秋風
頬を撫でる優しい風で目が覚める。
かすかに開いた窓から、心地よい風が入ってくる。
窓の外、その空の色は既にオレンジ色に染まっていた。
もう、こんな時間か。
左手首の腕時計を確認しつつ、机に広げた教科書とノートを片していく。
広げられたノートには、まるでミミズのような線が描かれていた。
あまりに心地よい空気に、勉強の途中で眠ってしまったのだ。
再び窓の外を眺める。
季節は秋。暑くも無く、寒くも無い。
心地いい季節。私はサブバックへと勉強道具を放り込むと、窓を締めようと寄った。
その時、ふと目にした。
寂しげにベンチへと座る老人を。
――なにしてんだろ……
グレーの背広に、同じくグレーのストローハット。
杖を持ち、ベンチに座って何かを眺めていた。
別に珍しい光景では無い。でも何故か……私はその老人から目が離せなかった。
※
私立総合光ヶ丘学園。
小さな田舎町で唯一の高校。この学園には、一際大きな図書館が建造されている。
私が今まで勉強していた所だ。
学内にも関わらず、町民ならば誰でも出入りできる。
中庭も開放されていて、生徒の他に人が居るなんて珍しくも無い。
しかし、私の足は自然と老人の元へと向かっていた。
何故かはわからない。ただ単に好みだからかもしれない。私は年上の男性が好きだ。
どのくらい年上がいいのかと言えば、今私は十七歳だが、出来れば五十代の大人の男性がベスト。
スーツが似合い、煙草とコーヒーの香りが漂う男性が最高だが、こんな田舎町ではそんな出会い、そうそう無い。だからといって妥協した訳では無い。あの老人の雰囲気そのものは、私のストライクゾーンだ。
図書館から出て老人が座っていたベンチへと向かう。
老人は変わらず鎮座していた。紅葉の木の下、静かに佇んでいる。
しかしどうするべきか。顔だけでも確認しておきたい。
出来ればお話したい、いつ以来だろうか。ここまで私が積極的になるのは。
そっと通り過ぎつつ、横目で顔を確認。
髪は帽子を被っていて分からないが、口元に生えた髭は白んでいた。
しかしそれよりも、私は老人の目が気になった。
酷く悲しそうな目。
でも、どこかそれを楽しんでいるような……
「……どうかしたかね、お嬢さん」
老人と目が合ってしまった。
当たり前だ、目を凝視していたのだから。
「え、えっと……こんにちは……」
「……ん? あぁ、こんにちは」
老人は困惑している様だ。
当然と言えば当然だ。いきなり顔をジロジロ見られ、とってつけたように挨拶してくる女子高生など不振でしか無い。
「君は……この学校の生徒さんかね」
「ぁ、はい……そうです。えっと……御爺さんは……?」
「私が生徒に見えるかね?」
いや、そういう意図で質問したわけでは無いのだが。
どうしよう、ここは笑う所だろうか。
「冗談だ。少し思い出に浸っていただけでね」
困っている私を見かねたのか、帽子を直しながら答えてくれる老人。
その仕草が正に私好みだ。
出来るなら、もう一回、とリクエストしたいくらいに。
「お嬢さん、暇なら……少し老いぼれの愚痴でも聞いてくれんかね?」
そう告げながら、少しずれてベンチのスペースを開ける老人。
なんという事か。願ってもいない申し出だ。まさか向こうからお誘いが来るとは。
「あぁ、はい。喜んで……」
そっとベンチの上に落ちている紅葉の落ち葉を払いつつ、ベンチへと座る。
心地よい風が静かに吹き抜けていく。
風で揺らされた紅葉の擦り合う音が、更に私を心地よい世界へと誘う。
ダメだ、眠ってしまいそうだ。
「お嬢さん、名前は?」
「えっと……漆原 楓です……」
名前を告げると、老人は頷きながら夕日を眺めた。
悲しそうな瞳で。
「そうか……おっと、すまないね。まずは私から名乗るべきだったか。私は戸城 善一郎という。お見知りおきを」
その紳士的な名乗りを自然とやってのけてしまう老人に、私の心は意図も簡単に奪われた。
かっこいい、素直にそう思った。だがまだ恋をしたわけじゃない。
「それで、愚痴というのは……もう五十年以上昔の話なんだがね。私が君くらいの歳のくらいの話だ」
私は黙って善一郎さんの話に耳を傾ける。
時折相槌を打ちつつ、楽しそうに語る思い出話に。
五十年前、善一郎さんがまだ学生だったころ。
今まさに私達が居る、この場所は公園だったらしい。
もう既に埋め立てられてしまっているが、中央には池もあったそうだ。
そこで善一郎さんは初恋を経験した。
一人の少女に。
「いつ、何を切っ掛けに恋に落ちたのかは覚えていない。ただ、いつの間にか気になって仕方がなかった。明るい少女で、いつもクラスの中心に居るような女性でね。それに対して私は本ばかり読んでいる……ひ弱な少年だった」
善一郎さんは紅葉の落ち葉を拾い上げ、眺めながら語る。
まるでそれが彼女との思い出の品だと言わんばかりに。
「ある日、私は池を眺めながらいつもの様に本を読んでいた。そこに彼女から声を掛けてきたのだ。何の本を読んでいるのかと」
私は頷きながら、語る善一郎さんを見つめていた。
いつのまにか、肩が触れ合うくらいに距離が縮まっている。
「私は答えた。クリスティーのオリエント急行の殺人だと」
かなり有名な推理小説だ。
私はナイルに死すの方が好きだが。
「彼女は首を傾げながら……そう、今の君のように私の隣りに座ってね。本を眺めてきた。その瞬間、私の心臓は破裂しそうだった。本の内容など一気に忘れてしまうくらいに」
なんて可愛い善一郎さん。
でもさっき……愚痴だと言っていた気が……。
「それ以来、私はここで本を読むのがクセになってしまってね。もしかしたら、また彼女が隣りに座ってくれるかもしれない……と期待を込めながら。しかし、彼女には既に相手が居てね。学校からの帰り道、仲良く他の男子と手を繋ぐ彼女を見て……私は枕を濡らした。あれも……今、このくらいの季節だったか」
成程、そういう愚痴か。
恋愛小説を読み漁っている私からしてみれば、可愛いの一言で終わってしまいそうな失恋だ。
いや、失恋と言っていいかどうかも分からない。
「……さて、もうこんな時間か。君もそろそろ帰りなさい」
言いながら立ち上がる善一郎さん。
ベンチに座る私を見て、帽子を取ってお辞儀してくる。
「隣りに座ってくれてありがとう。楽しい一時を過ごせた。御婆様にもよろしく伝えておいてくれ」
その場から去る善一郎さん
何処か寂しげな後ろ姿
私はそっとベンチから立ち上がり、その背中を見送る
秋の心地よい風が吹く
頬を撫でる優しい風が