5 テセウスの欠片
ぼくには神さまの友達がいる。彼女の名前はテレプシコーラ。ぼくが勝手にそう呼んでいる。ぼくの名前はアウトサイダー。彼女が勝手にそう呼んでいる。ぼくらは同じじゃないけれど、隣にあってちょうどいい。だからぼくは、路地裏に住んでいる彼女のところに、今日も訪ねていくのだ。
テレプシコーラの路地裏には、おもちゃみたいなカラフルなお家に、なんだか不思議なお店なんかが、ところ狭しと並んでいる。その一番奥にあるマンションの三階の、一番上の一番端が、彼女の巣だ。ぼくはこんこんこんと、変な形のドアノッカーを鳴らした。
「ああ……アウトサイダー? 入って構わないよ」
なんだかうわの空の返事に、ぼくは首をかしげる。だけど理由はすぐ分かった。テレプシコーラの指定席、鳥籠みたいな宙吊りのソファの周りは、なんだか、ゲームの盤みたいなものでいっぱいになっていた。
「それ、全部テレプシコーラが?」
「駒の代わりをしてくれる子も増えたからね」
確かに、盤上に置かれているのはぼくも見慣れたゲームの駒ばかりじゃなくて、小石や木の欠片、螺子や乾電池までもがあった。テレプシコーラは、うち捨てられたものを掬い上げてくる、がらくたの神さまなのだ……。
ぼくは、帽子掛けにぐにゃりと下がっていたチェッカーのラグを手にとって、テレプシコーラの椅子の前に敷いた。ぼくの指定席はここだ。テレプシコーラはラグを指して、
「アウトサイダー、君もゲームをやりたいの?」
と、くすくす笑う。ぼくはこくんとうなずいた。
「なんだか目に入って。もしかしたらそうだったのかも」
「それならこれを貸したげるよ」
そう言ってテレプシコーラは、たくさんのビー玉が三角に並んだボードをぼくに渡してくれた。テレプシコーラの手元にも、似た形のものがいくつかあるみたいだ。あとはチェス盤や将棋、囲碁の盤が見えるけれど……ぼくは詳しくないから、どう遊んでいるのかは分からなかった。駒が山盛りになっていたから、将棋盤の上でやっているのは将棋崩しなんだろう。
「ルールは知ってるかい? アウトサイダー」
テレプシコーラが、口元に手を当てて少し考えながら言った。ぼくもつられてなんとなく真剣な気分になってしまう。
「少し見たことあるよ。ボールがボールを飛び越えたら、飛ばれた方が消える。最後に一個残ればクリア……だっけ?」
「その通り! ペグ・ソリティアって呼ばれてるゲームだよ。それはペグじゃなくてボールだけれど」
彼女の手元にある別のボードには、カラフルなまち針がいくつか刺してあった。一本抜いて、飛び越えられたものを針山に移す。
「テレプシコーラのは、なんだか数が多いね」
ぼくがそう聞くと、テレプシコーラはうんうんと頷いた。
「ふふ、実はね、形で難易度が違うのだよ」
「……これ、簡単?」
「君しだいさ」
テレプシコーラはにこっと笑って、手でやってみるように促した。ぼくはさっそく、こん、こん、とビー玉を動かしてみるけれど、すぐに手詰まりになってしまう。ころころ床に転がったビー玉をもう一度拾い集めて、また一からだ。テレプシコーラの方を見てみると、さっきまであった将棋の山やペグ・ソリティアも、ほとんどきれいになっていた。たった一つ、濃い茶色のティーテーブルだけが残っている。その上に少し小さい枠がのっていて、テレプシコーラはそこにガラスの欠片をぱちぱちと並べているみたいだった。そういえば前に彼女に頼まれて集めてきたことがあったし、もしかしたらそれを使っているのかもしれない。
ぱちん、と緑がかった欠片が置かれる。テレプシコーラがふいと顔を上げた。
「アウトサイダー、きみ、もぐら見たことあるかい?」
そういえばあのガラスは土から出てきたんだっけ、とぼくは思い出した。それから、もちろん首を縦に振る。
「本物は見たことないけれど、本で読んだことならあるよ」
「実はもぐらは竜なのだよ」
「竜……?」
ぼくは挿絵に乗っていた、ビロードのような毛並みのもぐらを思い出した。あのなんだかまるっとした体は、竜には似ても似つかない気がする……。テレプシコーラは空中に、指でついっと字を書いた。
「もぐらはね、土の竜と書くのだよ。土の中を飛ぶように進み、地面をぽこぽこ盛り上がらせるんだから、確かに彼らも竜なんだろうね」
体は小さくても作る道は長く複雑な、ビロードの毛並みの竜がここの下にトンネルを通していくのを考えて、ぼくは少し愉快になった。
「……そっか、道を考えればいいのかな」
ぼくは少しほったらかしになってしまっていたペグ・ソリティアに、もう一回取り掛かってみた。しばらくの間、盤外のビー玉が転がるかろろろろ……という音と、テレプシコーラがガラスの欠片を盤面に置くぱちん、ぱちんという音だけがしていた。
「あ、できた!」
「どれ?」
ボードの中央に一つだけ残ったビー玉を見て、テレプシコーラはにっこりとほほえんだ。
「正解だね、アウトサイダー」
「やったあ」
「……でも、そうすると困ったね。ボクはまだ終わってないんだ」
テレプシコーラは、そのテーブルの上を指してそう言った。
「もし良かったら、話を聞きながら待っててもらえないかな?」
「もちろんだよ!」
ぼくは一も二もなく頷いた。
「ではアウトサイダー、テセウスの船を知ってるかい?」
テレプシコーラはまた盤面に目を戻して、だけどしっかりぼくに話しかけた。ぼくはんん、と首をひねる。
「聞いたことはあるけど、別のと混ざっちゃってるかなあ。思い出せないや」
「そうかい。……むかしむかし、テセウス号という船があったんだ。テセウス号はすばらしい船で、過酷な航海を何度も乗り切った。だけどやっぱり船体は傷むだろう? 旅を終えたテセウス号はあらゆる場所を修理しなくちゃいけなくて、結局最後にはすべてのパーツが新しいものと交換になったのさ」
「すべて?」
「その通り」
テレプシコーラは音高くガラスの欠片を置いた。
「その船は本当にテセウス号だろうか? それがこの思考実験だよ、アウトサイダー」
机の上に並んだガラスが、きらきらと光を反射している。
「どっちもテセウス号なんじゃないかな」
しばらく考えて、ぼくは言った、テレプシコーラは頷いた。
「いい意見だね、アウトサイダー。実はね、ボクもあえて分ける必要はないと思うんだ」
それから彼女は、「だけどね」と指を一本立てる。
「もし目の前にそれがあったらボクは、解体されたテセウス号の方へ行くだろうね」
「テレプシコーラは神さまだから?」
「その通り」
テレプシコーラは、打ち捨てられたものたちの、誰も語らない物語の、それらを掬いあげる、がらくたの神さまなのだ。テレプシコーラは最後のガラスを机に置いた。
「ほら、できたよ、アウトサイダー」
「え?」
ぼくは立ち上がって、机の上に並んだガラスの欠片たちを眺めた。ボードだと思っていたのは四角い額で、色も形もばらばらなガラスが、その中に船の形を作っていた。
「きみに拾ってきてもらったのはね、テセウス号の欠片だったんだよ」
テレプシコーラが穏やかに言った。ぼくの神さまの、お仕事の始まる合図だった。
「ガラスの壜は繰り返し使われる。洗ってもう一度、割れたら溶かして新しい壜へ」
テレプシコーラは手を動かして、空中に三角形を描いた。そのまま指を下ろして、机の上の額に触れる。
「だけどね、こうやって地中におきざられた欠片は、その輪の中から出てしまう。ある日突然、竜までいるような土の中に帰ってきてしまったガラスはさぞ驚くだろう。ほら、こんなに身をすり減らしてね?」
ガラスはどれも細かい傷が無数について、曇りガラスみたいに柔らかい色になっていた。テレプシコーラが、半分浮き上がった形の船の表面をさらりと撫でる。
「大きな大きな、ガラス壜のためのテセウス号。そこから転がり落ちてしまったのがこのガラスたちだよ。きらきらして尖っているのもいるけれど、あの子たちはまだ、船に戻れるかもしれないし」
テレプシコーラは苦笑した。そこはまだ管轄でないから、と、少しだけ寂しそうに言う。
「でもほら、アウトサイダー」
パチン、とスイッチを入れる音がして、船の中に明かりが灯る。額の後ろに豆電球が仕込まれていて、中から船が照らされているんだ。曇ったガラスを通した光は柔らかくて、テレプシコーラの特等席を照らす、あの飾り窓からの光にも似ていた。
「テセウス号の欠片で小さなテセウス号を作ったら素敵なんじゃないかって、ずっと思っていたのだよ」
「ぼく、この色、とっても好きだよ」
「本当かい? 嬉しいな、アウトサイダー」
テレプシコーラはすっと目を閉じた。それからぱっちり目を開いて、イタズラっぽい笑顔を浮かべる。
「そうだ、今日はお茶も出さずにすまなかったね? お詫びに一局一緒にどうだい?」
「……もちろん、受けて立つよ」
テレプシコーラはぱあっと笑った。
「今日はロシアンティーにしよう、きっとくたびれるだろうからね」
なんて言いながら、部屋の奥にひらひら走っていく。そういえばルールはわからないと言うのを忘れちゃったけれど、きっと大丈夫。テレプシコーラが教えてくれるなら、もう大船に乗ったみたいなものだ。