと手を止めて、その棒を縦長の黒い、革張りの箱に大切そうに仕舞いながらぼくに声をかけてくる。
「ん、そんなところで固まってどうしたのだね、アウトサイダー。入るんじゃないのかい?」
「え、うん、えっと……入っていいのかな?」
そうぼくが言うと、テレプシコーラは呆れたような声色と、困ったような表情で言った。
「アウトサイダー、ボクが今までに一回だってきみの訪問を拒んだことがあったかい?」
「それもそうだね、テレプシコーラ。ごめんごめん」
「分かってくれたならいいのさ」
テレプシコーラはにこりと笑った。ぼくは後ろ手にドアを閉めて、部屋に入る。ラグを出してくる前に先にテレプシコーラに今日のおやつを渡してしまうことにした。
「はい、テレプシコーラ」
「おやつかい?」
「うんそう。いつものところでチョコレートケーキが売ってたからね。美味しそうでつい」
「素晴らしいね、アウトサイダー。ちょうどチョコレートに合う茶葉を仕入れたばかりだったのだよ。これは是非ともきみにごちそうしなくちゃぁいけないね」
そういってテレプシコーラはとんっと籠から離れ、ものの奥へ消えていく。ラグやクッションを引っ張りだして座る場所を作っていると、部屋の向こうからテレプシコーラの声が聞こえてきた。……もしかして、歌ってる?
それはとても綺麗な旋律の歌だった。歌詞の内容は、ぼくには耳馴染みのない言語だったので分からないけれど、明るいメロディからなんとなく楽しそうな印象を覚える。
……そういえばテレプシコーラの歌声を聞くのはこれが初めてだ。テレプシコーラの歌声は、彼女の流れるような動きや軽やかなおしゃべりを、そのまま音にしたようだった。鼻歌と言うには本格的すぎるけれど、それよりぼくのかわいい神さまの歌をここで独り占めにしていることが嬉しくて楽しくて、それになにより、テレプシコーラがご機嫌らしいのだから、ぼくからすればまったく何も問題ない。
ピイイイイイとお湯が沸いたことを知らせる音が鳴って、それにつられるようにテレプシコーラの歌声も少し音量を増す。笛が静かになってしばらくして、紅茶のいい匂いが漂ってきた。少し渋めの、しっかりとした香りだ。確かにチョコレートにとても合いそうで、もしかしてだからテレプシコーラはご機嫌なのかな? と思い至る。仕入れた茶葉を早々に試せるから、うきうきしているのかもしれない。
そんなことを考えていると、テレプシコーラが部屋の奥から、銀のトレイに二人分のチョコレートケーキとカップ、それにぽってりとしたかわいい形のティーポットを載せて姿を表した。
「お待たせ、アウトサイダー」
「ありがとうテレプシコーラ。そういえば、ずいぶんご機嫌みたいだったけれど、そんなにチョコレートが食べたかったの?」
ついでにと思って聞いてみると、テレプシコーラは一瞬きょとんとしたような顔をして、それからああ、と頷いた。それもあるけれどね、と言いながら指定席に座り直して、言う。
「これだよ、アウトサイダー」
テレプシコーラは、ともすればスポンジにさえ負けてしまうのではという程に薄いナイフで今日のおやつ―チョコレートケーキを切り分けた。
「このケーキはね、オペラというのさ、アウトサイダー。ボクが歌っていたのは椿姫の『乾杯の歌』だよ」
「ああ、それで……」
ぼくは納得して頷いた。彼女の連想は速くて軽やかなのだ。……どうやらぼくはまだテレプシコーラのことを理解しきってはいないみたいだった。
「そう。しかしオペラとは言い得て妙だね。本物には敵わないけれどこのオペラもなかなかどうして、美味しいよ」
テレプシコーラは、ぼくなんか折ってしまいそうで丁重に使用をお断りしたくらい華奢な、透かし彫りの入った銀色のフォークを愉快そうに振りながら言う。きらりきらりと光が部屋中に舞い散った。
「お気に召したならよかったけれど……ねえ、テレプシコーラ」
「なんだい?」
「本物には敵わないって言ったけれど、どういう意味? このケーキは偽物なの?」
「ああ、言ったことはなかったのだっけ?」
テレプシコーラは―神さまは。ふわりと、微笑んだ。
「ボクの好物の中の一つに、『音楽』があってね。オペラは特に重厚な味わいなのさ。このケーキとも似ているね」
またひと切れ、テレプシコーラはケーキを口にする。チョコレートの艶が小さなくちびるに乗って、白い顔の中できらめいた。
「音楽が好物、って……?」
「言葉の通りだよ。こうして綺麗に切り分けて―」
ひゅんひゅんひゅん、と薄いナイフが素早く空気を裂く。ぼくの前髪が風を受けて少し浮いた。
「―食べるのさ」
再びテレプシコーラがぼくに向けて見せたフォークには、いつの間にかまた、ケーキのひと切れが刺さっている。テレプシコーラは美味しそうに目を細めて、ぱくりとやる。
「とても美味しいのだよ? ぼくは骨が剥き出しになるほど徹底的に食べてしまう。ちょっとお行儀が悪いのだけれどね、好物だから」
「骨? 音楽に骨があるの?」
驚いたぼくに向かってテレプシコーラは、とても残念そうな顔をしてみせた。
「もちろんあるのだけれど、彼らの骨はとても繊細なんだ。とっておけないほどにね」
「そ、そっか……」
実は、いつものように見せてくれるのではないかな、と期待していたのだけれど、今回はそうもいかないようだった。無いのならば仕方がないよね、と諦めるより一瞬早く、テレプシコーラが口を開く。
「そう、とても繊細で、脆くて、とってはおけない」
テレプシコーラはすっ、と、伏せていた目をぼくの方に向けて、ぼくのことをいたずらっぽく見つめた。
「―普通は、ね」
「え?」
「実は、以前とても骨のある音楽を味わう機会に恵まれてね。その骨だけは未だ崩れずに、ボクの手元に残っているのだよ」
「へえ……!」
テレプシコーラはぼくの目からは視線を離さずに、そのままこてん、と首を傾げた。
「見たいかい? 音楽の骨を」
「うん!」
そう答えると、テレプシコーラはくすくすと笑う。
「実はね、アウトサイダー。きみはもうそれを見ているのだよ」
「え?」
ぼくは驚いてテレプシコーラを見つめ返した。うっかりしたら中に落っこちてしまいそうな大きな瞳。
「探してみるといいよ。大丈夫、きみならすぐ分かるだろうさ」
この部屋の中から、見たこともないものを? 一瞬戸惑ったぼくだったけれど、テレプシコーラにね? と言われて、頷かずにいられるわけがなかった。
「……もう、きみはいつも難しい神託ばかりするよ」
言いながら、だけどぼくは部屋の中を探し始める。テレプシコーラのお告げは難しいけれど、無理じゃない。それがぼくの可愛い神さまの心憎いところだ。だから多分今回も、何かヒントを出してくれているはずだろう。無闇と欠片の山を崩したり積み直したりしながら、そう考える。テレプシコーラ曰く、音楽の骨をもうぼくは見ているらしい。そう言うってことはきっと、ずっと前に見たとかじゃあなくて、いつもわかりやすいところにあるとか、今日のうちに目に入れたとか、そういうことなんだろう。テレプシコーラの鳥籠は音楽の骨でないことは確かだし、クッションやラグも骨って感じじゃあない。それなら他にぼくが特に今日見たものと言ったら、ナイフとフォーク、それに……
そこまで考えたところでぱっと脳裏に浮かぶ光景があった。ぼくは思わず声をあげる。
「分かったよ、テレプシコーラ!」
「おーけい、答えを教えてくれ給え」
ぱたぱたぱたと崩したものものを積み上げ直してから、大きく三歩でテレプシコーラの目の前に。籠からぼくを見上げるテレプシコーラと、ぱちっと目が合う。テレプシコーラの透き通った瞳の中に、きらきらと虹色の期待が乱反射していた。ぼくの可愛い、小さな神さま。ぼくはえへへと笑ってから、テレプシコーラの膝の上に手を伸ばす。
「ぼくが入って来たときに君が持ってたあの棒。それがそうなんでしょ? テレプシコーラ」
―そう、ぼくが手にしたのは、テレプシコーラが大切そうに銀と緑と赤褐色のまだら模様が浮かぶごつごつした棒のようなものを仕舞い込んでいた、黒い縦長の箱だった。今日あった変わったことなんて、それくらい。きっと、これで正解だ。どうかな? と首を傾げて見せると、テレプシコーラは心底嬉しそうににっこりと笑う。
「そうその通り、大正解さ!」
「中を見ても?」
「もちろんだとも」
ありがとう、と座り直して蓋を開けると、中には赤いビロードが張られていた。真ん中は細長くへこんでいる。柔らかな布に守られて、音楽の骨はそのくぼみに収まっていた。
「これ……フルート?」
「人間にはそう見えるだろうね。実際ボクも何度か、オーケストラの楽器に骨が使われていたのを見たことがある。きっとよっぽど上手な奏者なのだろうねぇ」
そう、それはまるで、長い年月に揉まれ赤や緑の錆が浮かんだ、古いフルートのように見えた。そっと取り出してみると意外にもその表面は滑らかで、冷たくもなく温かくもなく、ああ確かにこれは以前独立した生命として存在していたんだと感じる温度が手のひらに伝わってくる。
これが、テレプシコーラがナイフとフォークで生きる糧としたものの、その残滓。
そう思うとなんだか、畏れのような、恐怖とよろこびを混ぜたような、そんな感覚に襲われて、ぼくは慌てて、でも間違ってもテレプシコーラの宝物を壊したりしないように気をつけながら、またケースの中に骨を戻した。蓋を閉めて、テレプシコーラに差し出す。
「ありがとう、テレプシコーラ」
「おやもういいの? あんまりお気に召さなかったかな」
「ううん、だってそれ、脆いのでしょ? うっかり壊したりしちゃったら、大変だもの」
そう言えばテレプシコーラは箱をまた膝の上において、そして口元を手で抑えてくすくすと笑った。
「ああそれも確かにそうだね、一応今日風化していないかどうか確かめた―ほら、きみが入り口で固まったあれだよ―けれど、やっぱり怖いには怖い。ではアウトサイダー、きみもまた宝探しに戻るといいよ」
「え、まだどこかに音楽の骨が眠っているの? もうぼくには心当たりがないよ、テレプシコーラ」
驚いたぼくとは裏腹に、テレプシコーラは当たり前のような顔をして、お皿のケーキをナイフで指した。
「正確には『眠っているかもしれない』だね。だってアウトサイダー、きみが持ってきたこのケーキは、曲がりなりにも“オペラ”だろう? ……もしかしたら、小骨くらいは紛れているかもしれないよ?」
ぱっとそちらを見遣れば、テレプシコーラの言葉によって新たな煌めきを与えられたケーキがぼくたちを待っている。ぼくはテレプシコーラよろしくこの世界の秘密を彫り出すように、甘いケーキを食べ始めた。